島村英紀が撮った北極圏の島・スピッツベルゲンの写真

1 : 世界最北の町ロングイアービエンを基地にしての海底地震観測・その1

私たちはスピッツベルゲン島を基地にして、2回、海底地震観測を行ったことがある。1回は1998年夏、もう1回は2002年の夏だった。

2002年の海底地震観測では、ノルウェー・ベルゲン大学の観測船『ホーコンモスビー』(497トン)と北海道大学から運んだ海底地震計を使って、海底地震観測を行った。

海底地震計は、ノルウェーの北方沖の北極海にある北緯78度のスピッツベルゲン島で準備して、そこから船に乗せて出港した。

このときの観測の目的は、二つの海域の地下構造の研究で、一つは、グリーンランドから南東方向に大西洋中央海嶺に向かって海底を這っている謎の海嶺、グリーンランド海嶺がいったい大陸起源なのか、海洋起源なのかを研究するためであった。

私たちは以前から大西洋が約6000万年前に誕生してから現在に至った歴史を大西洋各地で研究しており、この謎の海嶺は、歴史の解明に重要なカギを握っている海嶺である。

もうひとつは、大西洋中央海嶺の一部であるクニポビッチ海嶺(スピッツベルゲンの西方を南北に走っている)が、一様な海洋底拡大をしていない理由を研究することであった。拡大した方向に沿って多くの海山が並んでいるところと、のっぺらぼうなところが隣り合っていて、その双方の地下構造を精査して比較しようというのが目的だった。

海底地震観測はいつものように、海底地震計を測線に沿って並べ、その後、観測船は強力なエアガン(左上の写真)を曳航して人工地震を行う。これによって、海底下50kmくらいまでの地下構造を精密に調査することができる。

エアガンは150気圧ほどの圧搾空気を使った空気の大砲で、地震波(低い音波)を発生する。 盛り上がっているのは海面下11mにあるエアガンから出て海面まで浮上してきた直径4mほどもある巨大な泡である。なお赤い浮きはエアガンを一定の深さに保つための直径1mあまりあるプラスチック製のバルーンである。


2 : クジラ・レポート

エアガンはかなり強い音波を出すので、海洋生物に対する影響を心配する向きもあるが、実際にはエアガンを曳航して実験をしているあいだにも、ほとんど毎日、多くのクジラが船に近寄ってきた。

ノルウェーの船はノルウェー政府の委託で「クジラの目視レポート」を求められている。

この観測船のブリッジ(船橋)にも、レポートの用紙とクジラの詳細な見分け方(潮の噴き方と向き、背びれの形、背びれの幅と体長の比、潜水の際の尾の振る舞いなど)のパンフレットが備えられていた(写真)。


3 : 「漁網」で海底地震計を回収

さすが漁業国、ノルウェーだけに、海底地震計を回収するための「漁網」を工夫してくれた。北洋を走る船だから海面から甲板までは高いのだが、この網と網の先からロープでつないだクレーンの操作のおかげで、回収は順調に進んだ。

このほかの海底地震計の作業はこちらへ


4 : 世界最北の町ロングイアービエンを基地にしての海底地震観測は2回

1998年に行った1回目の海底地震観測はノルウェーとスピッツベルゲンの間にあるバレンツ海の地下構造や、スピッツベルゲンの西方にある大西洋中央海嶺の地下構造の地震探査だった。

手法は上にあるのと同じ、私たちが日本から持っていった海底地震計と、ノルウェー側が用意してくれたエアガンによる人工地震による地下構造研究だった。

海底地震観測の基地にしたのはスピッツベルゲンの「首都」であるロングイアービエン。北緯78度。緯度からいえばアラスカやカナダの北岸から北極点までの半分行ったほどの高緯度だから、世界最北の町である。

首都といっても、人口は1000人(一説には780人)しかいない。町からは海になだれ込んでいる氷河を望むことができる(写真)。

こんな高緯度でも人が住めるのは、メキシコ湾から流れてくる北大西洋暖流(メキシコ湾流)のおかげである。この海流がなければ、この緯度で人が住むことはとうてい無理である。

