島村英紀が撮っていたカメラ
その5:ディテール編


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その2:中編はこちらへ
その3:後編はこちらへ
その4:
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その6:消耗戦前夜のデジカメ編はこちらへ

1-1:メカニズムの極致。しかし、これは内部機構が”そのまま外部に突き出て”いるのです。Leica Vc(ライカ Vc)赤幕。

戦前のドイツの田舎、ウェッツラーにあったライツ社が1930年代から1950年代まで作っていた、バルナック型といわれるライカ。この写真のライカ Vcは1940年から戦後の1951年まで作られた。

カメラ上面の「軍艦部」は、なんともごちゃごちゃしている。たとえば、シャッターダイアルは左の写真のようにボディーの前面と天井面に各一つずつあり、前面ものが低速シャッター、上面のものが高速シャッターになる。上面のダイアルは、フィルム(とシャッター幕)の巻き上げとともにほぼ一回転し、シャッターが切れると同時に、逆方向に回転して元に戻る。

いまから思えば、なぜ、二つに分かれているだろう、なぜ、回転してしまうのだろう、と思える。回転するということは、うっかり回転中に触ってしまうと、シャッタースピードが狂うことになるし、そもそも、フィルムとシャッター幕を巻き上げたあとでないと、シャッター速度が設定できない欠点を持っている。

しかし、じつはシャッターダイアルが二軸あることと、回転することは、カメラ内部のメカニズムをそのまま反映している。内部を分解してみると分かるが、内部機構がそのまま外部の操作用のダイアルにつながっているのだ。無骨かもしれないが、なんとも無駄のないデザインなのである。

たとえば、中央に見える、フィルム巻き戻しを開始するための「A」「R」を切り替えるレバーも、内部にはたった一本の棒がつながっていて、フィルムとシャッター幕の巻き上げをフリーにするようになっている。つまり、ここに、このレバーがある「必然」があるのだ。

巻き上げ軸と同軸にあるフィルムのコマ数カウンターも同じように、ここにあることによって、内部機構が、もっとも簡単になる。ドイツ流の合理主義なのである。

つまり、機械的にはごく簡素な基本的な仕掛けが、そのまま外部にも現れている。いわば、私たちが作り上げた海底地震計のように、機能だけの形になっている。それゆえ、故障も少なく、頑丈に出来ていたのである。

バルナックライカは、戦前から少しずつ改良を重ねてきていたが、このように構造が簡素ゆえに、頑丈な小型カメラとしての地位を固めていった。

また、単純な機構ゆえに。修理もしやすい。のちのカメラと違って、修理すれば、いつまでも使えるカメラなのである。

このことが、後年、日本をはじめ、英国、米国、ソ連など多くの国で、真似を生むことになった。日本のキャノンも、ニコンも、この真似から会社の基礎を築いてきたのだ。

なお、写真に見られるように、高速シャッターは1/1000秒まで、また低速シャッターとの切替は1/30秒になっている。つまり1/30秒まではフォーカルプレーンシャッターが全開し、それ以上高速だと、全開せずに幅のあるスリットがフィルムの前を走り抜ける仕組みだ。

なお、ライカ Vcでは、高速シャッターダイヤルの根元には(写真ではちょっとわかりにくいが)、カムが出ていて、このカムが外付けのフラッシュユニットのスイッチを押して、フラッシュとシャッターを同期させるようになっている。

そして、このライカ Vcのあと、1951年に出たライカ Vfでは、左の写真のように、フラッシュユニットのための電気接点の回路を内蔵した。

シャッターダイヤルの下部に、もうひとつ、シャッターが全開になる時間と、フラッシュユニットのための電気接点の信号の時間を調整するための、赤い数値が刻まれたダイヤルがある。

数値は0から20まであり、フラッシュバルブによって、数値を選ぶ。いまは「20」のところに合わせてある。この「20」では、シャッタースピードが1/50秒以下ではストロボに同調する。

なお、同じライカ Vfでも初期モデルには、このダイヤルが黒いものがあり、これはシャッターの幕速が遅かったために、ダイヤルを合わせる数値もちがい、ストロボに同調する最高速は1/25秒だった。このモデルは「ブラックダイヤル」、赤いダイヤルのものは「レッドダイヤル」と呼ばれている。

また、巻き上げ軸の頭に、フィルムの感度を、忘れないように設定しておく、扇形の窓が出来た。片方はドイツ規格のDIN、もう片方は国際規格のASA(いまのISO)である。こうして、バルナック型のライカの操作部分も、年を経るたびに、ごちゃごちゃ、複雑になっていった。

しかし、一方でフィルム巻き戻しを開始するための「A」「R」を切り替えるレバーを載せていた「雛壇」(上の写真)はなくなった。これは、戦後に作られたライカVcからで、それをこのライカ Vfも引き継いだものだ。無駄を省いていった合理性もあったのである。

また、シャッターダイヤルに刻まれた数字が、上のライカ Vcとはちがうことに気がついただろうか。上のライカVcは、”行儀よく”ダイヤルの中心から放射状に字が並べられているのと違って、ライカVfでは3つ(B、25-1、50)の速度以外は、すべて放射状ではなく、なかでも1000は、ほかの字の隙間に無理に押し込んだようなところに刻まれている。これも、字を少しでも大きくしようという合理性だろう。なお、1/75はライカVcにはなかった速度だ。

低速シャッターダイヤルの基部に追加された球状のものは、低速シャッタースピードの指標だ。しかし同時に、シャッターダイヤが不用意に回らないようにするロックでもある。1/25秒のところでロックされて、球状のものを動かさないかぎり、低速シャッタースピードを変えられない。

しかし、バルナック型ライカでは、高速シャッターダイヤルの設定が優先する。つまり低速シャッターダイヤルがどこにあろうとも、高速シャッターダイヤルのシャッターが切れる。つまり、この球状のものがある理由は、高速シャッターダイヤルで1/25秒を切ろうとしたときに、低速シャッターダイヤルが設定してある、もっと遅いシャッタースピードになってしまうことを防止するためだった。芸か細かい。

ライカ Vcもライカ Vfも、連動距離計は軍艦部に組み込まれている。丸窓ふたつが二重像合致式の距離計、まん中の四角い窓がフィルムに写る範囲を示すファインダーである。ライカはレンズが交換できるから、このファインダーは50mmの標準レンズの画角を表示する。なお、四角い窓に「涙目」のようについているネジは、ここを開けて内部のファインダーを調整するためで、これもデザインよりは機能を優先している。

このファインダー部分の裏側は右上の写真のようになっている。黒いプラスチックの中にある近接した二つの覗き窓のうち、左が距離計用、右が50mmレンズで写る範囲を示すファインダー用だ。二つはごく近いから、ほんの少しだけ眼をずらすだけで、二つの窓を行き来できる。

ちなみに、その後のM型ライカでは左の写真のようになっている。ファインダーは一眼式だから、覗き窓はひとつしかない。

じつは、ライカ Vcより前のライカ Vaやそれ以前のライカは、この二つの覗き窓が離れていた。近づけたのは、とてもいい改良である。

二重像合致式の距離計の像の倍率は約1.4倍もある。これは、とても精度よく、距離を合わせられることを意味している。四角い窓の「写る範囲を示すファインダー」倍率は約0.5倍である。もし、ニコンSのように一眼式のファインダーだと二重像合致式の距離計の像の倍率は「写る範囲を示すファインダー」と同じになってしまうから、距離測定の精度がずっと落ちることになってしまう。

ファインダーの覗き窓の右側にあるのは、ドイツ規格のフラッシュ接点だ。ライカ Vcより前のライカVaやそれ以前のライカは、ここに、50mmレンズで写る範囲を示すファインダーの覗き窓があった、

なお、ライカの側面に張ってあるのはバルカナイト(vulcanite、グッタベルカ)という合成皮革で、ゴムに多量の硫黄を加えて長時間加硫して作った堅いゴムである。古くなると剥がれてくるが、硬い材料なので、剥がれても、そのままの形を保っている。

ところで、このバルナックライカをそのまま真似した旧ソ連のゾルキーやフェドは、内部機構も外観もそっくりに作ったが、このバルカナイトだけは手を抜いた。つまり金属部分に凸凹を作って、そこに黒いペンキを塗ったのである。見かけはバルカナイトと似ていなくもないが、なんとも品がない。

【2015年2月に追記】 (匿名希望の)読者の方からご指摘があり、「旧ソ連のゾルキーやフェドでもバルカナイトを使ったもの(Fed1(NKVDから最終まで)、
Zorki1 (前期、後期とも)、Zorki-3、Zorki-3M)があり、「金属部分に凸凹を作って、そこに黒いペンキを塗った」ものはFED2だった」そうです。旧ソ連のカメラの愛好家の方のようで、「Jupiter(ジュピター)8は時としてこんな写りをしますから馬鹿にできないです。特に1950年代に良い出来のものが多いようです。といってもレンズのフォーカス調整は必須です」といったブログをお持ちです

巻き戻し軸と同軸にあるレバーは、ファインダーの視度調整のためのものだ。巻き戻し軸は、じっさいに使うときには、ファインダー部が邪魔にならないよう、右上の写真のように、引っ張り上げて使うようになっている。

右の写真は、ライカ Vfに、標準レンズであるエルマー50mm、F3.5を取り付けたところ。このレンズは沈胴式なので、この写真のように、写さないときはボディーに押し込んでおける。

このため、カメラは、とても薄くなって、持ち運びしやすい。男物のスーツのポケットに十分入る大きさになってしまう。これは大きな利点だった。

刻まれている字は、いかにも昔のドイツの工業製品で、精密なものだ。「4」の字は欧米流であ る。ローレットも美しい。

写真下へ向かっている曲がった矢印は赤外線フィルムのための指標だ。「R」という字が入らなかったのか、無理をして矢印を割り込ませている。

なお、距離の「2.5」は、当時のドイツ流で、ドットではなく、コンマになっていて「2,5」になっている。そして今もフランス人など、欧州ではこのように書く人が多い。ほかの距離(このエルマーでは、1,75、1,5、1,25mもそうだし、レンズの絞りも、3,5、4,5、6,3、12,5になっている。

