留萌市民文化誌『波灯』(第16号、2003年5月20日発行。連載その7)
世界でいちばん雨の多い国
1:■年平均気温
「年平均気温」という指標がある。一年のうちには寒い日も暑い日もあるが、その一年分を平均した温度のことだ。
東京の年平均気温は15.6℃、札幌は8.2℃だ。札幌の方が7℃ほど低いことになる。同じ季節のなかでも暑い日と寒い日の違いは7℃とか、もっとあるのが普通だから、東京と札幌とがたった7℃しか違わない、というのは意外に思われるかもしれない。しかし、年平均気温が7℃も違うというのは、じつは大変なことなのだ。
いま心配されている地球温暖化でも、温度から言えば地球の平均気温が2、3℃上がることが心配されているだけなのだ。たった2℃か3℃。人間がようやく気がつくほどの、この程度の温度差でも、氷河や南極の氷が融けて海の水が増え、海面が東京やニューヨークや上海など、世界の多くの大都市を水浸しにするほど上がってしまうのである。
さて、その町の年平均気温は7.5℃だ。だから札幌より少し寒いことになる。
地元の人でも正確に知っている人は少ないだろうが、じつは留萌の年平均気温は7.4℃なのだ。つまり、その町の年平均気温は、留萌とほとんど同じなのである。
ちなみに沖縄の那覇の年平均気温は22.3℃もある。東京よりもさらに七℃近くも高い。
日本の中だけでもこれだけ違うのだから、世界の気温のなかで、わずか0.1℃しか年平均気温が違わないというのは、偶然とはいえ、珍しい一致というべきであろう。
2:■その町へ行く道順
私は仕事のためにその町を何度も訪れている。その町にある大学の人たちと一緒に、この町から船で海へ出て作業をするのが、私の主な仕事のひとつになっているからだ。訪れた回数は、すでに12回になる。
日本からその町までは約9000キロメートル、ほぼ地球四分の一周分も離れている。しかも直行便の飛行機はない。そこへ行くのは、かなり不便である。
まず、成田空港から、別の国の大都会まで行く飛行機に乗って12時間。そこで一泊しないと、その町へ行く飛行機には乗り継げない。
次の日には、その大都会から急行の汽車で一時間ほど走ったところにある田舎の空港に行かなければならない。その空港は、鮮やかな橙色のケシの花が咲き乱れる野原の中に、ぽつんとある。
そこには小さな飛行機が待っている。小さくても、別の国へ行く飛行機だから、一応、国際線だ。その飛行機で、さらに四時間、海の上を飛んで、ようやくその町に着くことができるのである。
年平均気温はほとんど同じなのだが、その町が留萌と違うところは緯度だ。北緯62度。
北極圏は北緯66度33分から始まるから、ここは北極圏内の町ではない。33分とは半端に聞こえるが、この数字は白夜や極夜があるかどうか、つまり地球の自転軸の傾きと自転の仕方から厳密に決まっている数字である。
だが、62度とは、ほとんど北極圏と言っていいくらいの緯度にある。つまり、留萌よりは2000キロメートルも北極に近いところに位置していることになる。
北極圏に近いということは、日の長さに現れている。夏至のころの夜は、ほとんど暗くならない。夜10時に、まだかんかん陽が照っている。12時でもまだ明るい。
そして、新聞が路上では読めなくなったかな、という暗さにようやくなったあと、朝3時には、すでに十分明るくなってしまっているのである。
3:■北から昇る太陽
日の長さだけではない。不思議なことは、太陽が北からも照ることだ。日が長いということは、太陽が日の出から南中するまでに、長い間かかって空に登っていくということだ。ほとんど北の地平線から昇ってきた太陽は、ゆっくりと東の空に達し、南中し、やがて西の空に降りてきて、さらに長い時間かかって、ほとんど真北の地平線に沈むということになる。
これが北極圏に入ると、もっと不思議な光景に出会う。北の地平線に近づいた太陽は、そのまま沈むことはなく、北の地平線の上を横に転がっていって、そのまま、また上がってくるのである。つまり、360度、どちらの方向からも陽が当たることになる。