ロングイアービエンはイスフィヨルドという細長いフィヨルドの奥に位置している。このため、大西洋の荒波に洗われることはない。


5 : 世界最北の町にある世界最北の大学

ロングイアービエンには世界最北の大学、UNISがある。ノルウェーの国立大学が共同で運営している、学生数130ほどの小さな大学である(写真中央)。学生たちは、地球科学、寒地生物学、その他の環境科学などを学んでいる。

また、厳しい気候のためにサバイバル訓練は必須である。建物の黒っぽい外装は太陽熱を少しでも吸収しようという試みであろう。

この大学では世界中から学生を受け入れている。北海道大学からも、また北見工大からも、半年〜2年間ほど、学生が留学したことがある。

建物はこの一棟しかない。手前の丸い建物は食堂兼ロビー。学生の靴箱と、学生それぞれが大学から貸与されて毎日通学の時に携行しているホッキョククマ除けのライフル銃を掛ける台も、また暖炉も、ここにある。

大学のすぐ左手に見えるジャングルジムのようなものは別役実氏に皮肉を言われそうな「野外芸術」である。


6 : スピッツベルゲンはどの国の領土でもない

ロングイアービエンはかつて炭坑の町であった。しかし、いまは廃坑が残っているだけだ。山腹に坑口が見える。

スピッツベルゲン全体では、ロングイアービエンの南方で、ロシアがまだ石炭を掘っている(下の16の写真)。

スピッツベルゲンはどこの国の領土でもなく、私たちが行くときも、旅券も査証もいらない。これはスバルバール条約で認められた、世界でも珍しい「国」である。

このため、ロングイアービエンではノルウェーの通貨が使われ、ロシアの炭坑ではロシアの通貨が使われている。それぞれの町では、ノルウェー風、あるいはロシア風の生活が営まれている。


7 : スピッツベルゲンの「首都」ロングイアービエンに残る炭坑の跡

かつて炭坑の町であったことから、険しい山の中腹(写真の中央部)には、ケーブルカー式になっている炭車で石炭を運んだときの炭車塔がいまでも残っている。よくもこんな急で崩れやすい斜面に、丈夫な塔をいくつも建てたものだ。


8-1 : 激しい褶曲(しゅうきょく)

ロングイアービエンを取り囲む山には激しい褶曲構造が見られる。前景に写っているのはかつて石炭を積み出すために使われた巨大なクレーン。

このほかのスピッツベルゲンの写真はこちらにも


8-2 : 激しい褶曲(しゅうきょく)

上と同じ景色だが、雪の季節には、風景が違う。なお、山の右側には、大きな氷河(エストマーク氷河)が海に流れ込んでいるのが見える。

なお、この氷河から流れ落ちた流氷の上には、よくアザラシが昼寝をしていることがある。


9 : 高台から見たイスフィヨルド

ロングイアービエンから車で30分ほど山を登ったところに宇宙空間の観測用のEISCATレーダーがある。そこから見たイスフィヨルドの夕暮れ。珍しく風もなく、なんの音もしない、静かな夕暮れだった。

対岸にはいくつもの氷河が海に流れ込んでいる。ロングイアービエンはこの写真では左側の海岸線のごくわずかの面積を占めているにすぎない小さな町だ。

私の知人のノルウェー人がこのレーダー基地に勤めている。ロングイアービエンの町よりは一段と寒く、極地なみの生活だ。


10 : ロングイアービエンの背後に迫る氷河

スピッツベルゲンでいちばん大きな町、ロングイアービエンのすぐ背後には氷河が迫っている。町は、その氷河の手前で終わっていて、その町の端には大学の寄宿舎がある。

その寄宿舎から2kmほどの大学に通うまでの間、学生たちは、男も女も、大学から借りたライフル銃を肩に掛けて歩く。

中央左手は、世界最北のデパート。その先には温水プールや体育館がある。ここで暮らすノルウェー人たちは本土より高い給料をもらっており、生活水準も高い。


11 : 9月には雪景色

スピッツベルゲンの9月は、冬が早足で近づいてくる季節である。私たちがいるあいだにも、ときには激しい雪が降り、景色はたちまち暗い晩秋の景色になってしまった。上の大学の写真も同じ日に撮った。冬には太陽が出ない季節が4ヶ月近くも続く。