絞りの6.3のところにあるのは、絞りを設定するレバーだ。とても変なところにあると思うかもしれない。たしかに、フィルターを取り付けるとすると、「かぶせ式」というフィルターしか使えず、このフィルターは、絞りリングの外側まで覆ってしまうから、絞りを変えるためには、そのたびにフィルターを外さなければならない。これはとても不便だ。

しかし、レンズの内部構造を知ってしまうと、ここに絞りの設定レバーがあるのは、いちばん簡単で部品も少ないやり方なのである。

その後のカメラでふつうになった、等間隔の絞りの数値も、レバーやカムなど、この不等間隔の絞りよりは、たくさんの部品を組み合わせて実現したものだ。このエルマーレンズは、いわば、カメラやレンズの動作の原点をそのまま表しているのである。

標準的なこのエルマーレンズも、後には左の写真のように、絞りの値が「まとも」になった。つまり4, 5.6, 8という系列になったのである。

ついでながら、レンズにふつうに着いているレンズ番号が、このエルマーのどこに着いているか、ご存知だろうか。ふつうはレンズを前から見たら正面に堂々と着いているのだが、このエルマーにかぎっては、写真の左側に写っているように、ごく小さな文字で、レンズの縁の黒い部分に刻印されているのである。なぜこのように、遠慮深く、隠れているのか、それはナゾだ。

なお、その後のカメラでは、一軸の不回転ダイアルが普通になったが、これらは、レバーや回転軸など複雑な機構を介して成り立った仕組みで、その分だけ複雑で、製造時の調整にも修理にも、手間がかかるようになった。バルナック型のライカは、内部構造を知っていれば、なんとも素朴で無駄のない、愛着のわく形をしているのである。


1-2:そして、ライカM3の登場。世界中のカメラメーカーを震撼させた傑作。

1954年にライカはとてつもなく大きな飛躍を遂げた。ライカがM3という、当時のドイツの工業技術の粋を尽くした先進的なカメラを出したのである。

シャッターダイヤルは、一軸不回転のものになった。また同じダイヤルに刻まれた低速シャッターとの切替は約1/50秒になっている。これはシャッター幕の走行が高速化されたためだ。

そのほか、フィルムの巻き上げはノブではなく、写真のようなレバーになって、高速化された。もっとも、バルナック型ライカの巻き上げノブを、右手の人差し指でこすりながら手前に引くことによって巻き上げるという方法をとれば、ほとんど巻き上げレバーに匹敵する速さで巻き上げることが可能だった。

バルナック型ライカの巻き上げは、フィルムだけではなくフォーカルプレーンシャッターの幕も巻き上げていながら、十分それが出来るほど、軽かったのである。当時の国産カメラ、サモカ35やニコンSでは、巻き上げノブが重くて、とてもこうはいかなかった。

なお、ドイツの車と同じで、このライカM3も、製造途中で、よく改良された。このカメラの巻き上げレバーも、初期型の二回巻き上げから、後のモデルの一回巻き上げになった。一回巻き上げだと高速すぎて、フィルムやシャッター幕に悪影響が出るのではないかと、最初は危惧したといわれている。しかし、その後、問題がないということで一回巻き上げになった。

しかし、この時代のライカの二回巻き上げを好むマニアも多い。その後の日本のカメラのように、巻き上げにゴリゴリ感がなく、じつに滑らかな巻き上げが出来るからである。私が知るかぎり、その後の日本のカメラで滑らかな巻き上げができるのは、ペンタックスの高級機、LXくらいのものだ。

またフィルムカウンターは、写真のように自動化された。 写真の下部に見えるのは、以前のバルナック型では軍艦部にあった、巻き戻しレバーである。その下にわずかに見えているのはセルフタイマーレバーだ。

フィルムカウンターやシャッターダイヤルにある数字の「4」は、欧米人が学校で教えられている、字の上部に隙間がある「4」だ。日本人なら、まず、こうは書かない。手書きのときは、まるで稲妻のような4を書くことさえある。

ライカM3にはパララックスが自動補正されるユニバーサルファインダーが組み込まれていた。被写体に張り付いたように鮮明に見えるファインダーのブライトフレーム(撮影範囲を示す白い枠)は、その後、現在に至るまで、どのカメラも追いつけなかった水準のものだった。

ライカの被写体に張り付いたように鮮明に見えるファインダー(実像式ファインダー)のブライトフレームは、ニコンやキャノンをはじめ、バルナックライカの追随者たちは、ついに組み込めなかった。のちのニコンの最高級機、ニコンSPのファインダーさえ、このライカよりも、見えが劣る。

M3はほぼ等倍のファインダーに、50mm-90mm-135mmのレンズの画角を示す白いブライトフレームが組み込まれていた。この3つは、レンズを替えると、レンズの根元についているカムの働きで自動的に切り替わるしかけだった。

しかし、後のモデルでは、写真のレンズ左側に見えるように、手動のレバーでも切り替えて、レンズを交換しなくても、3つの画角が切り替えて見えるように改良された。これはフランスの写真家、アンリ・カルティエ・
ブレッソンの意見を入れたためといわれている。

またバルナック型と違って、ファインダーの中に二重像合致式の距離計が組み込まれた。これを「一眼式」と称した。写真中央のすりガラスは、ブライトフレームのための明かり取り窓だ。

フィルムの巻き戻しは、のちのカメラのようにクランク式ではなく、相変わらずノブ式である。このノブも、使うときは引っ張り上げて使うようになっている。

なお、この中央部に見える赤点ふたつは、フィルムがちゃんと巻き上げられているかどうかを示す仕掛けである。

なお、ファインダー窓の横についているネジは、ここを開けて内部のファインダーを調整するためのもので、バルナック以来、伝統的に残っている。

しかし、これだけの改良をしたために、バルナック型よりも大型で(幅はほぼ同じだが、高さが高くなった)
重くなって、のっぺりしてしまった外観を好まないユーザーも多かった。 このため、バルナック型も、しばらくは作り続けられた。これはM3の採光式ファインダーの一部を、無理にバルナック型をやや膨らませて組み入れたVgという、やや奇怪な形のモデルだった。しかし、所詮、あまりにも優れたM型のライバルにはなり得なかった。


1-3:そして、ライカM2の登場。ライカがコストダウンを考えた最初のカメラ。

ライカM3のファインダーはじつに精緻なもので、カメラというよりは、光学測定器、あるいは光学兵器なみの光学機器であり、製造コストをほとんど度外視して作られていた。

しかし、ライカもその後1958年に出したM2型(左の写真)で、ファインダー内部のプリズムの数を減らすなど、ファインダー機構を簡略化してコストダウンを図った。

M2のファインダーは、上のM3とちがって、ボディーの外側の金属部分に「額縁」がついていない。しかし、外観だけではなく、内部的には、ファインダーがかなり簡素化されてしまっているのである。

じつはM3の「額縁」は、それ以前のバルナック型ライカからの持ち越しであった。カメラにとって大事なファインダーをそれなりに飾り立てようという意識があったのだろう。

そのほかM2がM3とは変わったことは、ファインダーに組み込まれたレンズの画角の枠(フレーム)だった。M3はほぼ等倍のファインダーに、50mm-90mm-135mmのレンズの画角を示すフレームが組み込まれていたのに対して、M2は35mm-50mm-90mmになり、35mmの広角レンズの画角を見渡すために、ファインダーの倍率が約0.7倍に下げられた。

これは簡素化というよりは、広角レンズを多用するユーザーにとっては改良でもあ った。当時としては標準の広角レンズであった35mmレンズを、外付けファインダーなしに使えることに利点を見いだした写真家、とくに報道写真家は多い。

しかし、M2のコストダウンは、それだけではなかった。フィルムのコマ数計も自動から手動になった。右の写真のように、コマ数は、フィルムを入れたときに手動でセットしなければならない。

しかし、このコマ数計のダイヤルは、微妙にボディーの前面から飛び出していて、指の腹 で回せるのは便利だ。

また、この写真の下部に見えるように、巻き戻しの開始はレバーではなく、ボタンになった。

しかし、シャッター機構などは、手を抜かず、M3と同じものを使っている。

なお、上の写真で、このM2についているレンズは、旧ソ連のジュピター50mm、F2.0のレンズだ。もともとはドイツのカールツァイスのコンタックス用のレンズだったが、第二次大戦後、カールツァイスの工場ごと、ソ連に持ち帰って、その後、同じレンズを大量に生産したもののひとつだ。

元のカールツァイスにはない、ライカマウント(バルナックライカ用のL39のねじ込みマウント)のレンズも、バルナックライカの真似をしたソ連製のカメラ、フェドとかゾルキー用として生産されたものだ。

カールツァイスの設計がよかったので、このコピー製品もよく写る。しかも、戦前のカールツァイスにはなかった、レンズのコーティングがあって、レンズ間の反射が減っている。このレンズによる作例はこちらへ。

鏡胴はアルミ製で軽い。しかし、梨地のクロームメッキの品のいい仕上げに比べると、光りかたに品がない。そして、絞りリングにはクリックストップはない。


2-1:ライカの唯一の強力なライバルだったコンッタクス、そして、その”正当ではない”後継者キエフ

ドイツのコンタックスUが、「事情」があって第二次大戦後のソ連で作られたキエフ(Kiev) Wである。

その「事情」とは、敗戦直後のドイツから、
カールツァイス(Zeiss)の工場の設備と技術者をソ連まで「強制移転」(近頃の言い方では「拉致」だろうか)させて作ったことである。

このため、初期には、カールツァイスで作っていたコンタックスU(1936年発売)と、外観はもちろん、内部機構まで全く同じものが Kiev という刻印だけ替えて作られていた。このカメラは 1998年にドイツのフランクフルトで買ったもので、1980年に作られた製品だ。

このため、初期のキエフは、本家のコンタックスと寸分違わない。内部機構を、そっくりコンタックスに組み込んで、「にせ」コンタックスを作ることさえ可能だったといわれている。

