裁判の過程で明らかにした私たちの言い分(弁論要旨)

(これは2006年11月7日の第11回公判で行われた弁護側の最終弁論の内容です。法曹界の文章としては、異例に分かりやすい文章です。
なお、当日は、このほか、被告の最終陳述も行われました)

平成18年(わ)第173号

弁 論 要 旨

被告人 島  村  英  紀

上記被告人に対する詐欺被告事件につき,弁護人の意見は以下のとおりである。

平成18年(2006年)11月7日

札幌地方裁判所 刑事第3部合議係 御中

主任弁護人 尾  崎  英  雄
弁護人 島  津  宏  興
弁護人 磯  田  丈  弘
弁護人 鈴  木  一  嗣


目次

第1 本件契約の実態からする詐欺罪の不成立
 1 被告人の主張の骨子
(1) 本件契約の実態
  ア 形式面から見た本件契約
  イ 売買契約としての実体の不存在
(ア) 契約目的物の特定不能
(イ) 契約目的物の実質的管理者
(ウ) 契約目的物の使用権限及び使用形態
(エ) 契約目的物の収益権限及び収益形態
(オ) 契約目的物の処分権限
(カ) 小括
  ウ 本件契約に至る経緯
(ア) ベルゲン大学の意向と当初の被告人の反応
(イ) ベルゲン大学側の事情の変化とその影響
(ウ) 妥協点の発見
(エ) 合意内容の具体化
(オ) 平成11年に9台の保管を委ねた経緯
(カ) 小括
エ 売買契約の実体がないことの兆表
オ 小括
(2) ミエルデ教授の供述との整合性
  ア ミエルデ教授の供述する基本的合意の内容
  イ 供述内容の合理性
(ア) 5台の海底地震計に関する使用貸借の実体不存在
(イ) 被告人の法的義務の不存在
(ウ) 小括
  ウ ミエルデ教授がかかる供述をする理由
(ア) ベルゲン大学が海底地震計を「所有」している必要性
(イ) 交渉技術としての説明と事実の乖離
(ウ) 「売買」の外形を整える必要性
(エ) 小括
(3) 被告人からミエルデ教授に対するメールの位置づけ
  ア 検察官の主張
  イ 被告人がかかるメールを送信した経緯
(ア) メールの存在の射程距離
(イ) 被告人の置かれていた状況
  ウ 小括

2 被告人に権限があったこと

3 結論

第2 ミエルデ教授が本件契約を売買であると誤認していた場合の詐欺罪の不成立
 1 本件を詐欺罪として公訴提起することの社会的相当性
 (1)被告人が起訴されるに至る経緯
(2)被告人と北大との民事訴訟
(3)刑事訴訟と民事訴訟の不一致
(4)ミエルデ教授を被害者とすることの不合理性
  ア ミエルデ教授らの被害認識の不存在
  イ 主張・立証の歪み
(ア) 起訴状記載の公訴事実
(イ) 公判廷における主張・立証
(ウ) 小括
(5)北大との民事事件の解決
  ア 訴訟上の和解の成立
  イ 被告人が訴訟上の和解に応じた理由
(ア) 本件契約の対価の趣旨
(イ) 被告人の落ち度
(ウ) 和解の趣旨

2 ミエルデ教授の供述を前提とした場合での詐欺罪の不成立
(1)はじめに
(2)詐欺罪の構成要件要素の問題
  ア「財産的損害」の要件
(ア) これまでの判例・通説
(イ) 近時の学説と最高裁判例
イ 錯誤(=法益関係的錯誤)の要件
ウ 価格相当の商品の提供と詐欺罪の成否
(ア) 問題の所在
(イ) 旧来の判例の考え方とその問題点
(ウ) 近時の考え方
(エ) 本件の場合
(オ) 小括

3 結論

第3 本件海底地震計の所有権の帰属
 1 はじめに

 2 加工(民法246条1項但書)による所有権の取得
(1) 民法246条1項但書の規定
(2) 被告人による加工
  ア 民法246条1項但書の趣旨
  イ 本件による加工の程度
  ウ 検察官の主張に対する反論
(3) 加工物である海底地震計の価格
(4) 小括

 3 加工(民法246条2項)による所有権取得
(1) 民法246条2項の趣旨
(2) 被告人所有の部品の存在
  ア 被告人が個人所有の部品を取得・保管していた事実
  イ 各メーカー役員・従業員の供述内容
  ウ 検察官の主張とその立証の程度
(3) 小括

第4 結語

凡例:
証人や被告人の公判供述を指摘する場合,供述者の氏名と速記録の頁数を記載した。例えば,村井芳夫氏の速記録15頁を示す場合には,「(村井15頁)」と記載している。

但し,ロルフ・ミエルデ教授と被告人は複数回の公判期日において供述をしていることから,冒頭に公判回数を示している。例えば,第2回公判のミエルデ教授の速記録1ページなら,「(第2回ミエルデ1頁)」である。


 第1 本件契約の実態からする詐欺罪の不成立

1 被告人の主張の骨子

   本件の被告人とロルフ・ミエルデ教授(以下,「ミエルデ教授」)との合意内容は,実質的に見て売買契約ではなく,被告人が10台程度の海底地震計を継続的にベルゲン大学に保管させ,被告人との共同研究を行う限りにおいて必要に応じベルゲン大学の研究グループがこれを使用することを被告人が許諾するところにある。法的には,かかる合意を内容とする有償無名契約である(以下,「本件契約」)。

そして,被告人にはその権限がある上,合意の実質的内容及び権限についてはミエルデ教授との間に認識の齟齬はない。

 したがって,被告人は欺罔行為を行っておらず,ミエルデ教授も錯誤に陥ってはいないから,詐欺罪は成立しない。

2 本件契約が売買ではないこと
 (1)本件契約の実態
   ア 表面的にみた本件契約

検察官が指摘するように,本件においては,ミエルデ教授がノスクヒドロ社から海底地震計の購入代金として資金を獲得した後,被告人がインボイスを作成・発行し,これに基づいてベルゲン大学がインボイス記載の金額を支払った,という一連の流れがある。

これらの流れを皮相的に眺めれば,被告人とミエルデ教授との間に売買契約が存在したかのようにも見えよう。

   イ 売買契約としての実体の不存在

     しかし,被告人とミエルデ教授との間で取り交わされた合意内容を精査した場合,これを売買契約と捉えることはできない。

 なぜなら,売買の場合,目的物はいずれかの時点で特定された上,その特定物の所有権は買主に移転し,その結果買主が目的物の使用・収益・処分権限を完全に取得するはずであるが,本件の場合,以下のとおり,目的物は現在においても特定できない上,ベルゲン大学に排他的使用・収益・処分権限は認められないからである。

