島村英紀が撮っていたカメラ
その2:中編

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5-1:ライカもニコンも買えない庶民のための実用カメラ。その1。コニカVa (Konica Va)

 ライカの栄光、そしてそれを追うニコンやキャノンといった日本の高級カメラメーカー。しかし、3番手以下のメーカーにとっても、指をくわえてみているだけではない、意地があった。

 なかでも、戦前からの光学機械メーカーだった小西六写真工業(のちのコニカ)は、庶民のカメラとして、性能が良くてよく写るカメラを数多く作ってきていた。とくに、120ロールフィルム(幅6cmの裏紙つきのブローニーフィルム。多くは6x9cm、6x6cmとして使われていた)を一枚当たりのコストが安い6 x 4.5cmのセミ判として使う折り畳みカメラは、ベストセラーになっていた。

 ライカやコンタックスのようなレンズ交換が出来るシステムカメラは、作ったとしてもあまりに高価になる。しかし、少なくとも、標準レンズをつけたライカM3には、あまりひをとらない性能で対抗したい。小西六の意地はそこに発揮された。

 ライカM3(4-4)のようなブライトフレーム(ファインダーの中に見える撮影範囲を示す白枠)が、パララックスに連動して(被写体までの距離によって、ファインダーに見える範囲と、実際にフィルムに写る範囲がずれてしまう現象を補正する)可変になる二重像合致のファインダー、当時としては明るくて尖鋭だったf2.0のレンズ、迅速巻き上げを装備したうえに、ライカM3 にはなかった(取り終えたフィルムをパトローネに巻き戻すための)迅速巻き戻しのクランクまで持っていた。

 シャッターこそ、レンズシャッターの宿命で最高速はライカM3 の1/1000秒には劣る1/500秒だったが、低速側は1秒まである広い範囲をカバーするものだった。また、外部の発光装置としては、ストロボ(X接点)のほか、レンズシャッターカメラ用のフラッシュバルブ用のM接点とフォーカルプレーンシャッターカメラ用バルブのF接点のすべてを持っていた。しかし、カメラ上部にあるアクセサリーシューは、電気接点を備えたホットシューが普及する以前のものである。

 つまり、ライカを持つというステータスを別にすれば、標準レンズを使って撮っている限りでは、このコニカVaは、ほとんど遜色のないカメラだった。ファインダーも、さすがに、まるで光学測定器のようなライカM3 にはかなわなかったが、他のカメラ、たとえばニコンS(4-1)よりも、ずっと見やすい高級なものだった。

 小西六は以前からレンズでは定評があったが、48mm f2.0というレンズも、とても尖鋭でよく写るレンズだった。レンズにはKonishiroku Hexanonrとある。

当時はちょっとでも直径が大きいフィルターは、今よりも相対的にずっと高かったので、このレンズに付けるフィルターも口径37mmとごく小さかった。これはもっと高価なカメラでも同じで、4-1のニコンSでも、50mm f1.4という当時もっとも明るいレンズでも、フィルター径は43mmにすぎなかった。同じく、ニコンS用の標準レンズ、50mm f2.0では40.5mmだった。68mmだ72mmだという最近の大口径フィルターの時代とは、まったくちがった、つましい時代だったのである。

 カメラのボディーも、コンタックスや、それを真似したニコンと同じく八角形の頑丈なボディーで、底部にある裏蓋開閉のキーも、ライカやニコンと同じ、工作の手間がかかった半円形のキーであった。 サイズは131×82×70mm。重量は約800gあり、上の5-1のペトリよちも、ずっしりと重い。撮影距離の範囲は∞〜0.9mまでだった。

 しかし、レンズシャッターカメラとしては、同じく高級なレンズシャッターカメラだった東京光学のトプコン35と双璧の、もっとも高価なものだった。ただ、トプコン35が優雅で品がいい外観をしているのと比べて、このコニカVaは、頬骨が張った、いかにも無骨な顔つきをしているのが特徴であった。 重さも800グラムもあり、これは3-1のオリンパスのハーフサイズ一眼レフに標準レンズを付けたよりも重い。

 このカメラは私の東京大学新聞時代の先輩だった滝澤睦夫さんが1960年代の初頭に買って、私が2006年にいただいたものだが、東大新聞のカメラマンをしていた滝澤さんが酷使しても、びくともしなかった頑丈でよく写るカメラだった。

 滝澤さんが東大新聞で活躍していた時代、若者は怒り、日米安保反対のデモが毎日のように激しく行われていた。滝澤さんが夜間のデモの写真を撮りに行って、デモと警官隊の混乱に巻き込まれて、このカメラを泥水の中へ落としていしまったことがあった。

 普通は、水に落ちたカメラは、まず、直らない。修理を断られるのが普通だ。カメラには砂が入ってしまい、フィルム巻き上げレバーを動かしたり、ピントを合わせるため鏡胴を回すと「ジャリジャリ」いうようになってしまっていた。

 しかし、さすが頑丈なカメラだった。コニカに送ったら、一ヶ月近くかかったが、完全に直って帰ってきた。

 滝澤さんは、その後、小松製作所(コマツ)に就職してからも10年以上、このカメラを使い続けた。いわば、歴戦をくぐり抜けてきたカメラである。

 また、アクセサリーも充実していた。写真に見えるのはオートアップ2号という近接撮影装置で、52cm〜37cmの範囲で、距離計連動で撮影することが出来る。なお、別にオートアップ1号というものがあり、これは100cmから50cmまで撮ることが出来た。なお標準レンズの最短撮影距離は90cmだった。一眼レフが未完成で、まだ普及していなかったから、この種の近接装置が、それなりの需要があった時代だった。

 取り付けた姿は合体ロボのような滑稽な形になるが、ライカM3 用の露出計(11-3)と同じで、カメラはある意味で、「大人の玩具」でもあったのであろう。

 しかし、このコニカVaの最大の欠点は、「売り物」の迅速巻き上げ装置にあった。ライカで言えばV型まではノブを回して巻き上げる方式だったが、ライカM3 からは、レバー巻き上げ(4-4)になった。いままでのノブ方式よりは圧倒的に早い巻き上げだったが、他方、当初は、フィルムをちぎってしまうのではないかという恐れがあって、ライカM3 の初期型では、一回巻き上げではなく、二回巻き上げになっていた。

 内外の他のカメラメーカーが一斉にライカM3 のレバー式の模倣に走ったのと違って、コニカは、レンズ鏡胴の向かって右側にレンズと同軸についているレバーを左手で二回押し下げるユニークな方式を採った。これで、フィルムの巻き上げと、シャッターのセット(コッキング)を行うのである。

 じつはライカM3 にはライカビットという、迅速巻き上げの補助具がカメラ底部に取り付けられるようになっている。レバー式よりもなお早いというのが取り柄だった。まるで左手でピストルの引き金を引くような動作をする装置だった。コニカは、いわば、コニカ式のライカビットをはじめから装備していたといえる。ちなみに、キャノンは、ライカビットをそのまま真似した、カメラ底部取り付けの補助具を作って売っていた。

 しかし、このコニカの巻き上げレバーは、実際にはなんとも使いにくかった。第一に、とても動作が重い。それゆえ、巻き上げも決して早くは出来ない。そして第二には不格好だった。カメラ上部(当時は軍艦部といった)には、十分レバーを装備する場所があったのに、真似をしたくないという技術陣の意地を通したのであろう。わずかな救いは、他のレバー式のほとんどがごりごりした巻き上げ感だったものが、このコニカの巻き上げは、とても滑らかだったことだ。

 コニカの意地のカメラだ。ライカの長所は取り入れて、しかし、真似をしたくない、という心意気は立派なものである。


5-2:ライカもニコンも買えない庶民のための実用カメラ。その2。ペトリ・レーサー (Petri Racer)

ライカの栄光、そしてそれを追うニコンやキャノンといった日本の高級カメラメーカー。この中ではキャノンが比較的安いモデルも出していたが、いずれにせよ、庶民にとっては、どれも高嶺の花で、手が届くものではなかった。

ところで、この時代の日本のカメラにとっての最大のマーケットは米国だった。輸出をして外貨を稼ぐことが国策として奨励され、各メーカーは、売れそうなものは何でも作って売った。

これは、1960年代当時、もっとも安いカメラを作るので有名だったペトリ(栗林商会)の庶民向けカメラだ。ペトリは、こういった距離計連動のレンジファインダーカメラだけではなく、 一眼レフでも、他メーカーよりも30%以上も安いカメラを売り出していた。

このカメラが発売されたのは1965年12月だったが、当時の価格は16000円。仕様がほぼ同じ他のカメラの半額近かった。

安さは、庶民に売るための、カメラの最大の武器である。ペトリは、さすが関西のメーカー。安価ながらそこそこのカタログ性能で、ややどぎつい、品の悪いデザインのカメラを大量に生産し、大量に売った。