この額部分のロシア文字の入っているところに、「Contax」の文字が入っていた。アクセサリーシューの底部にも、もちろん、ロシア文字は入っていなかった。

しかし、そのほかの全体のデザインも、文字も、本家そのままである。

右の写真は、巻き上げ部。この大きなノブをまわして、フィルムとシャッターを巻き上げる。ノブの中心にあるのがシャッターボタンである。

そして、このノブの横端面にシャッターダイヤルがついている。内部的には複雑な機構を使ってまで、このように軍艦部を単純化したかったのが、カールツァイスの美学だったのであろう。バルナックライカの単純なメカ信奉とは対照的だ。

また、シャッターも、バルナックライカ、そしてその後のライカのように横走りのゴム引きの布幕のシャッターと違って、薄い金属で作った鎧のような縦走りシャッターだった。シャッター音は、じつに特殊な音で、ネズミの鳴き声にたとえられた。

このシャッターも、とても複雑な仕掛けで、現在では修理不可能といわれている。

なお、扇形の窓は、フィルムのコマ数計だ。手前に出ているギザギザは、フィルムを入れたときコマ数計をゼロに合わせるもので、これほど複雑な内部機構を設計したカールツァイスが、なぜ、ライカM3のような自動セットにしなかったのか、不明である。

なお、ボディ前端にあるレバーは、レンズの繰り出しを可能にするレバーで、このレンズは∞で固定されるようになっていた。
このレバーの後ろ側すぐのところ(上の写真に見える)に、指でまわす焦点調節ダイヤルがある。しかし、この焦点調節は、50mmの標準レンズだけにしか使えない。


3-1:ライカとコンタックスの両方を真似て立ち上がったニコンS

日本光学が作ったニコンSは、シャッターのメカニズムはバルナック以来のライカ、レンズマウントと8角形の断面を持つボディーはコンタックス Uの、それぞれ模倣であ る。

いや、それだけではない。レンズ(ヘリコイドによる焦点調節リング)の「回転角度」によって距離計と連動させる仕組みも、人差し指で回すギヤによる距離計の操作もコンタックスの真似だった。

なお、ライカは「レンズの前後の出し入れの量」で距離計と連動させている。

巻き上げはノブ。このノブの中に、手動のコマ数計がある。隣にあるのは、バルナックライカと同じ巻き戻し開始のレバー。

しかし、Nikon S のシャッターの最高速は1/500秒止まりだった。ライカはバルナックの時代から1/1000秒を、コンタックスは1/1250秒を出していたから、そこまでの工業水準はなかったのであ る。フォーカルプレーンシャッターの幕速を速くして、なお安定させるのは、かなり高度の技術が必要だったのである。

ニコンSは、コンタックスUそのままに、内外二重のレンズマウントを持ち、ヘリコイドを持たない標準レンズだけが内側のマウントに装着される。商店の前にあるシャッターのような金属製の鎧が上下する複雑なコンタックスのシャッターは故障が多かったし、真似もできなかったのであろう。


しかし、フランジバック(レンズを装着する面からフィルム面までの距離)は、レンズマウントはコンタックスそのものだったのに、コンタックスとは違い、むしろバルナックライカに近かった。 このため、コンタックス用のレンズをニコンのボディーに装着することは出来ても(あ るいは、その逆をしても)、厳密にはピントがずれてしまう。

カール・ツァイスからの猿まねという抗議を少しでも押さえたかったのか、 不思議な、ちぐはぐの仕掛けだった。

また、軍艦部上面に刻印された「日本光学(にっぽんこうがく)」の、レンズとプリズムを組み合わせた商標も、ドイツの真似である。

しかし、ニコンのこのNikonという字体のロゴは、とても洒落ている。後期のNikonよりは、よほどいい。

装着してあるレンズは35mm、F2.5のレンズだ。赤字の「R」は、赤外線フィルムを使ったときに焦点がずれるのを補正するためのマークである。なお、135mm、F3.5のレンズは、こちらに載せてある。

「4」の字は、上のライカと違って、日本の学校で教える、つまり日本人が書く「4」になっているのは興味深い。

シャッターは同軸だが、低速と高速が別々になっている。この高速ダイヤルは、バルナック型ライカと同じに、シャッターの作動中は回転してしまう。高速と低速の切替は1/20秒で、これは上にあsる1930年代のバルナックライカよりも遅い。1950年代の日本の工業レベル、その程度のものだったのである。

ファインダーに二重像合致型の連動距離計が組み込まれている。しかし、ファインダー倍率が約0.6倍と低く、二重像合致がとても見にくい。ライカM3やM2の足許にも及ばない。これならば、バルナックライカのように、連動距離計だけを別にして、約1.4倍という大きな倍率で二重像合致させたほうが、よほど精度が出る。


3-2:そして最終型の Nikon SP のあとはLeica M3には到底かなわずに転進した一眼レフ Nikon F。これが結果的には大成功

日本光学が作った初代のNikon S (ニコンS)は、シャッターのメカニズムはバルナック以来のライカ 、レンズマウントと8角形の断面を持つボディーはコンタックスUの、それぞれ模倣だった。だが、日本光学はぞれを踏襲し、Leica M3(ライカ)が出てからは、その等倍ファインダーだけを模倣したNikon S2を作り、その後も、最高級機Nikon SPや、ファインダーを簡素化したその普及機Nikon S3や、さらにファインダーを簡略にした低価格の普及機Nikon S4を作った。

しかし、等倍ファインダーとはいっても、Leica M3には到底かなわなかった。プリズムやレンズを多用した、まるで光学兵器のようなM3のファインダーに比べると、倍率こそ同じものの、見え方がまったく劣っていたのである。

Leica M3の登場に衝撃を受けたのは日本光学だけではなかった。やはり高級レンジファインダー機を作っていたCanonも同じで、両社はほぼ同時に、レンジファインダーカメラをあきらめて、一眼レフに「転進」することになった

そして、結果的には、この転進は成功した。自動絞り、クイックリターンミラーの登場によって、それまでの一眼レフの欠点がぬぐい去られ、他方、パララックスのないファインダー像や、望遠撮影や接写の利点によって、一眼レフが、35mmカメラを席巻することになったからである。

日本光学が最初に作ったNikon Fは1959年に発売された。だが、いかにも「最初に作った一眼レフ」という形だった。左上の写真のように、巻き上げレバー、シャッターボタン、シャッターダイヤルは、すべて当時のNikon SPのままだった。

つまり、Nikon SPのボディーに、一眼レフにするためのペンタプリズムとミラーボックスを中央にはめ込んだ形になっていたからである。とくにシャッターボタンが、ボディーの後端に近い後部にあるのは、のちの一眼レフからは特異である。これはNikon Sシリーズそのままの内部構造を持っていたためなのである。

そのためもあって、ボディーに刻まれているNikonの書体も、Nikon SPそのままである。初代Nikon Sとは違っている。私は古い字体のほうが好きだ。

最初のNikon Fは、内蔵露出計なしで登場した。これはNikon SPなどと同じである。しかし、先行するLeicaを「意地でも追い抜く」ために、露出計を内蔵することが社是になっていたのだろうか、このNikon Fのボディーに、かなり無理をして露出計を組み込んだのが、この写真のNikon F Photomic(ニコンF フォトミック)だった。

ちなみにLeicaが露出計を組み込んだ最初のカメラLeica M5を出したのは1971年だった。これはレンジファインダーカメラだが、醜悪で巨大な弁当箱のようになってしまってLeicaの評価を一挙に落としてしまった。

日本光学では、ペンタプリズムとフォーカシングスクリーンが外れることを利用して、三角錐型のペンタ部の代わりに、巨大な四角いユニットをはめ込んだ。このユニットにはペンタプリズムも入っているが、そのほかに、当時は最先端だったCdS露出計が組み込まれた。シャッターダイヤルに写真のように同軸のダイヤルを載せることによって、フィルム感度を読み込ませている。なお、当時は写真のように、フィルム感度は「ASA」で、数値は同じだが、いまの「ISO」ではなかった。

このフォトミックが発売された1962年には、この露出計は受光窓が前面についていた。つまり、レンズと同じ方向の光を測る「外部測光」だった。しかし、容易に想像できるように、この方式では、露出計の受光角と、実際にレンズが撮影している受光角は一致しない。つまり、露出計としては性能が悪いと言うことになる。

このため、この写真の1965年以降の後期型では、レンズを通った光を測る「内部測光(TTL測光)」になった。これは東京光学やPentax SPの真似である。

じつは当時の内部測光の「泣きどころ」は、自動絞りで動作するレンズを交換したときに、そのレンズの絞りの開放値によって、透過する光の絶対的な強さが違うことであった。

このため、レンズの開放値をカメラ側に伝達したいのだが、それが難題であった。Pentax SPなど、ほかの一眼レフでは、「絞り込み測光」にした。つまり、開放値と関係なく、実際に絞った、つまり撮影する状態での透過光を測る仕組みである。

この絞り込み測光は。一見、完璧に見える仕組みだ。しかし、大きな欠点があった。絞ることによってファインダーが暗くなってしまうことと、ファインダーの後部、接眼アイピースから入りこむ光が測定する光に大きな誤差になってしまうことだった。そのほか、当時の感光センサーであるCdSは、暗くなるほど反応が遅くなるという性質を持っていたために、露出計の反応が極端に遅くなってしまう欠点も避けられなかった。


これに対して、このNikon Fの方式は、それぞれのレンズの開放絞り値を機構的にカメラ側に読みとらせようという仕掛けだった。交換レンズを装着したあと、レンズの絞りを最大から最小まで往復させる。そのときに写真に見える「カニの爪」がレンズから出ていて、カメラボディー側のレバーを挟み込んで開放値を憶えさせるという仕組みである。とても滑稽に見える仕掛けだが、実用にはなった。

