島村英紀が撮っていたカメラ
その4:続編:カメラの底辺。大衆化で生き残りを図ったメーカーの苦闘。


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1-1:ビッグミニで当てたコニカも巻き込まれた低価格の消耗戦、K-mini。

1989年に発売した「ビッグミニ」がベストセラーになり、うまくあてた
コニカにとって、じつは、まだ問題が残っていた。ひとつのベストセラーには安住できず、つねに追走者に追われ、仁義なき戦いを強いられる日本のメーカー間の争いを続けなければならないことだった。

ビッグミニの後を追って、同じようなカメラが他のメーカーからもつぎつぎに出てきて、それらはサイズ的にもビッグミニの横幅117×高さ63×奥行き36mm、重量 195gという当時、世界最小、最軽量のビッグミニと遜色のないもので、価格も、ビッグミニの37000円よりも安かった。

後から追いかけて、同じようなものを安く作って先駆者を追い落とすのは、カメラに限らず、日本のメーカーがもっとも得意とするところなのである。もっともこの得意技は、ちかごろは韓国や中国のメーカーの得意技にもなってしまっている。

一方、「下」からは使い捨てカメラが迫ってきていた。性能はもちろん劣っていたが、大衆のほとんどの需要には十分であったうえに、1000円、あるいは実売価格ではそれ以下という安い値段を武器に、販路を拡大してきていたのであった。

ちなみに、フジ、コニカ、コダックなどの使い捨てカメラメーカーは「使い捨て」という名称を嫌って「使い切りカメラ」と言えという。しかし、先行したフジが、使い捨てカメラを現像したあと、大量の一般ゴミとしてリサイクルもせずにカメラの残骸を捨てて各地の自治体のゴミ処理に負担をかけたように、メーカーが作って売る意識としては、あきらかに「使い捨て」であった。

高級機を作っても、数が売れるわけではない。しかも、かつてコニカVを作っていたころのコニカ(当時は小西六写真工業)のブランドイメージは、もうなかった。かくて、コニカは、使い捨てカメラと既存のカメラとの間の隙間を狙うことになったのである。いまでいうニッチだ。

このカメラはコニカ K-mini。発売年は1995年。価格は7300円という、35mmカメラとしては破格の安値であった。ビッグミニの1/5である。

サイズは108×60×32mm、重さは約135グラム(電池とフィルムを含まず)と大きさと重さはビッグミニなみだった。しかし、オートフォーカスはなく、固定焦点のレンズ、KONICA 28mm F6.7であった。電池はリチウム電池CR123A(またはDL123A) 1個をフィルムの巻き上げや巻き戻し、ストロボに使っている

このカメラの最大の特徴は、28mmという、一昔前は超広角だったレンズを採用したことと、フィルム面を湾曲させて、レンズの像面歪曲を物理的に補正したことだった。

レンズの設計上、いろいろな収差を全部取り去るのはきわめてむつかしい。ある収差を減らせば、一般には他の収差が増えてしまう。このため、高級なレンズは、屈折率がちがう単体のレンズを何枚も組み合わせて、いろいろな収差が少なくなるような設計をしている。また、なかには球面の一部ではなくて、非球面に研磨したレンズを使うことさえもある。また、近年はガラスのレンズを非球面に研磨するのではなく、ガラスモールドやプラスチックレンズなど、一挙に整形して作る非球面レンズも多用されるようになった。

しかし、いずれにせよ、これらの高級レンズは当然、高価になる。また、構成レンズの枚数が増えれば、ゴーストやフレアが出やすくなる。

じつはフィルム面を湾曲させたのは、このカメラが最初ではない。もっとも小型でもっとも精巧なカメラだったミノックスは初代である1936年発売の「リガモデル」から、このフィルム面の湾曲を採用した。このためトリプレットというわずか3枚構成のレンズで、当時としては考えられないほどの描写が可能になっていた。

