所長日記

(2004年12月1日、北海道大学地震火山研究観測センターから国立極地研究所の所長に着任)

2004年12月8日(水曜)。新所長、度肝を抜かれる。

所長になってから、各官庁(文部科学省、外務省、防衛庁、環境省、海上保安庁、気象庁、厚生年金病院、情報・システム研究機構、国立情報学研究所、国立統計数理研究所、衆参両院の議員会館の関係の「先生」方、学術会議、総理府の総合科学会議、総合研究大学院大学(総研大)、日本極地研究振興会、建設省国土地理院(つくば)、南極観測のOBほか)の恒例の挨拶回りやら、ヤマ場を迎えている南極観測の後継船の予算折衝の各方面への陳情で、席が暖まる暇がない。

はるか南極の昭和基地の越冬隊の隊長以下一同から、所長就任のお祝い電報をもらっていた。日本国内の電報と同じように、お祝い用のカトレアの花を印刷した紙カバーに入っている。

その南極基地とのテレビ電話の交信が、12月8日に実現した。時差は6時間。日本では18時だが、現地はちょうど昼食時間。 まず山岸久雄越冬隊長(宙空圏研究グループ)が、食事を後回しにして、テレビ電話に出てくれる。

場所は南極基地の隊長室。革張りのソファーでの会見になる。こちらは国立極地研究所6階の講堂。120名収容のがらんとして寒い部屋に、私と藤井理行副所長(気水圏研究グループ)がカメラの前に座り、国立極地研究所の広報、総務、極地設営室の人たちが機器の操作などで、まわりに詰めていてくれる。

2月に観測船が日本へ向けて帰ってから、越冬隊だけの生活がもう10ヶ月も続いている。40名の隊員と2名の朝日新聞記者で、計42名である(*)。山岸隊長から「全員は元気。あと2週間ほどで到着する交代の隊員と夏隊の隊員を迎える準備も順調。砕氷船が入ってくるための氷状の調査も始める。天気がいいので、到着する隊員たちのために屋外に布団を干している」といった話が伝えられる。布団干しは、太陽が沈まない、南極の真夏の風物詩である。

アルゼンチンが南極に持つジュバニー南極基地(キングジョージ島)のように、次の観測隊が到着すれば、すぐそのヘリコプターで帰れるわけではない。船が出る2月の末までは到着した人々とともに、忙しい日々が続く。その直前の、待ち遠しい、しかし、束の間のほっとしている期間なのである。

その後、医者の藤原久子隊員(国立療養所南花巻病院)、伊村智隊員(生物圏研究グループ)、工藤栄隊員(生物圏研究グループ)が食事から抜けてきてくれたあと、写真の光景になった。講堂の大型スクリーンに山岸隊長(右)とともに写ったのは看護婦姿の佐藤之紀隊員(男)。 本業は衛星受信担当(室蘭工業大学)だが、医者の手伝いをしている。しかし、澤田知子もかくやというほどの、この圧倒的な存在感と、サマになっている格好は・・。

*)正確には、このうち一部の隊員と中山記者は内陸のドームふじ基地にいて、日本からケープタウン経由の飛行機の乗り継ぎで12月に着いた新隊員とともに、氷のボーリングを行っている。

(写真は国立極地研究所極地設営室・井上剛介さんが撮影。画面右下は、息を呑む所長など、東京側の映像)

なお隊員各人の紹介や佐藤さんの素顔は朝日新聞のweb「越冬隊の人びと」にあります。


2004年12月18日(土曜)。新所長、中高生に取り囲まれる。

世界各国で地球を観測するために一斉に行われる地球観測年というものがある。1957-1958年に「地球観測年」として行われて、地球の姿がずいぶん明らかになった。

その次には、2007-2008年に「国際極年」(International Polar Year)として行われる。IPYと呼ばれる。いまだ分かっていないことが多く、国際的な協力が必要な南北両極地方の観測を行う年である。

この国際極年(IPY)や国立極地研究所についての一般の理解を深めてもらうために、国立極地研究所としては初めての行事を行った。

第1回「中学生・高校生の提案を南極北極へ」 コンテストである。広く中高生に、南極や北極でやってみたい実験を公募して、その中から実現可能で優秀なものは、南極観測隊や北極研究グループにやってもらおう、という試みだ。

今年から5年間続ける予定の「コンテスト」だが、ことしは準備が遅れて、11月の公募締切までに、わずか2ヶ月あまりという短い公募期間しかとれず、関係者をやきもきさせた。しかし幸いにも、全国から60件あまりの応募があり、最優秀賞、特別優秀賞。優秀賞、特別賞(科学賞)、特別賞(アイデア賞)、特別賞(地球環境賞)、特別賞(ドリーム賞)、ペンギン賞などの各賞を決めて、賞状やメダルや記念品を手渡した。審査委員会は国分征・東京大学名誉教授を委員長に、所内外の9名の先生で構成されている。