もちろん、これは一時しのぎの方便で、のちにレンズとカメラ側に多数の電気接点が備わるようになったら、廃れてしまった仕掛けだったのである。


【なお、このNikon Fは2014年1月に、気象庁OBの檜皮久義さんからいただいた。北海道新聞に勤務しておられた兄上のものだったということで、さすがプロのカメラ、Cosinaの24mm F2.8という、当時としては超広角のレンズがついていた。またこのレンズは当時としては珍しく、写真に見られるように20cm以下のマクロ撮影も可能だった。】


4-1:「B級グルメ」に徹したペンタックスSP

旭光学(のちのペンタックス)のベストセラー。1964年に売り出したペンタックス SPは、CdS(硫化カドミウム)を使ったTTL露出計をボディー内に組み込んだ、初期の一眼レフの傑作だった。

このカメラはボディーの定価が30000円と、当時のニコンやキャノンよりもはるかに安く、しかもニコンやキャノンが外付けの大がかりな測光ユニットを付けないと測光出来なかったのに対して、ボディー内測光と、一歩先を行っていたので、ベストセラーになり、以後9年間も作り続けられた。

このペンタックスSPは、日本の輸出用カメラのうち、瞬間最大では40%をも占めたことがあったほどだ。ドイツのベルリンフィルが日本公演に訪れたとき、ペンタックスSPを35台も買いたい、という希望が伝えられ、滞在していたホテルの関係者が東京中を走り回ってかき集めたことを粕谷悦男さんが教えてくださった。 現在のような大型量販店がなかった時代だった。

また、カメラ本体が安いばかりではなくて、ニコンやキャノンよりも修理代が安いことも特長だった。懐が寂しいカメラマンや写真科の学生にとってはありがたいカメラであった。この「良き伝統」はいまだにペンタックスカメラに受け継がれている。

このため、たとえば公募写真で有名な月刊誌『日本カメラ』の月例写真入賞者のうち、1971年には、モノクロ大型写真では入賞27点のうちの10点、モノクロ小型写真では入賞44点のうちの22点、カラースライドでは入賞26点のうちの9点と、このペンタックスSPが、たった一機種で1/3から1/2をも占めていた。

つまり、ペンタックスは、最初から「B級グルメ」を目指していた。たとえば、ペンタプリズムやファインダースクリーンは取り外しや交換ができない。シャッタースピードダイアルは不回転一軸ダイヤルで、黒地に白の配色は読みやすいが、一方、なんとも安っぽい。フィルムの自動コマ数計も、やはりデザイン不在の安っぽさだ。なお、シャッタースピードダイアルにある小窓は、フィルムの感度の設定である。

シャッターボタンのすぐ右に見える「穴」は、フィルムを巻き上げてシャッターチャージがされているかどうかの指示だ。ここに赤の色が出ていれば、シャッターが切れる。シャッター後は黒になる。 なお、この機構は、後の高級機、ペンタックスLX(右の写真)にも、ちゃんと受け継がれている。なお、ペンタックスLXの場合は、シャッターダイヤルペンタプリズムの間にある。

なお、フィルムの巻き戻し軸と同軸には、装填したフィルムのインディケーター(指示器)があ る。パンクロ(モノクロ)、カラーが太陽光と人工光の二種、そして親切なことに「empty」まである。フィルムが入っているかどうかは、巻き戻し軸を廻してみればわかりそうなもので、さすがに、この機能は、のちのLXにはなくなった。

ところで、面白いことに、ペンタックスの「4」はシャッタースピードダイヤルも、レンズも、やや欧米式の「4」になっている。意外に国際的だったということだろうか。じつは、これはずっとあとのペンタックスLXのころにも、カメラボディーにも交換レンズにも、まだ続いていた。

なお、ペンタックスLXのシャッターダイヤルの文字は写真に見えるように、3桁以上の場合は、「0」を略して「・」にしてある。私は近代的で好きだが、一種の割り切りの合理性ゆえ、嫌いな人もいるかもしれない。

このLXは、ペンタプリズムやファインダースクリーンが取り替えでき、ボディーに防水処理もされた高級カメラで、その割には軽量に出来ていた。ずっと甘んじてきた「B級グルメ」を脱すべく、ペンタックス(旭光学)が心血を注いで作り上げた高級機だった。

しかし、あまり売れなかった。やはり、「ペンタックスはB級グルメ」というイメージから抜けられなかったのだ。カメラは自動車と同じく、性能だけではなく、長い年月にわたって築き上げてきたブランドイメージがものをいう世界なのである。

上の写真のペンタックスSPのペンタプリズムの前面についている商標は、旭光学(Asahi Optical Co)の略字.である。これも、プリズムを模している。なお、その後、社名はペンタックスになった。


5-1:カールツァイス最後の徒花(あだばな)、イカレックス35の「最先端」とは。

このカメラは 1969-1970年ごろの製品で、上のどのカメラよりも10年以上新しい。

イカレックスIcarexはドイツの名門カメラメーカー、フォクトレンダー(Voigtlaender)と、同じく名門のカール・ツァイス(Karl Zeiss)がともに傾いて、生き残りのために1956年に合併した「ツァイス・フォクトレンダー」となった会社が作った高級一眼レフだ。

これは、ライカM3への追従をあきらめて一眼レフに転進し、評価が高まりつつあ ったニコンF(Nikon F)のドイツ版の対抗馬であった。

なお、この後1969年にフォクトレンダーは消滅してしまったから、これはフォクトレンダー最後のカメラということになる。

このカメラは、カール・ツァイス伝統の八角形のボディーを持っている。つまり、ニコンSが真似をして、その後ニコンSP、そして一眼レフのニコンFまで続いているボディー形状だ。

シャッタースピードダイヤルは、巻き上げ軸と同軸になっている。これはコンタックスの伝統だ。

また、ダイヤルの上面に見えるのはコマ数計ではなく、備忘用の装填してあるフィルムの種類であ る。コマ数計は、巻き上げ軸の後ろ側の、ボディー背面にある。

このへんの細かい仕掛けといい、巻き上げレバーの変わった形といい、ユニークなカメラばかり作り続けてきたフォクトレンダーの面目躍如、といったところだ。

シャッターボタンの左に見える「穴」は、上のペンタックスと同じく、フィルムを巻き上げてシャッターチャージがされているかどうかの指示だ。ここに緑の色が出ていれば、シャッターが切れる。シャッター後は黒になる。ニコンやオリンパスにはない機構だが、なかなか親切である。日本は赤、ドイツは緑、というのがおもしろい。「シャッターボタンを押したらシャッターが切れてしまうから気をつけなさい」と考えるのか、「シャッターが切れる状態だから、どうぞ」というのかという発想のちがいである。

なお、カメラ前面には「カール・ツァイス」の商標が刻まれている。レンズの断面と字を配している、前に述べた日本光学が真似た商標であsる。

イカレックス35にはいくつかの種類があ るが、これはイカレックス35CSという高級機で、取り外せるファインダー内(ペンタプリズム部分)にCdS(硫化カドミウム)を使った露出計が内蔵されている。当時の最先端技術であった。

露出計は絞り込み測光である。絞り込み測光は、どんなレンズでも使えるという利点があ る代わりに、ファインダーが暗くなることと、露光メーターの反応が遅いのが欠点で、指針が落ち着くまで何秒もかかる。

また、ファインダーアイピース(目を付けて覗き込む窓)からの逆入射光の影響も受けやすい欠点もある。

そして、当時はやむをえなかったのだろうが、露出計は絞りには連動しているが、シャッターとは連動していなかった。それゆえ、この写真のように、露出計の針は、シャッタースピードを指し、そのスピードを読みとって、シャッタスピードダイヤルを廻して合わせなければならなかった。

この点では、1964年に発売されていた上の4-1のペンタックスSPのほうが、進んでいた。

このカメラは、文字に赤、黄、橙などの派手な色を使っている。高級機としての品格から言えば、私はマイナスだと思う。

なお、「4」の字は、十数年たっても、相変わらず欧米の「4」である。


6-1:軍用カメラは、すべてがちがいます。英国AGI航空カメラ

英国AGI(Aeronauticcal and General Instruments)社の航空カメラ。1958年製。ダイアルカメラ、マーク5と書いてある。

シャッターレリースは、写真の右下に見える電気ターミナルに24ボルトの直流電圧を供給して電気式のソレノイドに通電するか、あるいは手動でヒモを引いて行う。

フィルムは幅60mmの長巻フィルムを使うが、ブローニー(120フィルム)も使用可能だった。一コマの大きさは55mm弱 x 55mm弱。

さすが軍用カメラだけあって、重さはカメラ本体だけで3kgもある。すべてが頑丈そのものに出来ている。ジュラルミンらしいカメラ本体の箱は、結晶塗装されている。

上の写真にあるダイヤルは、撮影距離を設定するためのもの。航空機に搭載して地上を撮るときには∞でいいはずだが、このカメラは不思議なことに、1.75フィート(53cm)までの近接撮影も可能だ。この距離ダイヤルの軸は、カメラの左右に出ていて、どちらからでも操作できるようになっている。

ダイアル中央には、「LH」とある、なお、軸の反対側のダイアルには「RH」とあ る。分解や整備のときに、右左を間違えないよう、刻印されているのであろう。

右の写真のように二眼レフのようになっていて、左側のビューファインダーには、ファインダーのパララックス(ファインダーと撮影レンズの写る範囲のずれ。撮影距離によって変わる)を補正するための手動のダイアル(いちばん下の写真に見える)がついている。いったい、この近接撮影は、なんのためだったのだろう。

撮影レンズの前面の縁には、誇らしげに、アナスチグマット(レンズの色収差を少なくするための組み合わせレンズ)とある。Agilux 80mm f3.5。このレンズは民生用のカメラにも使われていて、尖鋭で評判のいいレンズだった。

レンズの右側に見えるのは、コマ数計である。

また、いちばん上の写真の左には手書きで、所属か機番のようなものが書いてあ る。

なんと書いてあるか、読めるだろうか。私も、外国人との共同で行った海底地震観測で、外国人が手書きで書いた文字や数字が読めなくて苦労したことが多い。これは「RL.1/64」だろうか、それとも「RL.1/67」なのだろうか。