また、フィルム面を湾曲させることは1950年代にはフジフイルムもフジペットというカメラに採用した。1957年に発売した初心者向けのカメラで、ブローニー判フィルムを使う低価格のオモチャカメラだった。当時の定価は1950円だった。しかし、レンズはf11の単玉(一枚だけのレンズ)で性能もあまりに悪く、所詮、ちゃんとした写真を撮るカメラではなかった。このほか、レンズが垂直軸のまわりを回転するパノラマカメラでも、この仕組みが使われたことがある。

このKONICA 28mm レンズは、ミノックスと同じく3枚構成のレンズだった。28mmで3枚構成という少なさは、他に例がない、これは像面歪曲を許すことによって、はじめて可能になったものだ。結果として、解像力も、被写体の湾曲も満足でき、レンズ枚数が少ないことから逆光時のフレアやゴーストも少ないカメラになっている。超広角レンズにありがちな像の歪曲も少ない。安物のカメラでも、コニカの看板が泣くようなものは作りたくなかったのであろう。

ちなみに、近頃のデジカメでは、像の歪曲をカメラの内部にある映像エンジンで修正してしまうものもある。また、撮影後でも、画像ソフトで修正するのは簡単だ。レンズの収差のうちでも、こうして簡単にデジタル修正が出来るものがあり、それをレンズ設計時に許すことによって、レンズの設計の自由度が、昔よりもずっと広まったのである。

ところで、世界でも初期のころ、もっとも有名な28mmレンズは、ライカが1935年に発売した名レンズ、 ヘクトール28mm F6.3だった。60年後に発売になったこのコニカのレンズの仕様にごく近いのはおもしろい。このレンズは3群5枚のレンズ構成で、50mmレンズが普通で、35mmレンズが広角だった当時としては、とびぬけて広角だった76度もの画角を誇った。

しかし、このコニカ K-mini は、コストダウンのためにオートフォーカスを省略して、固定焦点にした。被写体までの距離が約1.5mのところで固定してある。カメラの生産も中国である。

そのツケで、どうしてもぼろが出てしまった。それは焦点深度だった。絞りがあればまだしも、絞りは固定で、露出はシャッター速度だけを変えて調節する仕組みだったから、たとえ明るいところでも、景色などの遠景には十分のピントが合わなかったのであった。

メーカーの公称値は「0.9m〜∞」にピントが合う、ということだったが、実際には、サービスサイズにしか引き伸ばさないのならともかく、もっと大伸ばしだと、遠景はピンぼけになってしまうという欠点があった。人物を撮るのが中心にちがいない大衆カメラにはこれで十分、と割り切ったのであろう。

露出はファインダー横にあるセンサー(ごく小さな丸い穴の中にある)による自動露出で、フィルムの感度はISO100、200または400のフィルムのパトローネにある識別信号を読みとる自動設定だった。途中巻き戻し機構はない。

フラッシュ撮影範囲は、ISO 100フィルムで0.9〜2.3m、ISO 400フィルムで0.9〜4.6mとの公称だった。なお、ストロボは自動発光だから、暗いところではいつも光ってしまう。このカメラに限らず、この自動発光のせいで、それまで撮影が自由だった外国の美術館や博物館に多大の迷惑をかけて、撮影が全面禁止になってしまったところもある。罪なことだ。

大衆受けするために、カメラのボディーカラーは、黒、赤、青の三色から選べた。かなり毒々しい色だ。しかし、この種の大衆化路線は、所詮、カメラメーカーにとって利幅も薄い消耗戦であった。特色と歴史こそあったが、大量生産メーカーにはなれなかったコニカにとっては、のちにミノルタと合併せざるを得なくなっていく、転落の軌跡をたどることになった一歩なのであった。(そして合併したコニカミノルタも、ソニーの傘下に入ることになった。離合集散が激しいのである)。

なお、このコニカのカメラは、私の知人の雑誌デザイナー、松村泰雄氏から2008年にいただいたものだ。


1-2:かつての名門カメラメーカー、コニカがOEM「以下」に身を窶(やつ)したとき。-----無料カメラのレンズだけに名を残したコニカ。

低価格カメラの競争はとどまることを知らなかった。すでに。かつて高級カメラを作っていた名門コニカも、1-1のような、定価7300円という大衆安物カメラを作らざるを得なくなっていたのである。