この島には日本車が多い。比較的丈夫で、その割には安いからだ。車は直しながらとことんまで使うが、最後は部品取り用の車になる。

手前は日本では売られなかったスバル・レオーネ4輪駆動のピックアップ Brat 、後方はフェンダーを外された空冷のフォルクスワーゲン Beetle。外されたボンネットやドアやフェンダーは、他の車に取り付けられて「現役」で走り回っている。

もちろん、気候によっては、普通の車では手も足も出なくて、雪上車の出番になる。8月でも雪が降るスピッツベルゲンならでは、である。

家は典型的な寒地住宅で、厚い断熱材が入り、窓は二重窓だ。


12 : 永久凍土の墓を掘ってスペイン風邪のウィルス探し


緯度が高く気温も低いスピッツベルゲンでは、地面の下は永久凍土になっている。

このため、土葬された遺体の中にウィルスがそのまま「冷凍保存」されているのではないか、とロングイアービエンの墓地を掘って、遺体の一部を取り出す科学的な研究が行われていた。科学者としては卓抜な着想というべきであろう。

スペイン風邪は、1918年にスペインから始まり、世界各国に蔓延して猛威をふるったインフルエンザである。伝染力が強く6億人に感染したと言われている。死亡率も高く、世界各地で4000万人以上(6000万人という説もある)、日本でも感染者は当時の日本の人口の4割にも達し、50万人という途方もない数の死者を生んだ。

【2020年4月に追記】下記の説もある。「当時、スペインは交戦国ではなく中立国であったために比較的正確なデータが公表された。そのことによってスペインの国名が冠せられてしまったが、実際の発生源は米国だとされている。日本も含めた全世界に感染が拡大した結果、当時の世界人口の約3割にわたる5億人が感染、最大規模で5000万人が死亡したとされている。膠着化していた世界大戦の集結を早めたとさえ言われるくらいだ。」

しかし、ウィルスそのものがどこかに保存されているわけではないので、これがどんなウィルスによるものなのかはナゾだった。

この研究では、各地に住む遺族や末裔の許可を取るのが大変だった。科学のために、ということで説得したのであろう。

私が行った1998年8月に、周到な準備のもとにロングイアービエンの墓地で「墓掘り」が行われていた。内部の圧力を空気圧よりも低くできる特殊なテントや、密閉できる箱が用意されていた。

結果的には、このスピッツベルゲンでの研究は空振りに終わった。遺体は永久凍土層よりも表層に近いところに埋葬されており、有用な遺伝学的サンプルを得られる保存状態ではなかったからだった。もちろん、やってみなければ分からないことだったが、研究の世界は厳しいものだ。

その後、米軍病理学研究所のチームは、アラスカのスーアード半島の永久凍土層に埋葬されていたイヌイットの遺体から採取したサンプルと、サウスカロライナ州のフォートジャクソンで亡くなった21歳の兵士とニューヨーク州のアプトン基地で亡くなった30歳の兵士のホルマリン保存された組織を使ってウィルスを取り出すのに成功した。

2004年2月6日号の米科学誌「サイエンス」によれば、英米の研究チームは、このアラスカの永久凍土に埋葬された当時の犠牲者の遺体などから分離されたスペイン風邪のウイルスの研究から遺伝子的には鳥のウイルスで、わずかな変異で人への感染能力を獲得したものだと解明した。ウイルス表面に「とげ」のように突き出すヘマグルチニンという部位の立体構造から、人に極めて感染しやすい形に変化したウイルスだったことがわかったのである。

