今月の写真
東日本大震災から1年半たっても。

2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震が引きおこした東日本大震災。モーメント・マグニチュード9という巨大地震が大津波を生み、死者と行方不明者、あわせて2万人近くの犠牲者を生んだばかりでなく、辛くも生き残った人々にも大変な苦しみを与えた。

いや、過去形では語れまい。被災地の苦しみは、まだ続いている。そして、東京電力の福島第一原子力発電所の大事故が引きおこされたばかりに、震災からの復興や、そのための政府の支援や、国民の関心が、かなりの程度、殺がれてしまっているのは否めない。

ここは、岩手県陸前高田市。先がすぼまっている広田湾に入ってきた津波は、海岸沿いの平地に拡がっていた市街地を破壊し尽くしただけではなくて、海に流れ込んでいた気仙川沿いに7kmも遡上して、はるかかなたに海を望む内陸や、海がまったく見えない山地の奥までなめつくした。

こうして人口23,000人ほどの陸前高田市だけで約2,000人もの犠牲者を生んだだけではなく、かつての市街地では、鉄筋コンクリート造りの中層ビルの残骸が残っているだけで、すべての木造建物がなくなった。

ビルの4階までのガラスはなく、5階建ての中層アパートでは5階だけが辛うじて原形をとどめている。

市中心部は市庁舎をはじめ、郵便局や病院や消防署も壊滅し、市の全世帯中の7割以上が津波で破壊された。震災後、一時は「陸前高田全市が壊滅した」と伝えられたほどだった。

右の写真は、広田湾(左側に一部が見える)沿いを走る国道45号線のバイパス。かつては道の両側に商店や旅館やガソリンスタンドが建ち並んでいたのだが、津波で一掃されてしまった。荒涼とした平地が拡がっている。

上の写真は、窓も内装もなくなってしまった市民体育館と中央公民館(後方)前に、東北地方太平洋沖地震以来、放置されている、津波の被害を受けた車。津波の力のすさまじさが、車をここまで破壊した。

そして、この車から生えた木や草の植物の大きさは、震災以来、1年半の時間が経過したことを示している。

しかし、この時間の間に、復興は一部を除いて、遅々として進んでいない。人々が生きる糧である産業は、水産業や農業だけが、相対的には厚い国の手当があるほかは、ほとんどが中小規模の商業や工業は、はるかに手当が遅れている。 これは、それぞれを管轄する省庁の熱意が違うせいだ。とくに経済産業省は、大企業にしか顔を向けていない。

陸前高田に限らず、北隣の岩手県大船渡市(地震前の人口は40,600、死者行方不明者は500)や、南隣の宮城県気仙沼市(地震前の人口は73,000、死者行方不明者は1,500)でも、水産業・水産加工業などは工場や設備の復旧も進んでいるが、商工業は、はるかに遅れている。わずかに、プレハブの仮設商店街が作られたくらいのものだ。

また、線路が完全に破壊されてしまった大船渡〜陸前高田〜気仙沼の鉄道(大船渡線)を復旧する見通しは、まったく立っていない。なお、大船渡線は、岩手県一関市の一ノ関駅から気仙沼市、陸前高田市を経由して大船渡市の盛駅を結んでいた東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線だ。全線が単線で非電化なので、気動車が走っていた。全長106kmに25の駅があった。

仮設商店も、安全な高台には平地が少ない場所ゆえ、あちこちに分散して建てられた仮設住宅も、入居期限は、わずか2年間だ(このうち、仮設住宅だけは2012年4月に、1年間の延長が決まった。それでも、たった3年である。阪神淡路大震災のあとでは、期限の来た入居者に、露骨な追い出しが行われた)。

陸前高田でいえば、街の再生計画や、高台移転計画は、レールに乗っているとはとうてい、言えない。どういうビジョンで再生させるのか、また、たとえ一時的に国や県の金を得てインフラや設備を作ったとしても、将来、それらを維持する莫大な金が地元の自治体が用意できるのかの見通しも、ない。

東北地方太平洋沖地震前から、人口減に歯止めがかからなかった沿岸の過疎地帯。たとえば陸前高田は1970年の3万人から20%以上の減少をしていた。東日本大震災からの復興の遅れが、地域の存亡のとどめをさしてしまうかもしれないのである。


東日本大震災後、岩手県の国道などにつけられた津波表示板はこちらへ(こちらにもあります)


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