真北から照らされるというのは不思議な経験だ。家の北側の窓にしか陽が当たらない。影は南に延びる。まるで南半球の町を歩いているような気分になるのである。
私がいちばん北極に近いところまで行ったのは北緯78度だ。北極圏に入ってから、さらに1500キロも北に行ったところだった。探検家のアムンゼンが飛行船を使って史上初の北極点飛行に挑んだときの基地の村だった。
ここでの夏の太陽は、さらに不思議な動きを見せる。太陽は、空にぐるっと横に長い楕円を描いて一日を終わる。ここでは日時計は使えない。
北極圏やその近くで驚くことはいくつもあるが、夜空の星を見たときに、北極星の高さにびっくりするのも、そのひとつだ。
私が30年ほど前に東京から札幌に転勤してきたときに、北極星の高さに驚いたことを思い出す。札幌の北極星は、まるで、登るのも大変な勾配の坂の上に輝いているように見えたのだった。
しかし、北極圏やその近くで見る北極星の高さには、またびっくりすることになった。北極星は真上にあって、すべての星は、ほとんど真横に動いていくのである。日本では季節によっては見えない北の星座が、すべて同時に見える。
ときとして見えるオーロラは、日本では見られないこの星の移動に、艶やかな色を添えてくれる。音もなく光が踊るオーロラは、美しいとはいえ、一人で見ていると恐ろしくなるほど圧倒されるものでもある。
4:■年に400日降る雨
北極圏に近いということは、冬のありさまは留萌とは大いに違う、ということでもある。
私がその町に滞在しているとき、朝、ホテルから大学へ行くときは、まだ真っ暗だった。
いや、そんな早い時間に行くわけではない。朝9時とか10時のことである。道だけは橙色のナトリウムランプの明るい街灯で照らされているから暗くはないが、空は暗い。仕事が始まってからも空が真っ暗なまま、というのは、不思議な気分に襲われる。
その空は、昼過ぎにようやく明けてくる。しかし、いちばん明るくなっても、日本でいえばほとんど夕方の明るさである。この町では、晴れないことが多いが、たまたま晴れたとしても、太陽はごく低く、影は長い。曇っていればなお暗く、遠くの人の顔は見分けられないほどだ。
つまりいちばん明るいときでも夕暮れのときの明るさだといえば分かりやすいだろう。真っ昼間でも、町の商店の光がまぶしい。
そして、早くも午後3時には、もう夜の帷が降りて、全くの闇になってしまうのである。
初めて私がこの町を訪れたときは冬だった。私の率直な感想は、よくも、こんなところに人が住んでいるものだ、というものだった。たしかに、冬は気が滅入る。この町の人々が外国へ旅行に行くときには、一年中太陽の光が降り注ぐ南の国へ行くことが多いのは、無理もないことなのである。
気が滅入ることはそれだけではない。じつはこの町は、世界でもいちばん雨が多い町なのである。
この町の人たちは、ここでは、一年に400日、雨が降るという。
四百日。だが、これは誇張ではない。朝起きたときに雨が降っていて、昼間ようやく降り止んで晴れ間が出てやれやれと思ったら、午後また雨に見舞われる、といった天気がよくある。いや、この町では、こんな天気こそが普通なのである。
この雨の湿度のせいだろう。この町には、小さなバナナくらいの大きさのナメクジがいる。しかも真っ黒の姿をしていて気味が悪い。しかし、もちろん、何の悪さもするわけではない。
この町では傘が手放せない。この町には珍しい快晴の日でも、人々は、傘を鞄に忍ばせて町を歩いているのである。
5:■留萌と同じ気温は4月と5月だけ
この町が留萌と違うところは緯度だけではない。年平均気温はほとんど同じなのだが、じつは月々の平均気温は違うことが多いのである。
一年のうちで、いちばん似ているのは4月と5月の月平均気温だ。それぞれ、留萌が5.2℃と10.5℃で、その町が5,6℃と10.1℃。つまり、留萌では暑寒別岳の残雪が眩しくて春の花にははまだ遠い4月と、路地の花が一斉に開く5月とは、9000キロメートルも離れたこの町も、ほぼ同じ気温で迎えることになる。