ペトリのカメラは、デザインの品の悪さのほかに、(「意地」で変わったカメラを作り続けたとしか思えないドイツのフォクトレンダーほどではないが)、他のカメラとはどこか違う特徴を持っていた。

このカメラの場合は、シャッターボタンだ。レンズに向かって左にある、大きな四角なボタンがシャッターボタンで、他のカメラならシャッターボタンがあるところにあるのは、シャッターボタンではなく、シャッターレリースの先を差し込むねじ穴である。指で押してもなにも起こらない。

一眼レフのエキザクタ・マウントのレンズは、この場所にシャッターボタンがある「必然」がある。レンズの自動絞りの動作を兼ねさせるからだ。しかし、このペトリの場合は、ここにシャッターボタンがなければいけない理由はない。しかし、大きくて押しやすいことは確かだ。

このペトリ・レーサーは、ペトリのカメラの中では、もっとも品のいいデザインのカメラである。巻き上げレバーも、(3-1のオリンパスペンFVのように)カメラの背面に、品良く隠れている。他のペトリカメラには、もっとぎょっとするデザインのカメラがいっぱいあった。サイズは135x84x77mm。重量は約540gで、当時の中型カメラとしては標準的なものだった。

しかし、このレーサーのファインダーまわりは、明らかに4-4のライカM3を彷彿とさせるデザインである。このほか、もっとライカに近い日本のカメラもたくさんあった。そして、もっと滑稽なことには、ドイツのカメラを模倣したニコンに、そっくりの日本カメラまであったのである。孫真似である。いまの中国や東南アジアの国々の物真似製品を笑えない。日本もそう言う時代を経て、いまに至ったのである。日本車のコピー製品まで作ってしまう中国のバイタリティは、将来、日本にとって恐るべきものになるだろう。

レンズは交換不可能だが、45mm f1.8と明るく、採光式(ファインダーの向かって左側の窓の緑の部分から採光している仕組みの)ブライトフレーム付きのファインダーを持つ連動距離計が付き、自社製のレンズシャッターは倍数系列の1〜1/500秒という、カタログ仕様としては、当時のレンズシャッターカメラとしては高級機のひとつであった。シャッターは自社製だが、ギロチンのような、品のない大きな音を出すのが欠点である。

露出計は、レンズの上部に見えるCdS(硫化カドミウム)を受光素子とするものが組み込まれていて、追針式(ファインダーの中の指針を、シャッターと絞りのリングを手で回して合わせる方式)だった。

測光のための電池は水銀電池H-D、1個を使う。設計者がどのくらい意識的に作ったものか不明だが、このカメラには電池が入っていないときは、電池蓋が、電池が入っているときよりも深くねじ込める。つまり、電池が入っているかどうか、蓋を開けなくても分かる、私には初めて見た取り柄がある。

上の1-6のような自動露出ではないが、逆に、露出計の電池が切れても、シャッターがちゃんと動作するのは強みだった。

このペトリに限らず、当時の日本にはは驚くほど多くのカメラメーカーが乱立していて、激しい競争を繰り広げていた。一時の勝者だったペトリは、その後落伍し、やがて消えていったメーカーである。ペトリカメラは1907年に栗林製作所として始まった歴史の長いカメラメーカーだったが、1977年に、その幕を閉じた。キャノンの廉価版一眼レフAE-1の登場やこじれた労働争議が廃業の原因になったといわれている。

なお、このカメラも、このホームページの隠れた愛読者であった、私の東大新聞の先輩で、優れた編集者でもある小塚直正氏からホームページの充実のために、と2006年にいただいたものだ。


5-3:そして、庶民カメラの「サニーやカローラ」の登場(オリンパスOlympus DC, RC, ECR。コニカKonica C35)

自動車が、かつての特権階級のための車から、やがてT型フォードの登場以来、庶民のための車になり、つまり移動のための単なる手段として変質していったように、カメラも、同じ道をたどった。

第二次大戦前には、ライカやコンタックスを日本で買うには、家一軒を買う金が必要だと言われた。戦後も、ライカやコンタックスはもちろん、ニコンやキャノンも、若いサラリーマンの年収に匹敵するような、高嶺の花であった。

そして、時代を変えたのが、目先の利く日本のカメラメーカーだった。安くて性能がそこそこのカメラを作れば、大量に売れる、という戦略に、各カメラメーカーが気がついて、大量の多種多様の庶民用のカメラが作られたのが、1960年代だった。それまでは豊かな国への輸出が主だったのだが、国内でも十分に売れる、という時代になったのである。

これは、国産車で言えば、日産サニーや、トヨタカローラという庶民車が売り出されて日本の自動車史上、もっとも大量に売れだした時代と、ほとんど重なっている。

つまり、日本人は、いままで高嶺の花だった車やカメラが、手の届く値段になったとたんに、先を争って飛びついたのであった。

しかし、万人に売れる、安く売らなければならない、という制約は、趣味性の強い道具としてのカメラの性質を大幅に変えることになった。サニーやカローラは、一家4、5人が乗れて、そこそこの速度が出せて、しかも見かけの豪華さだけを巧みに演出した。そこでは、車を運転する楽しみや、技術の粋を尽くしたロードホールディングは二の次になった。

この庶民のための大量生産カメラも同じで、そこそこの性能を持ち、ちゃんと写るという、カメラとしての最低限の性能を確保して、なお、庶民にも手が届く値段だった。カメラを操作したり、所有したりする趣味性を捨て去った、実用的なカメラだった。

その成り立ちゆえ、どのメーカーのカメラも同じような仕様だった。ブライトフレーム付き連動距離計、レバー巻き上げ、セルフタイマー、レンズシャッターを組み込んだ比較的明るい標準レンズ、ホットシュー(ストロボの接点が中央に付いていて、ケーブルなしにストロボが同調する)などである。

このため、どのメーカーも、どのカメラも、大きな特徴はなかった。メーカーが競ったのは、いかに安く売るか、ということと、交換ができない標準レンズをいかに、明るいものにするか、という競争だった。レンズのF値(開放数値)が小さいほど明るいレンズなのだが、(4-5の)ライカ・エルマーの時代には標準だったf3.5から、f2.8になり、そしてf2.4、f2.0、f1.9、f1.8、f1.7と、0.1刻みの、いささか滑稽な競争が行われた。

f値の自乗がレンズの明るさを示す。このため、レンズの明るさがわずか10%あまりしか違わないレンズの開放数値を、これ見よがしに宣伝していたのだが、実際にフィルムを入れて写真を撮るときには、10%はおろか、30%違っても、ほとんど同じ写真が撮れる。フィルムの寛容度(ラチチュード)は、十分広いから、撮った写真から、その違いは分からないほどなのだ。

しかも上に書いた日本光学の50mmf1.4のレンズのように、JIS規格や、当時の輸出カメラの規格に許された誤差いっぱいに明るさを表示していたから、実測すると、公称の明るさには及ばないレンズばかりであった。

これら実用カメラは、その値段の安さと、一応の性能から、いままでカメラを持てなかった層にまでカメラを拡げた。一億総カメラ時代を拓いたのである。

しかし、味わいも趣味性もないカメラだった。ここに四つ並べてあるが、そのどれもが カメラを持つ喜びも操作する楽しみも感じることができない。巻き上げレバーの感触や、各種のダイアルの操作はごりごりしており、高級カメラのスムーズさはない。

いちばん上のカメラはオリンパス35DC。レンズはオリンパス・ズイコー40mm、f1.7というこのクラスではいちばん明るいレンズを付けていた。大衆カメラとしては高価な方だった。 しかし、開放以外は猫の目のような、嫌な形の絞りで、作画には困った。

ファインダーはブライトフレーム付きで、0.6倍の倍率だった。

発売年は1971年。じつは、このカメラはオリンパス最後の国内向けレンズシャッターカメラだ。一時肥大化したカメラをオリンパスらしく小さくしたモデルだった。

また、プログラムシャッターという、当時としては高級な自動露出(AE)の仕組みを持っていた。適正露出になるように、絞りとシャッターの組み合わせをカメラが自動決定する仕組みだ。

しかし、これはじつは欠点でもあった。第一に、電池がなくなると、この仕組みが働かない。つまりシャッターが切れなくなってしまう。また、作画の用途によってはボケ味や焦点深度を調整するために絞りを開けたり、絞ったりしたいこともあり、また被写体が動いているときなどはシャッタースピードも選びたいことが多いのだが、そのどちらもできない。

じつは、輸出向けには同型でシャッター優先とマニュアルが可能なAEのOlympus 35RDというモデルがあったが、国内では販売されなかった。

オリンパスは不思議なカメラメーカーで、国内市場よりは、外国の市場をとくに大事にする。このカメラのように外国向けに、よりいいものを出したり、デジカメの初期のころは、欧州では日本の半額で同じカメラを売っていた。私がオリンパスを嫌いになったのは、それを知って以降である。