なお、このウィルスによる高熱で画家の才能に目覚めた女性画家がいる。高間筆子(1900-1922)。高熱後に突然、恐ろしいほど才能の溢れた画を描きはじめ、憑かれたように描き続けたが、二度目の高熱のときに自殺を遂げた夭折の天才画家である。

高間だけではなく、当時の天才画家、村山槐多(享年22歳)、関根正二(同20歳)も、このスペイン風邪にかかって、若くしてなくなった。日本の芸術にとっても、スペイン風邪は大きな影響を残したのである。

じつは、1997年からアジアで発生し始めたあの鳥インフルエンザ(H5N1型) が、このスペイン風邪の二の舞になるのではないかという虞れがある。国民を守る厚生対策が後手に回ることが多かった日本の政府の対策は十分なのだろうか。


13-1 : 木が1本もない島

その秋には、この綿の花のような可憐な雑草が、種のついた毛をまとう。ワタスゲの仲間だが日本のワタスゲよりはずっと小さい。草の高さは10cmほど。スピッツベルゲンは木が一本もないところだが、この雑草をはじめ、草だけが、島のあちこちに生えている。


13-2 : 雷鳥(ライチョウ)の天国

しかし、夏の8月にも雪が降るスピッツベルゲンは、雷鳥にとっては天国かもしれない。ほとんど天敵がおらず、プロの狩猟者もいない。

氷のない夏には「主食」のアザラシが捕れない、それゆえかつて英国人の女子学生を襲ったような飢えたシロクマ(ホッキョクグマ)は危険な存在だが、羽があれば、逃げるのは容易だ。

雷鳥はよく群で歩きまわっていた。冬は白一色になる羽は、夏毛なのであろう。とても、おしゃれな衣装だ。

私はアイスランドでも、よく雷鳥を見かけた。 しかし、私を案内してくれたアイスランド気象庁の職員は、狩猟が趣味だそうで、このスピッツベルゲンの雷鳥ほどのんびりしてはいられない。

なお、雷鳥は写真のように、足にも毛が生えている。防寒対策であろうか、鶏とは違うのである。このライチョウは、日本のライチョウよりもずっと大きい。

【追記】 2012年現在、このスピッツベルゲンのライチョウは、「スバルバールライチョウ(スバールバルライチョウ)」として、東京の上野動物園と多摩動物園、いしかわ動物園、富山市ファミリーパーク、長野市茶臼山動物園で飼われている。

これは、日本の特別天然記念物であるニホンライチョウを救うための計画だった。日本のライチョウは、氷河期に日本が大陸と陸続きだった頃に日本に渡ったあと、日本の高山に取り残されたものだ。しかし、いまは日本アルプスに1,750羽程度しか生息していないといわれ、絶滅の危機に瀕している。

そこで、ニホンライチョウと同種のライチョウであるスバールバルライチョウの研究を40年以上続けているノルウェーのトロムソ大学から、日本のライチョウを救うため、その飼育のノウハウとともに、スバルバールライチョウの卵が上野動物園に寄贈されたものが繁殖したものである。


14 : スピッツベルゲンの四季


ロングイアービエンの日照時間。横軸が月日、縦軸が一日の24時間を示す。白夜がいかに長いか、太陽の出ない冬がどんなに長いかがわかる。ちなみに南極の昭和基地では太陽の出ない冬は1ヶ月半しかないから、ここよりもずっと短い。


15-1 : 科学者だけの世界最北の村・ニーオルソンへ-1

スピッツベルゲン島の「首都」ロングイアービエンは島の中部にあるが、島の北部、北緯79度のところには、科学者だけが訪れることを許されている科学者の村、ニーオルソンがある。ロングイアービエンからの直線距離は100kmほどだが、この二つの町を結ぶ道はまったくない。

それゆえ、ニーオルソンに行くのは、船か、航空機で行くしかない。

普通は小さなプロペラ機、双発機のドルニエで行くのだが、私のときは、1台しかない飛行機が故障したというので、ヘリコプターで飛んだ。

なお、これら航空機は科学者だけしか載せないことになっている。また船で行った観光客は、あくまでニーオルソンを見学するだけで、現地で宿泊は出来ないことになっている。

息を呑むような氷河の上をほぼ真北に向かって飛ぶ。このルートが最短距離の飛行だ。スノーモービルでも通れないルートであることが分かるだろう。これでも、年間でいちばん雪が少ない8月の景色である。

