島村英紀『私はなぜ逮捕され そこで何を見たか』(講談社文庫)から
獄中での「読書記・書評・著者への思い」



「官本」

 私が逮捕されて収容された日は、独房に入ったのは夜八時すぎになっていた。冷えてしまったサンマの塩焼きの夕食とともに、文庫本が、内橋克人と林真理子の二冊、見繕いであてがわれた。「官本」である。

 拘置所や刑務所には官本というものがある。お上が持っていて、収容者に貸し与える本のことである。

 独房の数少ない楽しみは、食事のほか、読書である。テレビはなく、ラジオも決まった時間だけ、しかもお仕着せの放送だけの独房生活では、拘置所が貸してくれる本は、もっとも大事な娯楽であった。

 予算が少なくて・・というのが、なにかにつけて拘置所の看守たちの口癖になっているくらいだから、蔵書の数も種類も知れている。予算の不足は、あちこちに及ぶ。私の部屋の化繊の毛布には一〇年前の備品票が貼ってあった。

 これも予算の制約だろうが、独房に監視カメラはないようだった。拘置所としては役目上、収容者がなにをしているかに神経をとがらせているわけだから、監視カメラがあっても不思議ではない。

 だが独房には、いかにも監視カメラ風のものはなかった。近頃のカメラは、それらしき外観をしていないことが多い。銀行や郵便局のATM(現金自動払出機)は取り付けてある小さな鏡の裏にカメラが潜ませてあるし、天井に小さな穴でもあれば、直径の小さなカメラのレンズは隠せる。

 しかし、独房に鏡はないし、天井や壁にも、小さな穴さえない。小さな穴といえば、部屋に付いているスピーカーの前には、多くの穴が開いている。しかし、これは中を覗きこんでも、スピーカーのコーン紙しか見えないし、野球の実況放送がうるさいときには、前に紙を垂らして遮音を図っていたのだが、紙で穴を塞いだことを注意されたこともなかった。

 天井のプラスチックカバー付きの蛍光灯にも不審なところはない。部屋の電球が切れて取り替えて貰ったときにも、内部はチョークコイルなど、ごく普通のものばかりだった。また、少なくとも廊下の看守の詰め所にも、モニター画面は一つもない。

 廊下や運動場も同じだった。やはり監視カメラはないようだ。これは、たぶん間違いなく、予算の制約なのであろう。

 ところで官本は、図書室のようなところに行って選べるわけではない。リンゴ箱のような横長の箱を三段に載せた手押し台車を労役受刑者が押して、各独房の前を回る。本の数は一〇〇冊ほどだが、独房ごとに減っていってしまうから、私のところに来るのは、平均で四、五十冊といったところだ。

 廊下の片側に沿って奥の独房まで行き、反対側に沿って帰る。食事の配膳と同じように一回ごとに逆回りになるのは、不公平をなくすためだ。

 本は二分間以内に選ばなければならない。小さな食器孔の扉から、カバーもなくなった裸の本、それも汚れている本の背を読んで、瞬時にどれを借りるか決断するのは、かなりの経験が必要である。

 借りられる官本の数は、独房にある「生活のしおり」では三冊ずつ貸すと書いてあるが、実際には二冊だった。予算がないので本が少なくて、と担当看守は言い訳をしている。

 官本は週に二回、交換がある。つまり週に四冊借りられる。交換のときに本を返さなければ、選べる本は、その分だけ減る。

 慌ただしい選択で、読むに耐えない本を間違って借りてしまったり、そもそも、何回も同じ本を回しているので、読みたい本が少なくなっていることもある。ほかに娯楽がないし、週に四冊では少なくて、つらい。わざとゆっくり、休み休み読むが、それでも読み終えてしまって、禁断症状が出る。

 官本には文庫本が多い。安いせいだろう。また、単行本も含めて、ほとんどは古い本だ。四、五十年前の本も珍しくない。
 本の種類としては大衆娯楽小説やハウツーもののような俗っぽい本がほとんどだ。

 かつて話題になった『脳内革命』など、今となっては読むに値しない昔のベストセラーも多い。予算は限られているだろうが、誰が、どうやって官本を選んで購入しているのだろう。

 ごくわずか、「東京出版共同組合」の読書週間「読書のめぐみ運動」協賛図書として発行元から寄贈された、とスタンプがある本があった。どのくらいの規模でやっているのかは知らないが、これはありがたい運動だ。