そのため,契約の目的物及び効果から,本件契約が売買ではないことが明らかである。

(ア) 契約目的物の特定不能

 売買契約においては,目的物が契約時点において不特定物であったとしても,最終的には特定されることになる。

     しかし,本件契約においては,ベルゲン大学に残置される海底地震計は,その構成部品が絶えず変化し,特定されることはない。例えば,被告人は平成10年(1998年)の観測後に4台の海底地震計をベルゲン大学に残置してきており,これらを売却したと言われているが,平成11年(1999年)の共同観測後にベルゲン大学に残置してきた9台の海底地震計は前年にベルゲン大学が購入したと言われる4台を含んでいない(甲20の資料20,村井44〜45頁,第8回被告人25〜26頁)。

また,現在ベルゲン大学が保管する複数の海底地震計のうち,いずれがベルゲン大学所有のものであるかについても,特定することができない。

     そして,ミエルデ教授も,管理の対象は台数であり,いずれの海底地震計をベルゲン大学が所有しているのかは誰にも分からないことを明言している(第3回ミエルデ44〜45頁)。
     このように売買の目的物を特定できない場合,そもそも所有権の移転ということ自体を観念できないから,本件契約によって海底地震計の所有権がベルゲン大学に移転したということは不可能である。

(イ) 契約目的物の実質的管理者

ベルゲン大学に置かれていた海底地震計の実質的管理は,被告人を含む日本人研究者が行っていた。

すなわち,どの海底地震計の部品をベルゲン大学に残していくかは,被告人を含む日本人研究者が独自に決定しており(村井45頁),ミエルデ教授にはこの点について何らの関心はなかった(第2回ミエルデ59〜63頁)。

また,各部品の状況の確認やメンテナンスの必要性の判断等は日本人研究者が独自に行っていた。例えば,村井助手は,観測中はベルゲン大学の保管倉庫の鍵を預かり,自由に出入りして作業を行っていたのである(村井75頁)。

更に,ミエルデ教授は,現在残置されている海底地震計についても,台数や所在について正確な知識がなく,むしろ北海道大学(以下,「北大」)関係者が把握していることを示唆している(第3回ミエルデ29頁)。

そのため,ベルゲン大学では海底地震計を大学内の倉庫に保管していたものの,実質的管理を行っていたとはいえない。

(ウ) 契約目的物の使用権限及び使用形態

ベルゲン大学が本件海底地震計を使用するためには,技術的問題から被告人の協力が不可欠であり,使用に際してミエルデ教授が被告人の許可を受ける必要があった(第2回ミエルデ58頁,第3回ミエルデ30頁)。そのため,アメリカ人研究者ドナ・ブラックマンがミエルデ教授に提唱した共同観測は,被告人の許可が得られなかったことから実現していない(第3回ミエルデ31頁,第8回被告人30〜31頁)。

また,ミエルデ教授は,本件契約後も本件海底地震計について,被告人の必要に応じた使用を認容することとなっている。そして,実際に被告人は,平成13年(2001年)8月と11月に実施したパリ大学との共同観測であるトルコ・マルマラ海沖(8月)とカリブ海沖(11月)の観測で,共同研究者ではなかったミエルデ教授に依頼し,ベルゲン大学に保管されている海底地震計全部を現地に送付してもらって使用した(第3回ミエルデ4,32〜34頁,第8回被告人31〜34頁)。

   したがって,ミエルデ教授は,本件海底地震計を単独でかつ自由に使用することはできず,排他的な使用権限を有していない。

(エ) 契約目的物の収益権限及び収益形態

本件海底地震計の果実は採取されるデータであるが,ミエルデ教授はそのデータを単独で使用することができない。具体的には,採取されたデータを用いた論文の作成に当たっては,必ず被告人を含む共著となるのである(第3回ミエルデ30〜31頁,第8回被告人61頁)。

      したがって,ミエルデ教授は,本件海底地震計の果実を常に被告人らと共同でしか収益することはできず,排他的な収益権限を有していない。

   (オ)契約目的物の処分権限

      本件契約において,海底地震計の処分に関する合意は存在せず,ミエルデ教授に本件海底地震計の処分権限が与えられたと認められる証拠はない。

むしろ,ベルゲン大学に保管させるべき具体的台数や部品を決定していたのが被告人らであることや,ミエルデ教授は前述のごとく制限された使用権限しか有していないことを考慮すれば,ミエルデ教授に処分権限はないと解するのが相当である。

   (カ)小括

      以上の実体からすれば,本件においては,特定の海底地震計について所有権の移転を観念できない上,いずれかの海底地震計についても売買に伴う買主の排他的使用・収益・処分権限の取得が認められないから,法的に本件を売買契約と見ることは不可能である。

ウ 本件契約に至る経緯
     これまで述べてきたように,本件においては,一方で売買契約の外形を有しつつ,他方でその実質は売買契約とはいえない内容の合意がなされている。

では,なぜこのような内容の合意がなされたのか。それは,以下のような本件契約に至る経緯にその理由がある。

(ア) ベルゲン大学の意向と当初の被告人の反応

ベルゲン大学では,1980年代末ころから,海底地震計の保持に関心を持ち,ミエルデ教授の前任であるセレボール教授が被告人に対して市販されている海底地震計の価格調査を依頼したことがあった。これを受けて,被告人は,日本電気海洋エンジニアリング株式会社に価格の照会を行い,平成2年(1990年)1月,その回答を得た(弁8,第7回被告人59〜60頁,第8回被告人36〜39頁)。

しかし,1990年代後半に入り,ベルゲン大学側の事情が変化した。ベルゲン大学では,日本の大学と異なり,大学独自の予算が極めて少なく,EUや企業等から研究資金の拠出を受けて研究を行っている(第2回ミエルデ2〜3頁)ところ,自己所有の研究装置を持たない場合には,この研究費の拠出を受けられなくなるという(第7回被告人61頁)。そのため,セレボール教授は,被告人に対して,その開発した海底地震計の有償譲渡を打診してきたが,被告人は主に以下の2点の理由により,これを拒絶した。

第一に,海底地震計は被告人の研究の成果物であると共に,データ採取という重要な研究の武器である。そのため,これを売り渡すということは,自らのノウハウのつまった研究の武器を,競争関係にもなりうる研究者に渡してしまうことになるためである。

