島村英紀が撮った火山の写真
島村英紀『火山入門――日本誕生から破局噴火までに掲載した写真のカラー版(島村英紀撮影)と、追加の写真)


20頁:アイスランドのラキ火山。1783年に世界中に影響した大噴火をした。典型的な割れ目噴火で、火山の列がはるか水平線まで延びている。

ラキ(ラカギガル)火山は、普通なら海底にある中央海嶺が、たまたま陸上に見えているものだ。

このため、海嶺にたくさん並んでいるような活火山が、線上に並んで噴火する。この火山は1783年にアイスランド最大の噴火をしてアイスランドに大被害を与えたほか、世界の気候を変えてしまった。日本でも約10万人が亡くなった天明の飢饉の原因の一つにもなった噴火である。

以下は「島村英紀が撮ったアイスランドの写真」から

アイスランドのラキ火山。両側から引っ張られているアイスランドの火山は日本とは違った噴火をしている。この火山も割れ目噴火で、見渡すかぎりの距離に、火口が直線状に並んでいる。

中央の火山の左側にある小さな白いものはバス。この火山は1783年にアイスランド最大の噴火をしてアイスランドに大被害を与えたほか、世界の気候を変えてしまった。

噴火後の飢饉で当時のアイスランドで人口の21%もが亡くなった、ほか、羊の約80%、牛の50%、馬の50%が死んだと記録されている。

それだけではない。ラキ火山の噴火は、その後数年にわたってヨーロッパに異常気象をもたらした。そして、1789年に起きたフランス革命の大きな原因にもなったのだ。

フランスなど欧州各国ではこのラキ火山の噴火から舞い上がった火山灰の影響で、1785年から数年間、農業生産が落ちた。そして旱魃が起き、夏や冬に悪天候が続いた。これらによる貧困と飢饉がフランス革命を引き起こしたのであった。

また、同じ年(天明3年)には浅間山が大噴火した。の浅間山からの火山灰はグリーンランドの氷河をボーリングしたときに見つかっている。

噴火から200年たって、ようやくコケが地面を覆った。(1996年9月に撮影)


アイスランドは地熱の国でもある。地下のマグマが大量の地熱を運んできてくれる。

右の写真に見える地熱採取所から、直径1mもある太いパイプ(円内)が地下から出てくる熱水を運ぶために、首都レイキャビックまで50kmほどを地表に這っている。(この写真は本には載せていません)。

以下は「島村英紀が撮ったアイスランドの写真」から

左側に見える金属の太いパイプ(円内)が50kmほど離れた首都レイキャビックまで大量の熱水を送っている。

温水の量が多いし、温度も高いので、レイキャビックに着いたときにも、温泉の温度は90℃を越えている。 つまりレイキャビックは、二酸化炭素を一切出さないで暖房をまかなえるし、温水も使い放題なのである。

アイスランドの多くの家では、家で使った温水を庭にある温室に導いて、そこで花や野菜を作っている。

なお、手前に見える丸いものは、牧草を丸めたロール。冬の間の家畜の大事な食べ物だ。(1994年8月に撮影)

左の写真は地熱採取所の内部。ステンレスの配管が多く、とても清潔な工場である。( この写真は本には載せていません)


右の写真はアイスランドにあるギャオ。北米プレートとユーラシアプレートがここで同時に生まれている場所だ。(この写真は本には載せていません)。

玄武岩の高い崖が続いている。

左の写真もギャオ。(この写真は本には載せていません)。

以下は「島村英紀が撮ったアイスランドの写真」から

落ちれば命が危ないくらいの高さの崖が続いているので、北海道大学から連れて行った大学院生は、崖の端に立つのをとても怖がった。

割れ目が延びていっている先に煙が立っているところが、地熱採取所だ。煙ではなくて、じつは水蒸気が上がっているのである。(1991年8月に撮影)


右の写真は1990年に撮ったギャオ。人間と比べるとギャオの大きさが分かる。
(この写真は本には載せていません)

なお、湖の対岸に見えるものは地熱採取所である。


左の写真はアイスランド北部のクラフラに出現した溶岩原。(この写真は本には載せていません)。

数十年に一度、このように大量の溶岩が出てきて、新しいプレートが作られる。

水平線の近くにある黒っぽいところまでが出てきた大量の溶岩である。

以下は「島村英紀が撮ったアイスランドの写真」から

いまでも、あちこちに蒸気が噴き出していて、歩くと靴の底が焼けるように熱くなる。

出てきた溶岩は水平線近くまでの地表(はるか彼方に見える黒と灰色の境まで)を埋め尽くした。

中央に立つ人と比べると溶岩のスケールがいかに大きいかわかるだろう。

溶岩流はここアイスランドに限らず、各地で見られる。宮沢賢治も溶岩流についての詩を書いている。 (1991年8月に撮影)


二酸化珪素が少ない玄武岩質のマグマは、粘性が低い。このため、右の写真のような、まるで「魔の山」のような景色がアイスランドにはある。(この写真は本には載せていません)。

以下は「島村英紀が撮ったアイスランドの写真」から

地球深くから出てきた溶岩が冷えて固まって出来たアイスランドでは、ほかの地域にはない特異な地形が見られる。

陰鬱な天気の日に、一人でここを訪れた私は、まるで魔の山を発見したような気持ちになった。

1990年7月、アイスランド内陸のソリス氷河の近くで


23頁:大西洋のまん中にあるアゾレス諸島。火山の島。

(これらの写真は本には載せていません)。

以下は島村英紀のホームページ「 著書『地球がわかる50話』(岩波ジュニア新書)の写真をカラーで見てみれば(島村英紀撮影)」から

アジサイは日本の花だが、ヨーロッパへ江戸時代に(禁を破って)持ち込まれたアジサイは各国に植えられた。ここアゾレス諸島では気候がちょうどよかったのか、島中にアジサイが咲き誇っている。

ポルトガルの最高峰は本土にはなく、このアゾレス諸島にあるピコ山だ。高さは2300メートル。富士山と似た、とても形がいい山だ。


アゾレス諸島・ファイアル島ホルタの港から見た隣の島、ピコ島とピコ火山。なお、右上と左のこの2枚の写真はアゾレス諸島のファイアル島から撮った。ピコ火山は、ピコ島という別の島にある。

なお本土の最高峰は2000メートルに6メートルほど足りないので、山頂に7メートルの鉄塔が建っていて、人々はそこへ登って満足する。

ホルタの港は漁港でもある。多くの漁船が出入りしていて、伊勢エビや深海魚なども上がっている。大きなマグロが上がったときには、はるか日本まで飛行機で送られることになる。それがいちばん高く売れる手段だからである。


