島村英紀の裁判通信・その17
(2007年1月5日)

ドキュメント札幌拘置所 独房生活171日
 島村英紀の札幌拘置所・獄中記

明けましておめでとうございます。

島村英紀本人はもとより、この「裁判通信」を出してきた私たちにとっても、長い長い2006年が終わりました。

私たちも正月休みの間に裁判記録を読み直してみて、どう考えても「詐欺罪」が成立するとは考えられなかったのですが、しかし島村が踏んでしまった「虎の尾」は意外と長くて、どこかの権力に繋がっていたのかもしれません。

この程度のミスで(振込先を個人口座にしたというミスですが、当時の北海道大学には大学として外国から研究費を受け取れる仕組みはなく、北大事務局の指示もあいまいでした。

しかもそれを横領したわけではなく研究費として使い、残してあったにもかかわらず)、北大が必死に事件とし、検察ががむしゃらに起訴した理由がわからないのです。

ある判事が「これは事件ではないよ」といったことを思い出します。

いよいよ1月12日に迫った判決の前に、前回「ドキュメント2月1日 逮捕・連行・護送」につづく島村手記第2弾を送ります。

札幌拘置所171日間の記録ですが、いかにも科学者・島村英紀らしい冷静な観察だと感心します。

無罪判決を信じながら、12日を待ちたいと思います。

<編集部>

手記・島村英紀
【独房は3畳】

 私の勾留は、2006年2月1日に始まって、7月21日に保釈されるまで続いたから、171日間、ということになる。

 私にとっては、拘置所に収容された、というのは、もちろん人生初めての経験だった。

 だから、当初は、私の身体や精神が、どうなることかと懸念した。

 逮捕当時、64歳という年齢でもあり、どちらか、あるいは両方がボロボロになってしまうのかしら、なるとしたら、どんな経過をたどってそうなるのだろう、そうなるのなら冷静に観察してやろうではないか、と、まるで他人をおもんぱかるように、考えていた。

 独房は、日本の刑務所の規準らしく、全体で3畳の長方形である。厚いコンクリートの壁に囲まれている。

 横幅は私が寝られないほど狭い。独房の他に、5人が収容される雑居房も拘置所の一部にはある。しかし私の場合は、接見禁止ということなので、自動的に独房になった。

 うち2畳半ほどは75 x 160センチと団地サイズよりもっと小さめの畳が3枚敷いてあり、残りは、防水塗料貼りで、洗面所と洋式の水洗トイレがある。トイレに扉はなく、1メートル四方くらいの、懲役受刑者が作業で作ったらしい木製の衝立で、廊下から目隠しされているだけだ。

 なお、洗面器には鏡はない。湯は出ない。また、下着を洗ったり、身体を拭くことは禁止されている。

 そもそも、部屋に鏡はひとつもない。眉間の皺が増えた、などと心配させることのないような親心、というわけではあるまい。割って、刃物代わりにしたら困るからであろうか。

 ふだんは畳んで畳の上に積み上げてある布団や毛布も、敷くと畳部分の3分の2ほどを占めてしまう。

 しかし、部屋が狭いのは狭いなりの利点もないわけではない。

 狭いがゆえに、なんにでも手が届く。タオルも、布巾も、茶を入れた薬缶をさらにプラスチックの風呂桶に入れた「茶道具」も、ゴミ籠も、みな、しごく簡単に、手が届いてしまうのである。


【自殺をもっとも怖れる拘置所当局】

 ところで、収容者に自殺されることを、拘置所ではもっとも恐れている。責任問題になるからだ。

 それゆえ、ネクタイはもちろん、ズボンのベルトも、部屋着の腰に入っているヒモも、独房には入れられない。

 部屋の壁に作りつけになっている幅55センチほど、二段の小さな木の棚も、側板の上端が斜めにそぎ落とされていて、首を吊ろうにも、そのヒモが滑って落ちてしまうような形になっている。

