地震予知の語り部・今村明恒の悲劇

(『武蔵野学院大学日本総合研究所研究紀要』 第7輯。2010年3月発行の原稿)



1:前書き

 東大助教授で地震学者だった今村明恒(いまむらあきつね、1870-1948)(右下の写真。その下は今村が作った「今村式三成分簡単地動計(いまでいう地震計のこと)」。『科学知識・震災号』、科学知識普及会、1923年から)は当時としては珍しく、地震予知に情熱を燃やした学者だった。当時の学界では、地震予知は星占いのようなあてにならないものと考えられていた(【追記:註】)。

 今村は関東地震(1923年)や東南海地震(1944年、マグニチュード7.9)がいずれ襲って来ることを予想して、為政者や人々に防災の準備を説いた。また地震予知の基礎になる観測網を展開することにも熱心だった。そのために私財も投げうった。

 しかし、いずれ大地震が来るという彼の警告には「世を騒がせるだけだ」という批判が巻き起こった。なかでも彼の直接の上司であった教授大森房吉(1868-1923)は批判の急先鋒であった。大森は、確たる証拠がない以上は無用な混乱を避けるべきだという、日本を代表する地震学者として、世間に対する責任感に突き動かされていたのだった。

 二人はことごとに衝突し、確執は深まった。「今村が予言していた関東地震は起きない」と公言していた大森は、実際に関東地震が起きて死者が10万人を超える大被害を生んだときは、たまたま学会でオーストラリアに行っていた。地震の報を受けて急遽帰国中に倒れ「今度の震災については自分は重大な責任を感じている。譴責されても仕方がない」という言葉を残して、ほどなく亡くなった。

 現代の科学知識からいえば、二つの大地震を結果として予知した今村も、地震が起きないとした大森も、どちらも科学的な根拠やデータを持っていたとは言えない。ここでは、この今村明恒の当時の著作や、大森など周囲の反応を読み解きながら、当時の地震予知の実情と、地震学者が鳴らした警鐘の意味を探る。

  これは現代にも通じる、科学者と社会との関わりの問題を含んでいる。


2:地震学と社会
2−1.社会に近い学問、遠い学問

 自然科学には、さまざまな種類がある。いろいろな分類の仕方があるが「一般人や社会に重大な関係があるもの」と「世間とはなんの関係もないもの」という分類もあろう。後者にはたとえば数学や天文学のうちの大部分がある。一方前者には、ガンの医学や地震学がある。

  しかし世間や社会になんの関係もないと思って研究していたものが、突如脚光を浴びて「役に立つ」こともある。素粒子物理学という、それまではなんの役にも立たないと思われていた基礎的な物理学が生んだ原子爆弾はその例である。

 じつは地震学はそれほど古い学問ではない。明治時代に、お雇い外国人科学者が日本に来て生まれて初めての地震に遭って驚き、それがきっかけになって誕生したのが世界でも初めての地震学だった。地震計も、彼らが日本で作ったものが世界初の地震計である。日本には地震もその被害も多いゆえ「研究の材料」には事欠かないので、その後、地震学は日本で大きく発達した。

 地震学は将来どこに、いつ地震が起きるという地震予知ができればもちろん、それ以外でも地震被害を調べたり予測したりすることによって防災科学として社会に貢献することができる。このため、現在に至るまで地震学は、社会から期待される学問であると同時に、社会に大きな影響を与える学問でもある。

2−2.今村明恒が生きた時代

 今村明恒は1870(明治3)年、薩摩藩士今村明清の三男として、鹿児島県鹿児島市に生まれた。1891年、21歳のときに、帝国大学(註1)理科大学物理学科に進学、1894年に大学院に進学して、発足間もない地震学講座で研究を始めた。その後、無給の講座職員として勤める傍ら、1896年から陸軍教授として陸地測量部で数学を教えて生計を立てていた。

 今村が勤めていた地震学講座は大森房吉が教授として采配を振っていた。大森は3年間の欧州留学後1896年に教授になった。大森は今村より2歳年上だった。

 ところで、この頃は大地震がたびたび日本を襲って、人々が不安や恐怖を感じ、地震への関心がとくに高まっていた時代だった。

 1891(明治24)年10月28日には日本の内陸で起きた最大の地震である濃尾地震があった。岐阜県と愛知県を中心に死者7273名、全壊建物14万棟という大被害を生んでいた。

