島村英紀『長周新聞』 2015年1月1日(木曜)。5面

権力に囲い込まれた大学の研究崩壊

 大学が崩壊している。

 その始まりは10年前、すべての国立大学が一斉に独立法人になってからだ。それまでのような国立の大学ではなくなり、経営陣を大学外部から招き、国の予算を効率的に使うことや、大学自身で金を稼ぐことが求められることになった。もっとも昨今は私立大学でも国からの交付金がなければなり立たないから、私立大学でも事情は変わらない。

 この「改革」は多すぎるといわれていた公務員の数を「見かけ上」減らすことには役立った。そして国立大学を運営する予算である運営交付金も年々減らされ、10年間で13%も減額された。自分で金を稼ぐこと、つまり外部資金を導入することが大学にとって不可欠になってきているのである。

 他方、国からの予算を少しでも多く獲得するために文部科学省から天下りの官僚を国立大学に迎えることも一般的になっている。大学の経営にあたる理事に天下り官僚が入っていない国立大学はほとんどない。

 また学内の教官たちによって選ばれた学長候補をさしおいて天下り官僚が学長になったところもある。そのひとつ、山形大学では学長が替わって以来、窃盗など学内者による刑事事件が頻発するようになっただけではなく、それまで医師国家試験の合格者数で上位だった順位が大きく下落してしまった。大学のモラルが落ちてしまっているのである。

 国の予算を効率的に使うことや、自分で金を稼ぐことなど、改革の中身は一見合理化に見えるが、じつは大学で行われている研究にとっては、話はそう簡単ではない。

 たとえば理学部などに多い基礎科学にとっては大きな危機を迎えることになってしまった。独立法人では、数年以内に成果が出るような業績、もう少しありていに言えば、明日のゼニになる研究だけが優先されることになるからである。

 科学の内容を分野外の他人が判断することは不可能だから、求められる「成果」は、結局は論文や発表の数で数えられる。つまり、三振かホームランかというバットの振り方はできなくなって、研究者の主な仕事は、内野越えの確実なヒットやバントといった研究ばかりを狙うことになる。息が長い、そしてリスクはあるが大きな成果が出るかも知れない研究は、以前と違って、とてもやりにくくなってしまったのである。

 しかし、これらの研究こそが、20〜30年後、あるいはもっと将来に、人類のために花開く学問である可能性が高いのである。

 一方、工学部など応用科学では、もともと外部の会社や国の外郭団体と連携して研究資金を得て、共同で研究することが多かった。

 ひところの「産学協同」というネガティブなイメージはいつか死語になり、いまや「産学連携」あるいは「産学官」連携が花盛りになっている。たとえば東京大学や大阪大学では産学連携本部、東工大では産学連携推進本部といった看板を掲げる組織が大手を振って資金を集めて共同研究を組織している。これらの本部には新技術の研究開発、新事業の創出を図るなどといった美辞麗句が並べられている。

 じつは研究の面から言えば、このように「明日のゼニになる」研究はたやすい。研究資金さえ豊富で多くの研究員を雇えるならば、研究目的がすぐ近くにあって明確なものゆえに、材料や手法を替えながら大量の実験を繰り返すことによって「研究」が進むからだ。つまり研究にとっての革命的な進歩である研究の質的な向上をしなくてもできる研究だからである。

 しかし研究の革命的な向上がなければ、必ず技術は枯渇する。いま、いろいろな分野で使われている技術は、20〜30年前の研究の質的な革命ゆえになり立っているものがほとんどなのだ。現在の研究全体のありようは、過去にはあった研究の質的な革命を生み出すことを止めてしまって「明日のゼニになる」研究だけに注力しているのが問題なのである。

 もうひとつ、この種の外部資金頼みの研究には危険がある。それは防衛省が進める大学や各研究機関との共同研究が、近年急増していることだ。

 防衛省や防衛産業にとってみれば研究者の頭脳はのどから手が出るほどほしいものに違いない。だが研究者には戦後ずっと軍事研究や防衛省への協力に抵抗感があった。しかし、その「歯止め」も年々弱くなって、旧制帝大7国立で軍事研究を実質的に禁止しているのは東京大と大阪大だけになってしまっている。

 この種の防衛省の予算による大学の研究は2001年度から始まった。以後、共同研究の協定がこれまでに8大学、11機関との間で計27件結ばれている。そのうち10件もが2013年の1年間だったから、最近急増していることになる。政府が2013年末に決めた防衛計画の大綱でも「大学や研究機関との連携充実で、防衛にも応用可能な民生技術の積極的な活用に努める」と明確に述べてある。これからますます大きな金づるになるだろう。

 大学は、井上ひさしの『ボローニャ紀行』にあるヨーロッパ最古の大学、イタリアのボローニャ大学のように、もともと権力とは独立したものとして生まれて育ち、それゆえ文化的で独自の価値を生み出してきた。しかし、いまの日本では、否応なしに権力に囲い込まれた形でしか暮らせなくなっているのである。

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