 また、棚の下部に作りつけでタオル掛けになっている、塩化ビニールの親指ほどの太さのパイプにも、鋸で半分まで切れ目が入れてあって、十分弱く作られている。

 一つだけ支給される衣紋掛けも、金属ではなくプラスチック製で、念の入ったことに、三角形の下の辺が切られていて、首を吊る道具には出来ないようになっている。

 自殺防止は、それだけではない。週に2日、一回15分だけ入れてくれる一人用の風呂も、透明なガラス扉越しに看守がいつも見ているし、シャワーホースさえ、首に巻き付けるのを恐れるのか、シャワーごと取り外してあるので、カランのネジ山が露出している。

 風呂の時にだけ貸してくれる安全剃刀も、使い終わったとたんに、看守が入ってきて取り上げていく、といった具合である。

 しかし、この独房でも、私にとっては、内外の観測船に乗ったときのキャビン(個室)に比べれば、マシであった。

 結構な広さがあるし、天井も高い。第一に、揺れないのがありがたい。エンジンの音に煩わされることもない。

 それに病気や怪我を負っても、外洋に浮かぶ船と違って、迅速に助けてくれそうだ。ものは考えようなのである。

 気象庁の職員には申し訳ないが、少なくとも朝飯は、気象庁の観測船で出る朝食よりはマシなものだった。

 結果的には、約半年間の勾留生活だったが、心身ともに、どうというほどのことはなかった。

 ときには看守との短い会話の中に「人間」を見たこともあった。

 また、単調な日常の中で、旗日(祝日)だけには支給される、雛祭りの日の桜餅とうぐいす餅や、彼岸の日のぼた餅のような菓子を、せめて楽しんだりしたりした経験も、それなりには人生の糧になったと思う。

 周恩来の娘は、中国の文化大革命で、監獄につながれて、青空を一度でも見ることを望みながら、ついに果たせずに、死んでいった。

 私の場合は少しマシだった。四方が高い壁で囲まれて、鉄格子の天井だけが開いている個人用の屋上の狭い運動場から、週に多くても3回、それも30分という限られた時間だけは、青空や流れる雲を見ることが出来たからである。


【接見禁止】

 私の場合には、接見禁止が最後まで続いた。

 接見禁止とは、家族にも友人にも会えず、差し入れの本や品物も受け取れず、どんな新聞も雑誌も読んではいけない、という処置である。

 私の独房の外には、赤い字で接見禁止という札が下げられている。

 このおかげで、いろいろな特別扱いを受けた。

 たとえば週3回、天気のいい日には四階の屋上の運動場に行けるのだが、そのときにも、前の拘置者や受刑者が廊下から姿を消してから、はじめて私が廊下へ出される、という具合だ。つまり、徹底的に、他の収容者とは会わせない、ということなのである。

 私の場合には、検察側が主張している容疑は否認せざるを得なかった。私としては覚えのない容疑だからである。

 検察側や裁判官から見れば、北海道大学の内外にいる(と彼らが懸念している)私の同情者や支援者と連絡を取られたら罪証隠滅になりかねない、ということで接見禁止になってい たのである。7回にも及んだ度重なる保釈申請がそのたびに却下されたのも、同じ理由だ。

 しかし、このような理由を付けられれば、私に限らず、いつまででも、保釈禁止や接見禁止が続くことになる。

 接見禁止になっていたために、友人や支援者、それに家族が、拘置所にいる私に会いに来ることは出来なかった。差し入れも禁止されていた。手紙も受け取れず、私から手紙を出すことも出来ない。

 弁護士とだけは、接見が出来た。

 弁護士が拘置所まで訪ねてきてくれたときは、拘置所の一階に並んでいる狭い面会室のひとつで、ガラス越しの面会が出来る。

 机の高さから15センチほど、細かい穴の開いた金属板があり、その上が天井までガラスになっている。金属板は二重になっていて、鉛筆や楊枝のようなものでさえ、受け渡しができない仕組みだ。