 拘置所や刑務所には、外から一般人が本を寄贈する受付はないのだろうか。私の知人の教授が定年になったときに、家には三〇冊しか置いてはいけない、と夫人に言われ、大学図書館には迷惑がられ、公共図書館には寄贈を断られ、教授室いっぱいになっていた本を泣く泣くゴミとして処分したことがある。そんな本でも受け入れてもらえれば、ありがたい。

 四月二九日。土曜。いよいよゴールデンウィークに入った。拘置者にとって連休はむしろ苦痛だ。風呂も運動もなく、独房から出る機会がなくなってしまうからである。

 連休には官本の入れ替えもない。当番の看守はいつもの担当看守ではないから、看守との会話も少ない。

 休日だといつもより長時間のラジオは、音量も自分では変えられず、スイッチも切れないので、ときには苦痛である。「雲が動くのは地球が自転しているからですね」と言う程度の民放パーソナリティや、北海道だけの民放だろうが、松山千春の押しつけがましい説教もうるさい。

 ついに、官本を読み終えたあと、本の最後の頁に付いている広告まで丁寧に読む。拘置所でなければ、まず、読まないものだ。

 以前、助手や大学院生を連れて南米に長いフィールドワークに行ったときに、観測器材を包んでいた日本の古新聞を助手や大学院生が読みふけっていたことを思い出す。

 連休の退屈さを紛らせるために、拘置所が気を遣ってくれなかったわけではない。じつは連休が始まってからの五月二日になってから、官本として連休特別配本が二冊プラスされた。

 あるいは、ある程度の手当をしないと事故が多いという統計でもあったのだろうか。

 しかし、この「ボーナス」は、さんざん選んだ、総入れ替え前の残り本から選ぶものだった。ないよりはマシというべきだろうが。

 官本は敷地続きの札幌刑務所や、拘置所のほかの階とともに、ぐるぐる回している。二、三ヶ月に一度だけ、総入れ替えがあり、その階で回っていた本の全部を、ほかの本に入れ替える。

 それまでは同じ本が回っているわけだから、総入れ替えが、なんとも待ち遠しい。

 総入れ替えは二月一七日と四月二八日の二回だった。私の場合はほぼ限度いっぱいに借りていたから、二月の入れ替えまでに八冊、四月の入れ替えまでに四二冊、それ以後に四八冊、合計九八冊を借りて読んだことになる。

 七月の下旬に予告されていた三回目の総入れ替えまでが、私にとってはなんとも長かった。早くも五月末には、何度も同じ本が回ってきて、ろくな本がなくなっていた。選ぶのに苦労する。だが、なにもないのは寂しいので、嫌々ながら、ふだんは、まず、読まない本を選ぶ。

 ところで、私は予想を立てていた。拘置所や刑務所が、収容者に「悪」影響のありそうな犯罪ものや殺人ものの本はないだろう、という予想であった。

 しかし、この予想は裏切られた。大藪春彦も、殺人を扱った推理小説も置いてあったのである。

 私は、研究のために民間のサルベージ船を借りて海底地震観測をすることが多かったが、そのときには、やたらに大藪春彦が多かった。船乗りたちの愛読書なのである。この大藪春彦に、まさか拘置所で再会しようとは思わなかった。

 官本の黒川博行『疫病神』(新潮ミステリー倶楽部、一九九七年)も読んだ。産業廃棄物処理場をめぐる財・政・必要悪としてのヤクザがらみの腐敗を描くハードボイルド・フィクションだ。ヤクザでない正義漢の主人公という設定がいい。息もつかせぬ迫力があり、筋も組み立てもうまい。刑務所にこんな本もあるとは想像もしなかった。

 だが、著者は京都芸大とその後、いったい何を学んだのだろうか。サントリー、推理作家協会賞を受賞した、ヤクザ業界にも詳しそうな作家だ。

 しかし、色ものや旅行ものや料理の本など、収容者の「妄想」を誘いそうな本はない。
 一方、骨っぽい本は、まずない。

 読んでよかったと思えたのは、わずかに佐野真一『遠い「山びこ」-----無着成恭と教え子たちの四〇年』(文藝春秋社、一九九二年)や稲木哲郎『裁判官の論理を問う---- 社会科学者の視点から』(朝日文庫、一九九二年。『裁判官の犯罪』晩声社、一九八三年刊を改定して文庫化したもの)、大岡昇平『野火』(新潮文庫、一九五四年。第二次大戦の終戦直前、フィリピンの山中での日本兵の凄惨な敗走)、共同通信社社会部『東京地検特捜部』(講談社プラスアルファ文庫、一九九八年)といった本であった。