実際に南極や北極で実施した提案は、担当した研究者がそれぞれの学校に報告する。また南極観測隊に依頼したテーマは、テレビ電話で、南極基地から直接、学校に報告することになっている。

この日は土曜日で、学校によっては授業がある日だったが、それでも全国から170人あまりの中高生や付き添いの先生などが集まり、国立極地研究所はいつにない華やいだ空気になった。講堂はいっぱいになり、あわてて補助椅子を用意した。また、国立極地研究所の1階にある展示ホール(南極点まで往復した歴史的な雪上車などが展示してある。土日を除き、常時、一般の方々に公開している)や地下にある-20〜-50℃の低温室も見学してもらった。

また、参加してくれた全員にお土産(南極観測隊のカレンダー、南極全体の地図、北極海全体の地図、南極についてのカラー小冊子、雪上車のペーパークラフト、IPYの特製フォルダー、「昭和基地の生活」のパンフレットのほか、入賞作品集、(コンテストを後援してくださった)国立科学博物館の招待入場券など)を手渡した。

(写真は入賞した生徒たちに表彰状を手渡す藤井理行副所長。IPY計画の国内委員長で、国際委員でもある。藤井副所長は東京工大工学部の土木学科出身。いくつかあるワンダーフォーゲル部の中でも、もっとも過激な(つまり山岳部に近い)グループに属していた「山男」で、学生時代に南米最南端のフェゴ島をさまよったのが人生を変えて雪氷の研究者になったきっかけになったという経歴だ。所長も中高生相手の挨拶に緊張したが、副所長も中高生に賞状を渡すのは人生で初めての経験らしく、受け取る生徒以上に緊張した表情だった。

=国立極地研究所講堂で。島村英紀撮影。撮影機材は Panasonic Digital DMC-FZ20。 レンズは66mm相当。F2.8, 1/13s。なお国立極地研究所には副所長が3人いるが、すべて工学部出身であるのは、自然科学系の研究所としては、かなり珍しい)


2005年1月13日(木曜)。新所長、茫洋とした平原(戦の跡)に立つ。

国立極地研究所は板橋区加賀にある。周囲は住宅街で、敷地も広くはない。現状でいちばん大変なのは建物が狭いことで、天井まで書類を積み上げて、机の上も研究資料でいっぱい、という先生も多い。

地震があったら、間違いなく書類が崩れてきて、多くの先生は、その山に埋まるだろう。事務職員や技官の人たちも、ロッカーは廊下に置いてあるのが普通だ。

このため、東京都立川市に新しい建物を作り、2009年に移転することになっている。これによって、いま(11,177平米)よりはかなり広い建物(専用部分20,970平米、共用部分4,170平米)に入れることになる。

場所は中央線立川駅の北約1kmあまりのところ。ここに、国立のいくつかの研究機関がまとめて移転することになる。国立極地研究所は、統計数理研究所と国文学研究資料館とともに、同じ建物に入ることになっている。なお、すぐ南側には、すでに国立国語研究所と自治大学校が完成している。

2005年1月現在では立川駅から北に延びる多摩都市モノレール(写真後方中央部の4両編成。なお、右端は駅だ)がすでに稼働しているが、62,450平米におよぶ広大な建築用地は雑草が生い茂った更地のままになっている。地面に張られたヒモは、完成する建物の外側を示すヒモだ。

ここは戦後、ずっと米軍の基地(飛行場)になっていて1977年にようやく日本側に返還されたところだ。1950年代には米軍基地の拡張に反対して「砂川闘争」として知られる激しい市民や学生の運動の舞台になったところでもある。

当時は米軍基地問題が各地で問題化していて、ここ立川でも、ジェット機が離着陸できるようにするための米軍立川飛行場の拡張問題をめぐり、拡張に反対した農民や労組員や学生と警官隊が激突し、1955年には、農民側730人、警官側157人もの負傷者を出した。血のメーデー(1952年5月1日、メーデーのデモ隊6,000人が使用禁止の皇居前広場に押しかけ武装警官隊と衝突、デモ隊2人が射殺され1,230人が検挙された)に次ぐ大流血事件だった。

その後1959年に東京地裁で、有名な「伊達判決」が出た。警官隊と揉みあっていたとき、全学連など25人が基地内に進入したため、7人が検挙され、起訴されていたが、定年間際の裁判長であった伊達秋雄は、「憲法は安易な政策論で解釈されるものでなく、憲法9条規定は、武力保持を禁じており、外国軍隊の駐屯は、明らかに憲法違反である。それゆえ刑事特別措置法も違反である」との当時としては画期的な「伊達判決」を行い、学生たちを無罪とした。しかしその後、この判決は、検察側の上告によって破棄された。