アゾレス諸島は地熱の島。地熱発電もさかんだ。右の写真の中央でさかんに水蒸気を出しているのは地熱発電所。

サンミゲール島にて。遠くの海岸沿いに町が広がっている。








以下は島村英紀のホームページ「人間が起こした地震」から

雨といえば、アゾレス諸島では、雨が降ると地震が起きる。

アゾレス諸島は7つの島からなるが、そのどれもが火山島で、島にある山頂上に登ると、足下に深い火口がぽっかり口を開けていて足がすくむ。

ここでは雨が降ると約2日後に、被害は起こさないが人間が感じる程度の地震が起きる。つまり火山のカルデラに雨がしみこんで、その地下水が地震を起こすのである。


24頁:アゾレス諸島の石畳の道。白い石はここでは産しないので、本土ポルトガルから持ってきた石灰岩だ。

アゾレス諸島サンミゲル島ポンタデルガタで撮影。道路にある標識は書いたものではなく、白い石を埋め込んである。

以下は島村英紀が撮ったシリーズ「道」から

欧州ではどこにでもありそうな、古い町にある石畳の道。欧州の車のサスペンションは、必ず、こういった石畳の道を快適に走破することを考えて設計されている 。

しかし、このポルトガル領アゾレス諸島での石畳の道は、他と違う。それは、プレートが生まれている大西洋中央海嶺から海面上に突き出した島であ るアゾレス諸島には、マグマが固まった火山岩しかないからだ。


つまり、島にある岩は、どれも真っ黒で、ほとんどが玄武岩である。このため、アゾレス諸島では、大理石や石灰岩のような白い石を、わざわざ、ヨーロッパ本土から運んできている。道に「描かれた」道路標識や縁石の白いものがペンキではなくて、こうして運んできた白い石を一個一個、埋め込んであるのが分かるだろう。


アゾレス諸島は9つの島からなるが、ここはサン・ミゲル島、島の人口が10万という、アゾレス諸島ではもっとも人口の多い島で、その首都ポンタデルガタには約5万人が住む。

しかし、アゾレス諸島の島同士は、長野県の各市町村や、あるいは四国各県のように、官庁や学校を取り合うなど、お互いに張り合っている。つまり、他の島では、ここを首都と認めたがらないのである。


40頁:北海道・樽前山

北海道の活火山、樽前山(たるまえやま。標高は最高点の樽前ドームが1041m)。写真は北側、支笏湖からの樽前山。特徴的な溶岩ドームがよく見える。なお、白く見えるものは5月末にまだ残っている残雪。(
この写真は本には載せていません)。

【本書から】

 また、噴火して火山の山体が作られた後は、火山は大量の水の「天然の浄水装置」になる。つまり平地よりも雨が多い山地で集めた雨水が火山体の中を伏流水として通って、火山の麓(ふもと)から大量の湧水として出てくるのだ。

 この湧水は量が多く、どんなに日照りの年でも枯れることはないので、麓の農業を支えてくれる。

 この水は火山体で漉されて浄化された水だし、温度も年間を通して一定なので、人間が使ったり飲んだりする水としてもとても適している。ちなみに地下水の温度はその土地の年間平均気温になる。つまり東京では約15℃、札幌では約7℃である。これは年間の気温変動がせいぜい数〜十数メートルにしかしみ込んでいかないことに由来している。

 この大量の湧水は工業にも使われる。たとえば富士山の南側の山麓に製紙工業や写真フィルムの工業が発達したのも大きな山体を持つ富士山の伏流水のおかげである。樽前山の湧水を使っている北海道・苫小牧の製紙工場や、雌阿寒岳の伏流水に頼っている北海道・釧路の製紙工場も同じ構図なのである。


しかし、写真に見えるように樽前山は巨大な溶岩ドームを頂上に背負っている。噴火したときに、これが崩れて、大規模な火砕流が起きるのではないかと心配されている。

左の写真は山頂近くから見た溶岩ドーム。いかにも地中から押し出されてきたようなゴツゴツした溶岩があちこちから噴気を上げている。この溶岩ドームが出来たのは1909年だったが、いまだに温度はとても高い
(この写真は本には載せていません

右下の写真はドーム中央部。登山禁止と言われなくても、登れるものではない。

そこには左下の写真のように、警告板が立っている
(この写真は本には載せていません

とてもまずいことに、苫小牧の市街地は、太平洋岸に沿って西へ西へ拡大してきていて、いまや、樽前山からの火砕流の通り道にまで、大学や住宅地が拡がっている。

なお、この太平洋岸には函館から札幌への幹線鉄道である室蘭本線や、函館から札幌への幹線道路である道央自動車道や国道36号線も走っている。

また、この火山は北海道の玄関口、日本有数の乗降客が出入りする千歳空港のすぐ西側にある。もし、噴火したら、北海道への大動脈が止まることになる。

ちなみに過去1739年の樽前山の噴火で出た火山灰や溶岩の量は、1707年の富士山の宝永噴火(富士山の最後の噴火で、富士山の3大噴火のひとつ)のものよりもずっと多かった。

なお樽前山はその前1667年にも宝永噴火以上の大噴火をしたことがある。これらの噴火ではいずれも、大量の火山灰を噴出して、この山から東に大規模な火山灰を振りまいた。

右の写真は、40kmほど北にある札幌市内から見た樽前山の山頂部。シルクハットのような形の溶岩ドームが目立つ。噴気が各所から上がっているのが見える。(この写真は本には載せていません)。

左の写真は南側、太平洋上からの空撮。右手に見えるのは支笏湖。
(この写真は本には載せていません)。なお、背景に見えるのはニセコの連山。

(上4枚の写真は2015年5月に撮影、その下の写真は
2003年10月、いちばん下の写真は2013年1月に撮影)



40頁:北海道・雌阿寒(めあかん)岳(1499m)

(
これらの写真は本には載せていません)

北海道の活火山のひとつである雌阿寒岳。道東にあり、標高は1499 m。

2015年4月現在、県別でもっともたくさんの活火山で噴火警戒レベルが設定されているのが北海道だ。北海道では十勝岳が噴火警戒レベルが2とされているほか、有珠山、雌阿寒岳、樽前山、北海道駒ヶ岳が噴火警戒レベル1で、合計5つもある。

【本書から】

 また、噴火して火山の山体が作られた後は、火山は大量の水の「天然の浄水装置」になる。つまり平地よりも雨が多い山地で集めた雨水が火山体の中を伏流水として通って、火山の麓(ふもと)から大量の湧水として出てくるのだ。

 この湧水は量が多く、どんなに日照りの年でも枯れることはないので、麓の農業を支えてくれる。

 この水は火山体で漉されて浄化された水だし、温度も年間を通して一定なので、人間が使ったり飲んだりする水としてもとても適している。ちなみに地下水の温度はその土地の年間平均気温になる。つまり東京では約15℃、札幌では約7℃である。これは年間の気温変動がせいぜい数〜十数メートルにしかしみ込んでいかないことに由来している。

 この大量の湧水は工業にも使われる。たとえば富士山の南側の山麓に製紙工業や写真フィルムの工業が発達したのも大きな山体を持つ富士山の伏流水のおかげである。樽前山の湧水を使っている北海道・苫小牧の製紙工場や、雌阿寒岳の伏流水に頼っている北海道・釧路の製紙工場も同じ構図なのである。


右の写真は弟子屈(てしかが)町標高550mの美羅尾(びらお)山から見た雌阿寒岳(左)と雄阿寒岳(標高1370 m、右)。雌阿寒岳は噴煙を二ヶ所から上げている。

雌阿寒岳も、今後の噴火が心配される活火山である。過去何度も噴火したが、雌阿寒岳が見える範囲に住民が入植したのは1900年代初頭以降だったので、いままでは大きな被害はなかった。幸い、その後の大規模な噴火はない。

 いまでも火山の周辺は無人で集落などはなく、国道や道道、いくつかのドライブインや宿泊施設が点在するだけなので、雌阿寒岳では大規模な噴火が起きない限り大きな被害は生じないと考えられている。

