『日経サイエンス』1994年10月号巻頭言「百家争鳴」

フィールド研究の魅力

 テレビでお馴染みの黒田清さん(評論家、*)をビックリさせたことがある。私がこの春に出版した本(『日本海の黙示録――地球の新説に挑む南極科学者の哀愁』(三五館)を読んだ黒田さんが書評を書いてくださったときだ。「肉体労働は未開の響きさえ持つのが現代だ。しかし意外な分野にそれが残されている。たとえば地球物理学者の働く場所は、静かな研究室ではなく肉体労働が必要な現場なのである。」(月刊「宝石」1994年6月号

 黒田さんは大新聞の元社会部長。大抵の職業には通暁しているはずなのだが、私のような「肉体労働」の科学者には面食らったらしい。

 科学者というと白衣を着て顕微鏡を覗いているか、コンピューターと一日、にらめっこをしている姿が普通だろう。

 私の場合、研究室は世界各地の現場なのである。大小の船、ときには漁船を借りて日本近海で観測を続けているほか、この8年来は毎年、大西洋各地で欧州各国の船を借りて観測を続けている。南極海にも行った。北極圏の海にもインド洋にも行った。

 仕事はまるで船乗りだから、楽な仕事ではない。船が横に40度も傾くことも珍しくないし、ときには危険にも直面する。

 じつは私たちは地球物理学者の中でも少数派だ。机に座ったまま既存のデータを解析している地球物理学者のほうがずっと多い。こちらのほうがスマートで割がいい仕事だと思われている。

 私たちの立場は違う。新しい観測機械をつくって、自然を見る新しい「窓」を開きたい。もちろん結果が出るまでには時間がかかる。しかし研究の現場である最前線に出向いて、いままでは得られなかったデータを得て、はじめて学問を進めることが出来るのだ、と考えている少数派なのである。

 私の場合には、新しい窓とは海底地震計であった。深い海の底で地震の記録を取って帰ってくる機械である。私たちが海底地震計を始めたのは四半世紀ほど前になる。華やかに登場したプレート・テクトニクスの検証や発展のために、新しい地球物理学の「武器」が模索されていた時代だった。

 海底地震計は時代が要請しているように見え、また研究者にとっても手が届きそうにみえた。しかし大方の予想に反して、海底地震計はなかなか実現できなかった機械だった。実験室の機械ならば、具合いが悪ければ直せばよい。

  しかし海底に行ってしまう海底地震計は、ロケットや人工衛星のように、手を離れた後は、なすすべはない。それゆえ恐ろしく高い信頼性を要する。海底から帰ってこなかったら、その失敗からは学べない。世界中の研究者をてこずらせたジャジャ馬であった。

 この海底地震計をなんとか完成した私たちは、世界のあちこちで起きる地球科学的な事件を追って現場から現場へ渡り歩くのが仕事になった。

 研究の現場は遠く、そこへ行くための費用や輸送手段や、入国管理や税関や、驚くほど多くの俗世のハードルを越えなければ実験が始められない。そのうえ現場も海の上。荒れる海に翻弄され、荒天待機に人生の無駄を嘆きながらも、自分の身体をすり減らすことで成果を手に入れるのである。スマートとは言えず、割の悪い仕事である。しかしこれは自分で選び取った道だ。

 そのかわり、苦労の末に実験をやり遂げた喜びは、研究室にこもっている学者には味わえないものなのが私たちの慰めである。また大学院生など若い人たちが私たちの研究に次々に参加してくれているのも心強いことだ。


 私たちに役得もある。実験の途中で自然が垣間見せてくれる美しさや豊かな表情をときとして味わえることや、現場を踏むことを通していろいろな人と知り合いにもなれる。これも、フィールド研究の魅力なのである。

*)黒田清氏は2000年7月23日、すい臓がんのため大阪府摂津市の病院で死去されました。享年69歳でした。ご冥福を祈ります。

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