だが、違うのはその先だ。盛夏の7月と8月の月平均気温は、留萌では19℃と20.6℃になるのに、その町の気温はそれぞれ14℃と14.2℃にしか上がらない。
この町では、ほぼ留萌の6月よりもやや寒い気温のまま、夏が過ぎていくことになる。浴衣で夏祭りに集える気温ではない。人々は、とても寒い夏に耐えなければならないのである。
そして、再び留萌の気温とその町の気温が同じになるのは秋だ。
しかし、例年のことだが、留萌の秋は短い。10月の月平均気温が10.3℃なのに、11月には3.9℃に急落する。雪が舞う日もある。
だがその町では、10月の月平均気温こそ8.7℃と留萌より寒いのだが、11月には4.6℃までしか下がらない。この町では秋が長いのだ。この長い秋の間に、この町の気温と留萌の気温とは、逆転してしまうのである。
12月にはもっと差がついてしまう。留萌の月平均気温はゼロを超えて零下1.6℃にも下がってしまうのに、その町ではプラス2.5℃に止まっている。4℃も暖かい。この気温だから、雪はまず降らない。
では、冬はどうだろう。じつはもっと差がつくのである。留萌の1月と2月の月平均気温は、それぞれ零下5.1℃と零下4.9℃。つまり、ともに零下約5℃である。一方、その町では、それぞれプラスの1.7℃と1.4℃。留萌よりも7℃近くも高いことになる。
不思議な気温だと思われるに違いない。夏に寒くて、冬に暖かい。
さて、この町の気候は過ごしやすい気候というべきなのだろうか。留萌に限らず、北海道の冬の寒さに飽き飽きしている人たちにとっては、好ましいところに見えるだろう。
一方、北海道の夏は暑いという人も、昔よりはずっと増えた。札幌では、夏が暑いというのでエアコンをつける人が急激に増えてきている。夏がもっと涼しいことを、北海道の人さえ望む時代になったのである。暑がりの北海道人は、この町の気候を羨ましく思うだろうか。
6■:農業には向かない土地
だが、過ごしやすい気候だと讃美できないことが、いくつかある。
そのひとつは、農業をやるのが難しいことである。夏の暑さと強い日射しは、作物が育つために必須のものなのである。この町やそのまわりでは、米も麦もとれない。トマトもキュウリも育たない。葡萄も実らないから、葡萄酒も作れない。農業のうちで可能なものは、牧草を生やして家畜に与える酪農くらいのものだ。
だから、唯一の農業である酪農への関心は高い。私の知り合いのこの町の大学教授は、専攻しているのが物理学なのに、牧草を夏の間に何回刈り取ることができるか、正確に知っていた。日本の大学教授では、こんなことはまず、あるまい。
ところで、農業にはならないが、この町の近くには美しいブナ林が拡がっている。ここはブナの北限でもあるのだ。北海道でいえば黒松内と同じで、ここから北では、広葉樹であるブナは住み着けないのである。
7:■突然、凍る雨が降る
困ることは農業だけではない。真冬でも月平均気温はプラスではあると書いた。だが、考えてみれば、北緯62度という高緯度ながら緯度の割には暖かい、ということは、つまり、本来ならもっと寒いはずの気候なのに、無理をして温度を上げている要因があるということなのだ。
ときに、その隠れていた高緯度の気象が牙を剥く。
それは凍雨というものだ。この町の冬に、ときどき降る、とても厄介なものなのである。
凍雨とは、降っているところを見ている限り、ごく普通の雨だ。しかし、違うところは、この雨が地面に落ちたとたんに、氷になって地面や屋根に張り付いてしまうところなのだ。
乾いた地面が、いきなりスケートリンクのようなツルツルの路面になってしまう。想像ができるだろうか。車にはもちろん、人にも危険きわまりない雨なのである。
なぜ、このようなものが降るのか、それにはちょっとした説明が必要だ。
水は0℃で凍るものだと思っている人は多い。つまり、水の温度を下げていって0℃になったときに、突然、氷になると思っている人は多い。
