今月の写真
1954年に水爆実験で被災した「第五福竜丸」と科学者の「生き甲斐」について

東京の江東区夢の島というところで、この第五福竜丸は静かに寝ている。

第五福竜丸は総トン数140トン、全長約30メートル、高さ15メートル、幅6メートルの木造船。1947年に和歌山県で建造され、初めはカツオ漁船として操業し、後にマグロ漁船に改造され遠洋漁業に従事した。

1954年に遠洋マグロ船として太平洋中部のマーシャル諸島近くで操業中に、米国が近くのビキニ環礁で行った水爆(水素爆弾)の核実験で多量の死の灰を浴びた。

実験当時、第五福竜丸は米国が設定した危険水域の外で操業していた。しかし、この船をはじめ、危険水域の外で操業していた日本の遠洋マグロ船1000隻近くが被害を受けた。漁船の被爆者は2万人を超えたと言われている。

第五福竜丸でも漁船員全員が被曝し、この船の無線長だった久保山愛吉さん(当時40歳)が亡くなった。「原水爆の犠牲者は、わたしを最後にしてほしい」の言葉が残されている。

だが。これだけの被害があったのに、日米両政府は「日本政府はアメリカ政府の責任を追及しない」確約をして事件の早期決着を図った。「賠償金」としては事故翌年の1955年に200万ドル(当時約7億2000万円)が支払われたが、「賠償金」という名目ではなく「好意による (ex gratia)見舞金」として支払われたものだった。

太平洋中部にあるビキニ環礁で米国が行った水爆実験は米国が想定していたよりもはるかに大きな爆発だった。それゆえ米国が設定した危険水域の外で多くの漁船が被曝してしまったのである。

米国はこの爆弾の威力を4 - 8Mt(メガトン)のTNT火薬相当と見積もっていたが、実際の威力はその予想をはるかに超える15MtのTNT火薬相当であった。

原子爆弾や水素爆弾など、兵器としての核開発に携わったのは、もちろん科学者たちであった。

私の持論によれば、最前線の科学者は孤独な戦士なのである。科学者とは、外から見れば研究の成果というエサを追って車輪を廻し続けるハツカネズミにすぎないのかも知れない。

兵器開発の科学者も同じだ。開発している兵器の威力を大きくすることが「科学者としての生き甲斐」になる。それゆえ、想定したよりも大きな爆発を起こしたこのビキニでの実験は、ある意味では「輝かしい成果」なのかもしれない。

しかし、この兵器開発に限らず、学問の最前線というものは、それを担っている孤独な戦士たち、つまり研究者たちの人間じみた競争や足の引っ張り合いなどのドラマ
が演じられている世界でもある。私は著書(たとえば『地球の腹と胸の内――地震研究の最前線と冒険譚』など)に何回か書いたことがある。

そして、そういった競争の末に作られるものは、癌の特効薬かも知れないし、地震の完全な予知かも知れないし、また、新しい核爆弾のような恐ろしいものかも知れない。

じつは、そのどれを研究している「ハツカネズミ」も、同じような顔をして、同じように車を廻し続けているのだ。話題になった理化学研究所の科学者も同じだろう。科学とは、そのようなものなのである。

科学者とは、ときには国家という見えない巨大な掌の上で踊ることにもなる。その大きな掌から見れば、科学者とは、悪く言えば使い捨ての消耗品にしかすぎないのかもしれない。

しかし、たとえ掌の中の研究とはいえ、その中で喜怒哀楽に生きざるを得ないのが科学者というものなのである。


第五福竜丸は、水爆実験での被爆後は練習船に改造されて東京水産大学(現東京海洋大学)で使われた。ワケアリの古い木造漁船を買ってきたというのも貧乏な大学ゆえかもしれない。

1967年に老朽化したので廃船となり、エンジンなど使用可能な部品が抜き取られた後に夢の島の隣の第15号埋立地に捨てられた。

だが同年、東京都職員らによって「発見」されると保存運動が起き、その後夢の島公園に東京都が作った「第五福竜丸展示館」に展示されている。

年間400校以上の小学校、中学校、そして高校などからの団体見学があると同館のホームページにはあるが、しかし、展示館はふだんはひっそりしている。子供たちが作ったのだろうか。いちばん上の写真の右端に見えるが、千羽鶴がいくつか吊り下げられている。

第五福竜丸は戦後の混乱期に作られた木造船で、全速でも7ノット(時速13km)しか出ない。舵(右写真)も木造だ。


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