天候は変わりやすい。私の場合にも、数分後には雲が現れて、到着時には安全視界ぎりぎりであった。いい天気になるまで何日も待つことも、また、天気が変わって引き返すことも、ここでは珍しくない。


15-2 : 世界最北の村・ニーオルソンへ-2

ニーオルソンの近くには氷河が海に流れ込んでいるところが多い。流れ込む前には、氷河は写真のように深いクレバスが発達している。大きなものはスノーモービルを優に飲み込んでしまうし、小さなもので、落ちたら命がないほど深くい。

私の知人の氷河学者は、誤ってクレバスに落ちて、身動きできない状態のまま、助け上げられるまで11時間も耐えた。

この氷河の末端の景色は、南半球のパタゴニアの大陸氷河の末端部とそっくりだった。

このクレバスの上を歩いて測定器をセットし、氷河の流動を測っている氷河学者の作業がどんなに大変なものか、想像がつこう。

このほかのスピッツベルゲンの氷河の写真はこちらにも


15-3 : 世界最北の村の地震観測点

私たちのような海底地震観測とちがって、世界の陸上には、常時観測といわれる、固定の地震観測点がある。世界全体の地震活動を調べるために、この種の観測点は、どの大陸にも、また砂漠にも極地にも置かれている。

この世界最北の科学者だけの村には、ノルウェーのベルゲン大学が設置して維持している地震観測点がある。あまりに寒くて風も強いところだから、深い地下室を作り、そこにIRISやSTSという型の広帯域地震計を置いている。

室内は電気で24℃に暖められている。データはノルウェー南部のベルゲン大学まで送られている。

後方右手に、ニーオルソンの小さな村が見える。地震計にとって、人や車の動きは地震観測の邪魔だから、このように離れたところに地震計を置いてあるのである。

自然に起きる地震だけではなくて、この地震計は、ノバヤゼムリヤの地下核爆発も記録する。核爆発探知のための最前線の観測点(15-7)でもある。


15-4 : 世界最北の村の食堂

ニーオルソンの「人口」は夏は百数十人になるが、冬は50-60人。環境や地球科学や生物などの科学者と、それを支えるスタッフだけの村である。各国から来る科学者を、ノルウェー政府が全面的に支援している。

北極に限らないが、極地の生活ではカロリーも消費するし、食事だけが楽しみなことも多い。ここニーオルソンでも、村中の科学者は一堂に集まって、食事をとる。各国の科学者が情報を交換したり、議論をする場でもある。

食事は驚くほど豪華である。ホテルなみだ。夜食も含めて、1日4回、ここで食事をすることになる。 この食堂の隣には、革張りの椅子が並んだ談話室があり、そこでアルコールを飲みながら話を続けることも出来る。

私はノルウェーの科学者とともにここに滞在したのだが、同時に日本から来ていた生物学者たちは、ちょっと離れた小屋で自炊していた。

研究の時間がもったいない、ホテルなみの食事は日本でもらえる研究費で払うには高い、外国人と話すのは煩わしい、といった理由なのだが、私にとっては、科学者が他の科学者と話せる機会が、そのために限られてしまっているようで、ちょっと残念なことだった。


15-5 : ニーオルソンから気球で北極へ向かったアムンゼン

ノルウェーの探検家アムンゼンは、1925年に飛行機2機で世界初の北極横断飛行を試みたが失敗した。しかし、その翌年の1926年、このニーオルソンから飛行船を使って、70時間の北極横断飛行に成功した。なんという不屈の精神だろう。

アムンゼンの像はニーオルソンにも、ノルウェーの北極圏内の町トロムソにもある。

これはトロムソの極地博物館の入り口にある像。長年の苦闘と苦労のゆえか、たくましいというべきだろうが、同時に、なんとも憂いが深い顔つきだ。なお、トロムソ市内には、探検家ナンセンの像もある。