しかし、じつは0℃というのは、水と氷が共存しているときの温度、分かりやすく言えば、コップに入れた氷の一部が融けて、水に浮いている状態の温度なのである。正確に言えば、0℃とは、水が必ず凍っていく温度ではないのである。
水を冷やしていったときには、必ず0℃で凍るわけではない。とくに、ゆっくり、ゆっくり温度を下げていったときには、零下3℃や5℃でも、まだ凍らないで水のままでいることがある。上空の雲の中に浮いている小さな水玉のような小さいものだと、零下10℃、いや20℃を下回ってさえも、なお凍らないことさえある。
温度がマイナスなのに、なお水のままでいる水のことを、むつかしい言葉だが「過冷却(かれいきゃく)」の水という。
そして、凍雨とは、この過冷却の水が天から降ってくる現象なのである。たとえ地表の気温はプラスでも、上空の雲の中はずっと冷たい。この雲の中の水玉が落ちてくるのが凍雨なのである。
本来、凍っても不思議ではない温度なのに、まだ水のままでいる、という不安定な状態の水だ。不安定なゆえ、ちょっとした衝撃を与えることによって、たちまち氷になる。だから、地面に落ちたとたんに氷になってしまうのである。
この凍雨は日本では滅多に降らない。だから「凍雨」という気象用語は、この意味での凍雨のほかに、凍った透明の雨粒そのものが降ってくることにも使われている。つまり、あいまいなのだ。
しかし、この国の凍雨は前者のものだということが、読者にはおわかりになっただろう。
この町は、坂の多い町だ。というよりは、海岸に平野部がほとんどなく、猫の額のような狭い平地を家が埋め尽くし、海際まで迫った高い山を裾から少しずつよじ登るようにして発達してきた町だ。
老人や子供にとって、あるいは大人にとってさえ、一瞬にして氷に覆われてしまった坂道はどんなに危険なものか、言うまでもあるまい。
どうだろう。こんな厄介なものが降るくらいならば、ふんわりとした白い雪が降ってくれたほうが、よほど始末がいいのではなかろうか。
8:■この町が暖かい理由
では、なぜ北緯62度もあるこの町が、年平均気温が留萌なみで、冬は留萌よりも暖かいのだろう。
当たり前のことだが、地球の上では、赤道から離れるにつれて寒くなっていく。これは、太陽の光の強さのせいだ。太陽が真上にあるほど、つまり水平線から太陽までの角度が大きいほど、太陽の光が強いから、暖かい。夏の暑い日でも、朝夕はひんやりするのも、同じ理由である。
だから、北緯62度にもなると、太陽からの光は、夏でも弱々しい。寒くて当たり前なのである。
そんなところでも、年平均気温では北緯43度57分の留萌なみ、冬は留萌よりもずっと暖かい温度になっているのは、じつはこの町のすぐ前にある海がこの町を暖めてくれているからなのである。
この町の沖には、はるか10000キロメートルも離れた遠い熱帯の国で生まれた暖流が来てくれている。その遠い国には暖かい海があり、椰子が茂る美しい常夏の島がある。世界の金持ちたちが豪華な客船に乗って集まってくるところだ。ここから流れ出した海流は、この町まで10000キロの長旅をしても、なお、まわりの海よりはずっと暖かい。
この町では、たとえ太陽の光が弱々しくて陸地は太陽の光では暖まらなくても、陸よりは海の温度の方がずっと高いから、海で暖められた空気が陸に流れ込んできて、陸も暖めてくれるというわけなのである。
しかし、良いことばかりではない。海で暖められた空気は、暖かいばかりではなくて、湿気もたくさん含んでいる。運んできたその湿気が、この町に一年に雨を400日も降らせる元凶なのである。
だから、この町の降水量は、年に2メートルを優に超える。月別に見ても、どの月でも10センチ以上も降る。多い月は30センチも降る。
一方、留萌の年間降水量は1.2メートルで、この町の約半分しかない。これは東京とほぼ同じ降水量だ。しかも留萌では、8月から11月までだけは月に14センチほど降るものの、3月から6月までは月に5、6センチしか降らない。
北緯62度という高緯度に人が住めるのは海流のおかげなのだが、その海流は雨も運んできてしまう。