(1998年10月。上の写真は雌阿寒岳の北側を通っている阿寒横断道路から、中の写真は雌阿寒岳の北東40kmにある弟子屈の美羅尾山の山頂から、下の写真は2001年10月阿寒横断道路から撮影)


49頁:北海道濁川の森地熱発電所

右の写真の地熱発電所は1982年から稼働している北海道・渡島(おしま)半島にある森地熱発電所。

出力は50MW。これは北海道にある他の火力発電所にくらべると、1/14〜1/70という小さなものでしかない。

日本全体でも、地熱発電は発電量の約0.3%にしか達していない。


55頁:現在の浅間山 (2568m)

春の浅間山。2013年2月に南側の山麓から撮った。

以下は島村英紀のホームページ「今月の写真」から

1783年に大噴火して、アイスランドのラキ火山とともに、天明の飢饉を引きおこした。

この山、浅間山(標高2,568m)は美しい山だが、日本にとっての疫病神だった。

たとえば江戸時代の1783年(天明3年)に歴史に残る大噴火をして、噴火の直接の犠牲者だけでも1500人以上を数え、その天明年間に東北地方で約10万人の死者を出した天明の大飢饉も、この浅間山の大噴火で出た火山灰が太陽の光を遮ったためではないかと言われている(註)。

この1783年の噴火は日本の過去の火山噴火の中でも十指に入るほど大規模なもので、火山から噴出した火山灰や熔岩や火山弾の量は1億立方メートルを超えた。なお、このほか総噴出量が1億立方メートルを超えた大規模な噴火としては、1707年の富士山の宝永噴火(東北地方太平洋沖地震なみの巨大地震と考えられている宝永地震の49日あとに噴火した)や1914年の鹿児島・桜島の噴火などがある。

グリーンランドで氷河を掘っていくボーリングをしたときに、このときの火山灰が見つかったこともあり、この噴火で舞い上がった火山灰は、地球を半周したことになる。

その約30年後、インドネシアにあるタンボラ火山も1815年に大噴火をしている。地元では噴火後の食料枯渇のための餓死を含めて、92000人もの死者を生んだ。また天明の浅間の噴火の半世紀後の1833年にはインドネシアのクラカタウ火山が大噴火をした。噴火は火山島ひとつが吹き飛んでしまったほどのすさまじいもので、地元の死者は36000人にものぼった。噴火による気圧の変動は、地球を7まわりしたものさえ記録されているほどの噴火だった。

これらの噴火後5年間にもわたって、太陽が異常に赤っぽく見えたり、ビショップの環が見えたりした。噴火で舞い上がった火山灰は、そんな長い間、漂っていたのだ。「核の冬」と同じように、舞い上がった火山灰は世界の気候を変え、冷夏を招き、農作物の不作をひき起こした。火山の大きな噴火は世界の気候さえも変えてしまう。

じつはこの浅間山の大噴火と同じ年の1783年に噴火したアイスランドのラキ火山も噴火した。そして、その影響は広く及び、それによる飢饉は1789年に起きたフランス革命の一つの原因になったと言われている。

影響はフランスだけではなかった。ヨーロッパでも北のほうにある国々では、農作物は、生育できるぎりぎりの寒冷な気候のところで栽培されている。文明が進み、人口が増え、必要な食糧が増えたとしても、ちょっとした気候の変化で、作物の収穫量が上下する。日本でも、食べていけなくなった農民が立ち上がった百姓一揆が各地で頻発したのも、この時代である。

冷夏が来るたびに飢饉が繰り返された。多くの悲劇が伝えられている。なかでも18世紀にはたびたび冷害が襲い、おびただしい餓死者が出た。多くの人たちが、土地を離れざるを得なかった。

ノルウェー、ポーランド、アイルランド。これらの国々で食えなくなって米国に渡った移民は多い。暗殺されたケネディ元大統領はアイルランドの、またかつての駐日大使だったモンデールはノルウェーの、またかつての大統領特別補佐官のブレジンスキーはポーランドの、それぞれ移民の末裔である。

浅間山はこのほかにも数え切れないほどの大小の噴火をくり返してきている。浅間山の怖いところは、しばしば爆発型(ブルカノ式)の噴火をすることのほか、噴火のときに火砕流(熱雲)が発生しやすいところだ。

最近での噴火は2004年のものが近年としては大きめの規模だった。この2004年の噴火では、群馬県、埼玉県、東京都、神奈川県、そして千葉県の外房にある勝浦市まで火山灰が降った。

気象庁は「100年活動度または1万年活動度が特に高い活火山」として、”ランクA”の活火山に指定している。

浅間山は日本百名山のひとつではあるが、1972年以来、現在までずっと登山規制が続いていて、火口から500mまでの登山しか認められていない。私は規制される前に登ったことがあるが、大きくて深い火口を縁から覗き込んで見えた光景は、なかなかの壮観であった。

関東地方を広く覆っている関東ローム層という地層は、この浅間山と富士山などからの火山灰が降り積もってできたものだ。いったん舞い上がった火山灰は上空でいつも西から吹いている偏西風(ジェット気流)に乗って、東側に多く降る。つまり、今後の噴火でも、大きな影響を首都圏に及ぼす可能性がある火山が、この浅間山と富士山、というわけである。

(写真は長野県佐久市浅科から見た浅間山。2013年2月に撮影。撮影したレンズは170mm相当)

北信地域とちがって、このへんは雪が少ない。山頂近くの山腹が黒く見えるのは地肌が見えているところだ。浅間山は雪が多く降ると真っ白になるが、晴れた日が続くと、冬の間でも地肌が見えてくる。

見えてくるのは必ずしも下のほうからではなく、日当たりがよくて風が強い尾根筋や、傾斜の急な斜面、つまり多くの場合は山頂に近い上のほうから先に黒くなってくる。地熱の影響もまったくないわけではなかろうが、写真のように南側で地肌が出ていても、北側の群馬県は真っ白なので、日当たりの影響の方がずっと多いらしい。

(註)最近の研究では、天明の飢饉は、むしろラキ火山の影響ではないかという説がある。

【2017年3月に追記】2017年3月に浅間山の南側を通りかかったら、噴煙が見えた(右上の写真)。浅間山の火山活動は依然、活発である。

左上と右の写真は
噴火する浅間山上空から見た富士山。(2004年撮影)
(これらの写真は本には載せていません)

以下は 島村英紀が撮った「定期旅客機から見た下界」から

幸い、その後1年あまりで収まったが、活火山・浅間山が2004年夏に中噴火した。右下の写真にあるように、カルデラの一部だけから噴煙が上がっている。

噴煙が東の群馬県側に流れている。 浅間山の右手前にあるのは浅間山の北麓の嬬恋村にある田代湖。

今回は中規模の噴火ですんだが、世界的に見ても活発な活火山である浅間山や富士山(じつは富士山も、たまたま18世紀以後噴火していないが、立派な活火山である)のまわりに、別荘やリゾートがひしめいているのは、地球物理学者としては、決して気持ちがいいものではない。

右下の 写真に見られるように、浅間山の手前左の北麓からは、近年開発された別荘地やゴルフ場が這い登って行っている。

1783年に起きた浅間山の大噴火(天明の大噴火)は、地球を半周したグリーンランドの氷河のボーリングから火山灰が見つかったほどの大噴火だった。大火砕流で多くの人命が失われたほか、鳥居や神社の階段が埋まるなど、大被害を生んだ。それが再来しない、という保証はない。