【追記】 なお、アムンゼンは1927年に来日し、札幌や函館も訪問した。札幌では市内にあった映画館「エンゼル館」で「北極横断の壮大な計画」という講演をした。また駅前で1970年まで営業していた山形屋旅館に投宿して、そこのサイン帳にサインが残っているという(2011年7月28日、北海道新聞夕刊)。

アムンゼンは翌1928年に北極で遭難した飛行船の捜索に向かって、消息を絶った。


15-6 : ニーオルソンに残っているアムンゼンの飛行船の係留塔

その時に使った飛行船の係留塔が、いまでも村の中に残っている。この飛行船は、全長106メートルで最高速度が約120km/hの半硬式飛行船だった(この飛行船については大阪のtaro watanabeさんからお教えいただきました)。

当時はここは科学者の村ではなく、世界最北の炭坑があった村だった。掘り出した石炭を運ぶための軽便鉄道もあった。

その炭坑は、1901年から採掘が始まり、1919年の世界恐慌でいったん閉鎖になったが、第二次大戦後の1945年に再開し、最大200人の集落になっていた。しかし、1962年に大きな炭鉱事故があり、1963年に再び閉鎖になってしまった。

しかし、その後1968年にノルウェー政府は、ここを科学者のために開放することを決めた。いまでは世界各国から科学者が集まり、 各国がそれぞれ独自の建物を建てて、それぞれの科学の観測や実験を行っている。

地球の異変は南極や北極など、極地から出ることも多く、その意味では、かろうじて人が住める限界であるここは、貴重な観測点なのである。 2003年には(日本より遅れて南極観測に参入して日本を急速に追撃している)韓国も参入した。


15-7 : ニーオルソンから北極までの距離

これはニーオルソンを中心にした世界地図。北極(North Pole)と、ノルウェーの北端までの距離がほとんど同じ1000kmであるなのが分かるだろう。また、オスロやロンドンよりも、カナダの北部の方が近い。

繰り返し地下核爆発が行われたノバヤゼムリヤ島(右手にある長い島)も、約1000kmである。上の15-3の地震観測は、ソ連(ロシア)以外では、もっとも近い「カギ」の観測点なのである。


15-8 : 世界各地はどちらの方向?どれだけの距離?

これはロングイアービエンの空港にある、世界各地までの方向と距離を示した看板。北緯78度15分がここの緯度だ。ニーオルソンはさらに北で79度を超える。ロングイアービエンから北極までは1306km、東京から稚内までよりちょっと遠いくらいくらいしかない。

ノバヤゼムリヤに近いムルマンスクまではわずかに1185km、オスロの2046kmよりもずっと近い。東京は6820km、それでもロサンゼルスの7174kmよりは近い。

ローマやロサンゼルスの標識が曲がってしまっているのは、ここではしばしば吹き荒れる雪嵐のせいだ。こんな雪嵐のときに外を歩くことには、もちろん命の危険がある。

じつは、どこの地震観測所にも、その観測所を中心にした特殊な世界地図があり、世界各地が、どの方向に、どのくらいの距離かが分かるようになっている。ニーオルソンの地震観測室も例外ではなかった。


15-9 : ニーオルソンに残っている「小さな家」

ニーオルソンには、ごく小さな、まるでオモチャのような家がいくつも残っている。背が高いノルウェー人にはあまりに小さな家だ。左側の白い「普通の大きさの」家と比べるとその小ささが分かる。

じつは、これは炭坑時代に作られていた家である。ノルウェー本土から運べる建築資材は限られている。また、暖房をするにも小さな家ほど、冷えなくてすむ。このため、まるで登山用テントのような、ごく小さい家が普通だったのである。なんと貧しい話だろう。

この写真を撮ったのは8月だったが、狭い湾の向こう側には、写真に見られるように対岸から流れ出した氷河が間近に迫っている。山の雪はもちろん一年中、消えない。しかし、それでもかろうじて人が住めるのはメキシコ湾流のおかげなのである。