 ガラス越しだから、手紙や文書の受け渡しは出来ず、弁護士とやりとりする資料は、面会とは別に、拘置所経由でしなければならない。

 そして、もちろん、この資料は、拘置所がすべて読んで、同じ法務省の所管の官庁だから、必要ならば、裁判所(や検察庁)にも連絡したり、コピーを取って渡したりすることがあるのである。

 逆に、容疑を認めてしまえば、接見禁止は解けることになる。

 そのときは、友人や家族と面会することは出来るし、差し入れも、受け入れ時に検査はあるものの、受け取ることも出来る。手紙も、一日二通という制約はあるものの、出せる。

 しかし、この面会は、たとえ東京から来てくれた人でも一回10分に限られ、しかも、看守が立ち会って、一部始終を聞き取っているという面会である。内容によっては打ち切られることもある。規則では30分と言うことになっているが、職員や面会室の数を理由に10分に制限されている。

 また、一人の拘置者に対して、一日一件しか面会が出来ない。

 ちなみに、差し入れが出来るものと出来ないものは、厳格に決まっている。

 たとえば、食品は差し入れ出来ない。アルコールや、薬物や、ときによっては毒物などを隠して「差し入れ」られたら困るからであろう。

 部屋にある厚さ3センチしかない薄っぺらい座布団の代わりに、普通の座布団を差し入れることは出来る。しかし一枚限りで、しかも、それと引き換えに、くだんの薄い座布団は取り上げられてしまう。

 また、面会は、弁護士でも知人でも、土日や休日は出来ない。このことを狙って、検事の取り調べは、土日に厳しい調べがあるのが普通だ。弁護士とも相談できない日の心理の隙を突いてくるのである。


【看守に「人間」を見た】

 看守との短い会話の中に「人間」を見た、と書いた。奇異に思うかも知れない。

 そもそも、受刑者は看守のことを「先生」と呼ばなければならない。

 もちろん、人間的に対等ではなく、看守の意を損ねたら、どんな不利なことが待っているかも分からない。

 げんに、独房に置いてある「守るべき規則」(正式名称は未決被収容者遵守事項)には、「叱責。文書・図書閲覧の3ヶ月以内の停止。請願作業の10日以内の停止。自弁衣類の15日間以内の停止。糧食自弁の15日以内の停止。運動の5日以内の停止。2ヶ月以内の軽塀禁。作業賞与金の一部か全部の削除」といった「懲罰」が書き並べてある。

 このうち、「請願作業」とは、こちらから「お願いして」刑務所内の作業をさせてもらうことで、少額の日当が出る。独房に閉じこめられている生活よりはマシかもしれないし、自弁で食糧や文房具や本を買うための金も貯められるというものだ。

 ものは経験。どんなものか、やってみようかと思って看守に聞いてみたが、すでに定員がいっぱいで、受け付けられない、とのことだった。

 軽「塀禁」とは凄い言葉だ。狭くて暗いところに有無を言わさず、閉じこめる措置だろう。どのくらい身体の自由がきくのだろうか。これは、さすがに、ものは試しで経験してみる気にはならなかった。

 裁判のときに、拘置所から連れて行かれるたびに、くどいくらい注意されたことがある。裁判中に、傍聴の人たちに、決して、合図したり、声をかけてはいけない、という注意である。

これは、辛いことであった。北海道大学のある職員のように、裁判が終わって私が退廷するときに駆け寄ってきてくれて、「頑張ってください。お身体をご大切に」と言ってくれた人がいた。しかし、返事をすることさえ許されていないのであった。

 もし、返事をしたり、手を振ったりしたら、上に書いた懲罰のどれかに相当することになってしまうのである。

 ところで、米国のある心理学教室が行った実験では、看守と独房に収容された受刑者のそれぞれを学生に数日間やらせたところ、そのとちらもが、精神的に異常になってしまった、という報告もある。つまり、片方が絶対的に大きな権限を持つことは、心理的には極めて異常な関係なのである。