浅間の向こう側に見える南麓も同じである。 自然の緑が広範囲に剥がされているところが軽井沢。その開発はさらに先方の妙義山に向かって延びているのが見える。

なお、右の写真で浅間山の右にある尖った山頂は剣が峰である。
(この写真は本には載せていません)

【2008年8月に追記】浅間山は2008年8月、ここにある2004年に撮った時以来、4年ぶりの噴火をした。幸い、小噴火にとどまっている。


【2015年10月に追記】このように、浅間山は過去に大噴火したこともあり、昔からの保養地軽井沢のすぐ後ろ手にそびえていることもあって、日本の火山ではもっとも古い歴史をもつ火山観測が続けられている。

最初の観測は1911(明治44)年に日本最初の火山観測所として長野県の予算で作られた。その後、気象庁(当時は中央気象台)に移管されて「軽井沢測候所」になったが、2009年に無人化され、気象を含む観測業務は軽井沢特別地域気象観測所へ移行した。2015年現在、左の写真のように、浅間山を背景にした無人の測候所が残っている。


62頁:渡島半島にある法華寺の過去帳。「童女」とあるのが痛々しい。

渡島半島、渡島大島の対岸、渡島半島・江差にある法華寺。そこの過去帳。まだ名前がなかったのだろう、「童女」とあるのが痛々しい。

ここの2枚の写真は、島村英紀のホームページ「崩れた大地震説 1741年の渡島西部大津波は”火山崩壊”」から。

左の写真は法華寺にある津波の碑とその説明。(この写真は本には載せていません)。


66頁:セントヘレンズ火山。まだ噴煙が見えている。遠くの山はレーニエ山。

以下は島村英紀が撮っていた歴史的な写真・その2・1970年代半ば以降から。

米国西岸、ワシントン州にあるセントヘレンズ火山は1980年5月に大噴火をして、山容をすっかり変えてしまった。噴火は1986年まで続いたが、この写真を撮ったときにも、噴煙が残っている。写真から15年以上がたった今は、すっかり静かになった。

1980年の噴火では、5月18日にマグニチュード5.0の地震が起きて、山頂が地すべり的に崩壊した.このため山体内部のマグマ本体が一気に露出して大爆発を起こすと同時に、爆風(ブラスト)を伴う大きな山体崩壊が発生した。

ブラストは火口から北側(写真の左側)600平方kmにもおよぶ広範囲の山林を一気に破壊した(写真では白っぽく見える)。岩屑(がんせつ)なだれ(岩屑流)は28kmも流れ下り、さらに二次的な土石流や泥流も起きた大災害になった。この一連の噴火で、57の人命が失なわれた。

また、セントへレンズ火山の山頂には巨大な馬蹄形のカルデラが作られて、山の形がすっかり変わってしまった。じつは日本の八ヶ岳も、大規模な岩屑流が起きて山の形が激変して今の八ヶ岳の形になったところだ。

奥に見えるレーニエ山も火山だが、今のところは活動はおとなしい。これらの火山は、いずれも、米国西岸の地下に潜り込んでいる太平洋の海底にあるプレートが起こす火山で、その意味では日本の火山と「兄弟分」の火山である。


じつは、米国の西岸にはプレートの潜り込みがあり、米国人が知らない地震が起きたことがあるのです。


71頁:スフリエール山。フランスの海外県であるカリブ海のガダルーペ島にある。

以下は島村英紀のホームページ「2001-2002年・カリブ海の海底地震観測」から

スフリエール火山の頂上は溶岩ドームになっている。頂上右側で噴気が見える。北海道の樽前山と同じように、シルクハット型の溶岩ドームがそびえ立っていて、噴火のときは火砕流が心配される。

写真は(パリ大学付属)同島スフリエール火山観測所の屋上から撮った。世界の多くの火山観測所と同じように、噴火がないかぎり、この火山観測所も、風光を楽しむのにもっとも適した場所である。

なお、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、日本に来る前の2年間をこのフランス領の島で過ごした。日本の雪国を訪れて気候の違いに驚いたことであろう。 また、画家のポール・ゴーギャンもここに滞在して活発な芸術活動をしていたことがある。芸術を刺激する島なのであろう。

かつてスフリエール火山の頂上の溶岩ドームが噴火のときに崩れて火砕流を起こし、大きな被害を生んだことがある。

しかし、噴火から時間がたつと、人々は噴火を忘れ、火砕流の通り道に、また家を建て始めてしまう。この写真に写っている集落は、どこも、危険地帯なのである。

じつは、これはこの島だけのことではない。たとえば、北海道の樽前山では、かつて火砕流が何度も出たし、これからも出る危険性が指摘されているのに、その「通り道」には、近年大学が作られたり、町や集落も作られている。

スフリエール火山観測所の屋上から撮った。じつはこの観測所は「危ない」場所に建っていたので、近年、火砕流に襲われる可能性がない、反対側の、この高台に移ってきたのである。

(この写真は本には載せていません)。


81頁:雪に覆われた北海道十勝岳。

【本書から】

 20世紀になってからの火山災害にはこのほかのタイプもあった。「火山泥流」である。

 北海道では1926年に十勝岳(十勝火山群の主峰は標高2077メートル)が噴火して融雪型の火山泥流が流れ出て大きな被害を生んだ。

 十勝岳は北海道の中央部にある。昔から活発な噴火を繰り返してきているが20世紀には3回の規模の大きいマグマ噴火を起こして火山災害を起こした。なかでも1926年の噴火では大規模な火山泥流が発生した。

 この泥流は美瑛(びえい)川と富良野(ふらの)川の二つの川に沿って一気に流れ下り、わずか25分で約25キロメートル離れた上富良野市街に到達した。泥流が流れ下った速度は平均時速約60キロであり、逃げられる速さではなかった。

 火山弾・軽石(スコリア)流による被害を含めると、上富良野を中心に死者行方不明者144名、負傷者200名、流失・破壊家屋372棟という大災害になってしまった。このほか家畜や山林耕地も被害が大きかった。

 この火山泥流を生んだ噴火が起きたのは5月24日だったが、熱い岩屑なだれが、北国ではまだ厚く残っていた積雪を溶かして大規模な泥流を発生させたものだ。この災害は大正14年に起きたので「大正泥流」とも言われている。雪が残っているときの火山災害は大きなものになりやすい。

 噴火はその後も続き、9月の噴火でも行方不明者が2名出た。噴火が収まったのは1928年12月になってからだった。2年間噴火が続いたことになる。

 その後、1962年にも十勝岳は大きな噴火をして、噴石が飛んだことで火口の縁にあった硫黄鉱山事務所を破壊し、死者5名、負傷者11名を生んだ。

 この1962年の噴火では火山弾や火山灰を大量に噴出して、噴煙は高さ12000メートルまでのぼった。火山灰は遠く知床や南千島方面にまで流れ、爆発音も190キロメートル先まで聞こえた。このときに生まれた新しい火口は、いまでも噴気を続けている。

2015年4月現在、十勝岳が噴火警戒レベルが2とされている。

(写真は1992年4月に撮影。かなり活発な噴気活動が見られた)


