今月の写真
ハイチの大地震は、地震学者にとってはデジャビュ(既視感 deja vu)なのです
(今回はカラー写真以外は島村英紀が撮った写真ではありません)


カリブ海のハイチで、都市直下型の大地震が起きた。2009年1月12日、現地時間では16時53分のことだった。10万人を超える犠牲者が出たと伝えられている。

ここはカリブプレートと北米プレートとのプレート境界が陸上を通っており、プレート境界の横ずれによる地震が起きやすいところである。これほどの大地震は百年以上ぶりだというが、いままでも、そしてこれからも、この種の大地震が繰り返す場所である。(なお、プレート境界が陸上を通っているところは、南米の南端にもある)。

そのうえ、ハイチでは政府が不安定で治安が悪かったことが報道されている。食糧支援での混乱や、大量に生まれた震災孤児の収容が、世界でも最貧国の悲劇として、まるで他人事のように、日本では伝えられている。「他山の石」どころか、まるで他の宇宙の出来事のように考えられているのではないか。

しかし、私たち地震学者から見れば、ハイチから配信されてくる画像は、デジャビュ(既視感 deja vu)なのである。

1923年9月1日に関東大震災が起きた。東京や神奈川、そして周辺の県にも大災害をもたらした関東地震が、やはりプレート境界で起きて、10万人以上という、日本史上最大の地震の犠牲者を生んだ地震である。

いちばん上の写真は、食糧や水の配給に手を伸ばして受けとろうとしている人々、そして左の写真(上)は、震災孤児たち、(下)は、地震で職を失った人たちが職業斡旋所に殺到している光景だ。

つまり、ハイチで起きていることは、かつて日本でも起きたことなのである。そして、これから日本を襲う地震でも、また私たちが経験しないとも限らないものかもしれない。


右の写真は、上野広小路の松坂屋百貨店の惨状。建物はすべて崩れ落ちたり焼け落ちたりして、わずかに、正面玄関の門扉だけが残っている。

なお、この松坂屋上野店は1907(明治40)年に、それまでの呉服店から百貨店へ脱皮したばかりだった。

この辺は地震の翌日の夜から、翌々日の朝にかけて燃えてしまった。地震で出火した火は、地下の水道管が地震で破壊されたためもあって、手がつけられないほど燃え広がってしまった。これは、地震学者今村明恒が、この地震の18年も前に警告していたことであった。

10万人を超える犠牲者の大半は焼死者であった。なかでも被服廠跡(今の東京都墨田区横網)では周囲から避難してきた38000人もが火災旋風に襲われて焼死する惨事が起きた。

いま、横網公園には震災記念堂が建てられているが、訪れる人は少ない。

この震災記念堂は1930(昭和5)年に建てられた。 当時の東京帝大教授で建築家だった伊東忠太らの設計・監督で作られたものだ。



また、ここでは関東大震災で犠牲になった学童約5000人を記念した、彫刻家・小倉右一郎によるブロンズ像も建てられている。

なお、この像は、その後第二次大戦中に政府によって強制された金属供出によって溶かされて軍需物資になってしまった。

いま見られる像は、戦後の1961年に小倉の高弟によって再建されたものだ。この像も「戦災」の受難者なのである。



関東大震災の記念像としては、左のものもある。これは中央区銀座の数寄屋橋にある。交番の裏の、目立たないところに建っている。

震災の10周年を記念して、昭和8年9月1日に建てられたもので
彫刻家・北村西望が製作したものだ。北村西望は長崎の平和祈念像を造った作家でもある。

(【追記】なお、長崎の平和祈念像は東京で作られた。都下武蔵野市・吉祥寺駅近くの井の頭自然文化園には北村のアトリエが残されており、右下の写真のように、平和祈念像を作っていく過程でのさまざまなモデルがある。2010年9月に撮影)

そのためか、長崎の像と似た雰囲気の、国籍不明の雰囲気である。足許の犬は、まるで沖縄のシーサーのようだ。

この関東大震災の記念像は朝日新聞が寄付を募り、標語も募集した。像にある銘板の「不意の地震に不断の用意」は、十余万の応募から選ばれたものだ。

しかし、こちらの像は、上の学童像のように、戦時中に金属供出で持っていかれて溶かされた記録はない。”第四の権力”である新聞社がバックについていたからなのであろうか。

なお、この像のすぐ近くに朝日新聞社の本社があった。新聞社が1980年に中央区築地に移ってからも、跡地に建てられた有楽町マリオンの階上の見晴らしのいいところに、社の談話室が残っていた。

ここは築地よりは都心に近いので、社の記者やOBたちと会うのには便利だったのだが、近年、経費削減の一環として、その談話室も閉鎖されてしまった。

ちなみに、朝日も読売も毎日も、移転先は国有地を払い下げて貰い、また元の社屋の土地や建物を持ち続けた。これは、”第四の権力”だけではなく、国家権力にも伝統的に近かった日本の新聞社ならではであったろう。


左の写真は、関東大震災で燃え尽きてしまった大蔵省。

このほか、文部省、鉄道省など官庁街は丸焼けになっていた。内務省も、跡形もない







右の写真は震災で燃えさかる警視庁。

(上から3枚と5枚目の古写真は、内務省社会局、『大正震災志写真帖』、1926年から。また松坂屋と警視庁の2枚の
写真は大日本雄弁会講談社、『噫!悲絶凄絶空前の大惨事!! 大正大震災大火災』、1923年から。 震災記念堂と児童弔魂像は2007年12月撮影。北村西望の像は2006年8月撮影。ともに撮影機材はPanasonic DMC-FZ20

地震学者が大地震に遭ったとき-----関東大震災から二ヶ月間の今村明恒の日記・注釈付きの現代語訳

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