トピックス:リクノフ先生を悼む

 1999年7月16日、リクノフ先生 (Dr. Lev L. Rykounov) がモスクワで息をひきとった。72歳だった。ご冥福を祈りたい。

 彼はモスクワ大学の物理学部の教授を長く務めたが、地震学の測器を作るのが得意で、世界でも早いうちに海底地震計を造りあげ、実用的な海底地震観測(黒海の海底での微動研究)に成功したという意味では世界初の海底地震学者である。また、後年は、特別に高い周波数帯域の地震計を作って、震源からはるかに離れたところでの地震波の二次放射の研究にも優れた業績を上げた。彼の海底地震計は私たちが現在使っている海底地震計にも強い影響を与えた。

 私はモスクワで何度か会ったほか、1980年代の後半から、アイスランドで二回もリクノフ先生と一緒に観測する羽目になった。そのときは彼はロシア人のチームを率いて、海底地震計ではなく、アイスランドの陸上で、地震計を展開して研究を行なっていた。

写真:アイスランドでのリクノフ先生と私(1990年8月、リクノフ先生のチームが借りていた小学校の玄関で)

なおアイスランドでの私とリクノフ先生の出会いは、講談社の雑誌『クオーク』に「島村英紀の地球タマゴ旅」として連載したうちの2回にわたって書いたことがあります。以下に再掲します。(これは原稿から引用しましたので、行数の制約があった、印刷されて雑誌に載ったものとはいくぶん違っています)。

海底地震計パイオニアのその後
(原題は:リクノフ先生とっておきのご馳走)
『テレスコープ・島村英紀の「地球タマゴの旅」その19』(講談社『クオーク』)、1990年11月号(117頁)

 アイスランドで思いがけない人に再会した。海底地震計のパイオニア、モスクワ大学のリクノフ先生。アイスランドの田舎で、仲間と極限の耐乏生活をしていたのだ。

 ソ連は地震学が盛んな国だ。1960年代のはじめには独自の海底地震計を開発して、黒海で地震観測を始めていた。

 リクノフ先生は、いろいろの部品を自分たちで手作りして、ソ連で最初の海底地震計を完成した人だ。海底の脈動を調べるのが、リクノフ先生の研究だった。感度の高い地震計で観測すると、動かざること大地の如し、という諺はまちがっていることがわかる。地面は、大なり小なり、いつも搖れ続けているのだ。

 風。雨。交通機関。工場。海の波。この搖れの原因は、いろいろある。砂漠のまん中にいっても、地面は搖れている。

 脈動とは、地面がいつもゆれている、その振動だ。地震計にとっては雑音だ。脈動は、内陸でも観測される。脈動は、海の底でつくられて、はるか陸まで伝わって来るものと考えられている。その意味では、海底は脈動の本場だ。

 月ロケットを飛ばすほどの国なのにIC(集積回路)やテープレコーダーの録音ヘッドのような部品は、なかなかリクノフ先生のところにはまわってこない。

 ソ連では、地球物理学はしょせん、日が当たらない二流の科学なのだ、というのがリクノフ先生の述懐だった。

 じつは私たちの海底地震計も手作りなのだ。秋葉原の電気部品と羽田裏の機械部品がなければ、私たちの海底地震計は出来なかった。

 私たちが東京の羽田空港の裏手に密集している町工場を探し出して海底地震計の機械部品づくりを頼んだり秋葉原で電気部品を買い集めて、はじめて私たちの海底地震計は出来た。

 私たちは、むかし、足を棒にして歩きまわったおかげで、どんな部品ならどの工場に頼めばいいのか、どの工場ならば、どんな材料を使うのが得意で、どのくらいの精度で製品を仕上げてくれるかを、すでに知っている。どのくらい日程に無理がきくか、もわかる。どんな値段なのか、も想像がつく。

 これは、新しい測器を開発する上で、たいへんな武器だ。秋葉原も羽田裏もないソ連の科学者が、電気や機械部品の調達にどんな苦労をしなければならなかったか、リクノフ先生の話は、胸にこたえる。

 リクノフ先生はじつに温厚な人柄で、学者としてもアイデアにあふれている。しかしいつも彼のアイデアの実現をはばむものは、政治体制でもなく、官僚制でもなく、彼の作りたい観測器の部品の入手難だった。

 なかでも、海底の圧力に耐えるための地震計の入れ物、耐圧容器がいちばんの難問だった。 結局、リクノフ先生は、高圧ガスのボンベを海底地震計の耐圧容器にすることを思いついた。