 また首都圏でも1894(明治27)年6月20日に直下型の地震である明治東京地震が起きた。東京で24人、横浜と川崎で7人の死者が出るなど、東京の下町と横浜市や川崎市を中心にかなりの被害が出た。この地震では煉瓦建造物の被害が多く、とくに煙突の損壊が目立ったため「煙突地震」とも言われた。

 一方で、地震観測はまだ貧弱だった。現在は日本全国で1000点を超える地震観測点があるが、当時は年々増やされてはいっていたが、それでも1923年の関東地震直前でも国内と当時日本領だった台湾や朝鮮半島などをあわせても80カ所あまりしかなかった。

  この多くは中央気象台(現在の気象庁。註2)のものだったが、大学でも東京、京都、東北の各帝国大学が地震観測所を持っていた。ちなみに当時世界にあった地震観測所は約170カ所だった。日本は地震観測大国だったのである。


3.今村明恒の警告と社会の反応
3−1.雑誌『太陽』への寄稿と『東京二六新聞』の扇動

 人々が地震への不安を募らせていた一方、中央気象台の地震観測はまだ不備で職員に科学者も少なかったので、大学の地震の先生の言動は大きな影響力があった。

 今村明恒は地震を専攻していた科学者として、研究の成果を世の中に理解して貰い、震災の軽減を図ることに熱心であった。社会との関連や社会への影響が強い学問を研究している科学者としての社会的な使命だと考えていたのであろう。

 今村が一般向けの雑誌『太陽』の1905(明治38)年9月号に「市街地における地震の損害を軽減する簡法」という論説を発表したのは、1万人の死者を出したといわれる安政江戸地震(1855年)のちょうど50年後の1905年だった。

 その論説は、都市の地震災害、なかでも火災の危険を警告し「安政江戸地震から50年を経た。次の大地震までには多少時間があるだろうが、江戸に大被害をもたらした1649(慶安2)年の地震の54年後に1703(元禄16)年の元禄地震が発生した例もあることだから、災害予防のことは一日も猶予出来ない」と述べたものだった。

 今村の論説は、当初は冷静に受け止められた。しかし約4ヶ月後の翌1906(明治39)年1月16日に『東京二六新聞』が「今村博士の大地震襲来説、東京市大罹災の予言」とセンセーショナルに取り上げてから大きな騒ぎになった。

 その記事は次の文章で始まっている。「年の丙午、凶か吉か、あるいは言い伝えられているよう丙午の年には火災が多い。現に今年は新年以来各所で火災が発生、閑院宮邸も焼けたのを見よ。あるいは丙午の年には天災が多いとも言われる。現に新年以降二回の強震があり、大森海岸には津波さえあったのを見よ。」そして今村が東京大地震の襲来を予言した、とある。

 この新聞記事に扇動された大衆は恐慌を起こし、大きな騒ぎになった。

3−2.人々のパニック

 しかし今村の真意は、将来いつ来るか分からない大地震、なかでも火災の被害に備えよ、ということだった。地震が来ることを予言するのではなく、防災に力点が置かれていたのである。

 雑誌『太陽』の今村の論説は三部分に分かれていた。前段は「東京大地震の沿革と地震の地理的分布から見て、また起きる」「元禄地震、安政2年の東京直下型大地震などの大地震に繰り返し襲われる運命にある」「50年以内にこういった大地震が繰り返されることを覚悟しなければならない」と書かれている。

 中段は「大地震に襲われた帝都の惨禍」「危険薬品石油などで以前よりもずっと発火や延焼が多くなり」「地下の鉄管による水道の普及によって消防への過信、平常は効力が顕著なため各戸で井戸を埋め消防準備を怠った」「火災保険の普及で消防意識が麻痺」ゆえ「もし大地震が起きて水道鉄管が破壊されたら、帝都の消防能力は全く喪失」「東京市内各地の被害推測をした」「全市消失なら10万20万の死人も起こりうる」。