第二に,海底地震計は開発の途上にあり,常に改良を重ねている未完成品である。被告人らの手を離れた場合,正確に作動することを保証することはできない。そのため,被告人としては,そのような状態の海底地震計を,あたかも完成品のごとく譲渡して,研究者としての評価を下げることは避けたいと考えていたからである(同62〜63頁)。

(イ) ベルゲン大学側の事情の変化とその影響

平成8年(1996年)ころ,前述のような研究費打ち切りの時期も迫ってきたこともあり,セレボール教授は,被告人に対して,実質的な状態は従前どおりで構わないので,海底地震計を売った形を取ってくれないか,と依頼するようになった(同63〜65頁)。

ベルゲン大学に対する研究費支給が打ち切られた場合,ノルウェーでの共同研究の継続は不可能となる。ノルウェーとの共同研究は,エアガンで人工的に地震を発生させ,その影響を海底地震計で観測するという画期的な試みであり,海底下の深い地質構造を世界で初めて探査するという世界的意義のある研究であると共に,ノルウェーのプレート調査は海道南西部沖地震を始めとする日本の地震研究に極めて重大な意義を有する研究でもある(第7回被告人57〜58頁)。このような意義のある研究を継続できないことは,科学的成果の損失である。

また,そればかりか,自らの弟子たちの論文作成・発表の機会が失われる上,同じ研究を行ってきたセレボール教授らを見殺しにすることになる(同66頁)。

   (ウ)妥協点の発見

このような状況下において,被告人は,仮に海底地震計を売却するという外形を取ったとしても,その実質的な所有が自らに残るのであれば,これに協力することも吝かではないと考えるようになった。すなわち,被告人の意思に基づいた使用を妨げられることなく,かつ,その実質的な管理を被告人が行えるのであれば,自らの研究に支障はないと考えた。

そこで,平成8年(1996年)6月ころ,被告人は,セレボール教授の依頼に応ずることにした。なお,ミエルデ教授は,当時,ベルゲン大学の正職員ではなかったことから,被告人との交渉はすべてセレボール教授が行っていた。また,ミエルデ教授が平成9年(1997年)に助教授に就任(甲3,4)して以降も,セレボール教授は若いミエルデ教授の後見的立場で関与していた(第2回ミエルデ56頁,第8回被告人1頁)。

  (エ)合意内容の具体化

このように,当初の「売買」に関する合意内容は,明確なものではなかった。これが具体化し始めたのは,その後,ベルゲン大学が現実に対価を取得した後ころからである。

平成9年(1997年)末ころから平成10年(1998年)初頭にかけて,被告人はミエルデ教授から海底地震計数台分の製造費用に相当する金額を準備したとの連絡を受けた。その過程の中で,被告人は,ミエルデ教授から,一定数の海底地震計をベルゲン大学に置いてもらえないか,と依頼を受けるようになった(第7回被告人67〜68頁)。

被告人としては,海底地震計の実質的な所有が変わらないのであれば,主要な観測を行っているノルウェー沿岸地域に近いベルゲン大学に置くことにより,梱包の手間,輸出入手続の煩雑さ,移動に伴う亡失・破損のリスク,及び輸送費の節減を図ることもできる。

そこで,被告人は,ミエルデ教授に対して,平成10年(1998年)5月ころ,同年に行われる共同観測の後,日本で行う観測の妨げにならない程度の台数として4台の海底地震計をベルゲン大学に置いてくることを伝えた(同71〜75頁)。但し,4台という数字は,同観測において亡失する海底地震計がほとんどないことが前提だったため,実際に4台を置いてくることになったのは,観測終了後の同年9月ころということになる(第2回ミエルデ27〜28頁)。

   (エ)平成11年に9台の保管を委ねた経緯

平成11年(1999年)3月ころ,被告人は,ポーランドの研究者から,同年中に北極海で行われる共同観測への参加を求められ,これに応ずることにした。

被告人は,その観測に合計で10台程度の海底地震計を使用する必要があると考えたため,同年4月から5月にかけて行われるベルゲン大学との共同観測の後も,前年に保管させた4台に加え,更に4〜5台の海底地震計をベルゲン大学に保管させる予定で,日本からベルゲンに海底地震計を送った。

結局,共同観測後の状況とその後のポーランド等との共同観測に使用する海底地震計の台数から,被告人は合計で9台の海底地震計をベルゲン大学に保管させることになった(第8回被告人19〜22頁)。

そして,このころまでに,この程度の台数をベルゲン大学に保管させることが,本件契約の具体的内容として形成されるに至ったのである。

 (オ) 小括

以上のとおり,被告人は海底地震計の売買に消極的であったものの,ベルゲン大学側の事情の変化を考慮し,実質的な管理・使用権限に変化のない限度において,ベルゲン大学に協力をすることとしたのである。

そのため,ベルゲン大学が本件海底地震計を購入したという外形の作出に協力しつつ,実質的な管理を継続しているのである。

  エ 売買の実体がないことの兆表

本件契約に売買の実体がないことは,海底地震計に関与していた北大関係者が,長年,売買の存在を認識していなかった(村井4頁)ことからも認められる。

すなわち,被告人は,村井助手に対して,平成10年の観測に出発する以前に4台をベルゲンに置いてくることを前提とする指示を行い(同25頁),その年の観測後,実際に4台の海底地震計を置いてきた。その後も,海底地震計は現在に至るまで,台数には変化があるものの,継続的にベルゲン大学に保管されている。

そして,そのことについて,村井助手は特段の疑問を持っていなかった。その理由は,村井助手によれば,ベルゲン大学との共同観測が継続して行われることから,観測機材である海底地震計をベルゲン大学に保管させることに合理性が認められたからである(同25,74頁)。

また,観測等に関与していた他の北大のスタッフも,同様に疑問を持っていた様子はない。その理由は,これらの海底地震計が,ベルゲン滞在中は村井助手がその管理を行ったり,被告人の指示に従ってベルゲン大学が関与しない観測に使用されている,という客観的な状況から,海底地震計の所有権が移転したとは認められなかった,というところにある。

これは,翻って考えれば,本件契約に売買の実体がないことの端的な表れである。

   オ 小括

     以上のとおり,本件契約の実体からは,本件契約を売買契約と解することは不可能である。

 (2)ミエルデ教授の供述との整合性
ア ミエルデ教授の供述する基本的合意の内容

ミエルデ教授は,本公判廷において,本件契約に関して,被告人との間で基本的な合意が存在することを供述していた。

そして,その内容とは,

     第一に,海底地震計5台を購入し,更に5台をベルゲン大学に永久的においておくこと。

     第二に,その使用に関しては,@ベルゲン大学主体の観測を行う際には,被告人と協議の上,その承諾を得て研究者を派遣してもらい,共同観測を行うこと,A被告人が当該海底地震計の使用を希望する場合には,自由に使用させること。

