今月の写真
EUでもっとも貧しい国・ルーマニアの”定規”


 写真はルーマニアの学童用の”定規”。ルーマニアの形をしており、主な都市に丸い穴が開いていて、それぞれの都市名が書いてある。これは私が1985年に同国で買ったもので、裏には1982年製造、定価1.5レイとある。

  ペンで外形をなそったり、穴を通して丸い印を描くことによって、子供たちに地理を教える。なかなかいい教材である。

 でも、丸い形の、ひとつながりの国はうらやましい。日本では、このような”定規”は作れない。まして島が7000もあるというフィリピンではとても無理だ。

 ルーマニアの面積は24万平方キロメートルで、日本の本州とほぼ同じ、人口は約2000万人である。もっとも、この人口はかつてのチャウシェスク時代に、産めよ増やせよで、政策的に増やした結果で、もともとはもっと小国であった。

 この青灰色のプラスチック定規の大きさは長い方のさしわたしが約22センチである。首都ブカレスト(現地の発音ではブクレシュティ)は矢印の先、つまり国の南部、隣国ブルガリアに近いところにある。

 私が最初にルーマニアに行ったのは20年以上前、チャウシェスクの時代だった。当時のルーマニアは貧しく、また秘密警察が市民の動きをあちこちで監視している暗い国だった。科学者が私を自宅に呼んで食事をさせてくれるときにも、事前の承諾が必要だった。自家用車はごく限られた人々だけのもので、地方では馬車が普通だったし、また農業用のトラクターで曳いている幌もない”馬車”が人々の、普通の移動手段だった。

 しかし同時に、ルーマニア人の多くはラテン系で、「さよなら」を「アリベデーレ」と、イタリア語(「アリベデルチ」)によく似たいい方をする。ルーマニア語は中・東欧唯一のラテン系言語なのである。このため、気分も人種もイタリアに近く、暗い世相の中では人々の親切さと、国全体の暗さに比べて意外なほどの明るさも目立つ国だった。

 もっとも、ルーマニアには多くのハンガリー人と、ロマ(ジプシー)とが住んでいて、ルーマニア人と三つ巴でおたがいに軽蔑し合っていたり警戒しあっている。昔移住してきた、かなりのドイツ人さえいて、おたがいに人種の摩擦を起こしている。人種的にも、いろいろ複雑な国なのである。

 一方で、ルーマニアにはヨーロッパには珍しい地震国でもある。

【以下は島村英紀『地震学がよくわかる---誰も知らない地球のドラマ』から・その1】

 東欧圏随一の地震国であるルーマニアは1977年に起きた大地震(マグニチュード7.2)で当時の発表で1500人、実数は6000人以上という阪神・淡路大震災なみの死者を出した。当時のチャウシェスク大統領の独裁体制は、被害の実態、つまり国の弱みが国外に漏れるのを強権で抑えたのだ。

 この地震の被害は、首都ブカレスト(写真の矢印)に集中していたが、じつは震源はブカレストから190キロメートルも離れたところにあった。

 しかし、そればかりではない。震源の深さは130キロもあった。なお、190キロというのはブカレストから深いところにある震源までの直線距離だ。震源の真上のことを震央というが、震央までは150キロであった。世界では、これよりも深いところに地震が起きる場所がいくつかあり、日本もその一つだが、こんな深いところに起きた地震で、これほどの被害を出したことは、他にはない。

 ルーマニアの地震は世界でも珍しい起きかたをする。北海道の面積の四倍もある国だが、地震が起きるのは、そのうちのごく一部、面積でいえば札幌市よりひと回り大きなところに限られる。

 そのうえ、浅いところにも、また深いところにも起きない。起きるのは深さにして60キロから180キロまでの間だけだ。1977年の大地震もここで起きた。つまり、まるで短い柱のような形をした地震の巣が地下に埋まっているのだ。この柱は、地球の中に潜り込んでいったプレートの端切れではないかと思われている。

 いや、この地震の巣である柱も、もしかしたらプレートの一部だけが見えた可能性がある。プレートそのものはもっと長く続いているものなのかもしれないからだ。世界の他の場所でも同じだが、地震が起きてはじめて、地震の巣としてのプレートが見えるのである。プレートそのものを直接に見る方法はほとんどないのが実状なのだ。地震を起こさない長く延びたプレートがあって、その一部だけが地震を起こしていることは、十分にあり得る。#