 しかし、私の場合は幸いであった。拘置後、ほどなくしてわかったことは、どうも看守の立場は、検察側とも裁判所ともちがうらしい、ということだった。

 たとえば、看守にとって、いちばん困ったことは、収容者に自殺されたり、怪我や病気をしたりすることである。

 「心」はともかく「身」は元気で、拘置所にとって責任問題も起こさずに、一応、元気で過ごし、拘置所から護送のマイクロバスに乗って裁判に出て、また拘置所に無事に帰ってくることが、いちばん望ましいことなのである。

 ある日、私の裁判が長引いて、遅くなって拘置所に帰ってきたことがあった。マイクロバスで護送した看守から、私の独房のある階の看守に引き継がれた後、廊下を独房まで歩いていくときに、「今日は長くて大変だったね」と声をかけてくれたことがある。意外な言葉であった。

 もちろん、拘置者と長話をすることは許されていない。また、特定の拘置者とだけ親しい話をしていることは、廊下に沿って並んでいる独房のほかの拘置者がもっとも気にしていることだから、避けるべきことであろう。

 その制約の中でも、看守の言葉の端々に、人間を感じさせるところがあった。

 収容されている人の中には、いろいろな人がいる。夜中にうなされたのか、訳の分からない叫び声が聞こえることもたびたびある。

 やはり独房にある「生活のしおり」(正式名称は未決被収容者所内生活心得)に書いてある注意も守れない収容者も多い。就寝時間中は水洗トイレの水を流さないルールはある(部屋のバケツに汲みおいておく水を流す)のだが、それを守れない人が多くて迷惑をかけるね、と言ってくれたこともある。

 札幌拘置所では拘置者だけではなく、判決が確定した後の受刑者も一緒に収容されている。これは刑務所が足りないせいだ。

 ときには、独房の廊下側についている鉄の頑丈な扉を叩いてわめき散らす自暴自棄の収容者も出る。錯乱状態に陥ったのである。途方もなく大きな音が廊下に響き渡る。

 このときは、看守は大変だった。5-6人の看守がその扉の前に集まってきた。

 扉の横には食器口という、縦15センチ、横25センチほどの、小さくて、顔を出せない大きさの金属の扉がついている。ふだんは、ここから食事の皿や、洗濯物を出し入れする。独房の中からは開閉できず、廊下側からしか開閉できない扉だ。

 この小さな扉を開け、「座れ。座れ。」と看守が飽きるほど繰り返す。

 扉を叩いてわめいていた収容者も、やがて根負けして、独房の中に座り込む。

 そのときだった。看守たちは素早く出入り口の鉄の扉の鍵を開け、5-6人が靴を履いたまま、独房になだれ込む。

 そして、その収容者を全員で押さえつけ、横抱きにして、廊下へ運び出した。手足を押さえられた収容者は、もちろん身動きも出来ない。

 彼の行く先がどこであったかは知らない。懲罰房というものだったかも知れない。

 警棒のようなものは使っていなかった。素手である。

 このように看守は、ときには身体の危険もある仕事なのだが、法務省の最下級の公務員で、待遇もそれほどよくないと聞いた。

 また、夜中中、独房の廊下を巡回して歩くなど、24時間の交代勤務だが、人員削減で仕事が増えて、なかなか大変らしい。面会室に行くエレベーターの中などで、ぼやかれたこともたびたびであった。


【本の差し入れ】

 幸いに、本は読むことが出来た。接見禁止だから、差し入れの本は受け取れない、と思っていた。じつは、私の弁護士もそう思っていた。

 しかし、「弁護士から差し入れる本」は受け取れるのではないか、と弁護士経由で拘置所に聞いてもらったところ、出来る、という返事が来て、それ以来、外からの本が差し入れられるようになった。ただし、一日に3冊以内、という制約がある。

