島村英紀は水俣病についてこんな指摘をしていました。

島村英紀『「地球温暖化」ってなに?科学と政治の舞台裏』では、水俣病について、こう書いていました。
この本は2010年8月に出た本で、原稿は2010年の初夏までに書いたものです。

第7章:地球を汚し続けてきた人類 ●第1節 : 工業活動が公害を引きおこした。水俣病を隠蔽したチッソ

 一九世紀以降、人類の活動はそれまでにないほど活発になった。

 それは一八世紀末に英国ではじまって世界に広まった「産業革命」のためと、その後二〇世紀になって石油などの化石燃料が大量に使われるようになったためだ。前に述べたように二酸化炭素も産業革命以後に急増したと思われている。

 人類の活動は、以前よりははるかに範囲が広がってきている、人類は、森を大量に切り拓いて農業を始めたり、石炭や鉱石などの工業の原料をあちこちで掘り出して利用したり、不要なものを川や海に流したり、それ以前には考えられなかったほど多くの水を使うようになっている。

 それ以前は切り倒した木々は自然に回復したし、川や海は自然の浄化作用で元へ戻っていた。つまり人類の活動は地球にとっては影響がない小さなできごとだったのである。しかし工業や農業の規模が大きくなったことによって、自然の回復能力を超えてしまった。つまり人類の活動は地球全体に影響するようになっているのである。

 近年は水の汚れが川や海の生態系を変えてしまった。川や海が汚れたのは、人々が生活で使って廃水を流すほか、工場からの廃液や、畑で使われる農薬や肥料が川に流れこんだ影響も大きい。また、同じように空気も汚された。

 これらの影響のなかでも、工業活動はもっとも大規模に空気も川も海も汚した。「公害」である。

 日本には公害を防止するための「環境基本法」という法律がある。この法律は一九九三年に、それまでの「公害対策基本法」と「自然環境保全法」を合わせたものだ。そこで列挙されている七つの公害は「典型七公害」と呼ばれている。「大気汚染」「水質汚濁」「土壌汚染」「騒音」「振動」「悪臭」「地盤沈下」である。

 しかし近年はこの七公害のほか「光害」や「日照についての被害」なども含めて公害とすることが多い。最近ではさらにダイオキシン類やアスベストなどの有害物質も公害として問題になっている。

 ところで「公害」と「地球環境の悪化などの環境問題」はどういう関係なのだろう。厳密に線は引きにくいのだが「公害」は原因になる企業(原因企業)が特定されているもの、地球環境問題は、たとえば硫黄酸化物や窒素酸化物のように、特定の企業だけではなく人間活動一般が原因のもの、という違いがある。

 日本では一九五〇年代から始まって一九七〇年代まで続いた高度経済成長期には公害による大きな被害が続発した。このうち被害がとくに大きかったものを「四大公害病」といっている。それは「水俣病」「第二水俣病(新潟水俣病)」「四日市喘息」「イタイイタイ病」である。

 このうち「水俣病」は熊本県水俣にあったチッソ(当時は新日本窒素肥料)の水俣工場が原因企業である。この工場は一九五〇年代から大量に有機水銀を水俣湾に捨てて水質汚染や底質汚染を起こし、魚類の食物連鎖を通じて付近の多数の人々に水俣病を引き起こし、一万人を優に超える人々に健康被害を与えた。

 この工場では酢酸や塩化ビニールの原料となるアセトアルデヒドを作っていた。その生産の過程で出るメチル水銀(有機水銀)を処理しないまま、大量に捨てていたのである。

 水俣工場はチッソにとっての主力工場で、水俣はチッソが「城主」である典型的な企業城下町である。アセトアルデヒドの生産技術を確立したチッソの技術者は、水俣病が発生したときには水俣市長になっていた。水俣でチッソを批判したり、責任を追及したりすることはとても難しかったのである。

 魚を食べることによって体に入った有機水銀は、主に脳や神経を侵し、手足のしびれ、ふるえ、脱力、耳鳴り、視野の狭窄、難聴、言葉がはっきりしない、動きがぎこちなくなる、などの症状が次々に起きた。症状が進むと狂騒状態から意識不明になるのを繰り返したり、ついには死に至ることも多かった。また魚を食べた母親の身体の中で胎内に有機水銀が入って、魚を食べていないのに水俣病になった胎児性水俣病の赤ちゃんも出た。こうして健康被害はさらに広がっていった。

 この新しい病気が公式に確認されたのは一九五六年だった。この年にチッソ水俣工場付属病院の細川一院長が水俣保健所に原因不明の脳症状患者四名の発生を報告したのだった。

 原田正純、武内忠男ら地元の熊本大学医学部の研究者たちは原因究明に乗り出した。しかしチッソは必要な情報の提供を一切拒否し、研究者たちはすべてのデータを自分たちで集めなければならなかった。研究者たちは、はじめ疑われた伝染病、つぎに魚貝類を介して人体に侵入した重金属の中毒を疑って、マンガン、タリウム、セレン・・と可能性のある重金属を調べ上げていった。ようやく一九五八年になって、発生している病状が英国で報告されている有機水銀中毒例と完全に一致することがわかった。水俣の健康被害は有機水銀が原因だったことが突き止められたのである。

 ちなみにこの間チッソは大量の廃水を続けたばかりか、同じ一九五八年に工場の排水路を百間港から水俣川の川口に変更した。このため水銀汚染は不知火(しらぬい)海南部の全域に広がることになった。