    であるとする(第3回ミエルデ29〜30頁)。

   イ 供述内容の合理性

このうち,第一の部分に関しては,真にそのような合意があったとは考えにくい。

  (ア)5台の海底地震計に関する使用貸借の実体不存在

ミエルデ教授は,海底地震計を5台購入し,5台借り入れるという内容の契約であった旨供述している。

     しかし,前述したとおり売買に関して法的意義の売買の実体がないことと同様,貸与に関しても,ベルゲン大学の自由な使用が認められていない以上,法的意義の貸借は認められない。

  (イ)被告人の法的義務の不存在

また,ミエルデ教授の供述内容を法的に解釈すれば,5台を無償貸与する付帯条件付の5台の売買契約ということになろう。そのため,かかる合意が存在していたのであれば,被告人は常に10台をベルゲン大学に残置すべき法的な義務を負うはずである。

しかし,被告人は,平成10年(1998年)に4台,平成11年(1999年)に9台の海底地震計をベルゲン大学に残置してきているが,結局,10台が残置されたことはない。また,残置される海底地震計の台数は,徐々に減少している。

     また,被告人が平成11年(1999年)に9台の海底地震計をベルゲン大学に残置したのは,契約に基づく義務としてではなく,前述のごとく,9台の海底地震計が同年にベルゲン大学との間で実施された共同観測後に実施されるドイツ・ポーランド等との共同観測に必要だったからである。

しかも,このような保管台数は,被告人とミエルデ教授との何らかの協議・合意によるものではなく,被告人が単独で決定していたのである。

以上の事実からは,被告人には10台の海底地震計をベルゲン大学に残置する法的義務は存在しない,というべきである。

(ウ) 小括

したがって,本件において,被告人とミエルデ教授との間にかかる合意は存在していなかったと言わざるを得ない。むしろ,ある程度の台数をベルゲン大学において保管するという程度の内容であったと考えるのが相当である。

      そして,ミエルデ教授の供述するその他の基本的合意の内容は,まさしく本件契約が売買契約の実質を有していないことに他ならない。

      よって,本件契約の実質的内容に関して,被告人とミエルデ教授の認識の間には齟齬は存在しない。

   ウ ミエルデ教授がかかる供述をする理由

     但し,ミエルデ教授がかかる供述をするには,相応の理由が存在する。

   (ア)ベルゲン大学が海底地震計を「所有」している必要性

ミエルデ教授は,研究資金の調達を重要な役割として担っているところ(第2回ミエルデ3頁),その資金は,ノルウェー国内の石油会社と共に,EUからも得ていた。

そして,ミエルデ教授が石油会社に対する本件海底地震計購入費用申請の際,「もしノルウェーの機材がこの事業において使用されるのであれば,資金源を獲得するチャンス,大きな機会があるであろうということは明白である。」(甲1押収資料21,第3回ミエルデ25頁)と記載していることからも明らかなとおり,EUからの資金獲得のために,ベルゲン大学が「所有」している機材を使用した観測を行うことが必要だったことが認められる。

   (イ)交渉技術としての説明と事実の乖離

そして,その必要の程度が,被告人がセレボール教授から言われていたほどの研究費打ち切りという切迫したものであったのか,資金獲得に有利という程度であったのか,真実は不明である。

しかし,交渉に当たって,必要以上に物事を強調することは日常茶飯事である。ミエルデ教授も,石油会社に海底地震計購入資金を申請する際,真実はミエルデ教授が発案したという5台購入・5台貸与という条件について,申請書には「日本の研究協力の相手先は,私たちが5台のOBSを購入すれば,5台のそれとは別のOBSを私たちの研究所に置いてもよいということを申し出ました。」(甲1押収資料21,第3回ミエルデ20頁)という事実と異なる記載をして,資金を得ようとしている。

      そして,被告人は,ミエルデ教授の申し出にも明確な反応を示さず(第2回ミエルデ18頁),資金調達に関するメールにも特段の反応を示していない(甲1押収資料24,第2回ミエルデ25〜26頁)など,海底地震計の売買に消極的な姿勢を示していた。かかる状況下にあって,ミエルデ教授やその後見的立場であり被告人と親交の深かったセレボール教授が,購入の必要性を真実以上に過剰な表現を用いて被告人に協力を仰ごうとしていたということは十分に考えられる。

   (ウ)「売買」の外形を整える必要性

ミエルデ教授の奔走もあり,2年間にかけて本件海底地震計購入資金としてノスクヒドロ社からベルゲン大学に合計150万クローネが提供された(甲1押収資料22,23)。

      これらの金員が海底地震計購入費用として一旦大学に入金された以上,これを支出するには海底地震計を購入したことを示す正規の手続が必要となる。そのため,ミエルデ教授は,ベルゲン大学当局の要求に従い,被告人に対して,インボイスの様式及び記載すべき内容を指摘して,これらにかなう様式及び内容のインボイスを発行させた(第2回ミエルデ30頁,第3回ミエルデ9頁)。

      しかも,ミエルデ教授の言うところの基本的合意には契約書は存在せず,口頭での合意である(第3回ミエルデ30頁)。そのため,本件の「売買」が典型的な売買契約でないことは当事者以外には知りようがなく,かつ,これを知らせた場合に発生しうる面倒な問題を回避するためにも,その詳細についてベルゲン大学当局やノスクヒドロ社に報告していないことは十分に考えられる。

   (エ)小括

これらの状況を総合的に考慮すれば,その実態を十分に認識しているにもかかわらず,ミエルデ教授が一貫して本件海底地震計を購入したと供述していることには,合理的な理由が存在するのである。

 (3)被告人からミエルデ教授に対するメールの位置づけ
   ア 検察官の主張

     検察官は,被告人がミエルデ教授に対して,平成16年(2005年)1月17日付で送信した電子メール(以下,「本件メール」)の存在をして,被告人が無権限で北大所有の海底地震計を売却したことの証左であると主張する。

   イ 被告人がかかるメールを送信した経緯
   (ア)メールの存在の射程距離

しかし,本件メールの存在が,直ちに被告人の本件契約が売買契約であることを立証するものではない。本件契約が売買であるか否かは,その実質から判断すべき事実だからである。
(イ)被告人の置かれていた状況