しかし、それではすまなかった。カメラの低価格化はとどまるところを知らず、ついに、「無料」のカメラが出現した。

DPE業界で派手にフランチャイズ展開を始めた「写真屋さん45」が、会員に無料で配るようになったこのカメラ「ベーシックN (Basic N)」である。

店で会員登録するとISO (ASA) 400の24枚撮りのフィルムが装填されているこのカメラを無料でもらえる。。そして、撮影後に、このカメラを店に持っていくと、新フィルムを入れてくれ、撮影済のフィルムは現像、同時プリントされて、数時間後に引き取れるという仕組みだった。

もちろんそのときに、現像と同時プリント料金を支払うことになって、それが店の儲けになる。
店としてはカメラをただで客にあげることによって、将来とも、DPEの客を捕まえておこう、という魂胆であった。「本体」を無料とか”激安”にしておいて、あとから”使用料”や”必要な消耗品”を買わせて儲けようという仕組みは、携帯電話やパソコン用のプリンターなど、あまたあるが、このカメラも、その嚆矢であった。

このカメラにはメーカー名はなく、製造国・中国と書かれてあるシールが貼られているだけだ。

レンズはコニカ製とボディに誇らしく書かれている。つまり、コニカは単にレンズ供給だけを請け負う下請けに身を窶(やつ)してしまったのである。レンズは35mm/F6.0、3群3枚と思われる。

カメラ本体は、この種のカメラとしては大柄で、サイズは高さ77 x 幅129 x 厚み50mmで
ある。日本人向けというよりは欧米人向けのサイズだ。重さは、フィルムと(ストロボ用の単3が二本の)電池なしで186グラム。

カメラの外観はレイノックス RaynoxのRC-505という大衆カメラにとてもよく似ている。カメラとしてはこのレイノックスの流用に違いない。Raynoxはほとんど無国籍の企業で、OEMで安いものをさまざまな国で作らせて売っている写真用品メーカーである。

ただし、レイノックス RC-505のレンズはかなりきちんとしたコーティング(レンズの反射防止膜の焼き付け)がされている。 しかし、このカメラのコーティングはない。レンズはプラスチック製ではなく光学ガラス製ではあるが、コニカは、コーティングを削るまでのコストダウンを強いられたのであろう。

シャッタースピードは機械式の1/125秒前後の単速である。カメラ前面にISO (ASA) 100/400/flashの切替スイッチがあり、このスイッチと被写体の明るさに応じて、絞りをF6〜11くらいに切り替えているらしい。

距離調節はなく、固定焦点。ストロボは手動でスイッチを入れる仕組みだ。フィルムの巻き上げはカメラ背面のノブによる手動巻き上げ、巻き戻しはカメラ上面のクランクによる手動巻き取りである。つまり徹底的に安く作ってあるカメラなのである。

写真の写りは意外に良いという評価もある。だが、コーティングもなくしたF6.0の暗い3枚レンズの供給元になったかつての名門コニカの設計者としては、身を切るようなコストダウンを強いられて、でもコニカの名を記した、なんとも哀しいカメラであったに違いない。

なお、このカメラは、私の知人の雑誌デザイナー、松村泰雄氏から2010年にいただいたものだ。


1-3:ニコンがこっそり外国で売っていたが、日本では売らなかった安物の大衆カメラ、RF10。

この種の低価格カメラの競争は、じつはもっと前にさかのぼる。高級カメラメーカーを自任していたニコン Nikon も、1960年代以降、何度も、大衆カメラ市場に参入しようとして、武士の商法で失敗を重ねてきていた。

これは1992年に出したニコン Nikon RF10。赤外線オートフォーカス、なんの変哲もないカメラだ。ニコンが作って売らなければならない、なんの必然性も特長もない大衆カメラである。しかし、これがニコンにとって最初の、オートフォーカス、自動露出の小型コンパクトカメラであった。