 そして今村は「後段ではその災害防止の手段を論じたつもり」で防災対策を訴え、「そして最後の部分にもっとも重きを置いた」と書いている(1)。

 しかし今村が『太陽』に書いた真意は理解されることなく、新聞に扇動された騒ぎは大きくなるばかりだった。

 このため今村の上司だった大森房吉は、『東京二六新聞』に釈明と取消の寄稿を出すように今村に指示することになった。この記事は元記事の3日後の19日に出た。

  記事は「これは雑誌掲載時に『震災を軽減する方案』として出したとおり、地震に備えなかった場合には惨憺たる災害を被ることを描いて、これに備える方法を述べたものだ。しかし、主眼としているこの後段を省いたうえ、丙午と絡めた地震の予言として載せたことは遺憾に堪えない」というものであった。

 今村は『東京二六新聞』の20年後に次のように書いている。「新聞ではこのはじめの条件、つまり消防施設の改良を施さなければということを削り、さらに、この厄災を免れる手段を削り、たんに大地震大火災大死傷が避けられない運命であるかのような、一種の予言として発表した。自分はこの誤りを直ちに訂正したが、この機会に限らず、民心の不安を惹起するものとして、大きな非難を浴びせられることになったのである」(1)。

3−3.「火消し」に追われた上司、大森房吉教授

 『東京二六新聞』1月19日への今村の寄稿後、『中外商業新報』、1月24日付けの『萬朝報』の二紙も今村の真意を汲んで、今村に好意的な記事を載せた。このため世論も落ち着きかけた。

 しかし情勢は急変した。2月23日に千葉沖の地震(M 6.3)で東京は軽震、翌24日に東京湾の地震(M 6.4)で強震を感じて横浜で煙突が倒壊するなどの小被害が出て人々が不安に苛まれたとき、中央気象台が発表したと偽って「24日夕方に大地震がある」と病院、役所、図書館、商館などにデマを電話で通知した者がいて、官憲が取締に乗り出す騒ぎになった。せっかく下火になった火の手が、また燃え上がってしまったのだ。

 これを受けて大森(右の写真。『科学知識・震災号』、科学知識普及会、1923年から)は民心沈静のために奔走することになった。そして同時に今村への攻撃を強めることになった。雑誌『太陽』3月号への寄稿や講演などで今村説を「東京大地震の浮説」「例の二十万死傷説」として「すこぶる峻烈を極めた」(1)非難を繰り返した。大森の講演や新聞寄稿はいつも今村説の非難から始まっていた。

 大森はこれらの論説や講演で「東京には今後何百年も安政地震のような大地震はないだろうが、もしあったとしても大火災を起こすことはないだろうし、10万の死人を生ずるというのは、まったく学術的な根拠のない浮説にすぎない」と述べている。

 大森が火消しに努めたせいで恐慌は静まった。しかし他方で今村は「市井の間には私利を謀るために浮説を唱えたとされ、友人からは大法螺と嘲けられた」「翌年の夏に帰省したとき、自分に対する非難の数々を転載した地方新聞を読んだ老父がいちいち弁解を求めたのには弱ったが、一年余も老父を心痛せしめたかと思って情けなくもなってきた」(1)という苦境に陥った。


4.今村の予言どおり起きた関東大震災
4−1.大森房吉の失意と悔恨

 しかし1923(大正12)年9月1日正午少し前、今村が18年前に警告していたことが起きた。関東地震(M7.9)が起きて神奈川県、東京市、千葉県では今の震度でいえば7(当時の震度階は現在とは違う)という激震に襲われ多数の家が倒壊した。

 それだけではなく、各地で出火した火が翌日朝までに東京市の大部分に燃え広がって火災旋風も起き、消防はなすすべもなく、10万人以上の死者・行方不明者を出すことになった。これは日本史上最大の地震被害であった。「震災の大部分は火災である。地震の被害は火災が起きることで激増する」(1)という今村の主張通りのことが起きてしまったのである。

 大森は学会でオーストラリアに行っていた。地震の報を受けて急遽、船で帰国中に、心労もあったのだろう、脳腫瘍で倒れた。今村は「横浜まで先生の出迎えに行った。上船して面会したが、自分の挨拶に対して、息も苦しげに”今度の震災については自分は重大な責任を感じている。譴責されても仕方がない。ただし、水道の改良について義務を尽くしたことで自分を慰めている”と言い終わるか終わらぬうちに嘔吐を始められた。興奮による発作とのことだった。」と記している(1)。