そして、じつは外国人たちも、私たち日本人が書いた数字が読めないことが多い。たとえば、私たちが書く「5」は、なかなか正しく読んでもらえないのであsる。

軍用カメラゆえ、左の写真のような、立派なプレートがついている。「ダイアルカメラ、マークV」というのが正式な名前なのにちがいない。

英国イングランドのクロイドンのAGI社で作られ、シリアルナンバーはAの90。このシリアルナンバーを記録する枠の大きさから見れば、製造台数は、せいぜい3桁、あるいは2桁だったかもしれない。


7-1:ドイツの戦前のカメラ、カールツァイス・ネッターは、”B級グルメ”でも手を抜いていませんでした。

ドイツ・ツアイス社のZeiss Ikon Netter 515-16。シリーズになっていたイコンタ・シックスのひとつだ。

シックスとは60mm x 60mmの写真のことで、これを120型のロールフィルム(ブローニーフィルム)に12枚撮る。

イコンタには多くの兄弟があり、レンズもさまざまで、同じ120フィルムを使いながら、撮る写真のサイズも60mm x 60mmのほか、60mmx90mmのものや60mmx45mmのものがあった。

また、連動距離計のついたスーパーイコンタという兄弟もあった。

このカメラは比較的簡素なもので、連動距離計はなく、ファインダーも単純な折り畳み式で、つまり”B級グルメ”として作られていた。写真には目測で距離を合わせる指標が中央部に写っている。距離は、メートル目盛だが、センチの精度まで合わせられそうな、精密な目盛である。距離環に刻まれた「4」は、ほかのドイツ製品と同じ、欧米流の「4」であ る。

レンズはノバー・アナスチグマット(Novar Anastigmat) 75mm f4.5。ノバーは当時の最高級レンズだったテッサー(3群4枚)よりも格下の3群3枚の普及版レンズ。後にトリオターに改名されたシリーズだ。当時はテッサーは、よほどの高級機のレンズだと考えられていたから、これはテッサー(f3.5か、ときにはf2.8)よりも暗い、普及品のためのレンズだった。

しかしこのノバーはとても尖鋭でよく写るレンズで、英国あたりでも評判がいいレンズであ る。レンズコーティングがされている。

シャッターはPronto製のレンズシャッターで4枚羽根、Bのほか1/25-1/200秒の4速を備えている。1/200秒まで装備されているのは珍しい。国産の大衆機、サモカ35も、リコーフレックスも、1/100秒どまりだった。1/200秒を安定して出すためには、強くて長期間へたらないバネと高い機構の精度が必要なのである。

セルフタイマーもシャッターに組み込まれている。シャッターのすぐ後ろにあるレバーはシャッターのセット(巻き上げ)をするためのレバーだ。二重写し防止装置はなく、このレバーを操作すれば、何枚でも多重に撮れてしまう。外径が3.0mmしかない、ごく小さなレバーだが、手を抜かずに、手間をかけた、きれいな機械加工がされている。

シャッターボタンは本体の軍艦部、つまり、ふつうのカメラの位置についている。すぐ左にはシャッターレリースをねじ込むための穴が開いている。

距離環で、「8m」のところにある赤点は、絞りの8と11の間にある赤点と合わせて、この絞りと距離の設定だと、常焦点に使える、という印だ。なお、絞りは11枚の羽根をもっており、ほぼ完全な円形絞りになっている。なお、最短撮影距離は1.2mである。

写真右手奥に突き出ているのは、外付けのフラッシュのための接点だ。ドイツ式といわれるものだ。

蛇腹式の折り畳みカメラで、折り畳むための機構はとても頑丈に出来ていて、年月がたってもガタがない。これはレンズ部分を保持する精度をちゃんと維持できることを意味している。また、折り畳むと、ごく小さくなってしまうし、驚くほど軽いのも取り柄だ。

これに比べて、たとえばスーパーイコンタは、妥協のない最高を狙ったばかりに、あ まりに仰々しくて重い。この時代のドイツ人の「頑固な」癖が出たカメラを作る一方、このようなB級グルメにも、手を抜かずに、立派な性能ときちんとした機械加工をしているのは、さすが当時のドイツ製品である。


8-1:ドイツの1940-1950年代の庶民の高級カメラ、Welta Welti(ベルタ・ベルチ)は、精密さではライカに負けていませんでした。

ライカよりも安価な、しかし、戦前のドイツの工業製品の精緻さを示す庶民の高級カメラ、ヴェルタ(Welta)社のヴェルチ(Welti)。

35mmフィルム(135フィルム)使用、連動距離計つき、レンズは50mm、f2.0、レンズはドイツ・シュナイダー社のクセノン(Xenon)の10枚構成の50mmf2.0がついていた。


開放F値が2.0というのは、当時としては驚異的に明るいレンズだった。そのため、このレンズは、競争相手のコンタックスに比べて明るいレンズがなかったライカ社が買って、ライカ用の単体の交換レンズとして売り出したほどのレンズであった。

なお、戦前のカメラだから、レンズにはコーティング(coating, 反射防止のための真空蒸着による皮膜)がない。しかし、順光線ならば、十分よく写る。

シャッター写真のように、Time, Bulbのほか、1-1/500秒という、当時としてはレンズシャッターとしては、最高級の仕様を持っていた。なお、速度の系列は、のちの倍数系列(1-2-4-8-15-30・・・)ではない。ライカM3も、初期モデルでは倍数系列ではない、このカメラと同じような系列であった。5とか10とかいう、硬貨のような数字が、当然のように好まれていた時代だったのであ る。

写真左下隅に写っているのは、セルフタイマーをセットするためのレバー、その根元に、シャッターレリースを差し込むためのネジ穴がある。

距離計連動のためか、最短撮影距離は、写真で見られるように1mまで。写真左端に一部だけ写っている頭が丸いものが、距離計に連動する距離調節のためのレバーで、工作精度がいいのだろう、とてもスムーズな動きだ。

赤外線フィルムのための指標や、上のネッターのような常焦点のための指標はない。

レンズの縁、シャッターリングの縁のローレット加工や、シャッターリングの後ろに見えるレンズ鏡胴部分の波形模様が美しい。

一方、このカメラは、折り畳めばポケットにも入る、そして折り畳んだ状態では、ゴミや水も入りにくいという蛇腹式折り畳みカメラだったから、登山家にはとくに好まれたものだ。

右写真の軍艦部の上にある細かい数字の表は、焦点深度の表である。なんとcmの単位まで載せてある。このやりすぎの精密さは、さすがドイツ人。どの絞りのときにはどこからどこまで焦点が合うか、この細かい表を見ながらシャッターを切っていたのであろう。
von/bisは、英語ではfrom/toである。

巻き上げと巻き戻しはカメラの底にあるノブを回して行う。フィルムのコマ数計も底にあ る。これはずっと後年の、超小型を狙ったローライ35と同じだ。小型化のために、使いにくい。

写真にある右側の四角い窓がファインダー、左側の丸窓が、距離測定用の二重像取り入れ窓だ。つまりファインダー接眼部はカメラの右側についている。写真左側のシャッターボタンは左の人指し指で押す。ドイツカメラでは一眼レフのエキザクタが、左手巻き上げ、左指シャッターだったが、これも同じで、右利きの人間には使いにくかったが、ドイツ人には左利きも多かったのだろうか。


9-1:ドイツの1950年代の庶民のカメラ、ドイツ アグファ Agfa 社のジレッテ(Silette)は、英国で買ったせいか、フィート表示でした。

私は長年、サモカ35のデザインを自社開発のユニークなものだと思っていたが、デザインはこのジレッテと、かなり似ている。

このジレッテは1953年だという外国の(ほとんど学問的な)webもあるので、サモカ35とほとんど同時と思われるが、 どちらが先なのか、偶然似たのか、決定的なことは、まだわからない。いずれ調べようと思っている。

なおジレッテ(Silette)にはいろいろなモデルがあり、なかには連動距離計を備えているモデルもある。このカメラは中級機で、距離設定は目測である。距離環はいちばん前部にあ り、表示はフィートになっている。これは私がこのカメラを買った英国に輸入されて使われていたカメラだからであろう。

戦後のライカも、米国などドイツ国外に輸出するためのモデルでは、裏蓋の開閉のドイツ語表記を英語表記あるいは併記に替えていた。

右写真はLeica Vc(ライカ Vc)の底蓋。ドイツ語で「auf(開)・zu(閉)」とあるだけだ。しかしライカ Vf、そしてさらに後の
ライカM3ライカM2になると、下の写真のように、ドイツ語のほか、英語で「open・close」と併記するようになっている。

じつは、いまでも、ドイツ人たちは、ドイツ語がよそでは通じない、という劣等感を根強くいだいている。たしかに、英語の世界的な普及ぶりには比ぶべくもないが、フランス人がフランス語を誇りにして、世界語として普及しようとする構えをいまだに見せているのとは対照的に、ドイツ人たちは、ドイツ語は他国人には話せないもの、読めないもの、という観念を強く持っている。この両語表記も、そのひとつの現れである。

ジレッテは、30と10フィートのところだけが赤字になっている。10フィートは、絞り環のF9のところにある赤点と対応していて、これらを合わせると、常焦点になる指標だ。30フィートのところにあ るのは、レンズ開放でも∞から約20フィートまでピントが合うという指標である。

レンズシャッターはProntor SVSで、Bのほか、1-1/300秒、セルフタイマーも付いている。 1/300秒が出せるということは、かなりの上級機であった。上のヴェルタと同じく、1-2-5-10-・・・の古い系列だ。

絞りは、鏡胴のいちばん手前側についている。そのさらに手前には、外付けフラッシュの遅延時間の設定レバーがある。Xはシャッターの全開時に発光させるストロボ用、Mは全開以前に通電する(発光までに時間遅れがあるのを見越してスイッチを入れる)M型(レンズシャッター用)フラッシュバルブ用であ る。写真の左上に、外付けフラッシュのための接点がある。なお、Vはセルフタイマーを作動させるスイッチである。