15-10 : ニーオルソンにある「世界最北の郵便局」

ニーオルソンにある郵便局も、ごく小さな建物だ。取り扱う郵便料からいったら、大きさ相当なのかもしれない。ノルウェーの郵便局と同じように、郵便馬車の赤いラッパのマークが貼ってある。

しかし、この郵便局の郵便を通して、ここに暮らす科学者たちと、遠く離れた家族や友人の心がつながっている。

配達はない。科学者たちは、ここへ郵便を出しに来たり、局留めになっている郵便物を取って帰る。

局舎の右手にあるのは、気象観測用の百葉箱や雨量計である。つまり、ここは気象観測のための露場になっているのである。


16 : スピッツベルゲンの「陸の孤島」・ロシアの炭坑町

スピッツベルゲンで、定期航空機が着ける空港はロングイアービエンにしかない。しかし、スピッツベルゲンで、人が住んでいるところは、何カ所かある。上のニーオルソンもそのひとつだ。

そのそれぞれは、 隔絶した「陸の孤島」になっている。たとえば、ポーランド科学アカデミー地球物理学研究所が持つ基地は、ポーランドから夏に来る船だけが頼りの、南極基地のような生活をしている。隊員の交代も、食糧も、その船だけが頼りなのである。

ここバレンツブルグは、そのロシア風の名前の通り、ロシアの炭坑の町だ。 ロングイアービエンの南西に離れたところにある。

この町の補給や人員の交代は、ロシアからの船だったり、ロングイアービエン空港からの大型ヘリコプターだったりする。

ロシアからロングイアービエンまでは輸送機だが、1996年には、この輸送機が視界が悪い中、ロングイアービエン近くで墜落して炭坑夫と家族、141名の全員が死亡する惨事が起きた。あと50m高度が高かったら山に激突しないですんだ事故だった。

私たちも使ったロングイアービエン空港は、風向きによっては旋回して山をかすめなければならない滑走路なのである。。なお、翌年には炭鉱事故で23名がなくなっている。

この炭坑町は、建物も、町の作りも、そしてもちろん、人々の衣装も、食べている食事も、まったくロシア風である。町の中心の広場には、昔のソ連のどの町とも同じく、レーニンの胸像が立っている。消防車もロシアから持ってきたものが走っている。

この写真を撮ったのは1998年8月だが、ロシア本土と違って、まだレーニン像も、山の斜面に書いた「世界に平和を」の巨大文字のスローガンも、そのままだった。このときのこの町の人口は900人、うち女性は150人だった。

前は学校もあったのだが、このときは子供が減って6人になってしまっていたので、学校はすでに閉鎖になって「個人授業」になっていた。つまり、南極のアルゼンチン基地のような生活になってしまっていたのである。

北極圏の寒い炭坑町を見下ろすレーニンは、心なしか愁いを含んだ表情に見える。 この町では夏にも雪が降る。夏でも厚手のコートが手放せない。地面が雪で覆われていないのは、ごく短い夏の間だけである。

じつはスピッツベルゲンにはロシアの炭坑がもう一つあった。ピラミーデンという、ロングイアービエンの北北東に離れたところにあった炭坑である。しかし、これは閉鎖になってしまった。


17 : ノルウェーの古地図から。怪物が住むノルウェー海とバレンツ海

昔のノルウェー人にとっては、中央に見られるアイスランドはもとより、北端にあるグリーンランドに至る海は、怪物が住み、ときには船を襲って食べるという恐ろしい海だった。まして、その、もっと北にあるスピッツベルゲンは、とても人が到達できるところではなかった

この地図にはアイスランドが北極圏内に描いてあるが、実際にはアイスランドの本土はぎりぎりで北極圏外であり、本土の北にあるグリムゼイ島だけが北極圏にかかっている。

この海域や怪物はアイスランド側の古地図ではこのように描かれている。

(この古地図はロングイアービエンの図書館に置いてある)


島村英紀が撮った海底地震計の現場
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