測光素子にはCdS(硫化カドミウム)を使っている。暗いところでは反応が遅いが、当時はよく使われた。現在使おうとして困るのは、水銀電池H-D(MR9、1.3Volt、1個)を必要とすることで、現在は、水銀電池は入手できない。

なお、 フラッシュマチック(撮影距離によって絞りを変える)という機構が付いていた。

二番目のカメラはオリンパス35RC。レンズはオリンパス・ズイコー42mm、f2.8というこのクラスでは標準的なレンズを付けていた。大衆カメラとしては普及品だった。 レンズの明るさに、上の35DCのように無理をしていないので、絞り開放からよく写る。このカメラは、東大新聞の先輩だった滝澤睦夫さんに、2006年にいただいたものだ。教育県・長野で長らく教員をしておられた滝澤さんの父君が使っておられたものだという。

普及品とはいえ、このカメラもブライトフレーム付きの連動距離計を持ち、セルフタイマーも、ホットシューも付いていた。35DCにはない良さは、シャッタースピードも絞りも自分で選べることだった。なお絞りはAEを選んだときは、自動的に決定される。シャッタースピードは1/15から1/500秒までだった。

なお、このカメラのフィルム巻き上げはボディー背面に巻き上げレバーが隠れている、3-1のOlympus Pen FV(やPen F)と同じ仕掛けだ。電池は水銀電池H-D(MR9、1.3Volt、1個)を必要とする。現在は、水銀電池は入手できないが、このカメラは、幸い、電池は露出決定にしか使っていないので、AEを使わず、マニュアル露出ならば、カメラとしては使える。これは貴重なことだ。

なお、このカメラの絞りは4枚羽根で、絞るとほとんど真四角になる。これも作画上は、好ましくはない。

このカメラのサイズは119×75×51mm。重量は約420gだった。当時のカメラとしては小さい方だが、下のKonica C35のほうが軽い。

三番目のカメラはオリンパス35ECR。レンズはオリンパス・ズイコー42mmf2.8で、二番目の35RCと同じレンズだ。これも大衆カメラとしては普及品だった。

このカメラの発売年は1972-1974年だった。つまり国内向けには上の35DCが終えてから、外国向けだけに売っていたカメラだ。Olympus 35 ECという連動距離計のないカメラの後継機で、距離計連動式になったモデルだった。

このカメラは特殊な電池を必要とする。巨大な水銀電池でHM-N (NR52)というものを2個、カメラの底に入れる。露出はAE専用で、プログラムシャッターだけが可能だ。シャッターボタンのストロークで絞りをメカニカルに絞っていくのか、ストロークが長くて重い。一方、絞りの枚数は少ないが、猫の目のような嫌な形ではない。

じつは、このカメラは2000年にノルウェーの大学院生から貰ったものだ。シャッター羽根が粘っていて、シャッターが切れず、また遮光材のモルトプレンが劣化してベトベトになっていたので、使えないものだった。その後私が直して、使える状態にもどしたものだ。

四番目のカメラは、オリンパスのライバルメーカーであるコニカの同種のカメラ、コニカC35である。仕様は上のいくつかのオリンパスとほぼ同じで、レンズは38mm、f2.8で、上の5-2のコニカより後の時代なので、Konica Hexanonとある。とてもよく写るレンズだ。

プログラムシャッター専用である。シャッタースピードは1/30から1/650秒までだった。このカメラも滝澤睦夫さんに2006年にいただいたものだ。

連動距離計もレバー巻き上げも、フラッシュマチック もついている。違うことは、電池が水銀電池よりは新型の銀電池SR44か、同型のアルカリマンガン電池LR44が使えることで、これらの電池は、現在でも買える。

コニカは上の5-2のような比較的高級なカメラも作っていた日本のカメラメーカの老舗である。このカメラにも、電池がなくなったときにも単速のシャッターが切れる仕掛け(絞りは開放になる)や、フィルムの位置を示す指標(ホットシューの脇に見える)のように、手を抜かない、まじめなカメラ作りが息づいている。

デザインも、スッキリしていて面に張りがあり、そして無駄がない。それでいて素っ気なくもない、まとまりのいいデザインだ。サイズは118×75×54mm、重量は約370gと小型で軽い。

フィルター径は46mmで、露出計の受光窓もカバーしている。つまり撮影倍率のかかる濃色のフィルターを付けたときも、自動的に露光が補正される。上の5-2の時代と違って、フィルターが安価になって、無理に小さいフィルターを使わなくてもすむようになった。日本も、少しずつ、贅沢になっていった時代なのである。

ファインダーも、まるで光学兵器のようなライカM3(4-4)にかなうべくもないが、同種のカメラの中では、よく見える方だ。よく写って、丈夫で、安い、というのはコニカの特色で、このコニカC35は大衆カメラの激戦区のなかでも、よく売れたカメラだった。

これらの1970年代はじめまでの大衆カメラは、日本にカメラを大量に普及させた功績は大きい。子供の成長など、多くの家族写真や記念写真を日本の家族が普通に持つようになったのは、これら、高くはないがよく写る大衆カメラのおかげである。

しかし、長く持っていたい、操作やシャッターやフォーカシングの感触を楽しみたい、という趣味のカメラとしての愛着には、どうしても欠けるところがあるのは、その成り立ちからして、やむを得ないことであろう。

6-1:町の発明が大メーカーに採用された時代。Minolta 16 (ミノルタ16)

1957年に発売され、直後に購入した。
16mmフィルムを使う10×14mm判の超小型カメラ。これは初期モデル。当時の定価は6800円だった。

超小型カメラとしては第二次世界大戦の直前に、バルト3国の一つであるラトビアの首都リガで作られたミノックス Monox シリーズが有名である。フィルムサイズは8×11mm。幅9.5mmという当時最小の仏パテ社製ムービーカメラ用のフィルムを流用していた。戦中戦後を通して、スパイカメラとして有名になった。

しかし、ミノックスは、限界の小ささを狙って、コストには糸目をつけない高級カメラだったので、日本のカメラメーカーには、模倣しようにも手が出なかった


このミノルタ16は、「甲南カメラ研究所」の故西村雅貫氏が、1949年ごろに設計・試作したカメラ、「コーナン16」を母体にして、ミノルタが作って売り出したものだった。甲南カメラ研究所は、そのほかにも、いろいろユニークなカメラを作った。

ミノルタ16は、シャッターチャージは、ミノックスと同様プッシュプル方式を採用していた
。ボディを引き出すとファインダー、レンズ、シャッターボタンが現われて撮影状態になる。

撮影が終わると押し込んで格納状態となる。このときフィルムが1駒送られ、シャッターもチャージされる。つまり格納状態では撮影状態よりもずっと小さいし、シャッターボタンも保護される。左は引き出した状態。重さは約150グラム。

フィルムは標準の映画用と同じ幅の16mm幅のフィルムをダブルマガジンに入れたものだった。片側から、もう片側に巻き取って、フィルムを終える仕組みだ。ただし、映画用のフィルムと違ってスプロケットで駆動するための穴(パーフォレーション)がなく、幅いっぱいに使え、しかもフィルムの走行方向に対して横に使っていたので、画面は映画用よりもかなり大きかった。

この写真の状態で、右側がファインダー、左側が撮影レンズである。レンズの前には四角いフィルターが付けられている。左手の丸い穴はフラッシュのためのシンクロターミナル。

レンズはロッコールRokkor25mmF3.5の固定焦点式。焦点調節はできない。典型的な安物カメラと同じ3枚のトリプレット構成だった。決していいレンズではなくて、所詮、ミノックスには敵わないものだった。

シャッターはBのほか、1/25、1/50、1/200秒の3速を備えている。四角いフィルターやクローズアップレンズをレンズの前にはめられるようになっている。当時、マミヤ16という同じフィルムサイズのカメラもあり、レンズの焦点距離や明るさは同じだったが、こちらのほうは焦点調節が可能で、シャッター速度の調節範囲が1/2秒からと広いなど、高級だった。しかし、全体の形と引き出し式の機構は「甲南カメラ」設計のミノルタのほうが、ずっと洒落ていた。


ミノルタ16はその後、改良されたII型が1960年に発売になった。
II型レンズを替えて
22mmF2.8になり、シャッターは Bのほか、1/30 - 1/500秒の6段の倍数系列になった。

その後も、
自動露出など、いろいろ改良されたモデルが次々に出された。しかし、16mmフィルムを使うミノルタのカメラは売れず、 1972年に発売されたミノルタ16QTが最後の機種となった。