また,かかる主張は,本件契約の複雑な内容と被告人の置かれた立場等に思いを馳せない浅薄な主張である。

      すなわち,本件契約の内容は,これまで主張してきたとおり,長年にわたる共同研究の過程で徐々に合意を形成してきた相当に複雑な内容である。このような複雑な内容を,共に英語を母国語とせず,面識の薄い北大懲罰委員会の委員とミエルデ教授との間で十分な意思疎通が行われる可能性は高くない。

      また,当時,被告人は既に北大を退職して国立極地研究所に移籍しており,十分な弁明の機会が与えられない可能性が高かった。このことは,非公式ではあるが,被告人が事情を説明しようとした際,懲罰委員会の委員には,被告人の弁明内容を真摯に受け止め,その内容を精査しようとする姿勢が皆無であったことからも,十分に推測された(第8回被告人52頁)。

しかも,被告人は,その直前に発表した地震予知に関する見解に対して学会等からの風当たりも強く,その影響も懸念された(同48〜49頁)。

このような悪条件が重なる中,被告人が,ミエルデ教授に対して,一切の説明を拒否することを求めたのは十分に自然なことである。なぜなら,被告人は,本件契約の外形が,被告人を陥れようとする勢力の有利に活用される形式になっていることを認識していたからである。

   ウ 小括

     したがって,かかるメールの存在を被告人有罪の証拠と考える検察官の主張は,不合理である。

 2 被告人に権限があったこと

本件海底地震計の所有権の帰属については争いがある。

しかし,仮に,本件海底地震計が北大の所有であったとしても,被告人には,海底地震計を何処に,どのように保管するかについて,決定する権限があった。

なぜなら,被告人は,本件当時,地震火山研究観測センター文部教官教授として,分任物品管理官である理学部事務長から,物品供用事務を委任されていたからである(甲17資料1,久保田6〜9頁)。物品供用事務を委任された者は,「国の所有する物品を有効に適切に使っていく,管理をする」役割を担うが(久保田6頁),本件海底地震計は海底に設置されてデータを採取するための機材であるから,データ採取のために最も適切な場所に保管することが最もその目的にかなう。そして,平成10年前後において,ベルゲン大学との共同観測を始めとするヨーロッパにおける観測は,北大において重要な研究対象の一つであったから,これらの観測に便利な場所で海底地震計を保管することには十分な合理性が認められる(村井25,74頁)。

そして,被告人は,本件以前にも,海底地震計の一部の部品等をベルゲン大学に置いてきたことがあった(第3回ミエルデ62頁,第7回被告人79〜81頁)。

したがって,一定数の海底地震計をベルゲン大学において保管することを主たる内容とする本件契約を締結することは,物品供用事務を委任されていた被告人の権限内に属する行為である。

 3 結論

以上のとおり,本件契約の実態に鑑みれば,本件契約は売買ではありえず,被告人に詐欺罪は成立しない。


 第2 ミエルデ教授が本件契約を売買であると誤認していた場合の詐欺罪の不成立

1 被告人の主張の骨子

  これまで述べてきたように,弁護人は,ミエルデ教授が本件契約の本質を十分に理解しており,ミエルデ教授が錯誤に陥ったことはないと信じている。

  しかし,本件契約は表面的には売買の形を取っているから,ミエルデ教授が本件契約が売買であると誤認していた可能性を完全には否定できないが,そのような場合でも,被告人には詐欺罪は成立しない。

2 本件を詐欺罪として公訴提起することの社会的相当性

  弁護人は,被告人が逮捕された時点から,本件を詐欺罪として立件することについて,強い違和感を覚えており,その違和感は審理を終えようとしている現時点でも消えることはない。
  そこで,この点をまず指摘しておきたい。

 (1)被告人が起訴されるに至る経緯

本件は,平成17年(2005年)4月13日,北大が札幌地方検察庁特別刑事部に対して行った刑事告訴(弁9)を端緒として捜査が開始された。これは,被告人を被告訴人とする業務上横領罪の告訴事件である(弁9)。

上記告訴を受理した同庁では,当初は業務上横領罪の容疑で捜査を行っていたが(乙2,3),平成18年(2006年)2月1日,被告人を詐欺罪の容疑で逮捕し,同月21日,同罪で公判請求を行った。これが,本法廷で審理されている刑事事件である。

 (2)被告人と北大の民事訴訟

他方,北大は,被告人を被告として,平成17年(2005年)8月12日,札幌地方裁判所に対して損害賠償請求訴訟を提起した(事件番号平成18年(ワ)第1488号)(以下,「民事訴訟」)(弁9)。
民事訴訟の訴訟物は不法行為による損害賠償請求であり,具体的には,被告人が無権限でベルゲン大学に対して海底地震計5式分の部品を売却し,その代金を領得したということにある。刑法の罪名で言えば,告訴事件と同じく,業務上横領に該当する不法行為である。

(3)刑事訴訟と民事訴訟の不一致

しかし,このような刑事訴訟と民事訴訟における審理対象の不一致という現象は,一般社会通念からして,非常に奇異なものと言わざるを得ない。

なぜなら,刑事訴訟においても,民事訴訟においても,被告人の海底地震計(なお,民事訴訟では海底地震計の構成部品を不法行為の対象動産としているが,実質的には同一の趣旨である。)売却行為を問題としながら,刑事訴訟ではベルゲン大学のミエルデ教授を被害者とし,民事訴訟では北大を被害者としているからである。

(4)ミエルデ教授を被害者とすることの不合理性

しかも,ミエルデ教授を被害者とするのは,実態に即せず,あまりに技巧的な主張である。

ア ミエルデ教授らの被害認識の不存在

そもそも,詐欺事件においては,被害者の被害届が作成されるのが通常である。しかし,本件においては,ミエルデ教授の被害届は作成されていない(第2回ミエルデ53頁)。

そして,その理由は,被害者とされるミエルデ教授自身が,被害にあった認識を持っていないことにある。これは,検察官側の証人として本公判廷に出廷したミエルデ教授が,2日間に渡る長時間の尋問を受けた後に,「私自身がだまされたということではないと思います」(第3回ミエルデ46頁)と明言していることからも明らかである。

また,本件における金員の支払はミエルデ教授の所属するベルゲン大学が行っているが,同大学も,ミエルデ教授の上司である地球科学研究所所長オラフ・エルドホルム教授が,被告人の逮捕を受けた地元新聞の取材に応じて「我々が詐欺に遭ったと考えてはいない。」旨のコメントを発表している(弁7,第3回ミエルデ1頁)。

