『魚眼図』(北海道新聞・文化面)、2003年5月28日夕刊〔No.303〕

地球物理学者の人生

 氷河を八キロ登るというのがどんな大変なものか想像できるだろうか。大小さまざまなクレバスが口を開けている。底は吸い込まれるように青い。そのクレバスを越えるために、登ったり降りたり迂回したりを繰り返さなければならない。

 世界の真水資源の将来を左右するのは氷河の消長だ。多くの大河は氷河に源を発しているし、地球温暖化の影響をもっとも受けるのは氷河だからである。

 南米アンデス山脈の南部にはいくつもの氷河がある。氷河の消長を研究するには、氷河の先端だけではなくて上流にも、気温や氷河の動きを測るための観測器を備えなければならない。

 私の友人であるアルゼンチンのS博士は、ある氷河を八キロさかのぼって自記気温計を設置していた。先日、一年半ぶりにその機械を回収に行った。電池やデータ量に限りがあるから、ときどき機械を取り替えて、データも回収するのである。

 だが、機械の表示は止まっていた。現在の気温やデータ数を表示してあるはずだった。故障した機械を抱えて、S博士はまた八時間の道を下った。落胆はいかばかりのものだったろう。

 たとえ表示が見えなくても、内部にはデータが残っているのではないか、とS博士は一縷の望みを繋いだ。その機械は日本製。昨今はやりの環境計測のために売っている観測器だ。

 機械が日本に来て、私がメーカーに取り次いだ。結果は無惨なものだった。内部の部品の故障。データを読み出す夢は消えた。

 メーカーにとっては大量に作った商品のたまたまの故障だったのだろう。しかし、その機械に研究を託していたS博士は一年半の人生を棒に振ったことになる。 

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