【2015年8月に追記】右は当時のミノルタの雑誌広告。専用のカラーフィルムも売り出していた。なお、上半分の広告からは
当時、交換レンズカメラを持っていなかったミノルタの「悲願」が読みとれる。新型機の「発売」ではなく、「改造受付」が哀しい。

【2017年6月に追記】2017年はニコン創立100周年だそうで、東京・品川にある「ニコン・ミュージアム」で企画展「カメラ試作機」をやっていた。そこで展示されていたのが上の「ニコン 16mm判カメラ開発試作機」。説明には「1957年。開発が後発だったこともあり、未発売」と説明があった。焦点調節も可能だし、レンズはf1.4、シャッター速度は1/500まである。

たしかに、高級機マミヤが先行し、中級機ミノルタも上記のようなカメラをすでに発売していたので、ニコンのものはそれなりに美しい高級機だが、出せば高価にならざるをえないが、16mmフィルムカメラを買う層に売れるかどうか、ニコンに勝ち目がないという判断だったのだろう。(2017年6月に「ニコン・ミュージアム」で撮影)


6-2:元祖スパイカメラの日本的模倣。Yashica Atron electro (ヤシカ・アトロン・エレクトロ)

超小型カメラのMonox と同じ8×11mm判のフィルムを使う国産カメラ。1965年に日本では最初の、ミノックスと同じダブルマガジンのフィルムを使う超小型カメラとして発売された。私の父が買って持っていたカメラである。

初代は、超小型の精密カメラで世界中にファンが多く、スパイカメラとしても有名だったミノックスの模倣だった。だが、サイズはミノックスの小ささにはかなわなかった。

左写真は1971年に発売された二世代目のアトロン・エレクトロ。初代よりやや大きくなったが、ミノックスの模倣だった初代とは大分、形が変えられた。

重さは約120グラムだった。 レンズは初代と同じく、ヤシノン18mmF2.8、テッサータイプの4枚構成だったから、それなりに高級カメラとして作られていたことになる。当時のカメラ雑誌のテストでも、少なくとも画面中心部は十分尖鋭なレンズであった。

しかし、本家ミノックスは、レンズは(小絞りのときに起きる回折による尖鋭度低下を防ぐために)必ず開放絞りで使い、フィルムゲートがレンズの収差に応じて湾曲しているなど、尖鋭な撮影をするための独創的なアイデアを持っていたのに比べれば、フィルム面は平面で、通常のアイデアのカメラにすぎなかった。

また、この二代目からは、目測だが焦点調節が可能になった。カメラについているストラップは、近距離を測る巻き尺にもなっているが、このアイデアはミノックスの模倣だ。最短撮影距離は60cmだった。

シャッターはCdS(硫化カドミウム)のプログラムEE(自動露出)になった。プログラムEEゆえ、絞りやシャッタースピードは選べない。露光可能な範囲はf2.8, 8秒〜f13, 1/350秒までで、このEEの範囲では本家ミノックスをしのいだ。ミノックスは当時EE版であるミノ ックスCを発売しはじめたところだったが、故障が多かったという。

この種のエレクトロニクスでは日本の方が進んでいたのだろう。しかし、このアトロンは、カメラに比べて大きな、ほとんどカメラの奥行きいっぱいの長さの6Volt水銀電池が必要になった。

ファインダーはアルバダ・フレームが備えてある。アルバダ・フレームとは視野に白い枠が浮かび上がる仕組みだ。ライカMシリーズのような明かり取りの専用窓がないので、光線状態によっては枠が見えにくい。しかし、このカメラは、パララックス自動補正というライカM3やM2なみの高級なメカニズムを備えていた。

フィルムの巻上げはカメラ横に寝ているレバーを起こして、引っ張ることで行う。フィルムは上のミノルタと同じようにダブルマガジンだが、マガジンはもっと小さく、フィルムの幅も小さい。

このカメラには、フィルターセットやクローズアップレンズ、フラッシュユニットのほか、アングルファインダーまで、さまざまなアクセサリーが附属して、化粧箱に入って売られていた。大人の玩具のような、ちまちましたシステムを楽しむための道具である。

上のミノルタもこのヤシカも、フィルムサイズが小さいために、現像処理には細心の注意が必要だった。微小なゴミはもちろん、たとえば白黒フィルムでは、露出や現像時間が少しでも長くて濃度の濃いネガフィルムを作ってしまうと、決して最上のプリントにはならない。尖鋭度を落とさぬよう、微粒子フィルムを使い、普通の35mmフィルムよりは薄目のネガを作ることが、作品作りのコツであった。つまり、自分で現像、引き伸ばしをする高度なアマチュアだけが、性能を堪能できた特殊なカメラであった。

当時はこのアトロン専用のラボ(現像所)もあり、超小型カメラのマーケットも、小さいながら、あった。また、アトロン(ミノックス)サイズを楽しむアマチュアの為にヤシカはアトロン専用の引伸レンズも売っていたほどだ。しかし、このカメラの売り上げは芳しくなかった。マニアは本当のミノックスを買うだろうし、一般のアマチュアにとっては、あまりに扱いにくいカメラだった。

なお、このカメラのメーカーのヤシカは
、その前のニッカカメラを引き継いだ会社だ。ニッカカメラは、戦後の日本で、キャノンやレオタックスやタナックなどといったメーカーと同じく、バルナック型ライカ(4-3)の模倣カメラを作っていた会社だ。のちに京セラに吸収された。

電子回路を使った自動露出カメラでは先進的なメーカーで、35mmの距離計連動レンズシャッターカメラの「ヤシカ・エレクトロ35」はベストセラーになった。会社は現在は京セラになっているが、海外ではヤシカの名前の方が知られているので、いまでも海外で売っているときはヤシカブランドであることが多い。

なお、「ヤシカ・エレクトロ35」は日本で生産が終わったあと、その生産設備を中国が買い、その後、中国はデッドコピーや小さな改造を施して、長らく売っていた。その意味では時代を画したベストセラー機であった。

7-1:ついにライカ M3 にかなわなかった「怨念」が作ったカメラ。Minolta SR-7(ミノルタ)

哀しいことに、出版業界と同じに、カメラ業界も、東京一極集中になっている。関西の文化や思想はどこに行ってしまったのであろう。しかし、かつては、関西でも日本の覇を競うメーカーがあった。このミノルタである。

ミノルタは、ほかのメーカーとは一線を画していた。他にはないユニークなデザインや斬新な機構である。

もっともユニークなのは、ミノルタMinolta A2だった。1955年に発売された、レンズシャッターの35mmレンジファインダーカメラは、それまでの、どのカメラにも似ていない、ずんぐりした、ある意味では不格好なカメラだった。

私はブエノスアイレスの蚤の市で、何度かこのミノルタMinolta A2に巡り会った。だが、程度と値段で折り合わず、買わなかった。

ミノルタは1958年になって、一眼レフ、Minolta SR2 の製造を始めた。当時は、日本の一眼レフの草創期だった。ライバルだったニコンF(1959年に発売)やキャノンフレックス(同年発売)が、いかにもいかつい外観をしていたのと違って、このミノルタのカメラは、面に張りがあり、無駄な装飾がない、じつにスマートで流麗なデザインで作られていた。

しかし、このミノルタSRには、ライカに対するミノルタの怨念がこもっていたのである。

ミノルタもニコンやキャノンと同じく、ライカに追随したレンジファインダーカメラを作っていた。Minolta 35シリーズである。しかし、ライカ M3(4-4)が1954年に出るに至って、他の日本メーカーと同じように、大変な衝撃を受けた。ニコンは開発中のS2を急遽、改造したが、到底、M3に敵うものではなかった。

ミノルタは、全社を挙げて、M3を超えるべく、レンジファインダーカメラの最高峰を作ることを目指した。「ミノルタスカイ」である。少なくとも、ライカM3よりは、流麗な形をしていた。仕様も、M3に、ほとんど追いついていた。

だが、このミノルタスカイは悲劇のカメラだった。日本のカメラの当時の主要の市場だった米国へ、勇んで試作品を持っていったミノルタの社長は、帰途、あまりの落胆を隠せなかった。米国のバイヤーから、ライカM3の敵ではない、これではとうてい売れない、と酷評されたからであった。

こうして、発売直前に中止になった”幻の高級カメラ”、ミノルタスカイの設計やテストを生かして作られたのがSR2だった。つまり、ミノルタにとってSRシリーズは、近づいた、あるいは乗り越えたと思った敵が、はるかに離れてしまったという、怨念が作り上げたカメラだったのだ。

SR2 は、その後、廉価版のSR-1、外付けの露出計が付けられる SR-3 を出し、1962年に、このSR-7 を発売した。このSR-7は世界で初めてCdS素子の露出計を内蔵した一眼レフカメラだった。