 ところでルーマニアでは、その地震以来、多くの地震学者が地震や地球物理学の研究に取り組んでいるので、研究レベルも高く、地震学者の数も多い。

 しかし最近(註:この本を書いた2002年現在)の経済状況は目を覆うばかりだ。物価だけは西欧並みになってしまったのに、科学者を含めて人々の月給は2万円ほど、それも2ヶ月も遅配している。また科学者にとっての糧である研究費もほとんどゼロになってしまっている。

 私たちはここ15年来ルーマニアと共同研究を続けていて、私の作った観測機械もルーマニアに設置してあるのだが、その機械の維持もままならない。科学者を含めて人々の生活は気の毒だが、科学のためにも残念なことである。

 せめて共同の研究を続けようと、私の研究所では2001年にルーマニア人の地球物理学者に客員教授として来てもらった。約四ヶ月の滞在だったが、彼にとっては日本で貰う日本人並みの給料は、本国の何十倍にもなる夢の給料であった。

 しかし、彼が帰国したときに、そのかなりの部分を、税金としてルーマニア政府に取り上げられてしまった。貧しい国の悲しい物語である。

【以下は島村英紀『地震学がよくわかる---誰も知らない地球のドラマ』から・その2】

 ブカレストは東欧のパリと言われた美しい町だった。古い石造りの美しい建物が並んでいた。しかし戦後、当時のソ連の影響下で、モスクワの町に増えたのと同じような鉄筋コンクリートのビルが増えてきていた。

 当時のソ連や東欧圏では、モスクワで作っているのと同じ標準的な設計の建物を建てるのが普通だった。先端に赤い星を戴いた、西洋の寺院のような尖塔のある高層ビルや六,七階建ての無味簡素な巨大アパートが、各地で建てられた。

 これらの建物は地震がないモスクワやワルシャワ(ポーランド)だけで建てられたのではなかった。たとえば極東のサハリンでも、モスクワと同じ設計の巨大アパートがいくつも建てられていた。

 1995年にサハリンで北サハリン地震(ネフチェゴルスク地震、マグニチュード7.6)が起きたときに、この「モスクワ標準」に悲劇が起きた。このアパート群は一瞬にして瓦礫の山と化してしまったのである。この町は石油採掘のための町だったが、アパートの壊滅で2000人以上の死者を出した。瓦礫の山からは、いったい何階建ての建物があったのか、とうてい分からないほどの崩れ方であった。

 ルーマニアでも、同じような「モスクワ標準」の建物が造られた。しかし、サハリン以上にまずいことがあった。それは、美しい石造りの建物も、一階をガラス張りにした商店やオフィスが「近代的な」ものとされ、ブカレストの建物は、こぞって一階の壁を取り払い、時には柱さえ取り払って、大きな開口部を持つ建物に改造してしまったことだ。

 つまり建物は、建った当時よりも、はるかに地震に弱いものになってしまっていたのだった。また、地震が起きないモスクワと同じ建物は、そもそも地震には耐えられないものだった。こういった「近代化」や「社会主義化」がすべて裏目に出たのが、ルーマニア大地震の被害だったのである。


 しかしチャウシェスクが1989年12月25日にルーマニア革命(ルーマニア西部の都市ティミショアラから始まった。ティミショアラは写真の”定規”のいちばん西の穴にあたる)で失脚し、革命軍にエレナ夫人とともに銃殺刑によって公開処刑されたあと、ルーマニアは「民主化」されて、見違えるようにいい国になったのだろうか。

 残念ながら、そうではなかった、と私は思う。

資源も少なくなく、農業もさかんなルーマニアは、その後も、貧しい国であり続けている。2007年1月1日に、ようやく欧州連合(EU)に加盟したものの、加盟のときにも、欧州理事会によって再審査されたほどで、加盟後も改革を続行するという条件で承認されたものだ。

  私が知っている、外国に逃げて暮らしていた学者の多くも、ルーマニアに帰ってはいない。「帰れる祖国」を待ちきれずに、ブラジルで客死した知人もいる。

 いわゆる「民主化」はかつての東欧圏のどの国にも、陰の部分がある。そもそも「民主化」とは、西側の大国の都合による”やらせ”や押しつけである面が強い。翻弄されるのは、いつも小国なのだ。

その民主化の陰がもっとも濃いのが、ルーマニアなのである。

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