以上の事実からも明らかなとおり,本件においては,ミエルデ教授個人はもとより,金員の支払を行ったベルゲン大学も,被害の認識がないのである。

その結果,本件は,被害者とされる者が被害に遭った認識がなく,被害申告をしていないにもかかわらず,公訴提起がなされていることになるのである。

イ 主張・立証の歪み

また,ミエルデ教授を被害者とする詐欺罪の主張は,その主張・立証の構造に看過し得ない重大な歪みが認められる。

(ア)起訴状記載の公訴事実

起訴状記載の公訴事実では,被告人が「真実は前記海底地震計等を売却する意思も権限もないのに,それあるかのように装い」「売却する旨を申し向け」「金員の支払を請求し」「同人をしてその旨誤信させ」「入金させ,もって欺いて財物を交付させた」とされている。

つまり,簡単にいえば,海底地震計を売るつもりも売る権限もないのに,嘘を言って売ると言い,売ってもらえると誤解したミエルデ教授から代金を騙し取った,という構造になっている。
この場合,被告人は海底地震計を売らず,その結果騙されたミエルデ教授は海底地震計を取得できなかった,ということが前提になるのが普通である。
   (イ)公判廷における主張・立証

しかし,検察官は,冒頭陳述で海底地震計をベルゲン大学に売却した旨主張し,その主張に沿う立証活動を行っている。

      このように,本件では,被告人が海底地震計を売ったことを前提としつつ(この場合,売る意思があることが当然の前提である。),売る意思がないのに売るといって騙したとして立件しており,その主張は根本的に矛盾していると言わざるを得ない。

   (ウ)小括
したがって,単に刑事訴訟と民事訴訟で主張の構造が異なるというに留まらず,ミエルデ教授を被害者として,被告人が詐欺を行ったという主張自体,市民感覚から大きく離れた極めて技巧的な主張と言うべきである。

      現在進行中の司法改革は,平成21年度に実施される裁判員制度を中核としている。そして,裁判員制度は,これまで法曹のみが関与していた刑事裁判に一般市民を参加させ,一般市民の感覚を事実認定や量刑に反映させようとする制度である。このような制度ができた背景事情には,刑事裁判の事実認定等に一般市民感覚から乖離したものが少なくないという反省も込められている。

      弁護人としては,ミエルデ教授を被害者とする公訴提起を行うこと自体,社会的相当性を欠くと指摘しておきたい。

 (5)北大との民事事件の解決
ア 訴訟上の和解の成立

被告人は,民事訴訟において,平成18年10月25日,北大との間で1850万円の和解金を支払うことで訴訟上の和解が成立し(弁10),11月1日に同額を支払っており(弁11),北大との間の紛争は解決している。

   イ 被告人が訴訟上の和解に応じた理由
   (ア)本件契約の対価の趣旨

      ベルゲン大学から送金された金員は,被告人をリーダーとする研究グループの研究資金(より具体的に言えば,将来にわたる海底地震計の性能維持・改良開発のための研究資金)であり,これまで長年にわたりベルゲン大学から提供されてきた研究資金と同様の性質を持つものである。

これらについては,被告人の執筆活動や幅広い研究活動と同様,北大教授という地位に付随して得られるものではなく,ベルゲン大学と共同観測を行っている研究者グループの長として提供を受けたものである(ベルゲン大学は,被告人が北大教授だから資金提供をしてきたのではなく,被告人が共同観測を行っているからこそ,資金提供をしてきたことは明白である。)。

      そのため,被告人には本件対価を北大に納入すべき義務はない。

(イ) 被告人の落ち度

本件以外にベルゲン大学から提供された資金も含め,その額が多額に及ぶことから,これらの金員を委任経理金として処理をした方が,後の紛争を予防しつつ,自らの身を守るという点では,優れた方法であったということはできる。

そして,被告人もその方法を探ったことはあるが,経理担当者から適切な回答を得られなかったこともあり,これを断念している。

しかし,そのような場合においても,被告人としては,提供された資金を自らの個人資産とは区別して管理をし,後難を避けるべき道義上の義務があった。これを怠り,個人資産をも管理する銀行預金口座で,個人資産と混同して管理をしてしまったという点において,被告人にも落ち度は認められる。

   (ウ)和解の趣旨

      そして,このような落ち度が災いして,被告人は北大の告訴を受け,国立極地研究所所長の地位を辞することになったばかりか,刑事被告人として裁かれることになり,北大退官後も継続しようとしていた海底地震計開発の研究に従事することが事実上極めて困難となった。

      このような状況下において,被告人は,受領した金員の一部を北大に返還することで,これら金員の本来の趣旨である研究費として活用される道が開かれると考え,和解に応ずることとしたのである(第8回被告人60〜61頁)。

      なお,和解の金額は,民事事件の受訴裁判所の和解勧告に従って定められている。

2 ミエルデ教授の供述を前提とした場合での詐欺罪の不成立
 (1)はじめに

    我々は,本件を詐欺罪として構成することに対する一般市民感覚からの異議を述べた。しかし,この感覚は,単なる常識論に留まらず,現在の法解釈の中でも十分に反映されてしかるべきである。

前述したとおり,本件の実態を正確に観察すれば,法的に見て,被告人の行為が海底地震計の売買でないことは明らかである。しかし,仮に,ミエルデ教授が本公判廷で供述したことを額面どおり受け取っていて,ミエルデ教授が,被告人から海底地震計の売却を受けたと認識していたとしても,かかる法解釈を前提とすれば,その行為が詐欺罪の構成要件に該当しないと解するのが相当である。

 (2)詐欺罪の構成要件要素の問題
ア 「財産的損害」の要件
   (ア)これまでの判例・通説

詐欺罪の構成要件要素として財産上の損害が必要であるか否かについては,学説上争いがある。

そして,通説的な見解は,詐欺罪が財産犯であることから,これを肯定的に解するものの,財物等の喪失自体を損害と捉えていた。その結果,この見解は,実質的には財産上の損害を不要とするのと同じ立場と変わりがなかった。

判例も,長きにわたって同様の立場を取ってきたと言われている。

   (イ)近時の学説と最高裁判例

しかし,近時は,詐欺罪の財産犯的性格を重視して,実質的な財産的損害を要件とすべきという見解が有力となっている(前田雅英『刑法各論講義第三版』241頁,西田典之『刑法各論第三版』182頁等)。

      そして,最高裁も,請負人が受領権限のある請負代金について,欺罔手段を用いて不当に当該請負代金を早期に受領したとして詐欺罪に問われた事案において,直ちに詐欺罪の成立を認めず,「欺罔手段を用いなかった場合に得られたであろう請負代金の支払とは社会通念上別個の支払に当たるといい得る程度の期間支払時期を早めたものであることを要すると解するのが相当である。」として,審理を原審に差し戻した(最高裁平成13年7月19日判決:刑集55巻5号371頁)。