85頁:「甘食」そっくりの大室山 (580m)。

写真は伊豆スカイライン、滝知山付近から2014年3月に撮影。

以下は島村英紀「
中森明菜事件で逃した噴火の決定的瞬間から

1989年6月30日、伊豆半島の伊東市の沖で群発地震がはじまった。7月9日にはマグニチュード(M)5.5の地震が起きた。この地震で家具が倒れて下敷きになるなど21人の怪我人が出た。

 伊豆半島の東の沖にはよく群発地震が起きる。数年おき、ときには毎年のように起きてきている。しかしこのときは、それまでの群発地震とは違った。7月11日からは「火山性微動」が観測されはじめたのだ。火山性微動は火山が噴火する直前に出ることが多い。マグマの動きとともに地面が連続的に揺れ続ける現象だと考えられている。

 気象庁は噴火の危険性が高いと発表した。だがどこで噴火するのかはわからなかった。どこで噴火がおきてもおかしくないと報道され、人々に不安が拡がった。

 伊豆半島の東部からその沖の海中にかけての一帯には「伊豆東部火山群」といわれる小さな火山がたくさんある。それらは「単成(たんせい)火山」というもので、富士山のように噴火を繰り返すのではなく、たった一回だけの噴火でできた火山である。

 伊東市にある大室(おおむろ)山(標高580メートル)も典型的な単成火山だ。約4000年前に作られ「甘食」そっくりの形(平べったい円錐形)をしている。


87頁:メキシコの火山。ポポカテペトル山 (5426m)

(この写真は本には載せていません)。

メキシコの首都メキシコシティの南東約70kmにある標高5426mもの高山の火山、ポポカテペトル山。富士山と形は似ているが、はるかに高い。大都市プエブラ市街地の西約40kmのところにあるので、プエブラ市内からは、写真のようによく見える。

メキシコ国内でもオリサバ山(5760m)に次いで2番目に高い活火山だ。「ポポカテペトル」という名は、ナワトル語で「煙を出す山」「煙を吐く山」といった意味である。

この火山数年おきに小〜中程度の爆発的な噴火をおこしながら、1993年から噴火が続いている。この写真を撮ったのは2012年6月だったが、頂上付近で噴煙を吐いている。

このはポポカテペトル山有史以来約30回の噴火記録がある。16世紀に噴火が確認されたのが最初だが、以後15回大きな噴火が確認されている。2000年に噴火した時は、周辺住民約5万人が避難した。

(写真はプエブラ自治大学から、2012年6月に撮影)。

【本書から】

 火山からはるかに離れたところでも、「火山災害」を生じることがある。日本にも関係する災害である。

 大手のある航空会社の統計によれば操縦席の前方ガラス窓の交換は1980年以前は月に数枚だった。世界中を飛び回っている全部の飛行機を合わせた数である。自然損耗ともいうべき交換ですんでいたのだ。

 ところが1982年の後半から1〜2年の間は、突然、窓ガラスが傷むようになり交換枚数が跳ね上がった。その航空会社だけで月に40〜50枚もの交換になってしまった。他の航空会社でも同じだった。このガラスは1枚で200万円以上というほどの高価なものだ。

 ガラスが傷むのは特定の場所を飛んだときではなかった。世界のどこを飛んでいても操縦席の窓ガラスにヤスリをかけたように細かいスリ傷がつくようになってしまったのだ。

 原因はメキシコ南部の火山の噴火だった。同国ユカタン半島の根元にあるエルチチョン火山(現在の標高1350メートル)が1982年に噴火して頂上の熔岩ドームが吹き飛ばされ、火砕流で地元では死者2000人以上、一説には1万7000人とも言われる犠牲者を生んだ。噴火するまではほとんど無名の火山だった。過去600年間も噴火していなかった火山である。

 地元の災害では終わらなかった。この噴火によって火山灰が高さ16000メートルにまで到達し、風に乗って世界を取り巻いてしまった。数カ月して、舞い上がった火山灰はゆっくり舞い降りてきて成層圏で漂い、ちょうどジェット機が飛ぶ10キロほどの高さで地球全体を包んでしまったのだ。

 火山灰とは、つまり石英の粉だ。これが、ガラス窓にヤスリをかけたように傷めてしまった犯人なのである。航空機は、火山噴火のいろいろな影響を受けるのである。


88頁:アイスランドの噴火。これが欧州中の飛行機を止めてしまった。

(この写真は本には載せていません)。


以下は「島村英紀が撮ったアイスランドの写真」から

2010年5月に撮った噴火の写真(アイスランド気象庁から島村英紀がもらったもの

2010年4月島村英紀『地震と火山の島国--極北アイスランドで考えたこと』に書いたような噴火がまた、起きました。この噴火で偏西風に乗った火山灰のせいで、欧州の大部分で飛行機の発着が出来なくなり、世界中に混乱が拡がりました、噴火の写真は外部リンク1、あるいは外部リンク2でも見られます。

「火山が噴火したあとで」(島村英紀の既発表の著作から)

私が共同研究をしていたアイスランド気象庁の人は、その噴火のときに、世界中のメディアからの問い合わせが殺到して閉口していました。なにせ、日本の気象庁が7000人の職員がいるのに、この私の本に書いてあるように、アイスランド気象庁は、30人ほどしかいないのですから。でも、忙しいさなかに衝撃波が捉えられている噴火の動画映像と、噴き出した火山灰が摩擦で静電気を起こした火山雷の写真のサイトその1その2を教えてくれました

このときの噴火の、アイスランド気象庁によるビデオクリップの「総集編」


91頁:八甲田山

(この写真は本には載せていません)。

以下は島村英紀のホームページ「数万年は地球にとってみれば、ほんの昨日のことなのです」から

写真の右手が北にあたる。 左上に写っている丸い火口は大岳(1584m)で、八甲田山の最高峰だ。その右、中央部にある大きな火口は井戸岳、その右にある小さな火口は赤倉岳である。

しかし赤倉岳はこの小さな火口だけではなく、そこから大きな爆裂火口が右方に拡がっているのが見える。これは上部を吹き飛ばしてしまった大きな噴火の跡である。大岳と井戸岳の間の鞍部には小さな避難小屋がある。他方、左の手前(大岳の手前)にあるやや低い山は小岳、その手前の尖った山が高田大岳(1552m)だ。

なお、「八甲田山」という名がついた単独峰はない。

左上の写真を撮ったのは 2013年1月。八甲田山は深い雪に覆われて夏は山頂まで覆っている植生も雪でカバーされてしまっているので、火口が特別に目立つ。

雪の八甲田山といってすぐに思い出されるのは、1902年(明治35年)に青森の歩兵第五連隊が雪中行軍の演習をしていて記録的な寒波と吹雪に見舞われて210名のうち199名もが遭難死した事件(八甲田雪中行軍遭難事件)である。

日本での冬の軍事訓練で最も多くの死傷者が発生した事件であった。

日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬の寒冷地での戦いに苦戦していた。そしてもっと厳寒地での戦いになるにちがいない対ロシア戦を想定して準備していた。こうした軍部の目論見通り、事件から2年後の1904年(明治37年)に日露戦争が起きたのであった。

多くの死者を出したこの演習は、ロシア軍の侵攻で青森の海岸沿いの列車が動かなくなったとしたら、冬場に「青森〜田代〜三本木〜八戸」のルートで、ソリを用いての物資の輸送が可能かどうかを調査するために、冬に、日本有数の豪雪地帯である八甲田山を超えるのが目的であった。