ニコンは、これを日本では売らなかった。高級カメラメーカーとしてのイメージを損ねるにちがいないし、他のカメラメーカーのカメラにくらべて、勝ち目のないカメラだったからだろう。売ったのは米国と欧州に限られていた。米国では「Smile-Taker」という名前で売られていた。たったひとつニコンらしいのが、高級一眼レフにもあるような赤い線だというのも、なにか哀しい。

レンズの焦点距離は34mmという半端なもの。明るさは F4.5。単3電池2本をオートフォーカスのほか、フィルムの巻き上げや巻き戻し、ストロボに使っている。単3電池だから、上のコニカ K-mini よりは、どの国でも入手しやすいのは取り柄だ。

重さは約240グラム。製造はコスト削減のため、中国で行われた。

全面下方に見えるスイッチ風のものは、それぞれレンズバリアの開閉と、ストロボのスイッチである。シャッターボタンの後方にあるのは、コマ数計だ。

日本で売られなかったこのカメラは、私が欧州で安い中古カメラを買ったときに、おまけでもらったものだ。ニコンにとっては最初の、オートフォーカス、自動露出の小型コンパクトカメラとはいっても、中古市場では値段が付かないカメラだったのであろう。
しかし、日本で持っている人は少ないにちがいない。


1-4:子供雑誌の景品にまでなった大衆カメラの末路

上の1-2の大衆カメラのように、大人を対象としてただで配るカメラが登場した後、さらに競争が激化して、子供までを対象にすることになった。

これは女生徒を対象にした雑誌『りぼん』が読者に景品として配った無料カメラだ。

『りぼん』(集英社発行)は、『なかよし』(講談社発行)、『ちゃお』(小学館発行)と並ぶ、三大小中学生向け少女漫画雑誌のひとつで、1955年に創刊された。読者の対象年齢は小学校の中学年から高校生までの少女である。

ちなみに、この『りぼん』は1994年には少女漫画誌では史上最高の部数を記録した255万部を発行していた。

しかし、その後部数は徐々に減少し、現在は三大小中学生向け少女漫画雑誌の中では最下位に転落、2009年の発行部数は30万部を切ってしまい、最盛期に比較して約10分の1に落ち込んでいる。

このカメラは、上の1-2の「ベーシックN」よりも、さらに徹底して手を抜いてコストダウンを図っている。メーカー名はどこにも書いていない。

フィルム感度の切替はない。ストロボもない。シャッターは単速である。

そして、レンズは単玉(1枚だけの単レンズ)にしてしまった。カメラ用のレンズが多くのレンズの組み合わせなのは収差や歪曲を少なくして、解像力をあげるための長年の苦労の積み重ねであった。それでも理想のレンズは、いまだに作れていない。

しかし、単玉では、収差も歪曲も、避けられない。これをごまかすために、このカメラも、上の1-1のコニカのカメラと同様、フィルム面を湾曲させて、レンズの像面歪曲を物理的に補正している。

このため、写真奥に写っているように、フィルムの圧板は他のカメラのように平面ではなく、フィルムの進行方向に湾曲している。焦点距離は35mm前後で、固定焦点だ。レンズのコーティングもない。つまり、これ以上は安くできないカメラだった。大衆カメラの末路である。

カメラ本体のサイズは、高さ71 x 幅126 x 厚み46mmである。重さは、フィルムなしで 116 グラムと軽い。

なお、このカメラは、私の知人の雑誌デザイナー、松村泰雄氏から2010年にいただいたものだ。氏の令嬢が雑誌『りぼん』の景品としてもらったものだという。


2-1:フィルムカメラの悪あがき。素人に安物を売りつける魂胆の失敗。kodak(コダック)のdisc 4000カメラ。

企業というものは、無限の拡大志向をもっているものらしい。カメラメーカーも、フィルムメーカーも、そしてDPE(現像引き伸ばし業)も、同じである。

そして、この三者が結託して、いままでの35mmフィルムやカメラを使えなくする、新しい需要を開拓しようとしたのが、この「ディスクカメラ」という、カメラとフィルムとDPEのすべてがいままでのものとは違った、新しい仕組みだった。