すべてが更地になってしまった立川基地の跡地に立った所長は、多感な少年時代を思い出して、感無量であった。

(写真は建築予定地を歩く三觜守・国立極地研究所管理部長(中央)と田村直也・会計課施設係技官(右)ら。島村英紀撮影。撮影機材は Panasonic Digital DMC-FZ20。 レンズは36mm相当。F4.0, 1/640s。右奥に見えるのはモノレールの高松駅。前方はるか彼方には東京・新宿の高層ビル街が望め、振り返ると富士山や丹沢の山が目の前に拡がっていた)


2005年1月27日(木曜)。所長、近所の町内会で昔話を聞く。

国立極地研究所のある板橋区加賀は旧中山道の板橋宿(江戸から数えて中山道最初の宿駅)にごく近く、昔から開けたところだ。国立極地研究所と地元のおつきあいも大切なので、新年会が開かれた機会に、地元の町内会(金澤自治会)にお酒とオンザロック用の南極の氷を持って出席した。

会場は国立極地研究所から歩いて2分ほどの金澤会館という町内会の建物。全国どこの町内会とも同じく、集まった方々の平均年齢は私の年齢より高いくらいだ。昨年秋に亡くなった町内会長さんは92歳であったが、よく国立極地研究所に来てくださっていた。

この町内会がやっている秋祭りには、神輿(みこし)が出て、町内を練り歩く。しかし、ご多分に漏れず、若い神輿の担ぎ手が不足しているので、そのころ国立極地研究所に泊まり込んで訓練をして、11月に日本を出発することになっている南極越冬隊員が、神輿を担がせてもらっている。若い隊員には生まれて初めての体験だし、町内会も助かる、という一石二鳥の神輿担ぎである。なおこの神輿は町内会の人たちの手作りで、ふだんは金澤会館の1階にしまってある。東京の神輿としては大柄な造りだ。

隊員には法被(はっぴ)は貸してもらえる。じつは白足袋(たび)はプレゼントとして隊員に貰える。このため、南極観測船上で白足袋を履いて神輿担ぎの体験の反芻を楽しんでいる隊員もいる。

地元には生まれてからずっとここに暮らしているご老人も多い。国立極地研究所の敷地は第二次大戦までは陸軍第二造兵廠という軍事施設だった。詳しくは、1876年(明治9年)に陸軍砲兵本廠板橋属廠がこの地で操業を始め、3年後に東京砲兵工廠板橋火薬製造所になっていた。石神井川(下記)の水で回転させる水車を動力に使って、黒色火薬などという物騒なものを製造していた。

終戦近くには東京中が米軍の空襲(いまで言う空爆)を受けて大変な被害を出し、とくに1945年3月10日の「東京大空襲」では10万人もの方がなくなった。ここ板橋でも激しい空襲があったが、米軍はなぜか日本軍の施設を避けて爆撃した、という話をお聞きした。終戦後米軍が接収して、使う気だったのだろう。

また、国立極地研究所の脇を流れる石神井川は、いまは河川改修が行われて両側がコンクリートの高い護岸になってしまっていて、昔を偲ぶのは両側に植えられた桜並木だけになってしまっている。じつは私は石神井川の上流で育ったので、小学校の友人たちと石神井川にはだしで入ってシジミをとった覚えがあるのだが、国立極地研究所では誰にも信じて貰えなかった。しかし、このご老人たちは、この辺でもシジミが捕れたことをはっきりと覚えていてくださった。今は昔である。

しかし、この辺は山手線の池袋から1駅(埼京線)か2駅(東武東上線)という地の利から、川が変わったばかりではなくて、マンションやアパートが増えて、「新住民」たちとの交流は、ほとんどなくなってしまった、との嘆きも聞かれた。

(写真は寺岡伸章・国立極地研究所事業部長撮影。撮影機材は Panasonic Digital DMC-FZ20。 レンズは36mm相当。F2.8, 1/13s。古い町内会らしく、壁には夥しい数の賞状や町内会の記念写真が飾ってある。いまの埼京線・環状七号線・東武東上線に囲まれた土地を一部はみ出すほどの広い土地が、江戸時代の 下板橋村であった。

この中には板橋宿も含まれ、「下板橋町」・「下板橋宿」という言い方も された。加賀金沢藩の広大な下屋敷の他、文化文政期の本によると、近藤信濃守・ 宮城三左衛門・秋山修理(いずれも旗本)の抱屋敷があったという。国立極地研究所のある加賀町という地名は、もちろん金澤藩に因んだものである。なお時代考証は郷土史家・蓑虫溜蔵氏の手をお借りした。)


