島村英紀・『公認「地震予知」を疑う』(柏書房)あとがき

 この本は、政府がやっている地震対策に対しての辛口の批判である。地震予知ができるのか、できないのか、どこがどのくらいむつかしいのか、それを政府は国民に十分に説明していないのではないか、と私は思っている。それゆえ辛口の本になった。その意味では、私の前作『地震学がよくわかる---誰も知らない地球のドラマ』(彰国社、2002年)を、「地震は人を殺さない、殺すのは人間が作った構造物だ」という「地震の研究者兼弁護人の弁明」として書いたのとは、志向を変えている。

 地震学者として地震を予知することによって人命を救い、役立ちたいという、どの地震学者も持っていた「初心」が、どのように国やお役人に「利用」され、各官庁の勢力争いや予算獲得に使われてきたかを、この本で書いてきた。

 そして、この傾向は、阪神淡路大震災以後、地震研究を旧科学技術庁系のお役人が主導するようになって、一層強くなってきている。

 東海地震騒ぎを契機にして大規模地震対策特別措置法(大震法)がつくられてから四半世紀。予想された東海地震が起きないまま、政府は2003年に東海地震対策大綱をつくった。一般に、日本の役所が誤りを認めることは、極めて稀である。この場合にも、施行後、多くの問題を露呈した大震法を廃止も改訂もしないまま、東海地震対策大綱を上塗りしてしまった。そのために矛盾が出て、かえって混乱を増すのではないかという恐れも書いた。

 お役人自身は「国益」のために働いていると思っている。しかし「国益」は多くの場合、省益に矮小化されてしまう。お役人にとっては、大事なのは自分たちは間違えないという面子や、自分が属する省庁の「省益」であって、国民ではないのだろう。この本に書いたように、地震予知計画での各省庁の競争は省益の競争でもあった。そういった省益が生き甲斐では、国民としては困るのである。

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 ところで、私が在職する大学も含めて、折しもすべての国立大学は2004年春に独立法人化を迎える。いままでのような「国立」の大学ではなくなり、経営陣を外部から招き、国の予算を「効率的」に使うことや、自分で金を稼ぐことが求められることになる。

 一見、合理化に見えるが、じつは基礎科学にとっては大きな危機を迎えることになる。独立法人では、数年以内に成果が出るような業績、もう少し有り体に言えば、明日のゼニになる研究だけが優先されることになるからである。

 すべての科学の内容を他人が判断することは不可能だから、求められる「成果」は、結局は論文や発表の数で数えられる。つまり、三振かホームランか、というバットの振り方はできなくなって、科学者の主な仕事は、内野越えの確実なヒットや、バントばかりを狙うことになる。息が長い、そしてリスクはあるが大きな成果が出るかも知れない研究は、前と違って、とてもやりにくくなるに違いない。

 じつは地震の学問をはじめ地球についての科学は、まさにこの、息の長い基礎科学なのである。私たち人類は文明の進展とともに地球を利用したいだけ利用して、いまや地球全体に及ぶ環境問題を引き起こしている。しかし、気象や海洋はもとより、私たちは地球そのものについて、まだ知らないことがたくさんあるのである。私たち人類が消費している地球の資源のほとんどは大地とその下から得ている。しかし、私たちが暮らしている地下のなりたちも、まだ十分に知られているわけではない。

 地球は46億年前に誕生してから、つねに姿を変え続けてきた。一度も同じ姿に戻ったことはない。空気や海水は地球がある段階で一度だけ作ったものだし、地震や火山は地球が生きて動いている、その息吹なのである。

 地震予知研究の行き詰まりは、前兆を追い求めることだけに過度の努力が払われたことに起因している。将来、地震予知ができるようになるとしても、それは、いままでのような前兆の発見競争ではなくて、地球の営みとしての地震の発生や、その元となるプレートの成り立ちや動きという基礎的な研究なしに、研究が進むものではない。その意味では、息の長い基礎研究がまだまだ必要なのが地球科学という学問なのである。

 しかし、あいにくなことに、日本の科学政策は、独立法人化を含めて、基礎研究を育てるのとは反対の方向に走っているように見える。お役人が考えた科学政策がまずあって、それに沿う研究だけに巨額の予算を支出して「お役人が育てる」というやり方である。しかも、この科学政策は、真の意味の「国益」ではなくて、原子力開発やロケットのような当面の政府の国策に裏打ちされているものだけが選ばれている。

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 自然現象としての「地震」と、社会現象としての「地震災害」とは別のものだ。この本に書いてきたように、同じ大きさの「地震」でも、それがどこを襲うかで「地震災害」の大きさが決まる。

 2003年12月に起きたイラン・バムの地震では、マグニチュード6.3の地震で4万人以上(*1)の死者が出てしまった。この地震のエネルギーは阪神淡路大震災を起こした兵庫県南部地震や鳥取県西部地震の30分の1しかなかった。

 私は以前、イランで起きた別の地震の被災地に行ったことがある。息を呑む風景だった。日干し煉瓦を積んだだけの家は、土の山に帰ってしまっていた。怪我人というのはあまりいないのです、と言った土地の人の暗い声を思い出す。家の中にいれば助かる見込みはほとんどない。たまたま屋外にいた人だけが助かっていた。

 しかし、庶民の家は、世界のどこでも、手元の材料を作って作る。木材も、もちろんコンクリートもない中近東や中央アジアの国々では、泥をこねて太陽で干しただけ、つまり焼き固めていない煉瓦で家を造るのが普通である。

 1999年にトルコ・イズミットを襲って3万5千人以上の命を奪った地震も同じだった。しかし、地震後に人々が建てていた家を見て、私は背筋が寒くなった。地震の前と同じ造りの家を建てていたからである。こうして、地震の大きな被害が繰り返されている。

 このように、同じ大きさの地震でも、それがどこを襲うかで地震災害の大きさが決まる。そのうえとくに日本では、同じ大きさの地震が同じ場所を襲ったとしても、文明の進歩とともに「地震災害」も、あいにくなことに「進化」を続けてきている。

 一方、「自然災害」という言葉もある。私の嫌いな言葉だ。欺瞞の用語だと思う。人類が作った文明がないところには災害はない。人類がいるから「自然災害」があるのだ。自然災害だから、と諦める前に人智を尽くすことこそが災害をくい止めるために政府や私たちが取るべき道なのである。

 このためには、国として「最善」の策をとってほしい。最善とは当面の政府や国体を守ることだけを目指すのではなくて、誰をも切り捨てず、地震で被害や影響を受ける人々のすべて、とくに弱者を守ることである。それこそが「国益」のはずだというのが私がこの本を書いた動機の一つなのである。

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 この本は、柏書房の編集者、橋口薫氏が私の著書やホームページを見てくださって、突然、札幌にいらっしゃって熱心に勧めてくださらなければ、世に出なかった。氏はまた編集者として、熱心に編集作業を進めてくださった。記して感謝したい。また、この本の第2章は岩波書店の科学雑誌『科学』の2003年9月号に載せたもの(*2)に加筆して転載したものである。

島村英紀注
*1) イラン・バムの地震の死者は、この本の出版後、2004年3月末になって約26000人と訂正された。現場の混乱による間違い、と報道されている。しかし、甚大な被害であることにはかわりがない。

2*) 担当編集者は2003年に着任された松永研氏である。
岩波書店の科学雑誌『科学』は、伝統的に地震予知批判の論説を掲載してこなかったが、編集者が代わったあと、2003年9月号からようやく、「両側」の説を載せるようになった。

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