露出計の受光窓は、カメラの向かって右上に付いている。露出計はシャッター速度に連動し、指針が指す絞り値に合わせることで適正露出となる。この丸い露出計の窓の中には、NDフィルター(無色の減光フィルター)が装備され、フィルターを入れることによって、1/256に減光される仕掛けだった。それだけ広い範囲の測光が出来たことになる。露出計には,1.3V水銀電池(H-D、別名はMR9)1個を使用する。しかし、水銀の使用規制のために、この電池は、現在では入手できない。

このカメラは、58mm F1.4という、当時としてはもっとも明るいレンズを付けている。このほかに廉価版として 55mm F1.8(のちに 55mm F2.0になった)のレンズもあった。ミラーがレンズの後ろで動く一眼レフでは、それまでの35mmカメラで標準とされていた50mm(正確には、メーカーによって51-52mm)の大口径レンズは作りにくく、やや焦点距離を伸ばして、55-58mmにするのが普通だった。ニコンNikonも、初期のものはやはり58mm F1.4だった。ミノルタが他社と違うところは、レンズを正面から見ると緑色に見える「アクロマチックコーティング」をしていたことで、このコーティングは、その後出された58mm F1.2のレンズにも引き継がれた。

レンズが明るいゆえに、レンズの口径も大きかった。このレンズは 55mm というフィルター径であった。当時は、とくに口径の大きなフィルターの値段が高く、このため、ニコンでも、フィルター口径を 52mm に抑えて統一していた。このためニコンFの初期の標準レンズ、58mm F1.4は、フィルター径を小さくするために、レンズ名やレンズ番号を、フィルター枠の外側に書き込む、という、デザインも悪い、苦肉の策を弄していたほどだった。

その後、フィルターは劇的に安くなった。現在のズームレンズでは普通になった 77mm だ82mm だというフィルターは、昔を知るものにとっては、夢のような大口径フィルターなのである。ニコンSの時代には 43mmで、いろいろなレンズが統一されていたほどなのである。

このほか、SR-7はミラーアップ機構を持っていた。一眼レフのファインダーに光を導くミラー(表面鏡)を上げたまま固定する仕掛けである。当時は超広角レンズを使うときや、ミラーによる振動を避けたい複写用途などに、高級機はミラーアップが必要だった。

上記の ペンタックス Pentax SP にはこの仕掛けはなく、Nikon でも最高級機のニコン Nikon Fだけが、この仕掛けを持っていただけだった。シャッターも1/1000秒までのものを備えていた。つまり、最高級の一眼レフを狙ったのである。巻き上げも、ごりごりしていて品のない一眼レフが多かった中で、とてもスムーズで、名機と言われたペンタックス Pentax LXに迫る。

しかし、同じく最高級機が備えていたファインダースクリーンの交換や、モータードライブの装着は、できなかった。また、超広角レンズを使おうにも、外付けのファインダーを取り付けるアクセサリーシューもなかった。やや、中途半端な高級機だったのである。

デザインは美しかったが、巻き上げレバーと、同軸にあるシャッターボタンは、独創性を損ねる。これはライカM3そのままの引き写しであった。

そして、このミノルタ Minolta SR-7は、当時のアメリカのカメラ市場でミノルタを第1位に押し上げた。ライカに勝る高級機でも高価機でもなかったが、ともかくミノルタは怨念を幾分でも晴らしたことになる。


なお、このカメラも、このホームページの隠れた愛読者である、私の先輩の編集者、小塚直正氏からホームページの充実のために、と2007年にいただいたものだ。デモの取材でもしたときのものであろうか、正面のペンタプリズムのカバーに、取材現場で受けた向こう疵がある。

7-2:写真学生にとってのニコンF。Asahi Pentax SP(アサヒペンタックス SP)

メーカーの旭光学は、1952年という早い時期から一眼レフを作り続け、日本の一眼レフの技術、たとえば、クイックリターンミラー(1954年)やペンタプリズム(1957年)などの進歩のパイオニアだった。

その旭光学(のちのペンタックス)の代表作。1964年に売り出したペンタックス SPは、CdSを使ったTTL露出計をボディー内に組み込んだ、初期の一眼レフの傑作だった。

TTL露出計とは、レンズを通過した光の強さを測る仕組みで、レンズを交換すれば、その画角に応じて測光する仕組みだ。それまでの独立の露出計と違って、より正確な露光が可能になる。

一眼レフに最初にTTLを採用したのは東京光学が東芝と協力して作ったトプコンREスーパーだったが、このペンタックスは1年遅れの二番手だった。

しかし、看板に偽りがあった。SPとはカメラボディーにも明瞭に書いてあるように、スポット測光を意味する。つまり、被写体の狭い部分を狙って測光できる仕組みのはずだった。

ペンタックスは試作品ではスポット測光を試みていたが、製造モデルでは、技術的な理由ゆえか製造コストゆえか、スポット測光をあきらめ、全面平均測光を採用したのであった。

その「看板の偽り」を別にすれば、このカメラはボディーの定価が30000円と、当時のニコンやキャノンよりもずっと安く、しかもニコンやキャノンが外付けの大がかりな測光ユニットを付けないと測光出来なかったのに対して、一歩先を行っていたので、ベストセラーになり、以後9年間も作り続けられた。

このペンタックスSPは、日本の輸出用カメラのうち、瞬間最大では40%をも占めたことがあったほどだ。ドイツのベルリンフィルが日本公演に訪れたとき、ペンタックスSPを35台も買いたい、という希望が伝えられ、滞在していたホテルの関係者が東京中を走り回ってかき集めたことを粕谷悦男さんが教えてくださった。 現在のような大型量販店がなかった時代だった。

また、カメラ本体が安いばかりではなくて、ニコンやキャノンよりも修理代が安いことも特長だった。懐が寂しいカメラマンや写真科の学生にとってはありがたいカメラであった。この「良き伝統」はいまだにペンタックスカメラに受け継がれている。

測光のための電池は水銀電池H-D、1個を使う。この当時の測光は「絞り込み測光」であった。つまり、実際にレンズの絞りを絞った状態で、レンズを通る光を測る。このため、ファインダーはごく暗くなってしまうほか、アイピース(ファインダーを覗き込む口)からの逆入射光の影響を受けてしまうなど、いろいろな欠点があった。

上のイカレックスも同じ絞り込み測光で、同じ欠点を持っていた。このため、イカレックスは、アイピース部分に、ゴムのアイカップ(遮光用の漏斗状のゴム)が標準で付属している。

この問題を解決したのが、のちの「開放測光」であり、ペンタックスでいえば1973年に発売したペンタックスSPFからだった。なお上のOM1は1972年発売の最初から、開放測光だった。

このペンタックスはプラクチカマウントであった。直径42mmのネジマウントで、そのころの世界の多くの一眼レフが採用していた、汎用マウントである。

取り付けてあるレンズはソ連製のジュピター85mm f2.0。ロシア語の発音ではユピテル。元祖はツアイス Zeiss のゾナーだが、第二次大戦後にソ連が工場ごと接収して以来、名前を替えて作り続けた名レンズである。


やや汚いボケ方をすることもあるが、この明るさでこの解像力をもつレンズは、当時は世界唯一であった。また、戦後の製品だけに、レンズコーティング(反射防止膜)があるので、元祖よりも性能が優れている面もあった。

【追記:このカメラのディテールはこちら】

7-3:大企業が潰した町の発明家。Konica Autoreflex T3 (コニカ・オートレフレックスT3)

購入したのは1974年12月
。ボディーもレンズも、オリンパスのように小型にしようとは考えていなかったようで、比較的大型である。重さは、下(7-5)のIcarexとほぼ同じだ。

付けているレンズは35mm f3.5。一眼レフ用としては避けられないレトロフォーカス方式の初期のレンズとはいえ、ずいぶん大きめである。 しかし、コニカのレンズの光学的な性能は、どのレンズでもよかった。

コニカ(当時は小西六写真工業と言った)の最高級の機種として売っていたレンズ交換式の一眼レフ。コニカはとても良心的で真面目なカメラメーカーだったが、それゆえ、多数派にはなれなかった面もある。

なお、その後21世紀になってから、コニカはミノルタと合併してコニカミノルタという珍妙な名前の会社になったが、2005年にはついにカメラ事業から撤退してしまった。

このコニカの一眼レフはCdSを使った露出計を内部に組み込んでいて
、当時としては珍しくシャッター速度優先式のAE(自動露出)方式を採っていた。

後の電子制御型のカメラなら、シャッター速度優先方式は珍しくはないが、当時は機械的な機構で制御していたので、ごく珍しかった。動くものを撮りたいときには、このシャッター速度優先方式はありがたい特長だった。

シャッターは金属製の縦走り型のコパルスクエア
。時計メーカーが作った既製品の組込型のシャッターだった。ストロボの最高同調速度が 1/125 秒と、当時としては他のカメラよりも倍も高速なのが取り柄だった。この違いは日中ストロボ(太陽光下でストロボを使う技巧)などで威力を発揮する。