 なお、大森が言っている「水道の改良」とは、震災時に水道の鉄管が破損する危険を大森が主唱していたことを指す。

 しかし、前に挙げた『太陽』で今村がこの水道管の危険を主張したのに対して、今村説の火消しに懸命だった大森は「幸いにして東京市の道路は広く消防機械も改良されているので、昔のごとき大災害が再現することはなかろうと思います。無闇と恐怖心を抱くには及ばない」と書いた。

 それだけではない。大森は以前には「東京のように地震が多い地方で、今後40〜50年に間に大地震があるだろうというようなことは誰でも言えることで、これは地震予知と言うべきではない」と書いていたのに、今村を批判するために「東京地方は今後50〜60年間は大地震に見舞われることはあるまい。但馬一国は今後も大地震を起こすころはないだろう」とまで述べている。つまり、民心を静穏化させるために、大森は自説を曲げて、自分を追いつめてしまったのであった。

 大森の病状はその後も回復せず、関東地震後2ヶ月あまりで失意と悔恨のうちに亡くなった。ところで大森が地震が起きないとした但馬でも大森の死後、やはり但馬地震が起きてしまった。

(右上の写真は、関東地震の地震計による記録。今村明恒が本郷の帝大で記録した。しかし、記録は振り切れてしまっている。
『科学知識・震災号』、科学知識普及会、1923年から。左上の写真は、関東大震災で燃え尽きてしまった大蔵省。内務省社会局、『大正震災志写真帖』、1926年から。なお、このほかに内務省なども丸焼けになった。)

4−2.東南海地震を「予知」して観測を企画した今村明恒

 関東大震災は今村にとっては予測が的中したものだった。しかしもちろん、今村の心が晴れたわけではなかった。

 今村は地震後6年経った1929年に地震学会の学会誌『地震』に、次のように書いている。

  「関東大震災に於いては、其災害を軽減する手段があらかじめ講究せられなかったことは為政者の責任であったろう。

関東大地震の災害の九割五分は火災であった。水道管はあまり強大でない地震によっても破損して用をなさないものであるから、大地震の場合に於いては全然破壊されるものと覚悟しなければならぬ。

このことは大森房吉など科学者が最も力説したところだが、為政者は顧みなかった。筆者は、非常時に於ける消防設備の用意を怠れば大地震に伴う大火災によって市の大部分が焼失し、十萬あるいは二十萬の死者を生じ得べきことを論じ、これを未然に防ぐ手段を講じるよう警告したが、受け入れられなかった。

その予測がたまたま関東大震災の結果とほぼ一致してしまったのは筆者の最も恨みとする所である」。

  今村にあれほど非難の矢を浴びせた大森に恨み言を言うでもなく、その業績を持ち上げている。

 また、関東大震災の直後に出版された一般向けの本でも「地震学の泰斗大森博士は、震災と消防の関係について深く憂い・・警告を発せられた。・・自分も大森博士の驥尾に付して、機会あるごとに・・」と書いた(11)。

 1925年に但馬地震、1927年に北丹後地震が発生した。大地震は関東にしか起きないというその頃の俗説は覆されたのであった。今村はその後も積極的に活動した。

 これらの地震を見て、今村は次の大地震は東南海地震だと考えた。ここでは過去に1854年、1703年、1695年に大地震が繰り返されており、次が近々起きる、というのが今村の考えであった。しかし、具体的な前兆を捉えていたり、次の地震の発生について精密な数値的な予測をしていたわけではない。

 これを監視するために1928年に和歌山に南海地動研究所を私費で設立した。この観測所はその後、東京大学地震研究所和歌山地震観測所になって、現在でも地震観測が続いている。

 1931年に今村は東大を60歳で定年退職していたが、その後も研究意欲は衰えず、陸地測量部(現在の国土交通省国土地理院)に特別に依頼して、1944年に東海地方で水準測量を行っていた。水準測量とは土地の微小な上がり下がりを測る測量で、普通は地図を作るための測量だが、このときは来るべき大地震を予測した今村が地殻変動のデータを集めていたのであった。