「セールスポイント」はいままで35mmフィルムカメラを買ってくれなかった大衆に、1)フィルムを装填しやすくて、2)カメラが劇的に薄くて携帯しやすくて、3)カメラが安価で、そして4)フィルムメーカーや現像所も新しい設備の導入に投資が図れて新しい客を増やせる、ということであった。

カメラの大きさは約12 x 8 x 3cmほど。なお、ボディの本体部分の厚さは約2.1 cmである。いまの薄いデジカメなみの厚さだが、大きさはともかく、当時としては、ほかのカメラよりもはるかに薄いものであった。

右写真は裏蓋を開けた状態だが、ちょうどこの裏蓋の大きさの、一辺7cmほどの平べったくて四角いフロッピーディスクのようなプラスチックの板(ディスク)がフィルムになっている。その板の中に入っている円盤の円周上に小さなフィルムが15コマはめ込まれていて、それを順番に露光していく仕組みだ。1コマ撮影するごとに、カメラの内蔵モーターによって360°/15=24°ずつ、ディスクが回転していく。

それぞれのコマは8.2×10.6mmとごく小さかった。これは当時の小型カメラ「110カメラ」の13×17mmよりもさらに小さくて、面積は35mmフィルムの10分の1以下であった。これでは、さすがに画質が悪い。大伸ばしはもちろん、サービスサイズでも画質の悪さが目立った。

【追記】 左の当時のカタログは2010年秋に、私が家で見つけたもの。「新発売」とあるから、1980年代のはじめのカタログだ。

上の写真の「4000」が標準モデルで定価19800円、ほかに最高級機の「8000」が34800円、クローズアップ機能を持つ「6000」が24800円の三種があった。なお、フィルムは15枚撮りで570円とある。

その特徴(というより欠点)をいちばん表しているのは左上の作例写真で、カタログがA4判だから、名刺なみの大きさしかない。つまりこれ以上は鑑賞に堪えないのであった。


しかも、フィルムもISO (ASA) 200のネガカラーの一種類しかなかった。下のAPSカメラのように、全部のコマを撮り終える前にフィルムを取り出せることも特長だったが、これでは、途中でフィルムを取りだして交換する利点はなにもない。また現像や引き伸ばしの料金も35mmフィルムに比べて高価だった。

なお、この小さなフィルムサイズは、有名な超小型カメラ、ミノックスのフィルムサイズに近い。しかし、ミノックスは第二次世界大戦前に開発された特殊用途の超小型カメラだし、そのフィルムの現像、引き伸ばしは細心の注意を要する。ミノックスの撮影・現像・引き伸ばしはほとんど趣味の世界で、いまでも日本の各地にミノックスの同好会があるほどだ。

つまり、35mmフィルムのパトローネのように、フィルムを引っ張り出したり、それをスプールに掛けたり、フィルムの撮影後は、元のパトローネに巻き戻したり、という手間なしに、フロッピーディスクのような四角いプラスチック板をカメラにはめ込めば、それで撮影ができる、というのが「売り」であった。。

このカメラは1982年にコダックが発表し、後にミノルタが日本国内向けに発売、富士フイルムとコニカが輸出向けに発売したが、それ以上は広まらなかった。つまり失敗作だった。このディスクカメラは、コダックの発売からわずか2〜3年で店頭から姿を消した。

このカメラ用のフィルムはコダック、富士フイルム、コニカから販売され、カメラの製造停止後もしばらく売られていたが1998年12月に製造が中止された。現像や引き伸ばしも2000年1月末にサービスが終了してしまった。つまり、いまとなっては使いようのないカメラになってしまったのだ。

コダックはユーザーを甘く見すぎていたのであろう。画質が悪くても、大衆は新しい安いカメラに飛びついてくれるだろうという魂胆が受け入れられなかったのだ。じつは米国で写真を撮っている大衆は、日本のそれよりも「レベル」が低い。メカニズムにもうとくて、「写ればいい」程度の顧客が米国のカメラを支えていた。110カメラも、このディスクカメラも、その大衆に向けての「この程度でいいはず」のカメラであった。