じつは、この縦走りシャッターは大阪の発明家、茶谷薫重氏が作ったものだった。

製造をコパルに依頼して、最初のうちは実用新案の使用料を受け取って左うちわの生活を送っていたが、4年目に突然コパルから使用料が受け取れなくなった。裁判に訴えたが、大企業と個人では、裁判にかけられる金も雇える弁護士も違う。涙を呑んだ顛末のものだ。

このカメラのシャッターは、しかし、 シャッター幕が布製で、そのうえミラーにショックアブソーバーが付けられていた7-1の Olympus OM1に比べると、まるでギロチンのような、品のない金属音を出すのが欠点だった。

もっともこれはコニカだけの欠点ではなくて、当時、同じような金属縦走りシャッターを使っていた日本光学のニコマートなど、他のカメラも同じだった。つまり、オリンパスのOM1(そして後のOM2)が抜群に静かだったのであった。しかし、オリンパスもOM4になって、ショックアブソーバーをやめたせいか、あるいは最高シャッター速度を1/2000秒まで上げたせいか、かなり品のない、うるさい音になってしまったのは残念なことだった。

このカメラの大きな特長は、クイックリターンミラー(反射鏡)にあった。通常ならば、上部を支点にして跳ね上げるのだが、このカメラは、ミラーが上がりながら、支点そのものがカメラ後部に後退する、つまり、「しゃくり上げる」仕組みだった。

このため、フランジバック(レンズ取付部からフィルム面までの距離)が、当時のカメラとしてはいちばん短かかった。これはレンズ設計上の自由度を増すとともに、レンズマウント・アダプターを介して、別の会社のレンズを取り付けるときには、絶大な威力になる。

たとえば、私はエキザクタマウントのレンズを付けるための、このコニカ用のアダプターを2002年にアルゼンチンで買ってきたが、エキザクタマウントのレンズを取り付けて、無限大の距離からちゃんと写せるのは、古いが特徴があるレンズを使う趣味にとっては、とてもありがたいことである。

コニカはこのカメラに力を入れていて、200mm f3.5という当時としては明るい、またそれゆえ巨大なレンズもあった。重いのが難点であった。 また、H-C(MR44)という、他の多くのカメラのH-Dとは違う水銀電池(2個)を必要としたのも、いざというときに入手が難しいので、これも欠点と言えよう。

7-4:天才カメラ設計者の三本目のホームラン。Olympus OM1 (オリンパスOM1)

発売は1972年。購入したのも1972年。世界各地で酷使したので、黒のペイントがあちこち剥げているし、凹みもある。剥げると、下地が他のカメラのように真鍮色ではなく、白色になるのは不思議だった。

当時オリンパス光学の社員だった天才カメラ設計者、米谷(まいたに)美久氏が設計した、当時としては圧倒的に小型軽量だったフルサイズ一眼レフ。ボディー重量が490グラムと、たとえば当時の高級カメラ Nikon F の685グラム(1971年に出した後継機 Nikon F2 は700グラム)の3分の2しかなかった。

しかし、指に触れる操作部分までは決して無理をして小さくしていないし、シャッターは10万回の耐久性を誇り、シャッターを切るたびに高速で往復するミラーには衝撃を和らげるダンパーを装着してある高級カメラだった。

なお、この後のOM4ではダンパーを廃止した。このため、シャッター音は、明らかにがさつなものになってしまった。

またミラーは他の一眼レフよりは大型で、超望遠レンズを使ったり接写のときにも、「けられ」(ファインダー画面の上部が欠けること)が少なかった。

じつはオリンパスはこの前、つまり傑作だった上記のハーフサイズ一眼レフ以後はOlympus FTL(プラクチカマウントの中型一眼レフ)など、特徴のない中途半端な一眼レフで市場に打って出ていたが、ぱっとしなかった。

このカメラが、米谷氏がハーフサイズのペンカメラ(3-2)、ハーフサイズ一眼レフ(3-1)に続いて放った三本目のホームランと言えよう。前に書いたように、次の打席、オリンパスXA (1-6)は気負って振ったものの、凡打に終わってしまった。

シャッターは機械式横走り、布製フォーカルプレーン。
1-1/1000秒。シャッター機構の上下の幅を小さくするために、いわゆるリボンといわれるシャッター幕を支える部分に工夫が凝らされていた。

中央部重点TTLのCdS露出計を内蔵していた。開放測光だった。CdS露出計はそれ以前のセレン露出計と違って電池を必要とする。このカメラは H-D という水銀電池を1個必要とした。しかし、その後の「公害」問題で、現在では水銀電池は入手できなくなってしまった。

なお写真で装着しているレンズは40mmf2.0の、薄型レンズ。私は発売後、間もなく買った。製造を中止した今では当時よりずっと高値の人気レンズだそうだが、解像力もボケ味も、オリンパスとしては駄作のレンズだと私は思っている。とくに中間画角が悪い。

このOM1の小型化は、Pentaxが1976年に(無理をしてさらに小型化した)MX1(ボディー重量が495グラム)やME1(ボディー重量が460グラム)で、またニコンが1980年にEM(ボディー重量が480グラム)、また1982年にFG(ボディー重量が490グラム)で追随するなど、その後の世界の一眼レフに大きな影響を与えた。

一社が先行して成功すると、見栄もなりふりも構わずに後追いをするのが、カメラに限らず、日本のメーカーの特色である。それが日本を経済的に押し上げてきた原動力とはいえ、あまりに独創性がないことは、なんとも寂しい。

私が買ったよりも少し後、1974年5月上旬のこのカメラとライバルカメラの定価(現金正価と言った)と実勢価格は、それぞれボディーだけの値段でOM-1が43000円と36000円、アサヒペンタックスSPFが42000円と36000円、ニコンのニコマートFTNが42000円と38000円、キャノン・ニューFTbが48500円と38000円、ミノルタSRTスーパーが46500円と37500円、同SRT101が39300円と31500円、コニカT3が47300円と38000円だった。

なお実勢価格は、まだごく小さな新興の店だったヨドバシカメラ新宿西口店での価格である。 当時、ヨドバシカメラは、いまのようなメーカーにも影響をおよぼすような巨大小売業ではなく、黄色い厚紙に細かい字をびっしり印刷した特徴ある価格表(左の写真。これは1975年4月号。島村英紀所蔵)を配って勢力を伸ばしはじめていた、ほとんど一匹狼の、新興の安売り屋であった。

定価は異なっているものの、実勢価格が、ミノルタSRT101を除けば、驚くほど似通っていたことが分かる。それぞれのカメラメーカーが、機械式カメラの頂点にいて、つまり、いちばん輝いていて、激しい販売競争を繰り広げていた時代であった。

7-5: ドイツが作った「ニコンF」。Zeiss Ikon Icarex35 CS (ツアイス・イコン・イカレックス CS)

このOM-1が、当時、いかに小さかったは、たとえば同時期に売られていた右の Zeiss Ikon Icarex 35 (CS) と比べるとよく分かる。重さも容積も倍くらい違う。

この Icarex はボディーだけで790グラム、写真の標準レンズ付きで1100グラムもある。ボディーの重さがOM1に比べて60%も重いことになる。

なお、このカメラは 1969-1970年ごろの製品である。

Icarexはドイツの名門カメラメーカー、フォクトレンダー(Voigtlaender)と、同じく名門のツァイス(Karl Zeiss)がともに傾いて、生き残りのために1956年に合併したツァイス・フォクトレンダーが作った高級一眼レフ。

つまり評価が高まりつつあったNikon Fのドイツ版の対抗馬であった。 なお、この後1969年にフォクトレンダーは消滅したから、これはフォクトレンダー最後のカメラということになる(*)。

フォクトレンダーは頑固なほど反骨を貫いたメーカーだった。ほかのメーカーの製品とは、わざととしか思えないほど、どのディテールも似ていない製品、それもかえって使いにくかったり醜かったりするのもいとわないほど、他と違ったカメラを作り続けた特徴のあるメーカーだった。

フランスの車でパナールという車がある。このメーカーも、ほかとは絶対に似ていない車を作り続けた。他社が売れるものを出したら、雪崩を打って後追いをする日本の自動車やカメラなどのメーカーとは大違いである。ヨーロッパの依怙地さ、ときにはヨーロッパの良心というべきものである。

その意味では、このIcarexは、Zeissで基本設計が終わっていたのか、フォクトレンダーらしくないカメラだと言えよう。

カメラボディーは Zeiss やコンタックスの流れを汲む8角形の断面を持つ。上の Nikon S シリーズが模倣した元祖のボディーである。メッキの質もよく、形にも品格がある。