(右上の写真は、関東地震後、続発する余震に怯えて屋外で開かれた初閣議。 内務省社会局、『大正震災志写真帖』、1926年から。なお、左手前で、閣議中も帽子をかぶり腿に手を置いて、いまにも逃げ出せる態勢を取っているのは当時の山本権兵衛首相(伯爵。外相を兼務していた)である。<この写真の左端が首相であるという説明は『大正震災志写真帖』には出ておらず、大日本雄弁会講談社、『噫!悲絶凄絶空前の大惨事!! 大正大震災大火災』、1923年による>。
 左上の図は、今村明恒が関東地震後に精力的に歩きまわって調べて描いた「震域図」(『科学知識・震災号』、科学知識普及会、1923年から)。
  なお、「紀要」にはこれらの写真や図は載せていません。)

4−3.東南海地震も予測どおり起きて

 そして、東南海地震も今村が予想したように起きた。1944年12月7日だった。水準測量は、たまたまそのわずか1週間前に、静岡県中部にある掛川(かけがわ)から北西に向かって約6キロメートルの区間で行われていた。

 測量そのものは、東南海地震の予知には役立たなかった。しかし、測量の途中で意外なことが起きていた。水準測量のような精密な測量では、尺取り虫のように区間を移動しながら測量を進めていくのだが、測量の精度を上げるために、往きだけではなくて、帰りにももう一度測量を続けて、元の地点に戻ったときの誤差を確かめる。元の地点に戻ったときには誤差はゼロになるのが普通だった。

 東南海地震が起きたのは12月7日の13時35分だったが、その前の日から当日の午前にかけて、九つの測量区間の二つの区間で、普通の測量では考えられない大きな測量誤差が出てしまって、技師たちは首をひねっていた。その誤差は、ひとつの区間では4.3ミリメートル、隣の区間では4.8ミリメートル。これは水準測量としては大きすぎる誤差だった。

 そして、その直後に大地震が起きたのであった。これが大地震の前兆であったかどうかは現在でも科学者の間で意見が分かれている。しかし現在、東海地震が予知できるという気象庁の根拠にされているのは、じつはこのデータが唯一で、ほかにはないのである。

 こうして今村の予想通り1944年に志摩半島南東沖を震源として東南海地震(M7.9)が起きた。三重、愛知、静岡県を中心に1200人以上の死者行方不明者を出したほか、航空機産業の中心だったので軍用機の生産に多大な被害を生んだ。「逆神風が吹いた」と言われている。しかし第二次世界大戦中だったために地震の被害の報道は固く伏せられてしまった。新聞の報道も差し止められた。

 その後、戦後すぐの1946年12月にも四国南方沖で南海地震(M8.0)が起きた。死者行方不明者は1,400人以上、家屋全壊12000戸、半壊23000戸という大きな被害を生んだ。ここでも地震への備えは地震に追いつかなかったのである。

 東南海地震を予想して観測を行っていた今村は、東南海地震後には南海地震の発生を警告していたが、防災対策が間に合わず、被害が軽減できなかったことを悔やんだ。


5.当時の地震学にとっての「地震予知」
5−1.今村だけが突出して取り組んだ「地震予知」

 じつは今村の時代には「地震予知」という言葉はなかった。地震は「予言」、「予測」、「予報」されるものだったのである。「予言」はもっともあてにならないもので、今村はこのうち、将来起きるべき地震とその被害の「予測」を目指していたのであった。このうち地震の予測は難しいと考えていたが、震災については「私は予言ではなく、確実な見通しを持った予測と言いたい」(1)と書いている。

 当時、およびその後しばらくの地震学の教科書や一般書を見ても、「地震予知」の言葉はない(2-5)。しかし、同じような内容を持つ「地震の予測」についても、当時の地震学者は今村と違って及び腰であった。

 地震学者で東北帝大教授だった中村左衛門太郎が1924年に著した『地震』では地震の予測についての章も節もなく、わずかに「大地震の前震」という記述が1頁あるだけだ。その内容も、前震かどうかを見分けるのは難しい、と書いた後、前震とも考えられる二つの例を挙げているにすぎない(3)。なお中村も関東大震災の被災者だった。この本のあとがきには、「下大崎の避難所に於いて」とある。

 その中村左衛門太郎が18年後の1942年に著した著書『大地震を探る』でも地震の予測については、わずか4頁を「地震予報の種類」に割いているだけである。そしてその内容は予報一般について述べただけで内容はほとんどない(4)。

