『青淵(せいえん)』(渋沢栄一記念財団)、2011年4月号。 28-30頁。

人間の方向感覚、動物の方向感覚

 東京にあるフランス大使館の科学アタッシェ(専門職員)が嘆いていたことがある。「日本では誰も道を尋ねてくれない」というのである。

 彼は日本語はペラペラ。地図を持って東京のあちこちを歩きまわったから、東京の地理については、なまじの日本人はだしの知識を持つ。教えたくてうずうずしていたのである。

 しかし、日本人なら誰でも、いくら道に迷っても、目の青い金髪の白人に道を尋ねることはあるまい。

 しかし、これがフランスのパリだったら大いに違う。私も道を聞かれて教えてあげたことが何度もある。目や肌の色を選んで道を尋ねることはないし、逆に白人でも、米国から来たおのぼりさんで、地理を全然知らないことも、十分あり得るからだ。

 その意味では、観光立国だ、国際化だといっても、日本はまだまだなのだろう。

 ところで、人間の方向感覚や地理感覚には人によって大差がある。すぐ道に迷う人もいるし、一度行ったところは必ず憶えている人もいる。ロンドンのタクシーの運転手は、どんな入り組んだ小路も知っていなければならない試験を受けている。

 一方、動物は命や種の存続がかかっているためだろう、人間よりはるかに方向感覚が優れているのが普通だ。

 ブラジルの北部は大西洋に突き出している。この海岸には多くのアオウミガメがいる。

 このカメは2000キロも離れた大西洋のまん中にある絶海の孤島、アセンション島まで、毎年、わざわざ卵を産みにいく。島は伊豆大島くらいの大きさで、人口1000人、英国の軍事基地があるだけのさびしい火山島だ。

 毎年、アオウミガメたちは12月になるとブラジルの海岸を離れて東に向かう。そして、早ければ2月、遅ければ5月にアセンション島にたどり着く。

 アオウミガメは、どんな方向感覚を持っていて絶海の孤島にたどり着くのだろう。

 ブラジルを発ったアオウミガメは、毎日、日の出の太陽の方角をめざして泳いでいく。カメの速度は渡り鳥よりもはるかに遅いから、たとえ方向がずれても、修正は容易だ。旅行中、何十遍もの方向修正のチャンスがある。

 冬至を越えた太陽は、日毎に北から出るようになるから、アオウミガメのコースは、はじめ東南東だったものが、次第に東向きになり、やがて東北東へと向きを変えていく。つまり南へ大きな弧を描きながら東へ向かう。

 しかし、このコースは、このまま行けば、島よりも南を通りぬけてしまう。

 方向感覚の極意はアオウミガメの鼻にあった。やがて島に近づくと、火山島から出る特有の臭いが、この辺ではいつも南西に流れる海流に乗ってきている。

 この臭いをアオウミガメの鼻は敏感に感じとる。すると、コースを変えて島に向かうのだ。なんの目印もないところで方向転換をする。

 こうして2000キロメートル、日本列島の長さくらいの長距離の旅行を終える。なんとも巧妙な方向感覚なのである。

 アオウミガメは古くからいる生物だ。先祖は数千万年前までもさかのぼれる。私たちホモサピエンスの4〜5万年よりもはるかに長い。

 カメの先祖はやはりブラジルの海岸に住んでいた。

 しかし、遠い祖先がいたころ、じつは「ブラジル」はもちろん、「南米大陸」さえなかった。そこには、まるで川のような狭い大西洋をはさんで、そのすぐ先にはアフリカ大陸が拡がっていたのである。

 そう、当時は大西洋が生まれてホヤホヤのときで、大西洋中央海嶺で生まれた海底は巨大な大陸を二つに割って海を拡げはじめていたのだ。

 大西洋はちょうど今の紅海のように狭かった。海底火山の活動が盛んで、海底からは数百℃もある熱い水が噴き出していた。

 南米大陸側に住んでいたアオウミガメの先祖は、産んだ卵がほかの動物の餌食になってしまうのに頭を悩ましていたに違いない。

 海岸の砂浜に不器用な後ろ足で浅い穴を掘って産みつけるだけの、軟らかくてムキ出しの卵は、栄養があるし苦労しなくても採れるので、陸上に住む動物の格好のエサだった。

 いや、現代の人間にとってさえ、アオウミガメの卵のスープは世界の美味として珍重されている。

 そのうちアオウミガメの先祖は、まだ狭い大西洋に浮かんでいる小さな島に目をつけた。これらの島は大陸が割れたときの破片だったり、大西洋中央海嶺の海底火山活動で新しく生まれた火山島だった。