 内圧をかけるボンベと外圧がかかる海底地震計の容器とは設計がそもそもちがうのだが、そんなことはかまっていられない。

 しかしこの耐圧容器には問題があった。高圧ガスボンベは、黒海の海の深さでは使えても、千島海溝や日本海溝を擁する太平洋の深さでは不十分だった。世界でいちばんチタンの豊富な国、ソ連。チタンは軽くて強く、耐圧容器には理想の材料だ。世界でいちばん深くまで行けるフランスの深海潜水艇は、チタンで出来ている。

 しかし、リクノフ先生には、チタンを手に入れる見込みは、ない。

 私たちと先生の弟子たちがマリアナ海域で1976年に行った海底地震計の国際共同実験では、かわいそうに、ソ連の海底地震計は、6000メートルの深海の水圧に耐えられなくて、ペチャンコになってしまったのだ。

 海底地震計のかっての先進国、ソ連の最近の凋落ぶりは著しい。

 そのリクノフ先生にアイスランドで20年ぶりに会おうとは夢にも思わなかった。

 私は海底地震計を持ってアイスランド気象庁と共同で、アイスランドの近くの大西洋中央海嶺で海底地震を観測するためにアイスランドに行っていた。

 そのアイスランド気象庁で、ロシア人たちがアイスランドに来て、島内で地震観測しているが、部品がないの、観測車が故障したの、と頼って来て困っている、という話を聞いたのだ。

 その観測隊長の名前は、なんと、あの懐かしいリクノフ先生。

 海底地震観測の間を縫って会いに行った。最初の握手のあと、リクノフ先生は暖かい大きな手を長い間、離さなかった。

 リクノフ先生は、最近の私たちの海底地震計の進歩について微に入り細をうがって聞きたがり、眼を細めて聞き入ってくれた。その他にも、最近の研究のことからペレストロイカの行方まで、私たちは、話すべきことが山ほどあった。

 リクノフ先生は部品と資金の不足から海底地震計をついに諦めて、特殊な陸上地震計を作ることに転進していた。この地震計だと、地下深部にあるマグマの動きを探ることが出来るのだ。

 その地震計を持って、アイスランドの地下にあるマグマを研究しに来ていたのである。

 一面の牧草地が拡がる田舎の小さな小学校の校舎を借りて、13人のロシア人科学者が共同生活をしていた。

 極限の耐乏生活と言うべきだろう。狭い校舎のトイレにまで簡易ベッドを持ち込んでいた。レストランで食べるどころか、外貨がないために自炊の材料さえ買えない。観測機器をはじめ、すべての食糧や観測に使う車まで貨物船で運んで来た。

 毎朝、各人が地震計を持って野外に行き、夜になると記録を取って帰って来る生活が2カ月続く。たまに都会へ出てショッピングを楽しむどころではない生活である。

 まあ、昼飯ぐらい食べて行きなさい、と言われて、遠慮しながらも鮭缶の昼飯と歯が立たないくらい硬い乾パンにあずかる。

 しかし食事は私と私の大学院生の二人分しか出ない。彼らは後から食べるから、という。とっておきのご馳走で歓待されたらしい。しかも、鮭の上に乗っていた緑の野菜は、小学校の庭に生えていた雑草だった。私たちは雑草を採っているロシア人を窓から見てしまったのである。

 経済が破綻状態のソ連。それでも研究者は、研究と、それを支えるための生活を、科学のために続けているのである。

(イラストは『クオーク』掲載時に、イラストレーターの奈和浩子さんに描いていただいたものを再録しました)

海底地震計パイオニアの凋落
(原題は: ソ連の科学者の生活と将来)
『テレスコープ・島村英紀の「地球タマゴの旅」その34』(講談社『クオーク』)、1992年2月号(118頁)

 私たちは昨年もアイスランドを訪れた。2年続きだ。前の年はアイスランドの南西の沖だったが、昨年はアイスランドの北側からその沖にかけての海で、プレートがどう生まれているかを調べに行ったのである。

 大西洋の海底を南北に這っている海底大山脈がある。山脈はプレートを生み出す大西洋中央海嶺で、アイスランドは海嶺が海面上に出ているところだ。

 海嶺にはまだナゾが多い。世界各国が参加して「海嶺計画」と呼ばれる中央海嶺の国際共同研究計画が始まったばかりで、世界の眼が海嶺に注がれているので、私たちの観測も注目を集めている。この研究のために私たちは日本から21台の海底地震計を運んだほか、アイスランド側では16台の陸上地震計を用意した。アイスランド側では同国気象庁やアイスランド大学が共同研究に参加した。

 これらの地震計で、北大西洋からアイスランド北部の山岳地帯にかけての150キロ四方ほどのフィールドに、地震計のネットワークを張った。過去、大西洋中央海嶺で行われた最大規模の地震観測だった。海底地震計の設置と回収のための船は、昨年と同じく、アイスランドの海上保安庁が旗艦にあたる立派な巡視船を貸してくれた。

