今月の写真
成田空港に刺さったトゲ 象の檻

2012年10月に成田空港から飛行機に乗ったら、空港内の誘導路の右側に、突然、こんなものが見えた。まるで象(ゾウ)の檻(おり)だ。

沖縄県にあった楚辺通信所(2007年に撤去された)や青森県の三沢飛行場にある姉沼通信所の米軍の電波傍受施設と似ている。沖縄や青森の檻は、遠くの電波を捉えるためのアンテナだ。巨大な檻のように見えるので「ゾウのオリ」と呼ばれた。

しかし、こちらで空港(成田国際空港株式会社)が作った巨大な檻に囲まれているのは、成田空港の反対派の横堀団結小屋の鉄塔である。下層部分に人が立っているのが見えるだろうか。じつは、これは人ではなく、ほぼ等身大の彫刻で、沖縄の彫刻家、金城実さんが作った「抗議する農民」である。

檻は、頑丈そうな巨大な鉄筋コンクリートの柱と金網で作られている。なお、この檻は空港でのもっとも「目障りなところ」に建っているが、ターミナルビルの旅客からは見えないところに立っている(右下の写真)。

航空機の発着を妨害するために、反対派は写真にある高い鉄塔を建てた。そして、この檻は、後の2008年5月に作られた。そのときに、横堀十字路からこの鉄塔につながる道が、途中からトンネル化された。つまり、この檻はトンネルで空港外につながっている。

2011年10月、千葉地裁はこの団結小屋を撤去し、土地を明け渡せという地主原告の訴えを認める判決を下した。被告は空港反対同盟である。他方、原告はかつて空港反対を掲げて闘った元・反対同盟員の地主であった。もちろん陰には空港会社がいて、訴訟をやらせていたのだが、この原告と被告の構図や、檻に囲まれた団結小屋が、成田空港の積年の問題点を象徴している。そして2012年4月、東京高裁も原告の仮執行を認める判決を言い渡した。

この問題は1960年代にさかのぼる。当時、年々増大していた国際航空輸送を担っていた羽田(東京国際空港)は手狭で、当時の運輸省は、首都圏内の他の場所に新空港を建設する検討を始めた。

こうして「新東京国際空港」の計画が立ち上がり、はじめは千葉県富里村(現・富里市)を建設予定地としていたが、地元自治体と調整は難航していた。そのため、1966年に佐藤栄作内閣は、予定地を同県成田市の三里塚(さんりづか)に突然、変更した。国有地である宮内庁下総御料牧場があるので用地買収が簡単だろうと考えたためである。

しかし、地元には寝耳に水であった。地元との合意どころか、地元への説明さえもなかった。そもそも御料牧場は空港予定地の4割弱に過ぎなかったから、政府は、残りの6割もの土地の代替地の準備もしていなかった。

このため、農民を中心とした地元住民は猛反発し、「三里塚・芝山連合空港反対同盟」を結成して反対活動を始めた。当初は社会党や共産党などの革新政党からの支援を受けての反対運動だったが、やがて既成革新政党は反対運動から手を引き、新左翼各派が支援する形で、”三里塚”は当時の日本でいちばん先鋭化した反体制運動になっていった。

用地買収が進まなかったため、政府は土地収用法による行政代執行を1971年に2回、行った。機動隊と反対派農民や支援者の激しい衝突が起き、9月の第二次代執行では「東峰十字路事件」が起きて、警察官3名が殉職した。

こうして一期工事の用地を取得して空港の建設が始まったが、反対派は1972年に鉄塔(この写真の鉄塔とは別の鉄塔。4,000メートル滑走路南側延長上に設置した12基の鉄塔)を建てて航空機の妨害を図るなど対抗して、政府は当初の1972年開港を断念せざるを得なくなった。

なお、このときの鉄塔は1977年5月に撤去されたが、このとき、鉄塔の撤去に抗議する反対派と機動隊が衝突し、支援者1名が死亡した。

1978年春に予定されていた開港直前の3月に「成田空港管制塔占拠事件」が起きた。革命的共産主義者同盟を主力とするゲリラが成田空港の管制塔に乱入して、管制塔内の機器を破壊したほか、反対派農民を支援する新左翼の活動家約4千人が空港に乱入した。このため開港が約2ヶ月遅れたが、ようやく5月20日に開港した。

開港後も反対派はゲリラ活動や滑走路の延長線上でアドバルーンを上げたり、タイヤを燃やしての航空機への妨害が続いた。このため政府は同年5月に「新東京国際空港の開港と安全確保対策要綱」(いわゆる「成田治安時限立法」)を制定した。このとき、この立法に国会で反対したのは青島幸男氏ただ一人で、すべての革新政党は賛成にまわった。革新政党は、すでに成田空港反対派から離れていたのであった。

1966年以来半世紀近くたって、農民の老齢化や死去も目立つ。切り崩しにあったり、新左翼でよく起きる分裂で、反対派も、いくつかに分裂した。しかし当初から計画されていた横風用滑走路はまだ作られておらず、空港反対運動は、いまだに続いている。その象徴のひとつが、この、象の檻に囲われた鉄塔なのである。

ところで、ドイツ南部にあるミュンヘン国際空港も、やはり1960年代、つまり成田空港とほぼ同じ時期に、(この場合はドイツ随一のフランクフルト空港が手狭になったので)建設が考えられ始めていた。しかしこの空港は、成田空港に「多くを学ん」で、時間をかけて反対派も十分に説得して建設された。建設の決定から着工までに20年ほどかけた一方、着工後はたった5年ほどで完成し、1992年5月に開港した。

空港はドイツ南部のバイエルン州の州都ミュンヘン郊外にあり、市内から 28 km 北東にある。成田空港から都内よりもずっと近い。

2011年の福島の原発事故から、多くを学んで、2022年までに全土の原発を廃棄することを法律で決めたのもドイツである。「先生」である日本は、いったい、なにをしているのであろう。

【追記】 青森県の三沢飛行場にある象のオリが閉鎖されるという報道があった(2012年10月7日、共同通信「青森の米軍「象のオリ」解体へ 巨大アンテナ無線傍受終了」。1965年から旧ソ連、中国など極東地域の無線を傍受してきた巨大アンテナは老朽化に伴い、今年中に運用を終了する。国内最後の一つだった。東西冷戦を象徴した米軍の巨大アンテナが国内から完全に姿を消す)。

【追記2】 2017年1月にも、この「象の檻」はまだ、そのままの形で残っていた(左上の写真)。
成田空港に刺さったトゲはまだ抜けない。

【追記3】2021年8月終わりにも、この「象の檻」(左端)はまだ、そのままの形で残っていた。ただ空港は拡張していて(右上の写真)、まわりの山林や畑を切り開いて大きな駐機場などが出来ていた。誘導路は「象の檻」を迂回するせいで、随分複雑になっている。

 

【追記4】 2021年8月始めにも、この「象の檻」はまだ、そのままの形で残っていた。巨大な檻に囲まれた成田空港の反対派の横堀団結小屋の鉄塔だ。下層部分に立っている彫刻、金城実さんが作った「抗議する農民」は檻の中の木が茂って見えなくなってしまっている。目の前は駐機場に使われている。


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