今月の写真
日本で最初に発見された恐竜の足跡は垂直の壁にありました


国やフランスなどには、恐竜の足跡の化石がいくつか見つかっていて、なかには多くの観光客を集めているところもある。

しかし、日本では、1980年代の半ばまで、恐竜の足跡の化石は見つかっていなかった。最初に学問的に確認されたのは、この写真の足跡である。その後は、いくつか見つかっている。認定したのは松川正樹博士(東京学芸大学理科教育学科)だ。いまは県の天然記念物に指定されている。

ここは群馬県の山中。1985年8月にJAL日本航空のジャンボ機(123便、東京羽田発の大阪伊丹行)が墜落して520名の命が奪われた群馬県多野郡上野村の御巣鷹の尾根から約7kmしか離れていない神流町中里地区だ。

上の写真の二つの穴は二足で歩いていた大型の恐竜の足跡で、右下の写真のように、道路沿いの切り立った崖のかなり高いところにある。もともとは海底で平らだった岩が、その後の地殻変動で、このように立ち上がってしまったものだ。長い年月の間には、このように、水平だったものが立ち上がったり、さらに曲がったりする(褶曲する)ことは珍しくはない。北極圏のスピッツベルゲンにも、このような褶曲が大規模に見られる。

さらにその右下にも、もっと小型の恐竜の足跡もある。これは、上の二つほどはっきりはしていないが、右上から左下に伸びているのは小さな二足歩行の恐竜が何匹か歩いた多くの足跡である(画面中央から下にかけて見られる)。これら二足で歩く恐竜は「獣脚類」といわれている。

足跡のまわりにある、細かい凸凹は、1億2000万年前の白亜紀に、いまは海からはるかに遠いここが海だったときに、水深の浅い「流れのあと」が砂の上に残って化石となったものだ。「漣岩(さざなみいわ)」と言われている。

浅い海には凸凹がある、それがそのまま化石になったものだ。その後の地殻変動によって崖となって姿を現した。

この崖は写真の右側に写っている国道に面している。国道299号線だ。国道といっても、中央線がないところが多い、山中を抜ける細い道だ。車がすれ違うことも出来ない道幅のところが多い。

かつては武州街道と言われた道で秩父困民党が追われて(いまの長野県の)小海に逃げた歴史的な道でもある。

国道299号は、長野県茅野(ちの)市から、ここを経由して埼玉県入間(いるま)市に至る国道である。この国道は日本の国道で二番目に標高の高い峠(標高2127m)を超える。この峠は八ヶ岳を超える(長野県茅野市と佐久穂町の境である)麦草峠だ。なお、日本の国道の最高地点は国道292号にある渋峠の2172mである。

じつは、この足跡の崖は、1953年にこの国道299号線の道路工事をしていたときに現れたものなのだ。もちろん、最初はなにか分からなかった。分かったのは30年もたってからであった。

ここ中里は関東では数少ない白亜紀の地層が露出している場所だ。そのため、昔から多くの学者・学生が地質や化石の調査に訪れていた。若き松川博士もその一人であった。

足跡がつけられた当時、ここは海に面した河口の三角州だったことが分かっている。それは、この付近で見つかった貝の化石が真水と海水が混じる汽水域にいる種類であることや、地層の性質などから分かった。また、植物の化石から、当時はいまのこの地方よりはずっと暖かい熱帯や亜熱帯の、しかも乾燥気候であったと考えられている。

意外に聞こえるだろうが、当時「日本列島」はなかった。日本は、まだ、ユーラシア大陸の東の端にくっついていたのである。日本列島が誕生したのは、いまから2000万年前(*註)、つまり恐竜がこの世界から絶滅して、ずいぶん時間がたってからであった。

それにしても、偶然ながら、この足跡が垂直に近い壁、しかも、写真に見られるように道路から高いところで発見されたのは、あるいはいいことかもしれない。もし簡単に手が届くところだったら、”拓本”をとりたがったり、もしかしたら、切り取って持って帰りたいマニアの標的になったかも知れないからである。

(2009年10月。群馬山中の国道299号線武州街道で。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ20。上の写真はレンズは120mm相当、ISO (ASA) 100、F2.8、1/125s、下の写真はレンズは36mm相当、ISO (ASA) 80、F2.8、1/80s

註)pdfファイルです。お手数をかけて恐縮ですが、見えない場合、pdfファイルが読めるミラーサーバーのホームページから入り直してくださいますか。


 

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