しかし、この失敗に終わった雪中行軍の詳細は明らかになっていない。戦争に向かって突き進んでいっていた軍部への批判をかわそうと、軍部の圧力や情報操作のために真実が隠されたり、歪曲された。また数少ない生存者の証言も食い違っていて、真相が解明されていないのである。

いずれにせよ、戦争や、それを常に準備している軍部の行動は人命を軽んじる無謀なものなのである。

なお、写真の火口を含めて、八甲田山には数万年以上前の噴火以来、歴史時代の記録で溶岩が流れ出した大きな噴火はないが、地下のマグマはまだ生きている。

このため山群の所々から火山ガスの噴気があり、1997年には訓練中の自衛隊員3名が、地下から噴出して窪地に溜まっていた高濃度の炭酸ガスのために窒息死したことがある。

また2010年6月には、酸ヶ湯温泉の上(この写真では左上の隅)で山菜採りをしていた女子中学生1名が、火山ガスによって、中毒死した。

数万年前にしか噴火がなかったとはいえ、それは地球にとっては、ほんの昨日のことなのである。

【追記】右上の写真は2016年5月下旬に撮ったもの。厳冬期よりも減ったものの、まだ、かなりの雪が残っている。見えている三つの火口付近が黒っぽくなっていて、地肌が出ている。地熱の影響だろうか。しかし、晴れた日が続くと、日当たりがよくて風が強い尾根筋や、傾斜の急な斜面、つまり多くの場合は山頂に近い上のほうから先に黒くなってくるのは山では一般的なことだ。どちらかは、分からない。左上の写真は2016年10月中旬に撮った。雪がいちばん少ない時期で、山腹は紅葉の盛りになっている。

このほか、「島村英紀が書いた火山ガスの事故」については


96頁:昭和新山 (398m)。マグマの粘性が特に高いとこんなもりあがった形になる。

昭和新山の北側の麓にある壮瞥(そうべつ)町から。

1944-1945年に、麦畑がいきなり盛り上がって、この昭和新山(398 m)を作った。

ちょうど太平洋戦争が終わりかけていたときだった。このころ起きた東南海地震と同様、当時の日本政府は、「人心を不安にする」という理由で、この昭和新山の報道も徹底的に押さえ込んだ。

かつてここは広大な畑作地帯で、壮瞥川の川沿いにはも集落があったが、山の隆起とともに集落は消滅した。

また山が隆起した痕跡は、国鉄胆振線の崩壊した橋脚跡にも残っている。

地元の郵便局長であった三松(みまつ)正夫は、新山が成長していく詳細な観察記録を作り、後に「ミマツダイヤグラム」と命名された貴重な資料を残した。

また、三松はこの世界的に貴重な火山の保護と家や農場を失った住民の生活の支援のために、山になってしまった土地を買い取った。
右の写真のように、いまでも地温が高く、山のあちこちから水蒸気が立ち上っている。(2004年4月に撮影)
(この写真は本には載せていません)。

かつての土壌が溶岩の熱で焼かれて煉瓦のように固まったので山肌が赤色になっている。また、中腹にはまるで河原にあるような丸い石が転がっている。これも、もと平地の畑にあった石が持ち上げられたものなのである

写真のように、とても粘性の高い溶岩が立ち上がっている。マグマの中の二酸化珪素の割合が高いと、このように粘性が高くなる。(この写真は本には載せていません)。

昭和新山は「溶岩ドーム」といわれるものだ。(2004年4月に撮影)

右の写真は昭和新山の山腹にある溶岩。いかにも粘性が高そうな、決して流れない溶岩である。( この写真は本には載せていません)。

特別な許可がなければ登山は禁止されている。

昭和新山は現在は三松三朗氏が嗣いでいる三松家の私有地であり、世界でも珍しい私有地にある火山である。

昭和新山は1951年に国の「天然記念物」に指定され、さらに1957年には「特別天然記念物」に指定された。

西側の山麓には1988年に開館した三松正夫記念館があり、三松による観測記録などの資料が展示されている。


106頁:北海道・駒ヶ岳 (1131m)。

駒ヶ岳は、1929年に「大噴火」した。これは現在までの最後の「大噴火」である。この後、日本では「大噴火」(東京ドーム250杯分以上の火山噴出物がでる噴火)は起きていない。

写真は南側から見た駒ヶ岳。(この写真は本には載せていません)。

左の写真も駒ヶ岳。右の写真とは反対側の北西側から見たもの。

(この写真は本には載せていません)。



【追記】北海道・恵山 (618m)。

北海道函館市に属するが、渡島半島の東の外れにある恵山。気象庁の常時観測対象になっている活火山だ。

左下は恵山郵便局や恵山中学のある集落、右上に見えるのは臼尻の集落だが、火山と海にはさまれたごく狭いところに集落が作られているのが分かる。鹿児島・桜島もそうだが、火山に何かあったら逃げられないところに暮らしている人は多い。

(この写真は本には載せていません)。

写真は2016年10月、首都圏から千歳空港までの定期航空機から撮った。



112頁:美幌峠から見た屈斜路カルデラ。日本最大のカルデラだ。屈斜路(くっしゃろ)湖と湖岸の前部がカルデラになっている。

北海道東部にある日本最大のカルデラ、屈斜路カルデラ。

写真は西北にある外輪山のである美幌峠から。左の先に見えるのは斜里岳。

右の写真は北方の外輪山にある藻琴峠から見た屈斜路カルデラ。(この写真は本には載せていません)。

左側で噴気を上げているのは「アトサヌプリ」(硫黄山)で、ここには多量の硫黄が析出している。

左の写真も北方の外輪山にある藻琴峠から見た屈斜路カルデラ。(この写真は本には載せていません)。

屈斜路湖は日本の湖沼では6番目である大きな湖だ。面積は約80平方キロメートルある。屈斜路湖は最深部では117m。東南部にある旧噴火口がいちばん深い。

中島という大きな島が中央にある。日本最大の湖中島で火砕丘である。周囲は12kmもある。中島は二重式火山であり、中央の溶岩円頂丘が最高点で水面からの高さは145mある。

冬は全面に厚い氷が張る。また長野県の諏訪湖には近頃はめったに出来なくなってしまったが、ここでは、春先には毎年、「御神渡り(おみわたり)」が出来る。その長さは5-10kmにも達して、日本一である。


127頁:60km離れた長野県・蓼科から見た噴火2週間後の御嶽山 (3067m)。山頂付近に白っぽく見えるのは2014年9月の噴火で出た火砕流。


2014年9月27日に、木曽御獄は、突然噴火して50人以上の登山者がなくなるという戦後最大の火山災害になってしまった。

左の写真は2014年10月10日に、長野県・蓼科から撮った御獄。山頂の左に噴煙が見える。根元は白、左上に延びている黒い雲までが噴煙である。9月の噴火時には噴煙は約7000mまで上がった。


山頂付近に白っぽく見えるのは、今回の水蒸気爆発で噴出した火砕流であろう。右側の谷筋に見えるのも火砕流が流れた跡だと思われる。

この山は死火山だと思われていたが、1979年に噴火して、活火山だったことが判明した。その後、死火山、休火山、活火山という区別をなくした契機になった噴火であ る。

なお、蓼科から御岳までは、約63 km ある。

(2014年10月。撮影機材は Olympus OM-D E-M5。レンズはPanasonic、400mm相当)