      この判決は,損害を形式的に捉えると,たとえ1日支払時期を早めただけでも弁済を受けた全額について1項詐欺が成立することになりいかにも妥当でない結論となるため,「社会通念上別個の支払に当たるといいうる程度の期間支払時期を早めたものであるか」という基準を導入することにより,形式的な損害の理解により詐欺罪の成立範囲が広がることに歯止めをかけ,結論の妥当性を確保しようとしたものと理解されている(金融・商事判例1128号14頁)。

      このように,学説ばかりでなく判例も,財産状の損害の有無に関しては,実質的な判断を重視する方向に変化している。

イ 錯誤(=法益関係的錯誤)の要件

他方,近時の有力な学説には,財産上の損害が法文上の要件ではないことから,物・利益の移転・喪失自体に実質的な法益侵害性を肯定しうるかという観点から詐欺罪の成否を検討する考え方が存在する。

この考え方によれば,被欺罔者=交付行為者に「法益関係的錯誤」がある場合に錯誤が認められ,それ基づく交付行為による物・利益の移転について法益侵害性が肯定される。そして,被欺罔者=交付行為者が認識したような「財産交換」が実現したか,財産の交付により達成しようとした「目的」が達成されたかが問題であり,これが否定される場合に法益関係的錯誤が認められる,とする(山口厚『刑法各論増補版』263〜265頁)。

ウ 価格相当の商品の提供と詐欺罪の成否
(ア)問題の所在

このような考え方の相違が端的に結論の相違として表れる一例として,価格相当の商品の提供がなされた場合の詐欺罪の成否という問題がある。

本件も,ミエルデ教授の認識によれば,被告人に対して,海底地震計の製造に必要な価格を代金として支払い,その交付を受けているから,同様の問題が生ずるのである。

(イ)旧来の判例の考え方とその問題点

旧来の判例は,「価格相当の商品の提供をしたとしても,事実を告知するときは相手方が金員を交付しないような場合において,ことさら商品の効能などにつき真実に反する誇大な事実を告知して相手方を誤信させ,金員の交付を受けた場合は,詐欺罪が成立する」とする(最高裁昭和34年9月28日決定:刑集13巻11号2993頁)。

     しかし,事実を正しく認識していれば財物を交付しなかったであろう場合すべてにおいて財産上の損害を肯定するとすれば,詐欺罪の成立範囲は無限に拡大することになる。なぜなら,例えば,暴力団員が「暴力団お断り」の掲示のある飲食店にその身分を隠して入り,飲食をした場合や,未成年者に販売の禁じられている書物を未成年者が年齢を偽って購入した場合にも詐欺罪が成立することになり,いかにも不当な結論を導くことになってしまうからである。

  (ウ)近時の考え方

この点,財産上の損害を実質的に捉える見解では,財産上の損害の有無の判断基準について,「被害者が獲得しようとして失敗したものが,経済的に評価して損害といいうるものかどうかということにより決定すべきである。」(西田前掲183頁)としている。

     また,詐欺罪の成立要件である錯誤を「法益関係的錯誤」でなければならないとする見解においても,錯誤の成否の判断基準を,「取引において,被欺罔者が獲得しようとしたものが獲得されたかが問題である。」(山口前掲265頁)としている。

     これら両者の見解は,いずれも実質的には同じであり,取引においては,被欺罔者の取得しようとしたものが取得できているのか,取得できなかった場合,それを損害として経済的に評価できるのか,という点で実質的に判断しようというのである。

これらの見解は,無限に拡大しうる犯罪成立の範囲を,真に被害者を保護すべきものに限定しようとする点で極めて妥当であり,社会通念にもかなうものである。

  (エ)本件の場合

     本件においては,ミエルデ教授は,小規模の観測を柔軟に行うという観点から,被告人から海底地震計を購入しようとしたと供述している(但し,前述したとおり,その購入の実態が売買による所有権移転と言えるか否かは別論である。)。

そして,ミエルデ教授は,被告人が本件海底地震計を売買する権限の有無によって問題を感じたことはなく(第3回ミエルデ35頁),本件売買の前後を通じて継続して被告人らとの共同観測を行って,各種実績を上げており(第2回ミエルデ55〜56頁),本件が問題視された後も北大から返還を求められたことはないし,共同観測の継続にも支障はなかった旨供述している(第3回ミエルデ29頁)。また,当初の目的であったこれらの海底地震計を用いた小規模の観測も実現している(同31頁)。

したがって,ミエルデ教授の認識では,財産の交付により達成しようとした目的,すなわち海底地震計の取得及び取得した海底地震計の使用による小規模観測は実現されている。

     前述したように,ミエルデ教授が欺罔された認識はないことを本公判廷で明言し,エルドホルム所長がその旨のコメントを地元紙に行っているのも,かかる実態に即した発言である。
 
 (オ)小括

     以上のとおり,本件の場合,財産上の損害または法益関係的錯誤は存在しない。

 3 結論

よって,仮にミエルデ教授が本件契約において,海底地震計の売買を行ったとの認識を持っていることを前提としても,被告人に詐欺罪は成立しない。


 第3 本件海底地震計の所有権の帰属

 1 はじめに

   以上詳細に論じてきたとおり,本件の被告人とミエルデ教授との合意は売買ではないし,仮に,ミエルデ教授の認識が売買であったとしても,そのことによって被告人に詐欺罪は成立しない。そのため,本件海底地震計の所有権の帰属は,第一義的には問題とならない。

   しかし,検察官は,本件海底地震計が当然に北大の所有であるかのような主張をするので,以下反論しておくこととする。

 2 加工(民法246条1項但書)による所有権取得
(1) 民法246条1項但書の規定

   民法246条1項は,他人の動産に加工を加えた場合の所有権の帰属に関する規定である。本文においては,原則として,材料所有者に加工物の所有権が帰属するが,加工物の価格が材料の価格を大幅に上回る場合には,加工者にその所有権が帰属するとされている。

   したがって,仮に,本件海底地震計の各部品がすべて北大の購入した部品であったとしても,第一に,被告人がこれを海底地震計に加工したということができ,第二に,海底地震計の価格が各部品の価格を大幅に超えていれば,民法246条1項但書の規定によって被告人の所有に帰属することになる。