 また地震学者で1933(昭和8)年に東大の地震研究所長になった石本巳四雄が1936年に著した『地震とその研究』には地震の予測については章も節もない(5)。

5−2.今村の目的は震災軽減

 じつは「予測」には積極的だった今村が地震全般について1924年に書いた『地震講話』でも「予知問題」は3頁半、それに比べて「震災軽減問題」は3頁、「震災を避けるべき位置の選定」は7頁、「建築材料」は6頁、「築造法」は12頁だから、今村自身も「予知」よりは震災の防止に力を入れていたことが分かる(2)。

 このほか、今村明恒が1937年に英文で書いた地震学一般についての教科書(14)でも、13章のうちで地震予知に類するものは第4章「いくつかの目立つ地震現象」のなかに前震について書いた3節と、第9章「いくつかの巨大地震」のなかの地震前の地殻変動についての1節のみである。なお、この本では最後の第13章を「震災の軽減」に割いている。やはり「予知」よりは震災の防止に力を入れていたのであった。

 今村は関東地震も東南海地震も過去の地震歴から「予測」した。しかし、これは現代の言葉で言う「予知」ではない。「いつ、どこで、どのくらいの規模で」起きることを予知することからは遠く、「いつ」ではなく「いずれ」「やがて」「いまに」という程度であった。

 正確に「いつ」起きることを予測する技術も理論もなかった。ちなみに、当時だけではなく現在の地震学でもこれは無理である。

 このことは今村も十分承知していた。しかし「いずれ」「やがて」「いまに」襲ってくる大地震に備えておくことで震災を軽減しなければならない、というのが今村の信念であった。

 今村の時代には、前に述べたように地震観測点の数も限られていて研究に使えるデータも少なかった。このため地震学の多くの努力は起きてしまった地震の調査に向けられた。この調査を通して今村は火災が出た場合と出なかった場合の区町村ごとの死者数を調べている。その結果、火事が出なければ被害は最小限で済むことを知って火災や延焼の防止を訴えたのである。

 また「いずれ」「やがて」「いまに」ではあったが、「どこで、どのくらいの」地震が起きるかということも過去の地震歴から予想した。これが1905年に発表した関東地震の予想であり、その後の東南海地震の予想であった。しかしすでに述べたように、今村の警告が本意どおりに受けとられなかったのは悲劇であった。

(右上の写真は、関東地震の東京での震度。今村明恒が歩きまわって調べた。なお、震度は現在の震度階とは異なっているが、東京の下町で震度が大きかったことは、この図からよくわかる。いまなら震度7相当である。
『科学知識・震災号』、科学知識普及会、1923年から。なお、「紀要」にはこの図は載せていません。


6.結語

 自分が研究していることが少しでも社会に役立つのなら、それを発表して世の中の理解を得たい、というのが今村にとっての強い衝動であった。今村は「20年前に東京大地震を予言したのも、惨禍を想像したときに、世間の一時の迷惑や悪評を顧慮することができなくなったからだ」と書いている(1)。

 しかし社会への今村の働きかけは素直には受け入れられなかった。むしろ反感を呼んで、言論の機会を失わされた。身体的な危害を与えられかけたことさえあった(1)。

 一方大森も一流の研究業績がある科学者であった。しかし、確たる証拠がない以上、無用な混乱を避けるべきだという、日本を代表する地震学者として、世間に対する責任感に突き動かされていたのであろう。自説を曲げてまで部下の今村を批判して抹殺しなければならなかったのは大森にとっても悲劇であった。大森は自分で自分を追い込んでしまったのである。

 二人の確執は防災への備えを遅らせたばかりではなく、生産的なものをなにも残さなかった。

 今村は1925(大正14)年8月28日の『東京夕刊新聞』に「地震国民が当然持たなければならない地震に対する理解を、どうにかして国民全般に徹底させなくてはならない。自分は民衆ともっとも関係が深い新聞記者及び新聞社から地震を理解する我々の味方を得たいと思っている」と書いた。しかし、大衆を煽るセンセーショナルなメディアは、じつは今村の味方ではなく、そして大森を追い込んだ張本人でもあった。

 科学の現状を正確に伝えたり、あるいは地道な震災の対策を訴えるよりは、大衆に媚びて面白おかしく、ときには恐怖を扇動するメディアの悪しき性癖は、じつは現代にまで続いている。