カメラ上部のペンタプリズム部分が取り外しできるようになっていて、さまざまなファインダーやファインダースクリーンを取り替えられるようになっている。

このIcarexのペンタプリズム部分には中央部重点TTLのCdSを使った露出計を内蔵している。絞り込み測光である。絞り込み測光はどんなレンズでも使えるという利点がある代わりに、ファインダーが暗くなることと、露光メーターの反応が遅いのが欠点で、指針が落ち着くまで何秒もかかる。また、ファインダーアイピース(目を付けて覗き込む窓)からの逆入射光の影響も受けやすい欠点もある。

つまりこのカメラは、Nikon Fと同じように、当時の高級機としての機能を備えていた。しかし、Nikon F (1959年発売)も Nikon F2 (1971年発売)も、内蔵露出計つきのファインダーはPhotomicという名前の巨大で不格好なものだった(それゆえ現在の中古価格は、露出計機能の付いたPhotomicのほうが、なにも付かないFよりもずっと安い)のに比べると、このIcarexの露出計内蔵のファインダーは、はるかに小型でスマートであった。

なお、OM-1はペンタプリズムを取り外してからスクリーンを外す他のカメラと違って、ファインダースクリーンをレンズマウント側から取り替える仕掛けを作った。つまり、OM-1は、ファインダースクリーンも交換可能だし、そのほかモータードライブも装着可能、裏蓋を交換して250枚撮りにも変更可能なことなど、十分、高級カメラの資格を持っていたのである。

シャッターは布製・横走りフォーカルプレーン。Bと2-1/1000秒。私が2000年にドイツのハンブルグで交換レンズ2本とともに買ったときはセルフタイマーが動かなかったが、比較的簡単に直った。シャッター音はそれほどでもないのだが、ミラーが往復する音が、まるでギロチンのように響くカメラである。

このカメラにはいくつもの兄弟分の Icarex がある。カメラ上部のペンタプリズム部分が取り外しできない普及型のモデルや、 M42マウント(プラクチカマウント、のちにアサヒペンタックスほか多くのカメラも採用した)のモデルがあった。

装着しているレンズは Zeiss Ultron 50mmF1.8。フィルターやフードも(通常のねじ込みではなくて)バヨネットで付ける。いちばん前のレンズが凹面になっているのが特徴だ。

とても良く写るレンズだが、じつはUltronはフォクトレンダーのレンズの名前である。合併したために名前を名門の Zeiss にしたほうが売れると思ったのだろうか。あるいは尾羽根打ち枯らして合併せざるを得なかった「反骨の名門」フォクトレンダーには、すでに自分の商標を主張する意気が残っていなかったのだろうか。

レンズマウントはスピゴットマウント(ブリーチロックともいう)で、レンズを差し込んだあと、レンズの根元のリングを時計回りに回して固定する。

つまり、カメラ側のレンズマウントと、レンズ側の後部の金具が装着・取り外し時に擦れ合わないというすぐれた特徴を持つレンズマウントである。自動絞りや露出計連動など、レンズとカメラボディーを連結するレバー類を設計する上でも、取付時に回転しないというのは大きな利点だった。いわゆるバヨネットマウントは、すべてこの金属同士の擦れ合いが避けられない。

しかし、このマウントはあとに続くものがなく(キャノンやペトリなどごく少数の一眼レフが初期には採用したが、その後取りやめた)、いまは「絶滅」した。なお、キャノンの初期のレンズは、同じスピゴットマウントだが、サイズや内部機構が違うために、このカメラには取り付けられない。

ちなみに、ライカも一眼レフに遅ればせながら乗り出したのが1965年に発売したライカフレックス Leicaflex だった。Minolta SR2が1958年に、また、Nikon Fや Pentax S2 や Canonflex がいずれも1959年に発売になっていたのとくらべて、6-7年遅れのスタートであった。ファインダースクリーンが素透しという特徴を持っていた。明るい像が見える代わりに、焦点深度が分からない。

しかし、ライカフレックスの評判は芳しくはなく、1968年にTTL露出計を組み込むなど各所を改良した Leicaflex SL、次いで1974年に SL2 を出したものの、やはり販売は低迷し、すでに日本の一眼レフの敵ではなかった。 カメラとしての工作だけはM型カメラなみによかったが、それだけでは勝ち目はなかったのである。

やがて、ライカは中身が日本のミノルタで、外観だけを変えた一眼レフ、ライカR3を1976年に作った。これはミノルタのXシリーズのカメラを利用したものだった。そして、このミノルタベースのライカは、その後R7までモデルを増やしながら、細々と売ることになった。同時に、このR3以降はライカフレックスという名称をやめて、単にライカになった。

ライカは中身がミノルタだということを認めたがらなかったが、米国の写真雑誌が、分解した内部機構の比較の写真を載せて、「事実」を明らかにした。

それに比べて、日本のカメラ雑誌はなんというていたらくであろう、このような「広告主」に逆らうような企画は一切、することがない。もっともこれはカメラ雑誌に限らず、自動車雑誌、あるいはほとんどの雑誌や新聞にさえも見られる、日本のジャーナリスト精神の放棄である。

たとえば、米国のフォード社に買収されてしばらくして英国の名門自動車メーカー、ジャガー(註)が、いかにも伝統的なジャガー風の顔つきをした新車を発売したときに、米国の自動車雑誌は、そのジャガーの新車を分解して、フォード社が売っていたモンデオという欧州向けの大衆車と同じ部品をほとんど流用していることを暴露した。これはフォードの大衆車とは一線を画したいジャガーにとっては、もっとも隠したい情報だった。しかし、消費者は知っているべき情報である。一方、すべての日本の自動車雑誌は、こういった企画も、また情報も、載せなかったのである。

註(2008年8月追記):斜陽のジャガー社は、その後、インドの財閥系のタタ・モーターに買収されることになった。また、これも英国の名門、レンジローバー社も同じタタ・モーターに買収される。タタ・モーターは25万円、という世界でも最安値の自動車を作るメーカーだ。「選ばれた人」だけのための車を売ってきた両者にとっては、たいへんなイメージダウンになる。このため、日本の自動車メディアは、まるで、腫れ物にでも触るように、この件を滑稽なほど迂回して記事にしている。

1996年にはライカは起死回生を図って、すべてライカが新設計したR8を売り出し、2002年にはそれを改良したR9を売り出した。巨大で、鬼面人を驚かすような、まるで戦車のような形をしたカメラだったが、あまりに高価なこともあり、そのわりには性能的な特長もなかったので、販売台数は日本のカメラの足元にも及ばなかった。

*)近年、長野県のカメラメーカー、コシナがフォクトレンダーの商標権を買って、フォクトレンダーブランドで、いろいろユニークなカメラを作っている。またツアイス・イコン Zeiss Ikon も日本のメーカーにブランド名を売って、日本製のカメラを Zeiss Ikon 名で売り出している。

かつての名門ローライ Rollei も落ちぶれてシンガポール製のローライになり、その後、ついに自らカメラを作ることをあきらめて日本製のカメラをローライブランドで売ることになった。

古き良き時代を知るドイツ人には耐え難いことであろう。もっとも、デジタルカメラの時代に競争に敗れて、ペンタックス(旭光学)が韓国のメーカーの傘下に入ってしまった日本人にとっても、明日は我が身、なのかもしれない。

【追記:このカメラのディテールはこちら】


8-1:高級機メーカーの「武士の商法」。Nikkorex 35 (ニコレックス 35)

レンズ交換式で、フォーカルプレーンシャッターを備える一眼レフが高くて買えない層のために、各社は、廉価版としての一眼レフを作って売っていた。

日本光学(のちのNikon)も、大衆化路線を進めるべく、1959年にNikon Fを発売した直後から、Nikkorexという日本光学にとって最初である廉価版のシリーズを発売した。このカメラは1960年に発売したニコレックス35で、レンズは固定式で交換できず、シャッターも、安価なレンズシャッターを組み込んでいた。

また、露出計も、当時はCdSを使ったTTL露出計がすでに世に出ていたのに、このカメラは、一時代前のセレン露出計を使ってコストダウンを計った。露出計の受光窓は、NIKKOREXと書いてあるプラスチック部分である。

しかし、当時の日本光学は、安物カメラを作るのが、なんとも下手であった。もともとは三菱傘下の軍需産業だったし、戦後も、
高くても買ってくれる客だけを相手に商売してきた伝統ゆえ、手の抜きかたも不器用jなうえ、値段や商品としての魅力のバランスもとれなかった。それゆえ、売れ行きも芳しくなかった。

このカメラは一眼レフに必要な正立・左右正像のファインダーを実現するためのガラス製で銀メッキが必要だったペンタプリズムを、平面鏡を組み合わせたポロミラーという仕掛けでコストダウンを図ったものだ。