 もっとも最後の本は、造船疑獄、ロッキード事件などを回顧していたものの、巨悪と闘う一面と、国の秩序を守らなければならない公務員としてのジレンマ、指揮権発動などを、もっと掘り下げてほしかった。あるいは、検察庁の「宣伝」のために置いてあった本かもしれない。

 しかし、ふだんはまず手に取らない、古い本を読まざるを得なかったための思わざる収穫もあった。

 たとえば渡辺淳一『廃礦にて』(角川文庫。一九七六年発行だったから、単行本はもっと前のはずだ)は拾いものだった。いい意味で予想を裏切られた。渡辺のごく初期の作品で、新米医師としての経験を生かしながら、天性のストーリーテラーのうまさが発揮されていたのである。

 直木賞第一作の作品『三十年目の帰還』(中国での軍隊体験の身と心の傷を描いた)も同じ良さを持っていたのを覚えている。

 しかし他方、「持ち駒」の材料や場面構成を使い尽くしてしまって大衆に媚びて、男女のあいだの風俗だけを卑俗に描くように墜ちていかざるを得なかった、その後の渡辺の軌跡を、最初から暗示もしている。良い、優れた作家として一生を生きるのは、いかに難しいことかが分かる。

 渡辺淳一だけではない。曾野綾子や沢木耕太郎の初期の作品、たとえば曾野綾子『女神出奔』(中公文庫、一九七七年)や沢木耕太郎『地の漂流者たち』(文春文庫、一九七九年)が、なんと初々しかったのかも分かった。颯爽と登場した新しい才能が、その後、どんなにすり減って変容してしまったのか、時代という魔物にどのように毒されてしまったのかも分かる。

 ところで、刑務所からまわって来た古い本には、裏表紙の内側に、借りた受刑者の姓名と房名が列記されている。学校図書館で昔やっていたように、貸し出しのときに名前を書かせたのである。

 プライバシーもなにもなかった時代だ。少なくとも一九八九年二月までは、名前が明記されていた。誰が、どこに収容されていたかが明瞭に記録されてしまっているのである。さすがに近年は、借りた証拠は残らないようになっている。

 官本を取り替える日、毎週火曜と金曜の朝には朝食直後に官本の回収があり、労役受刑者が、廊下の端に置いた机で、集めた本の書き込みや頁の切り取りをチェックしている。チェックが終わったら、台車に乗せて、配るのである。

 拘置所の本には状態がよくない本が多い。カバーは破れたり、なくなったりしている。背や表紙も傷んでいる本が多い。ボールペンで挿絵に「塗り絵」をした本もある。よほど退屈したのだろうか。

 また書き込みがあったり、それを受刑者の作業で砂ゴムで削り取らせた跡があって、活字が消えかけているところもある。

 古い本が多くて黄ばんでいるのはともかく、当惑したのは、頁のあいだに、鼻毛らしき短い毛がよく張り付いていることだった。黒っぽいカスは、鼻くそに違いない。

 また、頁に汁物らしき染みも多い。
 とびとびに数頁、切り取られている本もある。

 読書週間「読書のめぐみ運動」協賛図書として寄贈された瀬戸内晴美『草宴』(講談社、一九七八年)も、一〇頁にわたって切り取られていた。

 出所後、原本と照らし合わせてみたら、いずれも、濡れ場の描写だった。

 見つかったら怒られる、あるいは懲罰になるかもしれない危険を冒してまで、頁を保存しておきたかったのだろうか。いじましい収容者の心理が察せられる。

「私本」

 私はずっと、接見禁止だった。新聞や雑誌は読めず、弁護士以外からの差し入れも受け取れない。自費で購入する食料品や日用品は買えるものの、「私本」を買うこともできない。私本とは、官本ではない、自分で買ったり差し入れてもらったりする本のことだ。