なお、Vは緑、Xは赤、そしてMは黄色の字で書いてある。なんともど派手な色使いである。

なお、写真の右上にはボディー前面についた「Agfa」の商標が写っている。フィルムの箱 についているのと同じものだから、なんとも威厳がない。

レンズは Agfa アポタール(Apotar) 45mmf3.5。準広角の使いやすい画角のレンズだ。

巻き上げは一作動レバー式だからサモカ35よりも進んでいるが。巻き戻しは後のカメラでは標準になったクランク式ではなく、ノブ式だ。急いで巻き戻して次のフィルムを慌てて入れる、というよりは、一本のフィルムを愛おしがって撮影する、という時代であった。


10-1:弱肉強食の犠牲になったSamoca 35(サモカ35)は、米国への輸出を狙ったせいで、フィート表示でした。

私がはじめて買った(親に買って貰ったというべきか)カメラ。1952年当時のこのサモカ35カメラの定価は6800円。ほかのカメラに比べて大変に低価格だった。また、発売元は「名門」服部時計店であった。この価格とブランド頼みの売れ行きがサモカの願いだった。

この他の35mmレンズシャッターカメラ、たとえばコニカは3万円以上、オリンパス35も軽く1万円を超えていた。これより安い35mmカメラは固定焦点の暗いレンズで、シャッターは一速だけ、プラスチックボディーのオモチャカメラ、「スタートカメラ」くらいしかなかった。

レンズは エズマー(Ezmar) 50mmf3.5。3枚構成の「トリプレット」タイプのレンズ。当時の最高峰ライカの標準レンズ、エルマー(Elmar)とあまりにも似た名前を付けているのが哀しい。レンズ名の頭に着いている「C」は3枚構成という意味であろう。当時、オリンパスのズイコーレンズも、ABCDEF・・・で、レンズの枚数を表していた。

左下の写真は、その「本家」エルマーの50mm、F3.5。サモカとあまりに似ている。ただし、こちらは、テッサータイプの4枚構成のレンズで、とてもよく写るのが評判だった。

しかし、サモカにかぎらず、戦後の日本のカメラメーカーのほとんどは、もっとも高級なカメラを作っていた日本光学をはじめ、なにかの形でドイツのカメラの模倣であった。

サモカ35は、1953年にはアクセサリーシューを付けた2型(写真のもの)、1955年にはレンズまわりをちょっと替えた3型になった。

絞り環のF8のところにある赤点と、目測で合わせる距離環の20フィートのところにあ る赤点をそれぞれ合わせれば、常焦点として使える。なお、距離は米国に輸出を開拓したかったのだろう、メートル表示ではなく、フィート表示になっている。メートルや、当時まだ使われていた「尺」ならともかく、日本人にはなじみがなくて、とても不便だった。

シャッターはBのほか1/25、1/50、1/100秒の3速しかない。ごく簡単なギロチン式のシャッターである。

このカメラのユニークなところは、セルフコッキング(二重撮り防止装置)に特異な仕掛けを持っていたことだ。

ファインダーの」向かって右側にある頭が丸いボタン(写真左端)を押すと、巻きあ げスプロケットのストッパーが外れて、巻き上げが可能になると同時に、コマ数計が一つ進み、シャッターがセットされる。巻き上げが自動ストップしたときにシャッターを切ればいい、という簡素だが確実な仕掛けである。

写真の右下に写っているのは、外付けフラッシュのための電気接点。これは当時の米国コダック式で、上に書いてきたドイツ式とは違う。米国に売ろうと尻尾を振っているさまが、ここにも現れている。しかし、その後、世界中のカメラは、ドイツ式に統一されてしまった。

写真の左上に写っているのはサモカカメラの商標だが、三つのAは、このカメラを作った三栄産業の「さんえい」を「三つのA」とした駄洒落である。デザインとしては悪くはない。


11-1:安さで勝負したRicohflex (リコーフレックス) Y(6)型。歯車が前面に出ています。

二眼レフの高級機はダイキャスト(精密な金属の鋳物)だったのに、このカメラのボディーは薄い鉄板を折り曲げて使う板金細工だった。これなら、品格はないが、ダイキャストよりは、ずっと安くできるし、「四畳半メーカー」といわれた小さなメーカーの少量生産にも適している手法だった。

シャッターは写真に見られるように、Bのほか1/25、1/50、1/100秒の3速しかない。

ビューレンズを通したファインダーグラスでピントを調節する。そのレンズの繰り出しは、歯車の噛み合わせを使ったビューレンズと撮影レンズ、両レンズ同時繰り出しというメカニズムだった。なんとも見かけが悪いが、もっとも安い、メカ剥き出しの仕掛けだ。このほか、各所が質素だが確実な設計で作られていた。

このカメラの特長は、当時の二眼レフと比べて、圧倒的に安いことだった。私が1954年に買ったカメラだ。小学生が小遣いで買えるカメラだった。

フィルムはブローニー60mm x 60mm(120フィルム)。レンズは リコー・アナスチグマット(Ricoh Anastigmat) 80mmf3.5。3枚構成の「トリプレット」タイプのレンズ。このトリプレットタイプは元々はドイツの設計だが、そのまま「コピー」して、上のサモカなど、日本の大衆カメラには広く使われた。

もっとも、二眼レフで歯車をかみ合わせてピントを合わせる方法は、米国コダック社のコダックフレックスが元祖で、このリコーフレックスはオリジナルではない。当時のリコーは、このリコーフレックスに限らず、安いがよく写るカメラを作った。

戦後まだ貧しかった日本の庶民に、安くてもちゃんと写るカメラを大量に支給したのはリコーの功績であったろう。 このカメラの最盛期には、日本で製造されていたカメラの半分を超えたことさえあ る。、半分、というのは、その後一度も破られていない大記録である。 この大量の需要に応えるために、日本のカメラ史上、最初にベルトコンベアー方式で作られたカメラでもあった。

大量に売れたためもあり、リコーは、次々に改良を重ねていった。このカメラはY型だった。しかし、この後さらに、スポーツファインダー(透視ファインダー)を折り畳みフードに組み込むなど、改良が続いた。

簡素な仕掛けだから、セルフコッキング(二重撮り防止装置)はない。写真右端に写っているシャッターセットレバーを上方にセットすれば、何度でもシャッターが切れてしまう。シャッターは、このレバーを押し下げることで作動する。簡単明解な仕掛けだ。シャッターをセットしたり、作動したりするメカニズムを隠そうともせず、ハダカで露出している。コスト優先の割り切りだが、それなりに潔い。

このため、注意していないと二重写しの失敗をすることがあ った。

なお、このすぐ上には、シャッターレリースを差し込むためのネジ穴があ る。

また、フィルムの巻き上げはボディー後側の赤窓(赤いフィルターがはまった窓)を通してフィルムの裏紙に印刷された数字を見ながら手動で巻きあげる仕組みだった。二眼レフが自動巻き上げだったのは、当時の最高級機だけであった。

このリコーフレックスも、外付けフラッシュのための電気接点は当時の米国コダック式だ。上のサモカ35と同じく、米国に売ろうと尻尾を振っていた。しかし、国産の自動車が米国にたくさん売れるようになったのは1970年代以降で、それまでは、国産車は鼻も引っかけられなかった。それより四半世紀も前に、国産カメラは、それなりの努力を重ねて、米国に進出して、外貨を稼いでいたのである。


12-1:当時、もっとも精緻な露出計Leicameter (ライカメーター)。細部まで手を抜かない工芸品なみの仕上げです。

1950年代のドイツの高級カメラであるライカM3 (Leica M3)やM2に取り付けるための専用の露出計だ。

この露出計ライツ社のライカメーター Leicameterという製品で、カメラの上部(軍艦部)にあるアクセサリーシューにはめ込んで使う。

カメラのシャッターダイアルに、写真右端に写っている露出計の下にあるローレットを刻んだリングが噛みこんで一緒に回るようになっている。

つまり、このメーターは、絞りの値を指示し、その値を読みとって、レンズの絞りを設定する、という仕組みだった。

この露出計は被写体の明るさに応じて、3段階の切り替えになっていた。

セレン光電池は写真の向こう側、開いている蓋の中側(本体側)に着いている。ごく細いスリットが開いている金属製の蓋を閉めれば、もっとも高輝度の被写体の測光が出来る。もっと暗いところでは、この蓋を開けて測光する。ダイアルの上で、黒字(1.5から16まで)が閉じたとき、赤字(1.5から16まで)が開けたときの、設定すべき絞りの値を、メーターの指針で示すようになっている。

さらに暗いところでは、ブースターと呼ばれる巨大なセレン光電池を外部に取り付けて、3段目の測光を行う。これでさらに4倍の感度の測光を行うことができる。明るさを測れる能力は、セレン光電池の受光面積に比例するから、このブースターのような巨大な面積が必要になるのである。

なお、ライカメーターの場合には、ブースターを取り付けて使うときには、本体の金属の蓋を閉めておくように指示されている。

この露出計の右端の数値は、シャッタースピードを表している。シャッターダイヤルにこの露出計をかぶせてしまうと、数値が見えなくなるので、ここに数値を並べているのである。カメラのシャッターダイヤルと噛んでいるリングを回すことで、シャッター速度を変えることができる。

なお、1秒まではカメラのシャッターが制御するが、2秒〜15秒は、カメラでは制御できない。このため、外部にとりつけたシャッターレリースで手動でシャッターを切ることになる。「2秒」のところに横に寝ている文字は「B」で、ここからは手動で「Bulb」で切れ、という指示である。いかにもドイツ人らしい配慮だ。

なお、団扇のような印は、ブースターをつけたときの露出合わせマークである。

この3段構えの測光方式ゆえに、この露出計で測れる最低限の明るさは、ISO (ASA) 100のフィルムを使ったときにf1.5で1/4秒だった。当時としては、最高の感度を誇っていた。しかし、ライカメーターだけならともかく、ブースターまで取り付けたカメラは、まるで子どものオモチャの合体ロボットのような、滑稽な姿になった。

なお、露出計の上部の扇形の窓は、フィルムの感度を設定するためのものだ。ひとつはドイツ規格のDIN、二つは国際規格のASA(現在のISO)である。こちらに窓が二つあるのは、50-100-200-といった数値のほか、32-80-125-の数値も読みとれるようにするためである。