 アオウミガメにとっては、少し泳げば着ける、敵の動物がいない天国だったに違いない。泳ぐことが出来ない動物は島には来られなかったからだ。

 この安全な産卵天国は、アオウミガメの親から子、子から孫へと継がれていった。

 じつは、この島は大西洋のプレートの拡大とともに、一年に約2センチずつ、南米大陸から遠ざかっていったのだが、もちろんアオウミガメは知る由もない。

 100年で2メートル。1万年で200メートル。まだ、気が付かないにちがいない。こうして何千万年もの年月が流れて現代に至ったのである。

 このカメは海草を食べるための特別の形をした顎を持っている。しかしそれだけではない。肩の筋肉が発達していて、いかにも泳ぐのが得意そうな身体つきをしている。年月に鍛えられたのだ。

 そして、この年月の間に、種族維持の本能としての方向感覚も身に着いていったのに違いない。

 しかし、科学の対象として見ると、動物の動物の方向感覚については、まだ分からないことが多い。

 渡り鳥がどうやって何千キロも迷わずに飛べるのか、サケがどうやって大洋の彼方から生まれた川に戻って来ることができるのか、といったことは、まだ科学的には解明されていない。アオウミガメの行動も現象的に分かっているのにすぎない。

 私がある大学の海洋研究所を訪れたときに、生きているサケの鼻に、いろいろな川から取ってきた水をかけて、脳波を観察している学者がいた。しかしその後、華々しい科学的な成果が出た、という話は聞かない。

 渡り鳥の「渡り」も完全には解明されていない。一時は地球の南北を感じる磁石を体内に持っていて、それに合わせて飛んでいるのだ、という説があった。船の磁気コンパスと同じだ。

 しかし、それだけでは、どうも十分ではないことがわかってきた。

 その後、太陽や星を見て飛んでいるのでは、との説も出た。船でいえば天測航法である。これも、もっともらしいが、問題点もあり、まだ完全ではない。

 そのうちに、慣性航法も使っているのではないか、という説も出た。GPSを使ったカーナビがトンネルの中でも迷わないように、車の加速度を測って二重積分することによって位置を補正していくやり方である。ジェット旅客機も使っている。

 私たち海洋科学者の間で冗談がはやったことがある。船の航海術が、磁気コンパスから天測航法、そして慣性航法へ進化するたびに、渡り鳥の研究も進歩してきたからだ。

 それならば、その後の航海術の進化である電波航法やGPSなどの衛星航法を、じつは渡り鳥が使っているのではないか、という冗談なのである 。


【追記】この文章では前半に『亀の長旅』のテーマを再使用した。導入部と後半は新規のものである。

 ところで、『亀の長旅』を最初に発表したのは1990年のことだったが、それから20年も経ったのに、この種の動物の移動についての生物学は、驚くことに、ほとんど進歩していない。以下は『青淵』の字数には書ききれなかった「追記」である。

 たとえば、その後、ある生物学者はアセンション島からブラジルへ帰るカメを捕まえて、その7頭に、背中の甲羅に永久磁石と無線発信器を取り付けて、海へ離した。カメが地球の磁場を感じてブラジルへ帰るのなら、磁石を背負ったカメは方向感覚を失ってしまうだろう、という魂胆であった。

 残酷なことをするものだ。もし、カメがブラジルに帰れなかったら、どうやって責任をとるのだろう。立派な動物虐待である。もちろん、カメの手足は短いから、甲羅にしっかり取り付けた邪魔なものを自ら外すことは出来ない。

 幸い、カメは無事にブラジルに帰っていった。これは背中の無線発信機からの電波を人工衛星で捉えて、その位置を割り出して分かったことだ。

 なお、アカウミガメは草食である。それも、サンゴ礁や波のない湾内だけに生える藻だけしか食べられない。この藻はアセンション島の近くにはない。だから、ブラジルを出てから、アセンション島で産卵してブラジルに帰り着くまで、なにも食べていない。

 生物学者は、この空腹のカメを捕まえて、もしかしたら帰れなくなるかもしれない罪深い「実験」を行ったというべきであろう。


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