もっとも、コダックという会社そのものは、世界の写真をリードしてきた会社でもある。とくにフィルム製造では、あとから追随した日本などのフィルムメーカーを最後まで寄せつけなかったコダクロームというポジフィルムは、2009年にその歴史を閉じてしまったが、現像後30年以上経っても色が褪せない、というフジフイルムなどが足元にも及ばない優れた性質を持っていた。

私の知人の火山学者は、フィリピンで撮ってきた火山噴火の写真が、20年ほど経ったときに、すべて桃色になってしまっているのに気がついた。そのフィルムはフジクロームであった。撮り直しがきかない歴史的な写真も、フィルムのせいで、いとも簡単に失われてしまうのである。

また、コダックのモノクロームフィルム、トライX(トライエックス)も、コントラストが強くて尖鋭度も優れた、いいフィルムであった。日本のフィルムメーカーがトライXなみの高感度フィルム(ISO (ASA) 400、当時はこれでも十分な高感度フィルムだった)が出せず、それも性能的にはかなわなかった。

また、コマーシャルエクターという、大型カメラのためにコダックが数十年前に作ったレンズも、優れたレンズだった。このディスクカメラをくださった松村氏の友人の写真家は、このコマーシャルエクターの発色は現在のニコンやフジ、シュナイダーといったレンズには不可能な描写があるという。

じつは、もうひとつ、このカメラの欠点がある。それはフィルムを駆動したりシャッターを動作させるための内蔵電池が取り替えられないことだ。【追記】 左上のカタログの右下には「3機種とも、カメラとウルトラライフ電池は5年間保証です」とある。

じつはこのカメラはリチウム一次電池を採用した世界初のカメラであった。リチウム電池は、それまでの一次電池(充電できない、使い切りの電池)のどれよりも容量が大きく、また自己放電も少ない「夢の電池」であった。

このため、通常の大衆の使い方では、数年間の使用では電池を交換しなくてもいいはず、とコダックは読んだ。しかし、たまたまこのディスクカメラはフィルムの供給もなくなってしまったものの、カメラを使い続けたいユーザーを、これほどバカにした話はない。いかにリチウム電池とはいえ、せいぜい数年、使わなくても10年で消耗してしまう電池なのである。

しかし、新登場のリチウム電池の高性能に”目がくらんで騙された”メーカーはコダックだけではなかった。

国内で最初にリチウム電池を採用した35mmカメラ、オリンパスAFLも電池は交換できなかった。これはディスクカメラの2年後の1984年に発売されたカメラで、 「ピカソ」という名前が付けられていた。内蔵フラッシュの急速充電ができることが特長で、「即」「ピカッ」と光るという駄洒落である。カメラそのものは当時の流行のフルオートコンパクトカメラ、レンズは38mm F2.8で,フラッシュは手動ポップアップ式という平凡な仕様だった。

このオリンパスのカメラでは、「24枚撮りフィルムを月に1本消費し,フラッシュの使用率は50%」という条件で,5年間電池交換不要という計算であった。しかし5年使ったから、あるいは、もっとフィルムの使用量が多かったから、というユーザーを切り捨ててもよかったのだろうか。切り捨てられてしまったのは伝統あるカメラメーカーの信用であった。

私はオリンパスペンD以来、FVOM1OM2、OM2N、OM4、OM4Tiとオリンパスを愛用し続けてきたのだが、これ以来、オリンパスへの見方が変わった。これに輪を掛けたのが、オリンパスが初期のデジタルカメラをドイツでは日本の半額で売っていたことをドイツで発見したことや、これもデジカメの初期のころ、撮像素子(CCDなど)のサイズを敢えて隠して、カタログなどに載せなかったことも不信感を募らせたのであった。