 三月半ばになって、私本を買えない、差し入れもできない接見禁止とはいえ、「弁護士からの差し入れ」の本はいいのでは、と弁護士を通じて拘置所に聞いてもらった。

 結果はOKだった。聞いてみるものだ。

 このため、弁護士から家族に連絡をしてもらって、拘置所にとって無難そうな本を差し入れてもらうことにした。最初の本は、ちくま文庫版『宮沢賢治全集』。

 もちろん、本は「検閲」される決まりになっている。まさか、脱獄の指南のような本は駄目だろうが、ほかにどんな規準があるのかは知りようもない。

 私の場合は、ちょっとしたトラブル以外は、どの本も、素直に受け取れた。

 私本の差し入れは一回に三冊限りだし、独房に入れられる冊数も制限されているから、なるべく頁数が多い、読みでのある本を選んだ。

 この私本は、家族がインターネットで買って札幌の弁護士事務所に送り届けてくれた。これでやっと、「本が足りない」悩みから、いくぶん、逃れられる。

 弁護士事務所には賢治全集の八冊が届いているが、私本の差し入れは一回には三冊限りだから、最初の三冊だけが届いた。

 私本には最後の頁に「私本等閲覧許可証」という紙がべったり貼られている。「処遇部門」が発行した許可証である。

 その中に「許可期間」というものがあり、六ヶ月・一週間・一ヶ月・一〇日間・その他、のなかから丸をつけるようになっている。不思議な順番だ。なぜか私のは、丸はついていなかった。

 どういう基準で丸をつけるのだろう。一週間と一〇日間はどう区別するのだろう。私本の中身は、もちろん検閲されているだろうから、許可されない本は別にして、許可された本でも、制限をつけるのだろうか。これらのことは独房備え付けの「生活のしおり」には書かれてはいない。

 三月末になって、弁護士が差し入れてくれた私本がさらに三冊届く。独房に入れられるのは三冊までなので、多すぎるものは「四階看守預かり」になる。

 一般に、独房に入れる制限を超えた衣料品、日用品、本は「領置(りょうち)」になる。つまり書類を書いて、拘置所に預かってもらう。

 しかし、私本の場合だけは、「四階看守預かり」という仕組みがあり、廊下にある看守詰め所の近くにある理髪室の中にある、扉付きのロッカーに預かってもらえるのである。

 これだと「領置」よりも早く出し入れできる。だが、土日には出し入れはできない。

 このロッカーには、日記を兼ねた私の二〇〇六年の手帳も預かってもらっていた。

 ただし、手帳を見られるのは昼間だけで、朝食後、看守に申し出て受け取り、就寝前に看守に返す。この手帳は予定表にもなっていて、いまや私が出席したり人に会うことができなくなってしまった予定が、無為に並んでいる。

 手帳は「検閲」されているかもしれないので、うっかりしたことは書けない。

 なお、手帳にはさんでいた、紙製の小型のものさしは駄目、という。プラスチックのものさしは購入できるというのに紙製のものは駄目だとは、あまりに細かい、ほとんど無意味の規則である。

 その後、この宮沢賢治全集を読み終わってしまい、次に『グリム童話集』、そして『太宰治全集』を家族に頼んだ。そして、それも終わりかけて『芥川龍之介全集』も頼むことになった。

 官本と同じで、本は、いくらゆっくり読んでも、わりに早く終わってしまうものだ。

 なるべくゆっくり読むために、二冊許可されたノートのひとつを私本についてのメモ専用にして、全集のそれぞれの作品について、「評点」や感想を書き入れることにした。

 私は教師生活が長かったから、評点をつけるのはお手のものだ。「1:私が受けた感銘」「2:表現力」「3:構成力」「4:文学としての評価」「5:寓話の度合い」、そしてそれぞれ1から5の評点をつけて、「1から4の評点の合計」「1から5の評点の合計」「作品の枚数(四〇〇字詰原稿用紙の枚数)」「私の感想」とともに表にした。

 たとえば宮沢賢治「いてふの実」に私がつけた評点は、それぞれ、5、5,5、5、2で合計は20と22になる。これはもっとも高いほうだ。感想には「母子愛。会話が生き生き」とある。

 しかし同じ賢治でも「クンねずみ」は、それぞれ1、1、1、1、2で、合計は4と6である。感想には「凡作。賢治はその後、改作を試みた」とある。

 太宰の場合には評点の最後に「ユーモア」の項目を足した。たとえば「ユーモア」の評点が高く、全体にも評点が高かったのが「畜犬談」で私の評点は4、5、5、5、4、5。

 「ユーモア」の評点はないが全体の評点が高かったものには「黄金風景」がある。私の評点は5、5、5、5、5、0であった。後者の感想には「のろまで太宰がいじめた女中の、その後の幸せ。賢治の「虔十の森」にも似る。「負けた」太宰の屈折」とある。

 独房では、涙もろくなる。太宰の「葉桜と魔笛」に泣き、官本の遠藤周作「おバカさん」に泣いた。前者は不治の病に伏せる妹思いの姉と父の短編、後者は日本に再臨した、まるでキリストのような絶対平和主義のフランス青年を描いた本だ。カトリック信者だった遠藤の面目躍如としていて、一見ユーモア小説だが、中身は深い。ちなみに「葉桜と魔笛」に私がつけた評点は5、5、4、5、5、0だった。

