『テレスコープ・島村英紀の「地球タマゴの旅」その16』(講談社の科学雑誌『クオーク』)、1990年8月号を一部改変
(この文章は島村英紀著『地震は妖怪 騙された学者たち』に収録しました)

カビの煙幕 (原題は「観測機器の”邪魔者は殺せ”」)

 地球物理学者は、普通の人が行ったことがないところに行く機会が多い。フランスの深海潜水艇で日本海溝に潜ったのは興味が尽きない経験だったが、私の人生でもかなりの冒険でもあった。いや、海溝ほど特殊な場所ではなくても、地下にある観測壕も、普通の人はまず訪れないところである。

 岩をくり抜いたトンネル。カビくさい湿った無人の観測壕に入るのは、あまり気持ちのよいものではない。小型犬くらいもある真っ白で巨大なカビの塊にギョッとすることもある。

 このトンネルは地震や地殻変動の観測のためのものである。

 地震予知のための地殻変動の研究のひとつに、傾斜計を使って地面の傾斜の変化を測るものがある。地震を起こすエネルギーが地下で溜っていくときに、岩がふくらんだり縮んだりする。

地下何キロもの深くにある岩の伸び縮みを直接測るのは難しいから、それを地下数十メートルのところに掘ったトンネルの中で岩の変形を測ることによって推定しようとするものである。

 測るべき変化はごく小さい。角度にすれば、一度の一億分の一にも足りない。このため、傾斜を測る感度は恐ろしく高いものでなければならない。たとえば、東京から名古屋まで届くくらいの長い棒を置いたとして、名古屋でその棒の下に十円玉をひとつはさんだだけ持ち上げる、つまりたった二ミリほど持ち上げたときの傾きさえ知ることができるほどの機械が必要なのである。

 いろいろな原理の傾斜計がある。吊した振子の傾きを測るものがある。伏せたガラスの椀の中に泡を一つ残して液体が入っていて、その泡の動きを測るものもある。感度は恐ろしく高い傾斜計だが、機械としての原理はどれも単純なものである。機械としての造りを精密にして、振子や泡のごく小さい動きを検出することによって、高い傾斜の感度を得ているのである。

 傾斜計の中でいちばん普及しているのは、もっとも単純な原理のものである。それは「水管傾斜計」。短かければ十メートル、長いものでは百メートル離して置いた二つの容器の水を、長い管でつないだだけのものである。大工が建築現場で土台の高さを測るために使っているものとまったく同じ原理である。

 地面が傾けば、容器の中の水面が上下する。大工の道具と違うのは、感度が大変に高い分だけ観測が難しくなることである。地球物理学としての観測のためには、一万分の一ミリといった水面の上がり下がりを測ることになる。

 こんな感度で地面の傾斜を測ろうとすると、軟らかい地面の上に置くのでは、そもそもまずい。軟らかい地面は、地下にある岩の動きをそのまま反映しているとは限らないからである。

 それだけではない。気温が変化しただけで地面の温度が変わり、そのために地面が伸び縮みしてしまって、データが乱されてしまう。

 このため観測器はたとえ岩の上でも、地面の上に置いたら意味のあるデータは取れない。なるべく硬い岩をくり抜いた地下のトンネルを作り、その中に置くことになる。

 しかもトンネルは一本では足りない。地面が東西南北、どちらの方向に、どのくらい傾いたかを知るためには、水管傾斜計を三角形に配置しなければならないから、三本のトンネルを掘らなければならないのである。三角形はどんな形をしていてもいい。記録された三つのデータから地面の傾斜角と傾斜方向が計算できるからである。

 トンネルの入口は二重の扉で密閉される。それでも機械の調整のためなど、人が出入りするたびに、観測データに乱れが出る。それほど繊細な観測である。

 こういったトンネルの中では、一年中、温度がほとんど一定になる。その温度はその土地の年間の平均気温に近い。容器と管の中を満たす水には蒸留水を使い、ホコリやゴミが入らないように容器は密閉してある。

 こういった水管傾斜計の観測点は北海道から九州まで、日本中に百ほどある。

 この観測点のうち、西日本にある観測点にだけ不思議なことが起きた。地面の傾斜とは思えない奇妙なデータが出てしまうのである。東日本にはこんなことはない。名古屋あたりが境だった。

 なにが東西を分けていたのかは分からなかった。しかしとりあえず、なにが起きていたのかは分かった。地面が傾いたならば、片方の水の容器の水が増えて、もう片方の容器の水は減らなければならない。しかし、両方の容器とも、わずかだが水が増えてデータを狂わせてしまうのだった。

 しかしなぜ、水が増えるのだろう。原因が分かるまでにはさらに時間がかかった。

 このミステリー、なかでも東西で違うことが、地球物理学者を悩ませた。同じ機械を同じように置いてあるのに、なぜ西日本でだけ、データが狂うのだろう。フォッサマグナに沿って東西日本をほぼ半分に分ける地理的な分布が、謎を一層深めたのであった。

 結論は意外だった。

 水の中で繁殖するカビが原因だった。しかも、気温が16℃を越える環境だけで生きられる特殊なものだった。どこから入り込んだのか、真っ暗な洞窟の中で水に忍び込んで、水の中で仲間を増やしていったものだった。カビが増えることで水位が上がったのであった。

 解決法は毒であった。容器の中の水にちょっとした毒を入れて、観測の小さな邪魔物に死んでもらっているのである。毒は有機水銀。とは言っても、カビの防止のために目薬に入っているのと同じもの(註)である。

 一億分の一度という角度を測っている地球物理学の最先端の観測現場では、生物を飼っている余裕はないのである。

(イラストは『クオーク』掲載時に、イラストレーターの奈和浩子さんに描いていただいたものを再録しました)

【追記】
註)メチル水銀は自然界に流出し、魚や農作物を汚染して人体へ影響を与える環境有害物質だが、エチル水銀は別のもので、目薬やコンタクトレンズの洗浄液などに防腐剤として長年使用されてきた。しかし、目立った健康や環境の問題は報告されていないという。なお、2008年現在、目薬には有機水銀系は使用されておらず、多く使用されているのは、塩化ベンザルコニウムやパラベンなどの防腐剤だという。

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