 これは2012年2月に蓼科の近くにある車山(霧ヶ峰)から撮影した木曽御獄。(この写真は本には載せていません)。

周りの山から孤立しているし、高度が高いので、春先にはここだけ雪が残り、ことさら目立って見える山だ。日本でいちばん西にある3000m超の山でもある。


137頁:富士山の宝永火口。

左の写真は伊豆スカイライン、滝知山付近から2014年3月に撮影。

以下は島村英紀のホームページ、シリーズ 「定期旅客機から見た下界」から

宝永噴火の特徴は大量の火山灰を噴き出したことだ。噴火の噴出物量は8億立方メートルもあった。100km離れた江戸でも多くの火山灰が積もった。 江戸で降った最初の火山灰は白い灰であったが、夕方には黒い灰に変わったという。火口が移り、火山灰の成分が変化したのだった。江戸に降り積もった火山灰は当時の文書によれば5〜10cmといわれている。

全体で、2週間続いた噴火だった。しかし、溶岩が流れ下ることはなかった。

【追記】 宝永火口がよく見えるのは春先だ(右写真)。深く積もった雪が火口の縁から融け出すので、噴火口のすさまじさが強調される。これは2014年3月、伊豆半島の”背骨”を南北に走る伊豆スカイラインの滝知山(標高649m)から。

これは富士山の最後の噴火だったが、じつは、その後現在に至るまで、これほど長い噴火の休止期間は、いままでになかった。しかし、今後永遠に噴火がないことはあり得ない。地球物理学者は、山麓や山腹のリゾート開発に寒気を覚えているのである。

(左上の写真と上の写真は、ともに2005年12月撮影。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。左上の写真はレンズは150mm相当、F5.2, 1/800s、上の写真は288mm相当、F5.2、1/1000s。右下の春の宝永火口の写真は伊豆スカイライン・滝知山から。レンズは400mm相当。2014年3月)

【追記】 このときの宝永噴火は日本の過去の火山噴火の中でも十指に入るほど大規模なもので、火山から噴出した火山灰や熔岩や火山弾の量は1億立方メートルを超えた。なお、このほか総噴出量が1億立方メートルを超えた大規模な噴火としては1783年の長野・浅間山の噴火1914年の鹿児島・桜島の噴火などがある。


(2005年12月撮影。この写真は本には載せていません)。

以下は島村英紀のホームページ、シリーズ 「定期旅客機から見た下界」から


富士山は遠くから見た方が美しい。

近くで見ると、自然、人工、両方によるあらが目立つ。南南東、山頂近くの山腹には、右の写真(この写真は本には載せていません)。に見られるように、大きな穴が開いている。

宝永火口だ。 富士山の一番最近の噴火である、1707年の宝永の噴火で、それまでは山頂噴火を繰り返してバウムクーヘンのように丁寧に作ってきた形が崩れて横腹に大きな穴が開いてしまった。

それだけではない。近頃は米軍も使っている自衛隊の東富士演習場が、見られるように、広大な面積を醜く変色させている。また、愛鷹山の山麓近くの山腹を削っている東名高速道路も痛々しい。

中央やや左に見える白い部分は人工雪のスキー場だ。静岡県は九州や四国よりも雪が少ないから、小学校には「雪見遠足」というものがあるほどだ。

子供たちは山梨県に行って雪を触って楽しむ。これに目を付けた商魂が、静岡側の富士山に人工雪を降らせている、というわけである。

富士山の左肩に、わずかに本栖湖が見えている。

左の写真は関東北部の上空から見た富士山。2003年12月に撮影。

富士山の左側の山腹に宝永噴火で出来た「出っ張り」がよく見えている。

(この写真は本には載せていません)。

御殿場線(旧東海道本線)の御殿場駅前には、富士山から飛び出した火山弾が展示されている(右の写真=2015年5月に撮影)。火山弾にはもっと大きなものもあり、直撃を受けたら、もちろん即死だ。

火山弾とは、溶けた溶岩が噴火で飛び出して、空中で固まったものだ。そのため、このように流線型になることが多い。なお、御殿場は標高約500mのところにある。


(この写真は本には載せていません)。



149頁:東北地方にも危ない火山、そのひとつが吾妻山

以下は島村英紀のホームページ「定期旅客機から見た下界」から

右と左下の写真は、磐梯山(右下の写真)のすぐ東北(約20km)にある吾妻火山群。右の写真の右側(と左下の写真の左側)に見える噴火口は吾妻小富士(1705m)。

下の写真では右手が北になる。この写真で見ると、火口は北西側に傾いているのがわかる。


右の写真で、雲とまぎらわしいが、吾妻小富士の左下にひときわ白く見えるのは、この付近で唯一活発に活動している一切経山(いっさいきょうやま、いっさいきょうざん。1949m)の噴気である。

じつは噴気は左下の写真でも、火口の後ろ側の平坦部分に見えている。湯気のように立ち上がっているのが噴気だ。


吾妻火山は那須火山帯の中で最大の火山群だが、歴史時代に入ってからの噴火は一切経山に限られる。1893年の大噴火のときには噴煙が直径2,000m、噴出容積は約50万立方mにも達した。この大噴火で当時現地を調査していた技師2名が亡くなった。

一切経山は1977年にも小規模な噴火を起こしたことがあり、気象庁が噴火警戒レベルを導入している全国26火山のひとつだ。2011年11月段階でも、写真のように、噴気が続いている。


右の写真は磐梯山の空撮。右側(北側)に流れた大きな山体崩壊の跡が見える。これは1888年の大噴火のときの山体崩壊である。

 


これらの写真は本には載せていません。右上の写真は2011年11月。まだ雪がない。撮影機材はPanasonic DMC-G2。レンズは135mm相当、。写真の左手が北になる。左上の写真は冠雪している。いずれもレンズは約500mm相当。磐梯山の写真はレンズ168mm相当、撮影はいずれも2013年1月。撮影機材はPanasonic DMC-G2)


182頁:有珠山噴火にともなう地殻変動で歪んだアパート。

以下は島村英紀のホームページ「島村英紀が撮っていた歴史的写真・その2」から

1977年8月7日9時12分に有珠火山の山頂付近で噴火が始まった。噴火は約1年で消息したが、地震と地殻変動は1982年3月まで5年近くも続いた。

有珠火山の北側の山麓にある3階建ての県営アパートが、火山活動にともなう地殻変動で、激しく変形したほか、写真に見られるように、人の背ほどもある崖が作られてしまった。

地殻変動がゆっくりしたものだったために、このアパートでは、幸い、死傷者は出なかったが、アパートそのものは人が住めなくなり、その後取り壊されてしまった。

約2年後に撮った右の写真では、一年後のときよりも一層、進んでいる。赤い屋根の変形が違っているのがわかるだろう。幸い、この一連のアパート変形では、怪我人は出なかった。

このほかに、この写真の左手に当たる洞爺湖(とうやこ)畔では、国道が地殻変動のために、大きく崩れた。

その後、2003年3月に有珠火山は再び噴火した。そのときの火口は、この写真のすぐ右手であった。有珠火山は、噴火のたびに、別の火口から噴火する。 もし、ここに新しいアパートが建てられていたら、大きな被害を受けたかも知れない。


(左下の写真は有珠山。いかにも粘性が高そうな溶岩である。画面左に、ケーブルカーの山頂駅が見える。レンズ 62mm相当、撮影は2004年4月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ1)