 アイスランドの北側では、大西洋中央海嶺が幾つにも枝別れしているところで、どうして枝別れしているのか、その地下で何が起こっているのか、地球物理学のナゾが深い場所なのである。最近、トロール船の漁網が溶けて大きな穴が開いて帰ってきて、海底火山が新しく生まれたのが知られたところでもある。

 プレートが動けば地震が起きる。つまり起きた地震を捕まえて調べれば、地下でなにが起きているかが調べられるのである。

 ところで、一昨年の私たちの観測地域はアイスランドから南西に伸びるレイキャヌス海嶺だった。観測の結果、ここでの地震活動は世界のどことも違うのが分かった。マグマが薄いカミソリのような面状になって地下20キロの深さから中央海嶺に上がってきているのが海底地震活動から「見えた」のである。

 こんな薄いマグマの面が見えたのは世界でも初めてだ。

 しかし一方、アイスランドでは気の重いことがあった。地震学者のリクノフ先生と再々会したときのことである。せっかくの再会なのに、リクノフ先生はひどく元気がなくて、一年の間に何年分も年をとってしまったように見えたからである。

 1990年11月号で話したソ連のリクノフ先生は、1990年に引き続いて1991年にも観測隊長としてソ連の研究者を引き連れてアイスランドへやってきていた。一年ぶりの再会だ。

 しかし痛々しかった。身なり。顔色。一年前よりは、お国の経済状態がさらに悪くなっていたのがすぐに見て取れるほどだったからだ。リクノフ先生ばかりではない。若いのも中年のも、みんな一様に暗い眼をして口数が少なくなっていたのである。

 前の年は器材は船便で、研究者は飛行機でアイスランドまでやって来た。しかし、この年は旅費を安くあげるために、なんとモスクワからノルウェーの西海岸まで、研究者全員を詰め込んだ観測トラックを運転してやってきた。3000キロの道のりだ。

 ノルウェーからアイスランドまではフェリーだった。そのフェリーもアイスランドの東の端にしか着かない。舗装していないデコボコの道でアイスランドを半周して、ようやくレイキャビックに来たというわけである。

 観測車の中は、ぎゅう詰めの研究者と自炊のための食糧の山。山ほどの観測器材だった。ヨーロッパの学生がもっとも安価な旅行として選ぶ典型的な文無し旅行のスタイルだ。

 リクノフ先生は70歳を越える。景色を楽しむどころか、苦痛の長時間ドライブだった。顔色がすぐれないのも無理はない。しかも、お国の経済状態から見てこのアイスランド観測が最後の観測になるだろう、という。

 アイスランドのすぐ後、私は地震学や気象学など地球物理学で最大の国際学会のためウィーンを訪れた。 昨年の夏にウィーンで開かれた国際地球物理学会でも、この海底地震観測はすでに知られていて、研究結果は各国から注目されていた。別の海嶺での観測も依頼された。

 今年の夏はたぶん、大西洋中部のアゾレス諸島に観測に行くことになるだろう。国際測地学地球物理学連合総会という4年に一度の学会だ。リクノフ先生一派は旅費がないので、行きたいのだが行けなかった。

 その分科会のひとつを私がお世話したのだ。このため、講演者を選んだりプログラムを作ったときのことを思い出す。

 講演の申し込みは公募だから、世界中から申し込みが来た。とりわけ目立ったのがソ連からの申し込みだ。数が多い。しかしそれ以上に学会に来て発表したいという「熱意」に燃えていた。

 申し合わせたように私信の手紙が入っていた。ぜひ選んでくれ、そして参加するための旅費の援助を願う、という手紙だ。 援助とは主催の科学団体からの補助で、分科会ごとに27万円ほどしかない。講演者が何十人もいるから、特に困った人だけに分けても一人頭は知れている。

 東欧圏など外貨を得るのが難しい国では事情は昔から深刻だった。今はソ連が突出している。月給は実勢レートだと20ドルにも足りない。これで外国旅費が出せるわけがない。その上モスクワでは科学者が労働人口の4分の1もいるのだそうで、首切りの危機におびえている。国際学会で発表するかどうかに彼らの将来がかかっているのである。

 金が貰えなかったら学会に行けない、という嘆願の手紙の山。科学的な内容だけではなくて、学会の懐具合いから研究仲間の将来さえも考えながらプログラムを組まなければならない、というのは、じつにつらい仕事だった。

 前号に話した南米のSさんだけではない。世界には多くの科学者が生活に苦しんでいるのである。科学は国境を越えるもののはずだ。しかし現実の科学者は、国にも経済にも、ガンジガラメに縛られているのだ。

(イラストは『クオーク』掲載時に、イラストレーターの奈和浩子さんに描いていただいたものを再録しました)

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