 ところで現在の科学からいえば、今村が大地震の繰り返しとして挙げた安政江戸地震は東京直下型の地震で、海溝型の地震である元禄地震や関東地震とは起きた場所もメカニズムも別のグループの地震だった。つまり、これらを同列の地震と考えてはいけなかったのである。もちろん、当時の地震学のレベルから言えば、このことは分かっていなかった。

 現在の知識では関東地震の繰り返しは300年程度に1度と思われている。つまり関東地震が今村の警告後18年で、つまり「待っている間に」起きたのは偶然だったろう。東南海地震も同じで、それぞれの地震は、あと数十年起きなかった可能性もある。たぶん、今村には科学というよりは、ほとんど動物的ともいうべき勘があったのであろう。

 じつは現代でも、地震や噴火の前に、あやふやな根拠でも一般に知らせておいたほうがいいのか、確たる根拠がないならば、無用な混乱やパニックを防ぐために発表しないほうがいいのかというのは、気象庁や学者の頭をよぎる、古くて新しい大問題なのである。


7.参考文献

1.今村明恒、『地震の征服』、南郊社、1926年、392頁、定価3円20銭。
2.今村明恒、『地震講話』、岩波書店、1924年、291頁、定価2円。
3.中村左衛門太郎、『地震』、文化生活研究会、1924年、246頁、2円50銭。
4.中村左衛門太郎、『大地震を探る』、河出書房、1942年、154頁、1円20銭、5000部発行。
5.石本巳四雄、『地震とその研究』、古今書院、1936年、348頁、3円20銭。
6.中央気象台、『大正4年12月刊行 地震観測法』、1915年、中央気象台、92頁、1円。
7.科学知識普及会、『科学知識・震災号』、科学知識普及会、1923年、96頁、60銭。
8.科学知識普及会、『科学知識・震災踏査号』、科学知識普及会、1923年、112頁、60銭。
9.科学知識普及会、『科学知識・新年復興号』、科学知識普及会、1924年、73頁。
10.朝倉義朗、『東京大地震史』、日本書院、1923年、266頁、60銭。
11.大日本雄弁会講談社、『噫!悲絶凄絶空前の大惨事!! 大正大震災大火災』、1923年、316頁、1円50銭。
12.信定瀧太郎、『写生図解 大震記』、日本評論社出版局、1923年、189頁、2円50銭
13.内務省社会局、『大正震災志写真帖』、1926年、190頁。
14.Akitune Imamura、『Theoretical and Applied Seismology』、丸善、1937年、358頁、定価7円。
15.和達清夫、『地震の顔』、自由現代社、1983年、290頁、1800円。


8.註

註1:ここにある「帝国大学」とはいまの東京大学のことである。1886(明治19)年に公布された帝国大学令によって設立された大学が帝国大学だが、当初は一つだけだった。

1897(明治30)年以降は、帝国大学令に基く大学が複数となったので、同令によって設置された大学群の総称となり、東京帝大、京都帝大というように個別の名前を冠するようになった。

帝国大学は最終的に、内地に7校、外地(ソウルの京城帝国大学と台北帝国大学)に2校設置された。

註2:日本の気象観測は明治初期から五月雨式に始まっていたが1884(明治17)年から「東京気象台」で全国の天気予報の発表を始めた。1887(明治20)年に東京気象台を「中央気象台」と改称、当時は内務省に属していた。

1895(明治28)年に文部省に、さらに第二次大戦中の1943(昭和18)年に運輸通信省に移管された。

戦後すぐの1945(昭和20)年に陸軍気象部など軍の気象部門も統合されて運輸省の配下になり一時は職員数は約7000人を優に超えるまで増えた。1956(昭和31)年に「気象庁」になった。


【紀要以後の追記:註】
  じつは、1970年代になってからも、私が尊敬する地震学者である宇津徳治さん(気象庁>北海道大学理学部>名古屋大学理学部>東京大学地震研究所で定年。故人)が、地震予知を卒論にしたい、と申し出た学生の相談を受けたときに、「そのようなテーマは功遂げ名を上げた大家が道楽でやるものだ」と一蹴なさったという。
 日本の地震予知計画が始まっていた1970年代でも、”良識ある”地震学者は、そのように考えていたのである。なお、この学生はその後、大手出版社の理科系の編集者になった。


地震学者が大地震に遭ったとき-----関東大震災から二ヶ月間の今村明恒の日記・注釈付きの現代語訳
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