同じ海際でも、陸地よりも海水温が飛び抜けて高いわけではない留萌とは、ずいぶん事情が違うのである。
もっとも、日本でも海の影響はないわけではない。たとえば北海道のオホーツク沿岸では、流氷が着岸した日から気温が目に見えて下がる。
毎年、2月始めの立春の日ぐらいを境にして日射しが強くなるのが感じられ、道内各地の気温が上がり始める。だが、オホーツク沿岸だけは、むしろ寒くなる。これは、海が流氷に覆われてしまったから、つまり、陸地を海が暖めてくれることをやめてしまったからなのである。
沖を対馬暖流が流れていても留萌の冬は寒いが、それでも、幾分かは海に暖めてもらっているのである。海がなかったら、もっと寒かったに違いない。
9:■自分が捕るタラ、他人が捕るタラ
北緯62度のこの町は、冬になれば地面を雪が覆うこともたまにはあるが、それも数日で融けてしまって、根雪になることはない。
じつは、この町が属している国の首都は、緯度はこの町とそれほどは違わないのに、この町よりもずっと寒いのである。
この高い緯度からいえば、この寒さはむしろ当たり前なのだが、首都では冬は零下20℃を下回ることも普通だし、首都が面している海は、厚くて硬い氷で覆われてしまう。トラックが載っても割れない氷だ。
人々は厚い氷に穴を開けて冬の釣りを楽しむ。首都の海には暖流は流れて来ないから、同じ緯度でもこれだけ違うのである。
もっとも、たまに砕氷船が入ってくるときには、人々は逃げまどうことになる。もちろん、砕氷船の方ではもっと気を遣って、どんな危険な海域よりも、船橋には多くの見張りを配している。
一方この町では零下20℃になることはない。たとえ雨が多くても、この町の人々は、首都よりも暖かいこの町で生まれて、この町で暮らせることを感謝しているのである。
この町では、遠く14世紀には、すでに、かなりの人が住み着いていた。この緯度で、冬でも凍らない港があるということは、貿易港や漁港として、またとない恵まれた条件だったからだ。
貿易は、それに関連した商業や、造船業や船舶用具業やこの国随一の船員学校などが裾野になって支えている。漁業も、漁具や水産加工業などの裾野がある。
限られた農業しかできないから食糧が自給できなくても、この町の人たちがそれなりの暮らしができているのは、つまりは、凍らない港のせいなのである。
漁業も盛んだ。この町の沖では、とてつもなく大きなタラが捕れる。長さが1メートルを超え、1メートル半もある、持つというよりも、抱えるのがやっとくらいの大きなタラである。遠くから来た暖流は、豊富なタラの餌も運んできてくれて、この沖ではタラがよく育つのである。
しかし、漁業には悩みがある。この国の東の隣にある貧しい国から多くの漁船がやってきて、この町の目の前の海で、タラを捕りはじめたからだ。
捕ったタラの多くは、その国へ持って帰るのではなくて、じつは、この町に売りに来る。その貧しい国よりは、この町の方が高く売れるからだ。
その売ったお金で、遅配していた乗組員の給料を払い、船の燃料や日用品を買って、船の壊れたところを修理して、またタラを捕りに行く。
つまり、この町の人たちは同じ海で捕れた同じタラを食べ続けているのだが、この町の漁業者たちは、仕事を奪われてしまったのである。
商業や造船業が潤う代わりに、漁業が衰退する。この町の人たちは複雑な心境なのである。
10:■家の材料は地下から得る
私は、この町の町並みが好きだ。古くから開けた町だけに、石畳の道が多く、その両側には商店や住宅が並んでいる。町には美しい石造りの建物が多い。なかには屋根に銅板を貼った建物もある。雨と湿気のせいで、銅が鮮やかな緑色になっている。緑青になっているのである。
このほか、何世紀もの風雪に耐えてきた、趣きのある木造の建物が集まっている一角もある。この一角はユネスコの世界遺産にもなっている。
石造りの建物が多いのは、材料が手近にあったからだ。どの商店に入ってみても、地上の売り場のほかに、地下にも売り場がある。中には地下二階にも売り場がある店も珍しくはない。