186頁:上空から見た岩手山 (2038m)。左が北である。

以下は島村英紀のホームページ「地球物理学者と読む宮沢賢治」から

 また、火山の噴火も生々しく描写されている。当時は、たびたび冷害に襲われて作物の不作から飢えが重大な問題だった東北地方では、降り積もった火山灰による被害も深刻だった。それゆえ、火山噴火は、農民にとって、現在とは違ってはるかに深刻な関心を持つ事件だった。

 賢治の『グスコーブドリの伝記』(初稿・最終稿)と『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』には、子どものころ噴火に悩まされたグスコーブドリやネネムの描写がある。

 そのほか『グスコーブドリの伝記』には、グスコーブドリが長じて火山技師になり、自らの身を犠牲にして、火山の噴火を制御して地元を救う感動的なクライマックスも描かれている。

 賢治にとっていちばん親しかった火山は、地元の岩手山であった。彼はこの火山と溶岩流について、いくつかの作品を残している。


岩手山はいままで知られているだけで7回もの大規模な山体崩壊を起こしている恐ろしい火山だ。山頂の西側に大きくえぐれているのは、かっての巨大な山体崩壊の跡である。左上の写真は2010年5月下旬に撮ったものだが、右の写真は2016年11月に撮ったもので、山体崩壊がよく見える。

このほか、「前兆があったのに噴火しなかった岩手山」



192頁:桜島が迫ってきている東桜島小学校

(この写真は本には載せていません。島村英紀撮影)。

以下は島村英紀のホームページ「 イタリアの地震予知裁判---他人事ではない日本の体質」から

 鹿児島県桜島の南麓の海岸沿いにあって、噴煙を吐く桜島が覆い被さるようにそびえている東桜島小学校。この校庭には大きな石碑が建っている。その碑文は気象庁(当時は中央気象台と言った。気象庁になったのは1956年)に対する恨みである。

 1913年に有感地震が頻発し、地面が鳴動し、海岸には熱湯が噴き出した。人々は桜島が噴火するのでは、と心配した。

 しかし、村長からの問い合わせを繰り返し受けた地元の気象台長(いまの鹿児島地方気象台。当時は鹿児島測候所だった)は、問い合わせのたびに、噴火するという十分なデータを気象台は持っていない、噴火はしない、と答えたのであ った。

 だが気象庁の「予測」に反して、桜島は大噴火を起こしてしまった(註1)。後ろは火山、前は海。逃げどころのなかった住民の多くが犠牲になった。8つの集落が全滅し、百数十人の死傷者を出す惨事になったのであ る。

 その石碑には「科学を信じてはいけない、危険を察したら自分の判断で逃げるべきだ」と記されている。気象庁にとって幸いなことに、この失敗はイタリアのように刑事事件にはならなかった。

 このように、科学的な事実を無視してまで人心を安定させたがるのはイタリアも日本も同じで、政府の根深い体質なのである。危ないか危なくないか、明確な根拠でもない限りは「危なくない」という体質だ。無用な混乱をできる限り避けたい、という日本の気象庁の伝統が裏目に出たのだった。

【追記】 註1)このときの桜島の噴火は日本の過去の火山噴火の中でも十指に入るほど大規模なもので、火山から噴出した火山灰や熔岩や火山弾の量は1億立方メートルを超えた。なお、このほか総噴出量が1億立方メートルを超えた大規模な噴火としては、1707年の富士山の宝永噴火(東北地方太平洋沖地震なみの巨大地震と考えられている宝永地震の49日あとに噴火した)や1783年の長野・浅間山の噴火などがある。


202頁:パプアニューギニア・ラバウルのタブルブル火山の1996年の噴火(これらの写真はこの本には載せていません)。

以下は島村英紀のホームページ「島村英紀が撮った熱帯の写真」から

タブルブル火山(Tavurvur)は私の滞在中(1997年)に一回噴火した。交代で滞在していた北大の観測陣の半年間の滞在中にたった一回の、つまりone-offの噴火であった。北大のチームとしては私だけが噴火に遭遇したことになる。手前は1994年の噴火で廃墟になってしまったラバウルの町。

ラバウルの町を見下ろす高台にあるラバウル火山観測所から撮った。1997年12月24日のクリスマスの前の日の昼であった。翌日のクリスマスを控えて「御用納め」で仕事を終わり、観測所の庭でささやかなビールパーティを開いているときだった。距離が離れているために、噴火は音もなく、始まっていた。

この火山は、ずっと噴気が続いていた。わずか数日前には、私の知人であるスペインの地球化学者が噴気ガスを取りに、この火山の山頂に登っていた。じつに危ないところであった。

北大の私の同僚の火山学者も南米の火山で間一髪で助かったことがある。私の知る限り、火山学者は、職業としてはもっとも危ない科学者なのである。

なお、細い柱のような雲が立ち上がる、という意味では入道雲(積乱雲)と似ていなくもないが、実際にはメカニズムも違うので、「柱」の色も形も違うものだ。 (1996年12月に撮影)



1994年、このタブルブル火山と、すぐ近くにあるブルカン火山が同時に爆発して、当時の中心都市、ラバウルを襲った。その時に降り積もった火山灰は、私が現地に海底地震観測に行った1996年11月にも、残ったままだった。

左は、同じくラバウルで厚い火山灰に埋まってしまった住宅。はるか下に住宅の屋根の一部が見える。

後方は、その火山灰を吹きだしたブルカン(vulcan)火山。

このほかのラバウルの写真はこちらに

右下は、同じニューブリテン島でホスキンズ空港(West New Britain provinceの州都キンベの空港)の東約110 km にある海岸沿いの活火山ウラウン山(Ulawun)。山頂に噴煙も見える。1996年11月に火山の北側の上空を飛ぶ
Twin Otter機から撮影した。

パプアニューギニアの火山では最も高く、最も活発な火山だ。18世紀に噴火が確認されて以来、これまでに22回以上噴火している。2013年にも噴火した。

まるで富士山のような、あるいは富士山以上の、葛飾北斎が描いた富士山のような見事な火山の形をしている。高さ2334メートル。日本なら樹林帯を超えた高さだが、なにせ熱帯、山頂近くまで密林に覆われている。

海岸沿いに道はあるが登山道は見えない。火山学者がジャングルをかき分けて登山することは大変なことだろう。

なお、このウラウン火山はホスキンズとラバウルのほぼ中間にあり、かつて日本人には「ラバウル冨士」と呼ばれた。

【2017年3月に追記】ラバウルが火口を「天然の良港」として使ってきているのと同じように、伊豆大島の南端にある波浮(はぶ)の港も、火口をそのまま港にしている(左の写真。港のすぐ北側には火口壁がそびえている。

この噴火口は9世紀の噴火で出来た。その後、1703年の元禄関東地震のときの大津波で海とつながって「港」になった。だが、この開口部は満潮時にしか船の入出港ができないほど浅かったので、江戸時代末期(1800年)に開削して、現在の形の港になったものだ。かつては、風待ちの港として遠洋漁業の中継基地としても栄えた。

左上は大島最大の町、元町。右上に大島空港が見える。宮崎・羽田間の定期旅客機から
2016年11月に撮影。

(これらの写真は本には載せていません)。


この本の目次と前書き


島村英紀『火山入門――日本誕生から破局噴火まで』
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