『青淵(せいえん)』(渋沢栄一記念財団)、2021年8月号。 21-23頁。


巨大コンテナ船を座礁から救ったスーパームーン

 


 スエズ運河でこの3月に座礁した「エバーギブン」は世界でも最大級の巨大なコンテナ船で、総トン数は22万トン、長さ400メートルもある。愛媛県今治市の正栄汽船の所有である。正確に言えば、今治造船の子会社の正栄汽船が所有し、台湾の大手海運会社エバーグリーンが運航している。今治造船の設計に基づいて建造された13隻のコンテナ船のうちの1隻だ。

 「エバー・ギブン」は長さ20フィートと40フィートのコンテナを11000個近く積んでいた。この船は20フィートコンテナにして最大約2万個積めるので、満載に近い状態だった。

 スエズ運河を通っているときに強風に見舞われ、運河を斜めにふさぐ形で座礁してしまった。強風と砂嵐は風速50 km/hに達したと言われている。まわりは一面の砂漠で、ここに食い込んで止まった。この辺のスエズ運河は砂を掘って運河にしている。ここはたまたまスエズ運河が単線のところだったので運が悪かった。


 巨大コンテナ船は、船の全長や幅が大きい割には喫水(きっすい)がそれほど深くはない。喫水とは船の海面から船底までの深さのことだ。「エバーギブン」も、長さが400メートル、幅が59メートルで、喫水は荷物を満載した状態でも14.5メートルしかない。

 船の高さはコンテナなしでも33メートル、コンテナを積んだ状態では50メートルを越える。喫水が浅いことと相まって「受風面積」が広くて風の影響を受けやすい。巨大な船舶といっても、強風の外力に対抗できるだけの出力のエンジンを備えているわけではない。この巨大コンテナ船は強風にあおられた結果、舵による船の針路を保つことができなかったのである。

 「エバーギブン」も船橋の上にまでコンテナを積んだ巨大で異様な姿だが、もっと大きなコンテナ船も、すでに実用化されている。コンテナ船の最大の規模は1997年に20フィートコンテナ換算で8000個積みだったが、2020年にその3倍の24000個相当に拡大している。20フィートコンテナ1個でも陸上に下ろすと驚くほど大きい。大型トラックでも1個を牽引するのがやっとの大きさだ。それを24000個もひとつの船に積むのである。船舶の巨大化によって拡大の一途をたどってきた国際物流網の弱点、ひとつの船がどうにかなったら、という危うさが、この事故で明らかになった。

 「エバーギブン」は1週間近くスエズ運河をふさいだために、400隻以上もの船の通行が止まった。

 スエズ運河は、アジアとヨーロッパ、北米を結ぶ国際物流の大動脈だ。エジプトのスエズ運河庁の年次報告書では、2019年にスエズ運河を経由した貨物の量は12億トンあまり。2009年の7億トンあまりから、この10年で64%も増加している。スエズ運河を経由するのは世界のコンテナ船のうち3割にも達している。

 積荷は中国や東南アジアで製造された家電製品やIT機器、家具、インドやバングラデシュ製のアパレル製品などが多く、日本をはじめ東南アジア向けのヨーロッパ産のワインやチーズなどの食料品の多くもスエズ運河を経由する。また、国際エネルギー機関によれば、世界の原油取引の約5%、石油製品の約10%、LNG(液化天然ガス)の約8%がスエズ運河を通っている。つまり世界の海上輸送全体にスエズ運河の占める割合は12%にもなっているから世界の物流に支障が出たわけだ。

 いくつもの船舶が、はるかに遠回りのアフリカの喜望峰まわりにルートを変更した。急ぐ船はこうせざるを得なかったのである。


 この座礁を救うために約3万立方メートルの土砂の浚渫(しゅんせつ)が行われたし、タグボートが13隻も動員された。しかし、船があまりに大きく、埒(らち)があかなかった。このために、エジプト大統領の指示で、船を軽くするためにコンテナを船から降ろすことも検討されはじめた。

 じつは、「エバーギブン」が離礁して再浮上できた立て役者はスーパームーンだった。

 月や太陽の引力は、潮の干満、つまり海面潮汐(ちょうせき)を起こしている。船はこの干満の影響を受ける。月と太陽は、地球から見て、おたがいにとても近い軌道を回っている。このために、ときどき日食や月食が起きる。げんに5月末には皆既月食があったし、日本では夜で見られなかったが、6月上旬には金環食があった。

 地球から見て、距離が違うのに、月と太陽はほとんど同じ大きさだ。これは天文学の不思議である。月と太陽の引力はほぼ同じだ。満月と新月では、太陽の引力と月の引力が相乗されるので潮汐が大きくなる。つまり座礁した船が浮きやすくなるのだ。

 月は、地球からの距離が最短約357000キロメートルから最長406000キロメートルまで変化する。距離にして14%ほど変化する。厳密にいえば、月の軌道は円ではなく楕円だ。それゆえ、月が地球に近い満月には14%大きくなり、30%ほど明るくなる。これがスーパームーンだ。スーパームーンのときには、月と地球の距離がそれより遠い満月の満ち潮よりも、45センチほど高くなる。たった45センチでも、船の離礁には決定的な役割を果たしたのである。

 ただし、スーパームーンとは学術用語ではなくて俗称だ。天文学用語ではない。近年になって言われはじめた占星術の用語だ。満月は年に10回以上もあるが、そのうちスーパームーンは6〜8回しかない。

 3月の満月は2021年最初のスーパームーンだった。座礁したのは、たまたま数日前だった。この満月の機会に「エバーギブン」は離礁に成功したのだ。この数日を逃せば、その後の離礁作業はさらに困難に直面するだろうと言われた。たとえばクレーンを用いてコンテナを船から下ろすとすると、運河の閉鎖は数カ月にも及ぶ可能性もあった。

 このため、スーパームーンによる潮位上昇が期待された。スーパームーンを見込んで徹夜で浚渫が急がれた。そして、離礁に成功したのだ。

 3月のスーパームーンは2021年の月の中でも4番目の明るさだった。満月に照らされての「エバーギブン」の離礁で、地元をはじめ世界各地の関係者たちは、満月と、満月が起こしてくれた満潮に感謝して、特別な思いで月を眺めたのに違いない。

 しかし、ほかの400隻あまりの船は開通したばかりのスエズ運河を抜けていったのに、「エバーギブン」は3ヶ月近くもスエズ運河に止まったままだった。

 これは運河を管理するスエズ運河庁との賠償金の交渉がまとまらなかったためだ。エジプト側は賠償金が支払われるまで船の航行を認めない決定を下し、船主側による異議申し立てもエジプトの裁判所に退けられた。

 エジプト側は当初、約996億円の賠償額を要求した。これは「エバーギブン」の離礁作業の費用だけではなく「運河の評判を損ねた」とする名目で賠償額を決めたもので、運河が遮断されていた約1週間の減収額だけでも100億円前後に達するとエジプト側は言う。これに対して「エバーギブン」の船主責任保険を引き受けている事業者「英国クラブ」は「法外な請求で、根拠も示されていない」としている。

 エジプト側は、5月になって約652億円へ値下げした。しかし、交渉はその後も長引いた。

 結局、7月になって賠償額がまとまって、「エバーギブン」はオランダ・ロッテルダムに向けて出航した。だが賠償額は双方から明らかにされなかった。船主の責任限度額を規定する国際条約「船主責任制限条約(LLMC)」が適用されたかどうか分からない。

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