なお、このメーターの裏側には、指針のゼロを調節するためのマイナスネジの頭が出ている。

しかし、この露出計の問題は、受光角であった。セレン光電池は正面だけではなく、斜めからの光も感じてしまう。このため、レンズに写るよりもずっと広い角度の明るさを平均的に測る、ということしかできなかったのが、この時代の露出計の宿命だった。セレン光電池の感度を上げるためと、受光角を狭くするために、昆虫の複眼のようなレンズを並べているが、それでも、受光角をコントロールすることは難しかった。

このライカメーターも金属の蓋を開けた部分には複眼のレンズが並んでいる。

幅はブースターを入れると12cmもあり、重さも190グラムもあって、ずっしりとしている。近年の小型のデジカメよりも重い。しかし、フィルム感度設定のための出っ張りも、3段重ねになっていて、まるで工芸品のように美しく加工されている。

なお、ライカM3は、初期型とその後で、シャッター速度の系列が違っている。これは初期型のモデル専用の露出計で、シャッタースピードは、1秒, 1/2, 1/5, 1/10, 1/25, 1/50, 1/100, 1/250, 1/500, 1/1000という系列になっている。なお、その後の型は、1秒, 1/2, 1/4, 1/8, 1/15, 1/30, 1/60, 1/125, 1/250, 1/500, 1/1000という、いわゆる倍数系列である。

初期の系列はそれまでのカメラでは伝統的なもので、2とか5とか10といった、硬貨とも同じ、いわば生活実感に合わせた系列で、倍数系列は、新たに頭で考えた合理性に基づく系列と言えよう。

なお、ライカのMシリーズのカメラのシャッタースピードはシャッターのスローガバナーを切り替える1/15秒と1/3秒0の間以外は、中間のシャッタースピードが任意に使える。それゆえ、このライカメーターも、初期型以外に使えない、というわけではない。

ここでも、数字の「4」は、またも欧米流の「4」である 。


13-1:もっとも美しい、しかし開放ではほとんど使いものにならないミュンヘン製のカルミナー(Culminar)レンズ。

バルナック型のライカに取り付けるための交換レンズは、1940年代から1960年代まで、花盛りだった。ドイツでも、英国でも、そして日本でも、たくさんのメーカーから多くのレンズが作られて販売された。

これには、ライカが採用した「L39」というマウント(「ライカLマウント」とも言われる)が、とても簡単なねじ込みマウントだったことと、純正のライカ用のレンズが高価で、そのわりには、明るいレンズではなかった、という二つの理由のせいだった。

このマウントは内径39mm、ピッチ1/26inch、フランジバック28.8mmというもので、レンズ側としては、単純な旋盤作業でレンズマウントが作れてしまうという特長があった。なお、ネジピッチだけインチサイズで、ほかはミリサイズ、というのが不思議であ った。

写真は、ドイツ南部の大都市、ミュンヘンのシュタインハイル社で作られたカルミナー(Culminar)レンズ。焦点距離は85mmの中望遠、F2.8という、明るいレンズである。ライツ社のレンズは、エルマー90mm、F4.0がふつうのものだったから、このレンズのほうが倍も明るいことになる。最短撮影距離は1mである。

ドイツ製だから、距離は当然、メートルで書いてある。また赤外線フィルムのための指標もあ る。絞りは32まで。ただし、絞りのクリックストップはない。

レンズは表面がつや消しのクロームメッキ梨地仕上げで、じつに品がよくて美しい。またレンズに刻まれた字体にも品格がある。「4」はもちろん、欧米流の「4」である。

しかし、問題は画質だった。開放では像が甘く、フレアも多くて、にじむ。ほとんどソフトフォーカスレンズのようだ。F5.6くらいに絞らないとシャープにならないのである。当時の技術水準では、F2.8というのは、かなり無理だったのかもしれない。

右の写真は開放F2.8で撮ったもの。ピントは「はるやま」の看板に合わせた。画像の中央やや右下部を約8倍に拡大してある。ピントは甘く、画像もにじんでいる。

これは、絞りを11まで絞ったもの。 ピントは同じところに合わせている。ここまで絞ると、さすがに、ちゃんと写る(画像処理でのシャープネス処理はしていない)。

なお、写真は両方とも、2011年6月に、札幌市南区で撮った。

しかし、フィルムの感度がとても低かった時代に、ここまで絞ることは、昼間の、よほど条件のいいときでないとできない。

当時のレンズの水準としては、このようなものがせいぜいだったのであろう。
ちなみに、上に書いたジュピター50mm F2.0は、F2.0開放でも右のようにちゃんと写る。焦点距離は違うが、カルミナーの開放F2.8とは天地の差だ。絞れば、もっとよくなる。

これはカールツァイスと、シュタインハイルの設計の差だろうか。

レンズの画角がちがうが、これも画像の中央部を約8倍に拡大してある。


14-1:カルミナー(Culminar)レンズほど美しくない、しかし暗いレンズのために性能は安定していたライツ・エルマー、90mm、F4.0。

バルナック型のライカに取り付けるための標準的な交換レンズのひとつだったライカの純正交換レンズ、エルマー90mmレンズ。明るさは、上のカルミナーの半分のF4.0。

レンズは4枚構成のテッサータイプで、収差もよく補正されていて、シャープに写るので評判だった。

なお、一時期、3枚構成のレンズのエルマー90mm、F4.0もあった。3枚構成のトリプレットタイプのレンズは、周辺の像が流れるという欠点があり、ライツとしてはコストダウンだったかもしれない。その後4枚構成に戻した。しかし、不思議なことに、中古市場では数が少ないこともあって、このトリプレット型のレンズのほうが高価である。

レンズの仕上げは、カルミナーほどではないが、それなりに美しい。

なお、このレンズはレンズの本体部分だけが、後部のヘリコイド部分から外せるようになっている。これは、ビゾフレックスという、ライカ本体とレンズの間に取り付けて、一眼レフのように化けさせるミラーボックスを内蔵した仕掛けに取り付けるためだった。ビゾフレックスは、バルナック型にも、M型のライカにも、それぞれあった。先端の絞りリングと焦点調節リングの間の、やや径の小さいリングが、レンズ部分を取り外すときに握るリングである。

写真で見られるように、赤外線フィルムのための指標もある。Rという字と、対応する黒点がそれである。Rの字は、縦には入らなくて、寝かせたのであろう。上のライカメーターの「B」と同じで、入らなければ、気安く寝かせてしまう。これもドイツの合理主義なのだろうか。距離表示はやはりメートルだ。「4」は欧米流の「4」である。


14-2:高い尖鋭度と明るさを誇ったライツのレンズ、ズミクロン、50mm、F2.0。これは当時の憧れの近接撮影を可能にしたデュアルレンジ・ズミクロンというものでした。

ライツの標準レンズ、エルマー50mmは尖鋭でいいレンズだという評価を得ていたが、コンタックスに比べて開放の明るさでは劣っていた。

このために、社外のシュナイダー社からクセノン(50mm F1.5)を仕入れたり、自前で、ズマール(50mm F2.0)やズマロン(50mm F2.0)を作ったりしていたが、コンタックスのゾナー(あるいはそのコピーであるジュピター)には解像力にも尖鋭さにもかなわなかった。また、ズマールもズマロンも、開放では甘く、とくに周辺部は、収差も大きく、解像力が悪かった。

このため、ライカが満を持して売り出したのが、ズミクロン(50mm F2.0、summicron)だった。1953年のことだ。最初はバルナック型ライカ用のスクリューマウントで製造され、のちにM型ライカ用のマウントに変更された。これはいいレンズで、のち、1980年に次世代に取って代わられるまで、長く売られることになった。著名な写真家であるカルティエ・ブレッソンや土門拳もこのレンズを愛用した。

このレンズは6群7枚の変形ガウスタイプ構成だが、レンズ前面から1、3、6、7枚目の計4枚が「LaK(ランタンクラウン)N9」、2枚目が「SF(重フリント)7」、4枚目が「LLF(特軽フリント)1」、5枚目が「TiF(チタニウムフリント)4」、と、当時使えた高屈折ガラスをほとんど全部使って、コストを無視したぜいたくな設計になっていた。

他方、接写や複写には、当時のレンジファイダーカメラは使いにくいという共通の欠点があ った。距離計連動での近接はせいぜい1mくらいだったし。ファインダーで見えるものと、レンズで実際に撮れるものとの視差(パララックス)の問題もあった。一眼レフ誕生以前の悩みである。

写真のズミクロンはデュアルレンジ・ズミクロン(dual range summicron)という、標準型ズミクロンの変種で、鏡胴が通常の最短距離である1mよりはさらに延びて、48cmまでの接写が出来る。なお、このときに、写真中央部に写っている台座に、カメラ本体の距離計窓二ヶ所をカバーする二眼式の、通称「めがね」というものをはめて、距離計の連動と、視差の補正を行う仕組みだった。50でも45でもなく、48cmまで、というのが、いかにもドイツ人的な律儀な正確さである。

中央部にあるのは、鏡胴部に見える四角いカムで、これがいったん、1mのところで、ぶつかって止まるようになっている。これより近接撮影をするときには、めがねをはめることによって、台座の中央部にあるぽっちが押されて、90cmから50cmまでの撮影が出来るようになる。

鏡胴、そして、距離リングは硬くて美しい梨地メッキである。このころのドイツの工業製品の高いレベルを示している。

しかし、写真の右手に写っている赤いプラスチックのぽっちは、なんとも興ざめなものだ。これは、交換レンズをカメラに取り付けるための合わせマークで、目立つことと、暗いところでも手探りでわかることが大事なのだろう。しかし、当時としては最先端の工業材料だったプラスチックだったろうが、なかでも鮮やかな赤というのは、いまとなっては百円均一の商品のような安っぽさしか感じられない。


15-1:ニコンSカメラのための1950年代のニッコールレンズ。カールツァイスの猿まねでした。135mm、F3.5。

日本光学がニコンSを作ったときに、標準レンズのほかに、35mm、85mm、105mm、135mmの交換レンズも発売した。この135mm、F3.5のレンズはそのひとつだ。