2005年3月1日(火曜)。所長、初めての冬期訓練に参加する。

国立極地研究所の大事な行事に所内での通称「ふゆくん」がある。その年の秋、11月に南極に送り出す隊員の初顔合わせと訓練である。観測隊の訓練には例年3月に長野県・乗鞍高原で行われる冬期訓練(「ふゆくん」)と、6月に長野県・菅平で行われる夏期訓練がある。

この冬期訓練のころの乗鞍高原は標高1500mゆえ、歩けば膝より深くまで潜る雪に覆われていて、快晴でも日中の気温は零下4℃ほど。つまり、南極・昭和基地に近い条件で、いろいろな訓練を行った。

訓練は3泊4日。短くして内容を充実させるという白石和行隊長の指示で昨年までよりも1日短縮した。参加したのは、南極観測隊の候補者約50名のほか、講師として文部科学省登山研修所の講師 3人、越冬隊に参加したことがある大野義一朗医師(国立極地研究所医療懇談会。東葛病院)、昭和基地を最初に開くなど南極観測の大先輩である村山雅美氏(当時87歳。国立極地研究所顧問)、文部科学省・佐藤洋海洋地球課長(南極地域地震観測統合推進本部)、講師や指導員や事務局としての国立極地研究所の職員らであった。

隊員は23歳から50歳代後半まで、平均年齢は36歳。これは、最近数年の平均よりはほんの少し若い。

この日は幸い天気に恵まれたが、それでもかなり寒かった。また、膝よりも深い雪をかき分けて何キロも歩くのは、なかなかの労働であった。しかし、所長としては春の乗鞍は43年ぶりになるので、懐かしさも感じた春山であった。

今回は比較的天気に恵まれたが、どんなに天気が悪くても訓練が行われる。まず、コンパスと歩幅による距離計測で与えられたコースをたどる「ルート工作」訓練。写真のように、テントを張ったり、簡易テントを張って、そのなかでビバーク(緊急的な夜営)をしたり、灯油コンロによる炊事などのサバイバル訓練、負傷者の搬送訓練、歩くスキーの訓練などが行われた。

ツェルトでのビバークは気温が零下15℃に下がったこともあって、「寒くて寝られなかった」「雪国の八戸出身だが、死ぬかと思った」という参加者がいた一方で、安らかな寝息をたてて熟睡した強者もいるなど、明暗を分けた。しかし、例年の例だと、南極へ行ってからは、この乗鞍の訓練ほど寒い目に遭ったことのある隊員はまずいない。その意味では、めったにない非常事態に備えるためのサバイバルなのである。

このほか、訓練には座学(室内での講義)もある。南極観測の歴史や意義、南極条約、観測隊員の心得、南極での医療の現状とインフォームドコンセント、隊員の身分と労災などの補償、南極から留守家族への通信、などの講義や説明が行われた。

越冬した医師からは、昭和基地の医療レベルは各国の南極基地に比べて大変高いが、それでも重傷者や重病人を昭和基地から運び出すことは出来ず、国内なら助かる患者も助からないことがある、生命の維持を最優先するために国内の医療と違って後遺症が残ることもある、などの南極の医療の限界も紹介された。また、いままで各国の南極基地で死亡した隊員約80名の症例や事故例も紹介された。なお、このうち半数は航空機事故である。

以前にはここより高所の標高2200mにある位ヶ原高原までスキーで登って訓練を行っていたが、生まれて初めてスキーを履く隊員もいて、現地まで登れない隊員が続出するなど、難渋することが多かったので、近年はこの乗鞍高原(一ノ瀬牧場近辺)で行っている。また、ピッケルやアイゼンを使う訓練も取りやめている。昭和基地で実際に使う必要がある隊員は限られているという理由からである。

(写真は雪中での緊急野営訓練のために、テントや簡易テント(ツェルト)を雪上に張って、寝袋で一泊する訓練。風上側に雪のブロックで風よけを作り、その陰に簡易テント(ツェルト)を張って、その中で寝袋に入って寝る。写真中央のテントは食事や会合に使うためだ。

左端は越冬隊長である神山孝吉教授(雪氷学)、その右は総隊長(夏隊隊長)である白石和行教授。白石隊長は南極大陸の昔の歴史、つまり5億年よりも古い岩石を研究している地質学者だが、北海道大学山岳部のOBとしても名高い山男だ。神山越冬隊長は都立大泉高校出身で京大理学部卒。サル学に憧れて京大に入ったが、「数学や物理学ではない別の能力が必要なことが分かって」地球物理学に転身した。後方は頂上に雲をかぶる乗鞍岳=3026m。撮影機材は Panasonic Digital DMC-FZ20。 レンズは70mm相当。F4.6, 1/800s。)



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