(2) 被告人による加工
ア 本件における加工の程度

本件において,各部品を海底地震計に組み立てるのは,プラモデルのように,他人の書いた設計図に合わせて,与えられた部品を機械的に組み立てることとは全く異なる。

本件海底地震計は,被告人が長年の研究成果としてゼロから開発したものである。そして,激しい水圧の影響を受ける海底において正確なデータを記録しつつ,データ採取後には確実に回収できる機能を持たせるために,全体をどのような構造にするか,どのような部品を必要とするか等,そのすべてにわたり,被告人の研究成果が余すとことなく注ぎ込まれている。

その結果,海底地震計を構成する部品は,一部を除いて大半が特注品である。特に,海底地震計の心臓部であるレコーダー,地震計センサー,トランスポンダーは,いずれも被告人らのアイデアと実験を通して得られた経験に基づいて,各メーカーにおいて一から製造されたものである。

したがって,被告人の加工は,単に部品の組立段階に留まることなく,部品の設計から組み合わせ,及び最終的な調整に至るまで,すべてに及ぶということができる。

   イ 検察官の主張に対する反論

     この点,検察官は,部品が市販されている製品であり,これを用いて被告人以外の者でも本件海底地震計を組み立てることができるのであるから,被告人が加工したものとはいえない旨主張する。

     しかし,これは全く的外れな批判である。

     そもそも,本件海底地震計の構成部品の大半は,前述のように特注品であり,汎用性はない(村重12頁)。メーカーが販売しているのは,単に,一定数の製造を担っていることに対する対価の請求に過ぎない。

また,被告人以外の者,例えば,北大の村井・西村の両助手が本件海底地震計を単独で組み立てられるのは事実である。しかし,それは,被告人が被告人単独でなくとも海底地震計の組立が可能なように,その知識とノウハウを伝授したからであり(第8回被告人3〜6頁),その後も被告人の補助者として,組立を実行しているに過ぎない。

     したがって,被告人以外の者が本件海底地震計を組み立てることができたからといって,被告人による加工が否定されるものではない。

 (3)加工物である海底地震計の価格

被告人の開発した海底地震計と全く同一の海底地震計は市販されておらず,その客観的価値をはかることは困難である。

しかし,民事事件において北大が主張していたような類似タイプの海底地震計の価格(1台400万円程度)は,そもそも東京大学の研究室が開発したものを製品化したに過ぎず,製造・販売した企業が開発費を全く負担していないという点で,安きに失して不当である(第8回被告人41〜42頁)。また,平成13年ころの海上保安庁による大量発注等によって値崩れが生じたという事情もある(同42〜44頁)。

そして,平成3年当時,大学の研究室にその開発のバックアップを受けていなかった日本電気海洋エンジニアリング株式会社が,被告人に対して,海底地震計の本体価額が1台1510万円であるとする書面(弁8,第8回被告人37〜39頁)を提出していたのは,製品化に至るまでの研究開発費を考慮すると,極めて自然である。

とすると,被告人の開発した海底地震計の価格は,その部品の総額をはるかに凌駕する価格であるというべきである。

 (4)小括

    したがって,本件海底地震計の価格は,部品の価格を大幅に上回るから,民法246条1項但書により,被告人がその所有権を取得する。

 3 加工(民法246条2項)による所有権取得
(1) 被告人所有の部品の存在

   ア 被告人が個人所有の部品を取得・保管していた事実

前述のごとく,海底地震計を構成する部品は,大半が被告人の設計による特注品である。

     そのため,これらの部品開発の途上においては,被告人が自ら購入した部品で見本品を製造したり,メーカーが製造して無償で供与された見本品等が多数存在する(第7回被告人46〜56頁)。

     そして,このように大学教授に贈与された物品は,たとえ大学に保管されていたとしても,大学ではその状況の把握をしていない可能性が多分にある。北大の財務部に勤務する久保田証人も,無償取得物に関する手続の一般的ルールを説明することはできたが,その運用実態を把握しているとは言いがたい(久保田36〜38頁)。

     そのため,北大に管理されていた海底地震計の部品の一部には,被告人が個人で所有しているものも多数混在していたのである。

   イ 各メーカー役員・従業員の供述内容

     検察官は,本件公判において,株式会社システムブレイン(以下,「システムブレイン」)の村重徹行氏,株式会社勝島製作所(以下,「勝島製作所」)の半戸正方氏,海洋電子株式会社(以下,「海洋電子」)の村上千恵子氏をそれぞれ証人申請し,各証人から,それぞれの会社において,被告人に対して,各社で製造している各部品の無償供与がなかった事実の供述を得ている。

     しかし,そもそも,被告人が部品の開発を依頼したり,実際に購入していたのはこれらの会社に限らないし(乙8),見本品等は開発の過程で,開発担当者との間でやり取りをしていたものである。

ところが,半戸氏と村上氏は,いずれもそれぞれの会社の経理担当者であり,開発の途上で開発担当者と被告人との間でどのようなやり取りがあったのかはまったく知らない(半戸3〜4頁,村上4〜5頁)。また,村重氏も営業担当者に過ぎず,部品開発は下請企業である原田電子工業の原田氏が行っていたのであるから,その詳細なやり取りを知る由もない(村重6頁)。

したがって,これらの証人の供述内容は,被告人供述の信用性に何らの影響を与えない。

   ウ 検察官の主張とその立証の程度

     検察官は,村井助手が作成した管理台帳を前提として,すべての部品を北大がその校費等で購入したものである旨主張する。

     しかし,海底地震計の開発は相当長期間にわたって行われてきたが,村井助手が北大の助手として着任したのは平成9年12月のことである(村井1頁)。そして,被告人は,同年以降にすべての部品を購入・取得したものではないところ,村井助手も認めるとおり,着任以前の分については,業者の提出した納入実績から台帳を作成しているに過ぎず(同33頁),その購入費用についても厳密な調査は行っていない(同34〜35頁)。

したがって,村井助手の管理台帳に記載された平成10年(1998年)以前の部分については正確性に欠けており,結局,部品の取得経過については十分な立証がなされていない。

(2) 小括

以上から,被告人は海底地震計の部品を所有しており,その部品が提供されて本件海底地震計を構成している可能性を否定しきれないから,民法246条2項に基づき,被告人が所有権を取得する可能性が認められる。


 第4 結語

   以上詳論してきたとおり,どのような観点から眺めても,被告人には詐欺罪は成立しないから,被告人は無罪である。

   裁判所におかれては,事実を外形的にのみ捉えるのではなく,その実態をつぶさに検討され,適切な事実認定をしていただきたいと切望する。

以上

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