つまり、この町は土ではなくて、岩の上に拡がっていった町なのだ。人々は家を建てるためには、まず岩を切り出して、その岩を材料にしたのである。
地下二階分の石をまるまる切り出せば、地上4階や5階分の建物を作るための壁や床の材料はすぐに手に入る。こうして、地下に広い空間を持つ石造りの建物が作られていったのである。
ここの岩はとてつもなく硬い。掘るのは大変だが、掘ってしまえば、掘りっぱなしのままで、十分丈夫である。
前に書いたように、この町の前は海、背後には山が迫っているから、隣の町に行くためには、昔は船しかなかった。今ならトンネルがある。
このトンネルを初めて通ったときにはぎょっとした。トンネルの内側が掘りっぱなしで、天井にも側壁にも、凸凹の岩がむき出しなのである。なかには尖った岩もあり、落ちてきたらどうなるだろう、と心配になったのだ。
でも、これでいいのだろう。岩が硬いということは、いったん掘り終わったら、もう落ちないということなのだから。
この町が岩盤の上に立っているということは、雨が多い町としては幸いした。土だと地下にしみ込んだ水が地下室を水没させたりするかもしれないが、硬い岩は水を通さないから、そんな心配は無用なのである。町が立っている硬い岩盤は土砂崩れの心配もない。
でも、地下水がないと生活には困るだろうって?
いや、そんなことはない。たしかに地下水もないし、目の前にある海の水が生活に使えるわけではない。だが、町を取り囲んでいる高い山の上には氷河も万年雪もあり、それらが少しずつ融け出した水が、一年を通して、いくらでもあるからである。
この町の水道の水は、とても冷たくてうまい。それは、無尽蔵のきれいな水道水が、こうして山から来ているからなのである。
私がこの連載で前に書いたパプアニューギニア(『波灯』14号、2001年)では、どの家にもトタンの波板で作った大きな円筒型の水タンクがあった。直径が4メートル、高さは3メートルもある。じつはこれはかつての宗主国オーストラリアから来た「風習」で、植民地時代に導入されたものだ。つまり、この巨大なタンクは、水道が整備されていない場所で天水を集めて使う、命の水なのである。
世界の人口の半分以上が、水が足りない生活を強いられているといわれている。また世界保健機関(WHO)によれば、発展途上国の病気のうち、なんと80パーセントは、汚染された水が原因だという。
そして、5歳以下の子供400万人を含む520万人が毎年、水や都市ゴミによる感染性の病気で死んでいっている。人間同士の殺戮である戦争では、第二次大戦では5500万人、第一次大戦では900万人が死んだといわれている。毎年500万人を超える死者は、大戦が毎年続いているようなものだ。これが世界の水の現実なのである。
しかし、この町やこの国だけは、世界でも恵まれた例外なのだ。雨や雪が多いことは、もちろん、悪いことばかりではないのである。
11:■見えない発電所
雨が多いから、この町の人は、晴れていても騙されない。外出のときは、かならず傘を持っていくか、フードのついた防水のコートを着ていく。
私は何度も騙された。めったにない抜けるような青空で、まわりの雪山が眩しい日に、今日こそは大丈夫だろうと安心して家を出る。
ところが、天気は突然、牙を剥く。騙されて雨具を持っていなかったのでひどい目にあったことは何度もある。まさかの雨が降るのである。
しかし、この町の人にとっては、天気とはそういうものなのだ。私が慣れている日本の天気だけが天気ではない。
じつは私は、天気ではここの対極のような町を訪れたことがある。北米大陸の大平原の中にある町だった。ある日は快晴。次の日は青空に刷毛で描いたようなわずかな筋雲。そして次の日は薄日が差す高曇り。さらに次の日は曇り。そして五日目に雨になる町だった。これでは天気予報はいらない。こんな退屈な天気の町では、人々の生活も単調で退屈に違いない。文学も生まれまい。
この町の話に戻る。夏はともかく、秋から春にかけては、この町は雨が降ると暗い。だが、慣れてしまえば、不思議に気が滅入らないのである。