 もちろん、本は「検閲」される決まりになっている。まさか、脱獄の指南のような本は駄目だろうが、ほかにどんな規準があるのかは知りようもない。私の場合は、ちょっとしたトラブル以外は、どの本も、素直に受け取れた。

 トラブルとは、本のカバーが外されてしまうことであった。はじめはよかったのだが、ある時期から、カバーを外した本しか独房に来なくなった。

 看守に聞いてみたところ、これは拘置所の間違いで、書店(本の販売店)が着ける本のカバーは「本の内容が分からなくなるので」取るという決まりなのを、本の受け入れ窓口の看守が、出版元が着けてきたカバー(いわゆる本のカバー)も、自動的に取ってしまったのであった。以後、カバーも差し入れられるようになった。

 本によっては、カバーにも、著者の略歴や、最近の岩波のジュニア新書のように、本文にはないカラー写真といった情報がある。ものごとは言ってみるものだ。


【単調な独房生活】

 独房での生活は単調である。時計はない。拘置所に入るときに、腕時計を取り上げられてしまう仕組みなので、正確な時間は分からない。

 時計だけではない。筆記具も、手帳も、入所の時に取り上げられてしまった。筆記具で独房に持ち込めるのは、一番安っぽいボールペンと軸がプラスチックで出来ているシャープペンシルだけである。

 実際には、私のような四色ボールペンも、金属部分があるシャープペンシルも持ち込み禁止だから、預けてある金から買うより他はない。ボールペンは最大限、黒・青・赤の3本という制約がある。

 時計がなくても、起床や就寝は特有の音楽が独房のスピーカーから流れるし、食事の時間も、ほぼ決まっているから、おおよその時間は分かる。

 就寝と起床の時間は守らなければならない。食事も、配膳されたら、すぐに食べて、食器の回収に間に合わせなければならない。

 最初の21日間、つまり起訴されるまでは、検事の取り調べがあった。いつ呼び出されるか分からないし、呼び出されたら、昼でも夜でも、行かないわけにはいかない。

 しかし、それ以後は、食事以外の時間は、ヒマであった。

 ところで、もちろん、「事件」について考えなかったわけではない。なぜ逮捕されたのか。私が告発されるまでに誰が動いたのか。いつまで拘束されるのか。家族はどうしているのだろうか。私が将来、研究を続けられるのだろうか。誰かが継いで研究をしてくれるのだろうか。考えるテーマも、考える時間も、いくらでもあった。

 しかし、心配しても、あるいは想像や妄想を逞しくしても、それらは、あとになってみると、それほど意味のあることではないに違いない。いずれはわかることだし、その段階で、選択できる可能性を考えながら、最善の処理をすればいいことだ。

 そもそも、独房で一人で考え込むことは、どう見ても生産的ではない。気も滅入る。

 私は、これらのことを、あまり深くは心配しないことにした。

 かくて、この独房でのヒマを紛らわせるのには、本はありがたかった。

 なかでも、いままでまとめて読んだことがなかった宮沢賢治全集や、太宰治全集を初めて、通しで読めたことは幸せだった。

 『虔十(けんじゅう)の森』に代表される、賢治の底抜けの明るさ、というよりは明るさへの希求を秘めた賢治の心情、を味わうには、独房は最適な場所の一つである。

 太陽の光のきらめきを見ることも、風で震える葉を見ることも嬉しい、という(世間的には間が抜けた男である)虔十の喜びを、不自由な拘置所の生活でも、毎日、どこかで感じとれるはずだ、というのが私の信念であった。