 全集を読むのは何十年ぶりだろう。こんなときしか読めない本を、まとめて読んでおくのも悪くはない。
 七月六日には、四階看守預かりの私本は、ついに二四冊になった。多すぎるので領置へ回せ、と労役受刑者が言いに来る。しかし、その後、ロッカーに並んでいる隣の本を空けてくれたという。

 いったん領置すると、本を入れ替えるのに決まった形式の書類を出さなければならないし、時間もかかる。

 それに、領置できるものの体積の限度もある。その限度は、衣類・寝具以外で「領置かご」一個まで、つまり一三二リットル以内と決められている。この限度を超えると、物品の購入も差し入れも駄目になってしまうのである。

 なお、トランクや大型バッグは別だ。だが、これはたまたま旅行中に逮捕されたなど、入所時だけのことだろう。

 しかし、領置ではなくて四階預かりだと、書類は不要で、口で言うだけなので、ありがたい。

 ところで、ちょっとしたトラブルとは、本のカバーが外されてしまうことであった。はじめはよかったのだが、ある時期から、カバーを外した本しか独房に来なくなった。

 担当看守に聞いてみたところ、これは拘置所の間違いで、書店(本の販売店)がつける本のカバーは「本の内容が分からなくなるので」取るという決まりなのを、本の受け入れ窓口の看守が、出版元がつけてきたカバー(いわゆる本のカバー)も、自動的に取ってしまったのであった。以後、カバーも差し入れられるようになった。

 本によっては、カバーにも、著者の略歴や、最近の岩波のジュニア新書のように、本文にはないカラー写真といった情報がある。ものごとは言ってみるものだ。

「訃報」

 そして、拘置所に入って、改めて気になったのは訃報だ。

 いままでは、新聞にせよ、テレビにせよ、また友人や知人からの通知にせよ、知人や有名人の訃報を「逃す」ことは心配していなかった。

 しかし、「最初の一〇分間ニュース」では、訃報が報じられることは、まず、ない。報じられたとしても、大物政治家や大物財界人など、私には関心がない訃報だ。知人や、私が関心があって、もっと活躍してほしいと願っている人たちが死んだのではないか、というのは、こんな立場になってみると、にわかに気になるのである。

 拘置所では、土日だけは「最初の一〇分間ニュース」ではないニュースが紛れ込むので、このような「重要ではない」ニュースも聞き取れる。また、北海道の民放では、NHKの全国ニュースには流れないニュースも流れる。

 アイヌの萱野茂さんが五月六日に死去していた、とのニュース。七九歳。以前、千歳空港でたまたまお会いしたときにも、短い会話のなかに温かい人柄が滲んでいた。

 五月一五日。民放ラジオのニュース。イラク派兵に強く反対していた小樽在住の箕輪登・元自民党衆議院議員(元防衛政務次官、郵政大臣)、前日に死去していた。八二歳。これもNHKの全国ニュースでは、政府の方針に反旗を翻したということで、順位が低くて無視されるニュースだろう。

 四月一五日。広井脩東大教授死去。五九歳。災害心理学。よく会議や講演で一緒になった。大腸ガンの手術後、痩せてしまっていたので心配していた。知り合いの記者たちをxxちゃん呼ばわりするなど「マスコミ好き」の度が過ぎたが、災害と社会の問題では、それなりの存在が光っていた。この分野では岡部慶三さんの後を広井さんが継いだわけだが、あとは誰が継げるのだろう。これも、たままた長時間のラジオの日だったので知った。

 五月二九日。米原万里さんが先週木曜に死去していた。卵巣ガン。五六歳。あれほどの才女が。しっかり芯が通っていて軽妙なエッセイ。確かな視点。ときに、あるいはしばしば、というべきか、品が悪いが卓抜なユーモア。惜しい。

 五月三〇日。映画監督の今村昌平死去。七九歳。たしか私の高校の先輩だ。

 六月一三日。岩城宏之死去。七三歳。指揮者。エッセイは米原万里さんのような「芯」がなく嫌みもあったが、ある種の知識人ではあった。


この「獄中での「読書記・書評・著者への思い」は2007年10月刊行の講談社文庫『私はなぜ逮捕され そこで何を見たか』の一部です。
この本の内容の一部から。ノンフィクション・獄中での「ラジオ」(気の弱いNHK関係者は読まないでください)
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