なお撮像素子(CCDなど)のサイズが小さいときに無理に画素数を上げると、それぞれの画素の大きさが「光の波長」近づいてしまう。つまり無理に大きくした画素数は、実際に画像を解像できるものではなく、見かけだけの高画質なのである。 ほかのメーカーはごく小さな文字ながら撮像素子のサイズをカタログに載せていた。

もう少し”良心的”なメーカーもあった。たとえばコニカの「Z−up80」は,電池ボックスの蓋が精密ドライバが必要な小さなビスで止められていた。そのほか京セラの「TD」の電池ボックスの蓋もネジ止めされていたし,ニコンの「ピカイチズーム」は,ボールペンのような先の尖ったもので電池ボックスの蓋を開けることができた。いずれもユーザーが、ちょっとした苦労で、自分で電池を取り替えることができた。

そして、その後のどのカメラも、電池ボックスの蓋をユーザーが簡単に開けてリチウム電池を自分で取り替えることができるようになった。当たり前のことがやっと実現したのである。

この「夢の」リチウム電池には、私も苦い思い出がある。従来の電池よりもはるかに大容量、そして従来の電池と違って低温でも容量が減らない、ということで、私たちが開発した海底での地球物理学の観測機器に使った。水温が0℃付近の深海底に下ろす測器には大容量の電池が必要なのである。

しかし、惨めな結果が私たちを待っていた。その新開発のリチウム電池は、計算上の容量こそ大きかったものの、深海底の低温では、常温のときと違って、大きな電流が取り出せなかったのであった。私たちの機器は、そのために、記録が取れなかったのである。

なお、このコダックのカメラは、私の知人の雑誌デザイナー、松村泰雄氏から2009年にいただいたものだ。 なお、松村さんも知人からもらったものだという。いまは、フィルムも入手できず、電池も消耗してしまったので、「ただの箱」である。


3-1:フィルムカメラの最後のあだ花、APS。

上の2-1のディスクカメラの失敗にも懲りず、いままでの35mmフィルムやカメラを使えなくする、別の新しい需要を開拓しようとしたのが、このAPSという、カメラとフィルムとDPEに、いままでのものとは違った、新しい仕組みだった。

APSとは新規格の専用フィルムを使用した「進化した写真システム」(Advanced Photo System)のことで、富士フイルム、イーストマンコダック、キヤノン、ミノルタ、ニコンの5社のフィルムメーカーとカメラメーカーが共同開発して1996年4月に始められたものだ。

新規格のフィルムは「IX240」 と言われた。240はフィルム幅が24mmだということを示している。35mm フィルムの幅である35mm よりもだいぶん小さいから、コマの大きさは、ハーフサイズカメラ並みである。

APSの取り柄は、デジタルカメラのExifヘッダ(デジカメの画像には、撮ったカメラ、撮った日時、絞り、シャッタースピード、カメラが設定したISO (ASA) 感度、露出補正、ストロボのon-off などが数値として埋め込まれている)のように、撮影したときのカメラの設定、撮影した日付や時間、プリントするサイズ、プリントの枚数指定、コメントなどをフイルムに記録できることにあった。フィルム上に磁気面があり、そこに記録するのである。

もう一つの特長は、画面の縦横比を3通りに変えられることだった。標準のコマの大きさは16.7 x 30.2mmで縦横比が従来の各種フィルムと比べて横長(9:16)だったが、その基本サイズの左右、または上下をプリント時にトリミングすることで、35mm版の通常サイズ(2:3)とパノラマサイズ(1:3)に対応するプリントが可能だった。しかし、これらはあくまでも磁気面の指示だけで、フィルムにはトリミングする前の標準のコマが並んでいるだけだった。

APSは、現像した後でも、フィルムは(35mm フィルムのパトローネのような)カートリッジの中に入れたまま返却される。このため、保管のときにゴロゴロしてかさばるほか、ネガをルーペで見てピントを確かめることも出来ない。

フィルムのサイズが小さいぶんだけ、カメラも小さいものが作られた。このキャノン Canon IXY310 も、発売当時は、小ささを誇った。90 x 60 x 28mmで重さは電池を除いて125gだった。電池はリチウム電池で、「後編」に書いた京セラが使っているCR123Aよりは一回り小さなCR2を使っている。