 嵐は、過ぎ去るためにある、という中東の諺もある。また、身体的に、いかに不自由にされていても、精神の自由までは、誰も縛ることは出来ないはずである。


【私本と官本】

 これら、知人や家族から弁護士経由で差し入れてもらった本は「私本」という扱いだ。接見禁止でなければ、自分で本や雑誌を買うこともでき、これも私本である。

 しかし、独房には、同時には3冊しか入れることは出来ない規則がある。

 そのほか「官本」というものがある。拘置所が拘置者に貸し出す本である。

 これは、40-50冊の本を台車に乗せて、廊下をまわり、それぞれの独房の前に止まって、食器口から、本を2冊ずつ、選ばせる仕組みである。一人2分以内に本を選ばなければならない。

 毎週火曜と金曜に本の入れ替えがある。つまり週に4冊の本が借りられる。2-3ヶ月に一度、本の総入れ替えがあるが、それまでは、同じ本が回っている。

 この官本は、接見禁止でも、借りることが出来る。

 私が逮捕されて収容された日は、独房に入ったのは夜8時すぎになっていたが、冷えてしまったサンマの塩焼の夕食とともに、文庫本が、内橋克人と林真理子の2冊、見繕いであてがわれた。

 この官本は、わずか40-50冊と選択肢は限られているし、大衆娯楽小説やハウツーもののような俗っぽい本がほとんどだ。

 場所柄、犯罪ものや殺人ものはないのかと、当初は思ったが、大藪春彦も推理小説も、じつはあった。しかし、色物や旅行ものや料理の本など、収容者の「妄想」を誘いそうな本はない。

 一方、骨っぽい本は、まずない。わずかに読めたのが、佐野真一『遠い「山びこ」-----無着成恭と教え子たちの40年』(文藝春秋社)や稲木哲郎『裁判官の論理を問う---- 社会科学者の視点から』(朝日文庫)、大岡昇平『野火』(新潮文庫)といった本であった。

 独房にある「拘置者のしおり」には、官本は3冊貸与、とある。しかし、予算の不足から、現実には本は2冊しか貸し出されなかった。週に二回、4冊では、読み終えて時間が余ってしまうことが多かった。

読むものがなくなってしまって、ふだんは読まない、文庫本の後ろについている類書の一覧のような広告も、むさぼるように読んだものだ。外国での長い観測のときに、連れて行った助手や大学院生が、観測器材を日本から送ったときの梱包に使った、しわくちゃの古新聞を読みふけっていたのを思い出す。

 予算の不足は、あちこちに及ぶ。私の部屋の化繊の毛布には10年前の備品票が貼ってあった。

 官本では、当惑したことがある。

 古い本が多くて黄ばんでいたり、書き込みがあったり、それを受刑者の作業で砂ゴムで削り取らせた跡があったり、本の背や表紙が傷んでいるのはともかく、頁の間に、鼻毛らしき短い毛がよく張り付いていることだった。黒っぽいカスは、鼻くそにちがいない。


【終わりに】

 このように、私の場合は、ずっと接見禁止ではあったが、本は事実上差し入れられたし、手紙も、手にとって読むことこそ出来なかったものの、弁護士宛に届けられた手紙を、ガラス越しに、限られた時間で慌ただしく読むことは出来た。

 これらが、外界から切り離された私にとって、どんな貴重なものだったか分からない。友人、家族。それらとの、細いが確実なつながりが、私を支えてくれたのである。

 逮捕から保釈まで、そして保釈後、多くの友人に励まされてきた。逆境にあるときこそ、真の友人がわかる、と言ってくれた先輩がいた。その通りだと思う。

 みなさまのご支援に深く感謝する。ありがとうございます。


この「獄中記」と「逮捕連行劇」は2007年10月、講談社文庫(『私はなぜ逮捕され、そこで何を見たか。』)として、大幅に加筆して、刊行されました。

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(イラストは、私が2002年に書いた『地震学がよくわかる---誰も知らない地球のドラマ』のために、イラストレーターの奈和浩子さんに描いていただいたものを再録しました。もともとはトルコの刑務所に収容されているクルド人解放運動の指導者を描いた絵です。まさか、この文のイラストに適当なものになろうとは、私も露ほども思っていませんでした。)

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