建築の雑誌『施工』(彰国社)

シリーズ連載「地震学の冒険」2000年1月号

その29:地震学者の苦悩

 日本地震学会は年に2回、研究発表会を開く。昨年の秋は仙台だった。このときの研究発表数は500ほどあった。地方での学会としては普通の数である。ところで、一般の人が驚くことがある。この500の研究発表のうちで、地震予知に関連した発表はわずか4つしかなかったのである。

 ちなみに、発表する前の審査が厳しいわけではない。地震雲の出現のような、いわゆるアマチュアの地震予知は受け付けないことになっているが、それ以外はほとんど無審査で発表できるのが地震学会なのである。学会全体で20ほどの分科会があった。分科会のうち地震予知はひとつしかない。そこで、その4つの発表が行なわれたのであった。

 もっとも、たった4つというのは不正確かもしれない。地震予知に関連するものとして「地球電磁気現象の未解明問題」という分科会では12の発表があった。しかし、これを全部合わせたとしても、地震予知関連の研究発表は全体の1/30以下だ。地震の研究といえば地震予知の研究だと思っている向きが多かろうから、奇妙に思われる一般の人も多かろう。

 なぜ、このように地震予知の研究発表が少ないのだろう。それは、地震予知研究にとってのひとときのバラ色の夢が消えてしまったからだ。

 潮の干満の時間はカレンダーに書いてある。また、2012年5月20日には金環食が日本の南岸沿いで見られることも計算されているし、2035年9月2日には皆既日食が日本の中央部で見られることも、ちゃんと分かっている。しかし地震予知は、将来どんなに学問が進んでも、こういった精度で予報できるようにはならないのである。

 なぜ、日食や潮汐の予想と違うのだろう。それは地震が破壊現象だからなのである。

 いくつかのコップを床に落としても、それぞれ割れかたが違う。同じように落としても割れないものさえある。破壊の物理学は、天体の運動を予測する物理学よりはよほど難しい物理学、もっと正確に言えば、本質的に曖昧さやばらつきがあるものを相手にする物理学なのである。

 そのうえ悪いことに、地下で地震の準備が進んでいって、やがて大地震に至る過程には、まだ分かっていないことが多い。この過程が分かれば、それぞれの段階を観測することで、大地震にどのくらい近づいているのか、まだ十分の時間があるのかが分かる。しかし実際には、大地震の過程そのものに、まだ分からないことが多いのである。

 大地震の過程そのものが分からなくても、もし大地震に前兆というものがあれば、それを捕まえることによって、地震予知ができるのではないか、というのが地震予知計画がはじまった初期の段階の見通しだった。純粋な科学は後回しにしても、とりあえず実用的な地震予知ができれば、という希望を、国民と科学者が共有していたのであった。

 じっさい、中国や当時のソ連、それに米国でも、もっともらしい前兆の報告が相次いだ。たとえば1975年に起きた海城地震(マグニチュード7.2。当時は遼寧省の地震といわれた)では、直前の地震予報で多くの人が避難して被害が最小限に押さえられたと報じられた。前兆さえとらえられれば、日本でも地震予知ができるに違いない、と多くの科学者が思ったとしても不思議はない時代だった。

 海城地震は、いまにして思えば、あまりに理想的な例だった。地震観測所を置いてから10年ほども地震がなくて、突然小さな地震が増えてきたうえ、地下水やガスなど、いろいろな現象がいっせいに現れてくれば、誰でも大地震を疑っただろう。

 しかし、その後世界各地で前兆を捕まえるべく、観測が増えていくにつれて、むしろ、前兆は遠のいていってしまったのだ。

 地震の前に、前兆のようなものが出ることもあった。しかし、一方で、その「前兆」なしに大地震が起きてしまったり、逆に「前兆」が出たのに大地震が起きなかった例がたくさん集まるようになってしまった。つまり、前兆は、出るとしてもまちまちで、一筋縄ではいかないことが分かってきたのである。

 地震予知の先進国だったはずの中国でも、そのあと1976年の唐山地震(マグニチュード7.8)では予知に失敗した。いくつかの前兆現象は捉えていたともいわれたが、海城地震のときのように事前の警報は出せず、20万人とも、一説には60万人以上ともいわれる犠牲者を生んでしまった。唐山市では97%もの家が崩壊した。被害があまりに甚大だったので、外国人は、その後何年間も、唐山に立ち入れなかったほどだ。

 前兆とは、木の枝を曲げていったとき、まずミシミシいい出して、やがてポキンと折れる、そのミシミシだと思われている。あるいは、ミシミシがすでにポキンと組になっている、つまりミシミシが起き始めたときは地震そのものが「すでに始まっている」との考えもある。

 もし、この考えが正しければ、適切な前兆を捉えることができれば、大地震の地震予知ができることになる。1944年に起きた東南海地震は本州中部に甚大な被害を与えた大地震だったが、その日の朝、たまたま静岡県の掛川で測量をしていた人たちが、結果が不思議なので首をひねっていた。同じ路線を往復して原点に帰ってきても、地面の標高が同じにならないのだった。そして、大地震が起きた。これは、その日の朝から、地震が、ごくゆっくり「すでに始まっていた」と解釈されている。

 しかし、大地震には前兆があるという考えに対する反論もある。それは、大地震というものは、将棋倒しのようなもので、地震が起こり始めてからも、それが小さな地震のままで終わるのか、結果として大地震になってしまうのか、それは偶然が左右してしまう、という考えである。

  これは高速道路の事故と同じだ。最初の2台がぶつかったときにはそれで事故が終わるのか、あるいはあとから来る何十台、あるいは何百台が巻き込まれる大事故になるかは、最初の事故のときには分からない、というのと似ている。この仕組みだとしたら、大地震の前兆というものはないことになってしまう。

 最近の研究では、地震の起きかたそのものが、たいへんに違うことがわかってきている。地震の起きる場所による地震の違いもあるし、同じ場所で起きていても地震そのものが違うこともある。前兆も、出る地震と出ない地震があるらしい。つまり、はじめはバラ色に見えた地震予知研究だが、最近10年ほどは情勢が変わってしまったのである。

 じつは日本の地震予知計画は1965年に立ち上がって以来、5年ごとの計画が7期目に入っている。30年以上続いてきているわけだ。それにしては進歩が遅いと思う人も多かろう。

 使ってきたのは国費、つまり税金だ。地震学会の中にも厳しい批判もないわけではない。誰でも重大な関心がある地震予知というテーマで、つまり国民を人質にとって多額の研究費をせしめてきたという批判だ。私には痛いほどよく分かる。

 もちろん、震源でなにが起きているのか、大地震はどんな舞台仕掛けのところに起こるのかといった基礎的な研究は、それなりに進んでいる。それらの研究が地震予知に、あるいはせめて災害軽減に結実することを望む。

 近年、とくに阪神淡路大震災以降、私たち地震学者は肩をすぼめて歩いているのである。


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