レンズは26mm F2.8という大口径単焦点レンズだった。 26mmは35mmカメラに換算すると32ミリくらいになる。「単焦点で高画質」というのがキャノンの宣伝文句だったが、キャノンのほかの大衆向け大口径レンズと同じく「数字だけの」高級レンズだった。実際にはフレアが多く、コントラストも低かった。

カメラの横に写っているものは、附属のリモコンである。離れているところのカメラのシャッターを切るもので、以前のカメラのセルフタイマーが「進化」したものだ。なお、上記京セラのカメラにも附属していた。

セルフタイマーも、機械式だった昔は、ゼンマイと歯車とガバナーを組み合わせた「精密機械」だった。かつてのニコンの最高級機、ニコンNikon F2では、このセルフタイマーの機構を、2〜10秒までのシャッターの制御にも使っていた。それほどの「精密機械」だったのである。

しかし、その後、どのカメラもセルフタイマーはタイマーの電子回路を使った電子式になり、そして、この電波式リモコン(いまの車のドアロックを開けるのと同じ)になった。歯車や機械式ガバナーの、いかにもものが働いている、という”情緒”がなくなって、すべてがブラックボックス化されている現代ならでは、を象徴している。

このカメラはステンレス外装だったが、このほか、IXY は、ズームレンズ付きや、プラスチック外装の廉価版のものもあった。

しかし、APSは、メーカーの思惑のようには消費者に受け入れられなかった。プロはもちろん、アマチュアもいままでの35mmカメラで十分だったし、折悪しくデジカメが急成長してきたのにも足をすくわれてしまった。

カメラが小さい、という APS の最後の砦も、小さい35mmカメラが続々と登場するに及んで、崩されていった。たとえば、このカメラの90 x 60 x 28mmに対して、富士写真フイルム Fuji のカルディア・ミニティアラ2は 100 x 60 x 32mm で155g、ミノルタ Minolta のTC-1は 99 x 59 x 30mm で 185g と、小ささを誇ったIXYに迫ってきてしまったのだった。

APSの発売6年後の 2002年にはフィルム販売での「IX240」フィルムのシェアは、フィルムが出荷本数の約12%にすぎなかった。またその時点では、すでにコダック、ニコン、コニカミノルタ(2003年に合併した)がAPSカメラの製造と販売から撤退してしまった。その後も他のメーカーの撤退が相次ぎ、2007年には日本国内では発売されている機種はなくなってしまった。

【追記】 APSカメラを使い続けようにも、フィルムの供給がなくなりかけている。かつてはISO100の高画質タイプやISO800の高感度タイプ、またリバーサルも商品化されてはいたものの、2012年5月に、最後まで売っていた
フジの「フジカラー nexia 400」(ネガカラーISO (ASA) 400)も販売中止になって(2011年7月に、在庫限りで販売を終了すると告知されていた)、APSフィルムは入手できなくなってしまった。

メーカーの宣伝に乗せられてAPSカメラを買った消費者は、”二階に上げられて、梯子を外され”てしまったのである。

しかし、カメラやフィルムメーカーは「前科」がある。かつて、上の「ディスクカメラ」、そして「110(ワンテン)カメラ」で、このAPSと同じように、35mmフィルムではない別のフィルムしか使えないカメラやフィルムを売り出して、どちらも早々と撤退してしまって、いまやフィルムは買えなくなって、つまり買ったカメラは使えなくなってしまっているのである。

もっとも、カメラ業界だけではない、オーディオ業界でも、かつて「エルカセット」という音楽テープと、それを使うオーディオデッキを売り出したソニーやティアックも、早々と撤退してしまった。宣伝に乗って20万円もするオーディオデッキを買わされて、その後テープがなくなって使えなくなってしまった客は全国にいるはずである。

なお、このカメラも、このホームページの隠れた愛読者である、私の先輩の編集者、小塚直正氏からホームページの充実のために、と2007年にいただいたものだ。


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