仕上げはとても美しい、細かい機械加工は、真鍮にクロームメッキをしたもので、光線の具合によっては虹色に見える。

赤外線指標も、赤字で「R」と示されている。ただし、距離表示は輸出優先で、フィートであ る。

ニコンSは、シャッターのメカニズムはライカ、レンズマウントや人差し指で回すギヤによる距離計の操作や、レンズの回転角度によって距離計と連動させる仕組みや、8角形の断面を持つボディーはコンタックスUの模倣という、一見不思議な組み合わせだった。

ニコン Sは、コンタックスUと同じように、内外二重のレンズマウントを持ち、ヘリコイドを持たない50mmの標準レンズだけが内側のマウントに装着される。しかし、フランジバック(レンズを装着する面からフィルム面までの距離)は、レンズマウントはコンタックスそのものだったのに、コンタックスとは違い、むしろバルナックライカに近かった。 このため、コンタックス用のレンズを装着することは出来ても、厳密にはピントがずれてしまう。

そして、レンズそのものは、コンタックス用のレンズの完全な猿まねだった。レンズの構成図を見ると、コンタックス用と瓜二つである。日本光学はコンタックスのレンズを分解し、レンズの曲率やガラスの屈折率を測って、真似をしたのである。

このレンズも、コンタックス用の135mm、F4.0のレンズと見分けがつかないくらい似ている。

じつは標準レンズの50mm、F1.4も、コンタックス用の50mm、F1.5の真似で、明るさのF1.4も、測定してみるとF1.5と違わない(製造時に許される公差のうちに入ってしまう)ものであった。つまり、レンズの明るさは実際には同じだったのである。真似をしたうえに、0.1でも明るく称したいという、日本のカメラ工業界の哀しい時代であった。

ところで、このレンズは、上のエルマー90mmと同じく、レンズ部分だけが取り外せる。しかし、これは、ビゾフレックス用ではなく、ニコンSの後期(SPやS3やS4)と同時期に発売されたニコン初代の一眼レフ、ニコンFに、このレンズの前部を、写真のフォーカシングアダプターを使って取り付けるためのものだった。「二回」使おうという、まだ貧しい時代であった(左の写真)。

この「ニコンF フォーカシングアダプター」は、ヘリコイドとニコンFのマウントだけでなりたっている。距離は、さすがに日本人や米英以外の外国人には使いにくいのが分かったのか、フィート(黄色字)と併用してメートル(白字)も表記してある。小さな赤外線マークもある。

アルミ製でとても軽い。黒塗りは、ニコンFのほかの交換レンズに合わせたものであ ろう。しかし、この白いレンズをつけると、まるでパンダになってしまう。

最短撮影距離は、レンジファインダー用のときと同じく、1.5m(5フィート)だった。一眼レフ用ならば、もっと繰り出して近距離まで写せればいいと思うのだが、レンズの性質上、画像が崩れてしまうのだろう。

しかし、もちろん、このアダプターをつかって、一眼レフにこのレンズを装着したときには、絞りは実絞りになってしまう。つまり自動絞りで、開放でピントを合わせたり、露出を計ったりすることは出来ない。とても不便なものだった。


15-2:そのニコンレンズのためのファインダー。35mmレンズから135mmレンズまでカバーする「ユニバーサル・ファインダー」でしたが、望遠レンズのパララックスには泣かされました。

日本光学がニコンSを作ったときに、標準レンズのほかに、いくつかの交換レンズも発売した。そのときのラインアップは35mmから135mmまでだった。28mmや、180mmは、ふつうには使わない特殊レンズで、標準的な系列には、まだ入れてもらっていなかった。

これは、カメラ本体のアクセサリーシューに取り付けて、撮影範囲を知るための「ユニバーサル・ファインダー」だ。日本光学(にっぽんこうがく)製である。

カメラ本体のファインダーは、標準レンズである50mmの画角だけを示すものだったから、この種の外付けのファインダーが必須だったのである。

使い方は、本体後部についている黒いリングをまわしてレンズの焦点距離に合わせ、カメラ本体で被写体にピントを合わせて、その被写体までの距離をカメラ本体についているレンズから読みとって、その数値を、このファインダーの底部(写真の右下)についているノブで指標に合わせる。こういう複雑な手順をとらなければならなかった。

つまり、レンズとファインダーが離れているものだから、レンズに写るものを正確に知るためには、この「パララックス(視差)を補正する」作業が必要だったのである。

この指標には無限大から3フィート(約90センチ)まで数字が刻まれている。そのうち、写真で見るように、4フィートから3フィートまでは赤字になっている。

しかし、135mmレンズでは、せっかくこうやってパララックスを調整しても、実際には写った範囲が、結構、ずれていることも多かった。狭い画角を正確に合わせるには、画角を示すファインダーの枠がくっきりしていなくてぼけているうえ、この程度のちゃちな仕掛けでは、正確には合わせられなかったためだ。

現像した写真をみて、がっかりすることも多かった。その意味では、とくに望遠レンズで写し取るものが、正確にファインダーで見ることが出来る一眼レフの登場は、たいへんにありがたいものだった。

なお、135mmと85mmの間にある指標は105mmのレンズのためだ。このレンズを日本光学はあまり売る気がなかったのか、ここには数字もなく、クリックストップもない。本体の長さは約43mm。


16-1:上のカルミナーレンズのための専用ファインダー。画角は固定されていますが、パララックス調整はついています。

これも、カメラ本体のアクセサリーシューに取り付けて、撮影範囲を示すためのファインダーだ。ただし、ファンダーの画角は可変ではなく固定されていて、特定の焦点距離のレンズの専用ファインダーである。

使い方は、上のファインダーと同じく、カメラ本体で被写体にピントを合わせて、その被写体までの距離をカメラ本体についているレンズから読みとって、その数値を、このファインダーの後部(接眼部)に同軸についているリングを回して指標に合わせる。

この指標はメートル目盛で無限大から60センチまで数字が刻まれている。

このファインダーは、上のカルミナーレンズを中古で買ったときについてきたものだ。しかし、不思議なことに、ファインダー左側に見える四角い対物窓の外側に、黒くて四角い穴が開いたプラスチックフィルムが貼り付けてあった。つまり、これがなければ35mmレンズの画角のファインダーだったものを、無理に85mmの視野に狭めているのである。

もっと不思議なことには、このファインダーには、メーカー名も生産国もない。それゆえ、これがシュタインハイル社のものかどうかは私にはわからない。

しかし、見られるように、結晶塗装してあって、なかなかの高級品なのである。パララックスを補正する機構も、美しい曲線を持ったカムを使った、簡単だが精度の高いメカニズムを採用している。本体の長さは約45mm。


17-1:そして、高級なカメラは、フィルムメーカーの作った安物のパトローネも使いませんでした。ニコン用の専用フィルムマガジン。

カメラに使う35mmフィルムは、パトローネに入って売っているのがふつうだ。そのパトローネは、使い捨ての安物である。

人によっては、100フィート巻きの金属缶に入って売っていた生フィルムを買ってきて、自分でパトローネに詰めることもあった。私もよくやった。

もちろん暗室の中で、フィルムの長さを計って、手探りで切りながら、巻き込むのであ る。

なお、のちには「フィルムローダー」という、100ィート巻きのフィルムをそのまま入れて、コマ数計を見ながらパトローネに巻きこんでいく機械も売り出されて、使われていた。これなら、最初にフィルローダーに長巻きフィルムを入れるとき以外は、暗室は不要である。

このときに使うパトローネは、フィルムの現像所からもらってきたものが多かった。再使用であ る。長巻きのフィルムを使う利点は、安いこと、そして自分が撮影したいだけのコマ数のものが作れることだった。

しかし、パトローネは、フィルムが出てくるスリット(狭い隙間)には、遮光のために「テレンプ」という、パイルにモヘア梳毛(そもう)糸を用いたパイル織物が使われていた。フィルムは、この織物をこすりながら出てくるのである。

高級カメラは、これを嫌った。織物の毛がフィルムの乳剤面を微妙に傷つけてしまうのではないか 。繊維から出るゴミが、フィルムにくっついてしまって写真に写り込んでしまうのではないか、という心配のせいである。また古いテレンプや悪いテレンプだと、光線漏れを起こして、フィルムに、思わざる感光をさせてしまう恐れもあった。

このため、ライカが先行して、専用のマガジンを作った。金属製で、二重の円筒型になっていて、ふだんは閉じているが、カメラにフィルムを装填して、カメラの底蓋を閉める動作をするときに、底蓋に仕掛けがあって、このマガジンが1cmほど、口を開ける仕掛けだ。これならば、フィルムが、繊維をこすりながら出てくることはない。

フィルムを取り終えたら、パトローネのときと同じようにフィルムをこのマガジンの中に巻き戻して、カメラの底蓋を開ける。この動作によって、マガジンは再び閉じられて、完全な遮光ができるというわけだった。

写真にあるのはニコンS用のマガジン。金属加工で、きわめて精密にできていて、遮光にはテレンプやフェルトのような繊維は一切使っておらず、内筒と外筒の金属加工の精度だけで遮光を行っている。光沢メッキもしてあって、とても高価そうに見える。いくつも買うのはたいへんだったにちがいない。

じつは、このマガジンは、ライカのものとは形はそっくりだが、互換性がなく、他方、ニコンのボディーが真似をしたコンタックスやキエフには使えるものだった。

マガジンの端面には、入れたフィルムの種類や感度を忘れないように、設定するダイヤルがあ る。1950年代には、白黒フィルムがASA(いまのISO)10から200まで、カラーフィルムは10と16だけがあったことがわかる。のちに売り出されたフィルムローダーも、このマガジンには使えない。どちらも、このマガジンの時代を表している。


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その2:中編はこちらへ
その3:後編はこちらへ
その4:続編はこちらへ
その6:消耗戦前夜のデジカメ編はこちらへ

島村英紀が撮った海底地震計の現場
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