『魚眼図』(北海道新聞・文化面)、1999年10月19日夕刊〔No.264〕

転落事故

 私の知り合いの地球物理学者が、アイスランド中をハラハラさせた。火口壁にせり出していた雪庇(せっぴ)を踏み抜いて、観測車もろとも、高さ二、三〇〇メートルの火口壁を転げ落ちたのだ。

 その火山は氷河の下にある火山で、火口のところだけ氷河が溶けて巨大な穴になっていた。その穴に転落したことになる。ちょうど猛吹雪で視界が悪かった。彼女は、車をUターンさせようとしていたのだ。

 車には米国の地球物理学者も乗っていた。また重い観測機材や電池も満載してあった。事故を見た誰でもが、助からないと思った。

 二人が救出されるまでの八時間、この国のニュースはこの事故でもちきりだった。人口が二五万人の国だ。二人が死に瀕しているのは最大のニュースだった。北極海のスピッツベルゲン島で島中が半旗を掲げていたことを思い出す。私が行ったときは、強風で小船が転覆して二人が亡くなったときだった。小さな社会では人の命が重いのである。

 運転していた女性科学者Bさんは首都の病院に運ばれた。腕と肩を三カ所、それに膝を骨折したが、幸い、命はとりとめた。米国人科学者は家族が待つニューヨークに担架で運ばれて、これも助かった。

 職業柄というべきか、私の同業の科学者には観測現場での事故が多い。砕氷船が沈んで氷の海に投げ出された科学者がいる。氷河の割れ目に落ちて動けなくなっていたのを十時間後に発見されて救われた科学者もいる。自分で選び取った道とはいえ、自分の身体をすり減らすことで成果を手に入れるという、割の悪い研究なのである。

 しかし悪いことばかりでもない。家族も友人も、なにもない世界に観測に行けば、ふだんの生活をいとおしむ気持ちがつのる。

 これが、ささやかな「役得」なのかも知れない。

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