ファインダーは全反射(100%の反射で光の損失がない)をしない平面鏡の宿命で、ペンタプリズムのものよりは暗い。上の3-1のオリンパスペンFシリーズと同じ仕掛けである。

レンズは50mm f2.5、シャッターはセルフタイマーつき、1-1/500秒のセイコーシャMXVレンズシャッターを使っていた。 このカメラはシャッターが外部の会社製だっただけではなく、本体の製造も日本光学の外部に委託したものだ。

しかし、日本光学にとって最初のレンズシャッター一眼レフだっただけに、設計も製造も未熟で、故障が多いカメラだった。私のも、そのうち自分で直そうと思いながら、まだ故障したままになっている。

レンズシャッター一眼レフは、ファインダーで見るためにはシャッターを切る前はシャッターが開いていなくてはならず、シャッターを切ったときに、レンズの絞りを絞り込む>シャッターをいったん閉める>反射ミラーを跳ね上げる>シャッターを開閉し、その後この過程を逆に辿って元に戻る、という、なんとも複雑な機構を必要としたことが最大の原因である。

もっとも、このカメラは、その「戻り」の過程をサボっていた。つまり、シャッターが切れたあとは、ミラーは上がらず、ファインダーの視野は暗転したままだった。つまりNikon Fでは採用していて、のちの一眼レフでは当たり前になった「クイックリターンミラー」ではなかった。次の撮影のために、巻き上げレバーを巻き上げないと、ミラーが上がって、シャッターと絞りが開放にならない仕組みだった。これは大変不便で、不評だった。また、巻き上げレバーの操作も、ゴリゴリした操作感で、上のライカM3はもとより、後のニコンF3 やペンタックス LXのスムーズさに比べるべくもなかった。


【2015年8月に追記】 右は当時のニコレックス35の雑誌広告。「レンズにやかましい方でもご満足いただける」とニッコールのレンズが付いていて「値段もきわめてお手ごろ」であることを誇っているが、クイックリターンミラーではなかったことは一言も謳っていない


このあと1963年にNikkorex 35 zoomという、レンズを43-86mm f3.5のズームレンズに替えたモデルを売り出した。基本的なメカニズムは同じだった。

このズームレンズはフォーカルプレーンシャッターの一眼レフ用に売っていたものをそのまま流用してレンズシャッターを組み込んだものだ。しかし、このズームレンズは、まだズームレンズの初期だったこともあり、中心部だけが尖鋭なものの、それ以外は同心円状に解像力が極端に悪化していくという、ほとんど実用にはならないレンズだった。

このあと、日本光学は、1962年に Nikkorex F というレンズ交換式で、フォーカルプレーンシャッターの一眼レフを売り出した。これは既製品の縦走り金属シャッター(7-3のコニカオートレックスT3と同じ)を採用したもので、ペンタプリズムもファインダースクリーンも固定式にしてコストダウンを図った。しかし、デザインは大味で、面の張りがなく、売れ行きも思わしくなかった。

日本光学(Nikon)が、安い大衆向けカメラを上手に作るようになったのは、近年になってからである。

9-1:エレクトロニクスの魔術に溺れた新作。Olympus OM2 (オリンパスOM2)

発売は1975年。購入したのも1975年。あとから買ったOM2Nとともに、世界中で酷使した。付けている 24mmf2.0 の、当時としては世界一明るいレンズは、あとから買ったもの。

このOM2も米谷(まいたに)美久氏が設計した。OM1と違って、絞り優先のAE(自動露光)をOM!と同じ大きさのボディに組み込んだ、当時としては世界最小のAE(自動露出)一眼レフだった。重さも OM1とほとんど同じだった。

シャッターは横走り、布製フォーカルプレーン
のままだが、シャッターの先幕と後幕の制御はOM1の機械制御ではなく、電磁石と電気回路で行っている。このため、十数秒までの長時間自動露光も可能になった。

しかし、電池がなくなると、B(バルブ)のシャッターしか切れない。つまり、普通には写真が撮れなくなってしまう。

さすがに、これではまずいと思ったか、オリンパスは、やはり電子カメラだった後のOM4では、1/60秒とBだけの機械式のシャッターを組み込んだ。

高速で上下運動をするクイックリターンミラーには、OM1と同じく、ショックアブソーバーを組み込んであった。このため、シャッター音は丸く、静かである。

だが、その後のOM4では、組み込む場所がなかったか、シャッターを高速化したためか、 ショックアブソーバーがなく、シャッター音は、まるでギロチンのような、品のない音に堕してしまった。

OM2のユニークなところは、大きさだけではなくて、TTL(レンズを撮った光を測光する)に、フィルム面からの反射光の強さを利用したことだ。

それまでのTTLはファインダーアイピース付近で測光していたので、アイピースからの逆入射光による誤差を避けられないうえ、シャッターが開く前(正確にはその直前のミラーが上がり始める前)に測光して、光の強さを記憶しておくための装置や素子が別に必要だった。

しかし、このOM2は、この問題を二つとも見事に解決した。そればかりではなく、露光中に被写体の明るさが変わっても、ちゃんと露出が追随するという大変な特長もあった。ストロボを使うときも、同じようにシャッターが開いてから、レンズから入ってきた光量を測り続けていて、ストロボの閃光時間を制御して、つまりTTLで適正露光をすることが出来た。

またフォーカルプレーンシャッターは、その構造上、ある程度以上のシャッタースピード(このカメラでは1/60秒以上)ではシャッターが全開しない。このため、フィルム全面からの反射を測ることが出来ない。それゆえ、その代わりに、閉じているシャッター先幕からの反射を測る仕組みになっていた。普通はシャッター幕はゴム引きの布なので真っ黒だが、フィルム面なみの反射率に塗っておこう、というわけだ。

OM2の設計の頭のいいところは、フィルム面と同じ反射率の一面の灰色に塗るのではなくて、細かい乱数パターンの白黒で塗ったことだ。灰色の「黒さ」を正確に制御して塗るのは大変だが、この方法だと、真っ白と真っ黒の割合を制御して「印刷」することによって、反射率を正確に制御できる。

つまり、このフィルムからの反射光を捉えるのは、たいへんユニークなアイデアだった。もちろん、 フィルムの銘柄や種類によって反射率は微妙に違うが、実用上は差し支えないとオリンパスも発表していたし、さらに心配ならば、自分でテスト撮影をして補正すれば問題はなかった。のちにペンタックスのLXやニコンのF3なども同じ仕掛けを導入したが、オリンパスが最初であった。

一方、このカメラは自動露出だけではなくて、1〜1/1000秒のマニュアル露出も可能だった。このため、シャッターを切る前に、現在の絞りではどのくらいのシャッタースピードになるか、露出を指示する必要があった。

このため、別の測光素子をファインダー光路に置いて、アナログメーターを振らせている。これは、いわば無駄な二重投資になる。このため、のちのOM4やOM3では、一つの測光素子で兼ねるようにした。

なお、ペンタプリズムの上に乗っているホットシューはOM1のときと同様、取り外し可能である。デザイン的には、ない方が良いので優れた仕掛けだし、万が一、この部分をぶつけたときには、車のバンパーのように衝撃吸収の犠牲になってくれる。

すべてが新時代のカメラのように見えたOM2は、しかし、開発時には想定していなかったに違いない重大な欠点があった。つまり、電子カメラとしての致命的な欠点から逃れられなかったのである。 何年かたつと、電子回路の故障が起きることが多く、しかもそのときには補修用の電気部品がなくて修理できなくなっていることだ。

私のOM2も極低速側のシャッタースピードがおかしくなっている。じつは、その後に買って使っていたOM2Nも、OM4も、それぞれ別の電子回路の故障を起こしているが、補修部品がメーカーになくなっているので修理不可能になっている。

いま、私の手許にある電子式のOMシリーズのうちで、使えるのはOM4Ti(チタン外装に黒ペイントしたOM4、電子回路も改良した)とOM4T(チタン外装のOM4、電子回路は旧式)だけになっている。なお後者のOM4Tは、設計変更以前なので、電池の消耗が激しいのが大きな欠点である。

機械式のカメラ、たとえば上記のライカなどなら、50年以上前のものでも修理が可能だ。それにくらべて、一時の便利さに飛びついた電子回路を持つカメラは、単体の電子部品やトランジスターを組み合わせたものなら、なんとか修理可能だが、なまじ集積回路やモールドされた小型回路を採用したばかりに、それらの部品が入手できなくなれば、修理には手も足も出ない。なんともはかないものである。

つまり、電子カメラは、それ以前の純機械式カメラとは違って、一生ものにはなりえない。ある日、もし故障して、その代替電気部品がメーカーになくなっていれば、高価な文鎮としての役目しかなくなってしまうのである。


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その5:ディテール編はこちらへ

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(時間を見ながら、この頁を、少しずつ充実していきます)

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