それは、家の明かりの暖かさのせいだ。商店や家の明かりに照らされて雨で光った石畳の道は美しい。乱雑に配置されているだけの天の星から人々が意味のある星座を見つけたように、光った石畳の配列からは、いろいろな模様や、図形や、ときにはさまざまな絵さえも読みとることができる。歩くにつれて模様や形や絵は姿を変えていく。
この町には、オフィス以外には蛍光灯はない。商店も家も、暖かい光で照らされている。暗い雨のなかから見る家や商店の明かりは、とても暖かく、人々を惹きつける。明かりがどんなに人々の心を温めて慰めてくれるものか、人々はよく知っている。
この町が属している国は電力が豊富で、しかも安い。原子力発電所はひとつもない。氷河や雪を戴いた山からの水を利用した水力発電だけで電気をまかなっているのである。
だが、大きな水力発電所に行ってみても、そこには何もない。ダムも導水管も、発電所の建物さえないのである。私は狐につままれた気持ちになった。
じつは発電所は、すべて岩を掘った地下に作られているのだ。地表にあるのは昔からある山と岩と雪。自然を壊さない開発をやっているのだ。
12:■方言にも誇り
北極圏に近い高緯度の町。雨の多い町。人は生まれてくるときに親を選べないのと同様、国も選ぶわけにはいかない。ここに生まれ、何世紀にもわたってここで暮らしてきた人々は、こういった気候や風土とともに暮らすすべを手に入れて、ここを愛しながら、ゆったりと暮らしているのである。
この町の人たちは、一生をここで過ごすことが多いという。たとえ首都にある大学に勉強に行った学生も、就職にはこの町へ帰ってくることが多い。あそこは冬は寒いし夏は暑いから、と帰ってきた若者は言う。
帰ってくる理由はそれだけではない。隣の町からは険しい山と海で隔てられているこの町の言葉には強い訛がある。首都に行けば、たちまち分かってしまうくらい、発音も文法も違う方言なのである。
しかし、方言といっても、じつはこちらの言葉のほうが古くて伝統があるのだ。この町は十四世紀にはすでに開けていた、と書いた。この国のいまの首都は、そのころは別の国、それも野蛮な国にすぎなかったのである。
だから、この町の人たちは「方言」と、その背景にある町の歴史や文化に誇りを持っている。いわば成り上がりの首都の人たちに怪訝な顔をされるのは不愉快なのである。
この「方言」は、私が聞いても、丸くて甘い響きの、いい方言だ。首都の標準語は、とてもがさつに聞こえる。
その町はノルウェーのベルゲン。知らない読者も多いかもしれないが、中学や高校の地図帳には載っている。日本で勘違いしている人も多いが、ノルウェー全土の人口は北海道の人口よりも少ない。だから、ノルウェーのどんな町も、それほど大きな町ではない。
この町はノルウェーの大西洋岸にあり、首都のオスロよりも早くから開けた町である。
毎年夏にはベルゲン・フェスティバルという芸術祭が開かれ、世界中から観客が集まる文化の町でもある。
では、その東隣にある貧しい国、この国の沖に、タラを捕る漁船を送り込んでくる国とは、どこのことだろう。
それはロシアなのである。かつての社会主義国ソ連が崩壊して、ほどなく経済も崩壊した。国営企業や資源を売り飛ばしてあくどく儲けたごく一握りの金持ち以外は、貧困にあえいでいる気の毒な国である。
この町へやってくるロシアの漁船は、見るも痛々しいほどの赤錆だらけの老朽船だ。こんなボロボロの船では、船内の生活もたいへんに違いない。ノルウェーに魚を売らないと、何ヶ月も遅れている給料ももらえない。船員の食糧も買えないのである。
ノルウェーの東隣はスウェーデンで、スカンジナビア半島の北端にある国はフィンランドだと思っている人は多いだろう。
しかし、地図をよく見てほしい。ノルウェーの北部はスカンジナビア半島をぐるっとまわっていて、東側を、直接、ロシアに接している。つまりフィンランドはバレンツ海には接していない、つまり北側に海はないのである。
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