 しかしこの熊本大学の研究者の研究結果が明らかになってからも、チッソも、またそれを支援する政府も原因を徹底的に否定しようとした。このほか日本化学工業協会も、また医学会の本流の研究者たちも同じ行動をとった。政府寄りの御用学者も真の原因のはぐらかすために動員された。有機水銀説を主張した熊本大学の研究者は正しいことを主張しているのに、国、企業、学会などから集中砲火を浴びたのであった。

 その後一九五九年十一月十二日に厚生省(いまの厚生労働省)の食品衛生調査会常任委員会・水俣食中毒特別部会が熊本大学の結果を認める答申を提出した。公的な委員会が初めて原因企業チッソの責任を認めたのである。

 ところが厚生省は、翌十三日に突然、同部会を解散してしまった。まったく異例のことだった。そしてこの部会の代わりに「水俣病研究連絡協議会」を設置した。この協議会は、有機水銀説ではない「アミン原因説」を唱える東京工業大学の清浦雷作教授など、有機水銀説を否定する御用学者のメンバーで構成されていた。露骨な政治の干渉であった。

 なお、この協議会はそれまでの委員会の所属官庁だった厚生省ではなく、経済企画庁、通商産業省、厚生省、水産庁の共同のものになった。つまり熊本大などが指摘した「チッソが流した有機水銀原因説」を国ぐるみで否定するための国策が前面に出てきたのである。

 じつはこのときまでに、チッソの附属病院でも実験によって有機水銀が原因であることが確かめられていた。だが、この結果もチッソによって伏せられてしまっていた。この実験は病院の細川院長らによるもので、患者が公式に確認された翌一九五七年からの五年間に約千匹のネコを使った動物実験などをチッソ工場技術部と共同で行って、ネコを発病させ、水俣病の発症を確かめたものだった。

 なお細川院長は被害が拡大する恐れから、チッソが排水路を百間港から水俣川の川口に変更することにも反対したが、こちらも社内で握りつぶされた。

 社内で原因を握りつぶしたうえに被害を拡大させながら、対外的にはチッソは「工場で使用しているのは無機水銀であり有機水銀と工場は無関係」と主張し続けた。

 さらに化学工業会も業界をあげて有機水銀説を攻撃した。アミン説のほか、日本工業協会大島竹治理事の爆薬説や東邦大の戸木田菊次教授による「腐った魚が原因」説など、有機水銀説をはぐらかすための荒唐無稽な学説がさまざま発表されて政府に利用された。

 なおアミン説は清浦教授の僅か五日間の現地調査だけで作り上げられたものだし、戸木田教授は一度も現地調査をしていない。しかしメディアも、それを通してしか事実を知ることができない一般人もこれらの説に振り回されてしまった。政府やチッソの目論見は成功したのである。

 このようにチッソや国が手段を問わず強硬に反対したのは、チッソの排水と水俣病との因果関係が明確に証明されない限りは責任を逃れられると考えていたからだ。つまり地元の人たちの被害よりは会社の利益や国策を優先したのだった。
 しかし、チッソの責任は、全く別のところから明らかになってしまった。


第7章:地球を汚し続けてきた人類 ●第2節 : 政府の悪あがきの果てに

 こうやって政府やチッソが有機水銀説の押さえ込みに躍起になっているときに、別の場所でも水俣病が発見された。一九六五年、新潟大学は、新潟県の阿賀野川流域で有機水銀中毒と見られる患者が発生していると発表した。これがのちに新潟水俣病あるいは第二水俣病と呼ばれるようになる病気だ。

 ここでの原因企業は昭和電工だった。昭和電工の鹿瀬工場(工場はのちに鹿瀬電工、その後新潟昭和の傘下に入る)でアセトアルデヒドを生産するときに、チッソと同じようにメチル水銀を未処理のまま阿賀野川に流していた。このため川で獲れた魚介類を食べていた下流の人々の体に有機水銀が蓄積されて、水俣とまったく同じ症状が出て水俣病が発病したのである。

 しかしこちらでも、原因企業である昭和電工はチッソと同じく、原因を隠そうとした。患者が起こした損害賠償請求訴訟でも、昭和電工側は「原因は新潟地震によって川に流出した農薬」と主張したのだ。一九六四年に発生した新潟地震で水銀系の農薬を保管していた新潟港の埠頭にある倉庫が浸水する被害を受け、そのとき農薬が流出したのではないかというのである。

 しかしこれは、あまりにずさんな主張であった。農薬として使用されていた水銀はほとんどがフェニル水銀であり、水銀中毒の原因物質となったメチル水銀ではない。また新潟県当局も被災した農薬の全量を調査していて、農薬は安全に処理されていたことを確認していた。

 そして昭和電工が主張していた農薬説は第一次訴訟までに被害を訴えていた患者が河口近くの下流域にしかいなかったことを根拠としていたが、その後、農薬流出場所よりもずっと上流の地域にも患者が発生していたことが明らかになったのだ。昭和電工にとっては、もう言い逃れはできない証拠だった。

 そのうえ昭和電工は都合の悪い資料をすべて破棄していた。この証拠隠しのために事件の全容解明は不可能になってしまった。歴史から学ぶすべは、目先のことしか考えない企業によって奪われてしまったのであった。

 その後一九六七年に厚生省特別研究班の「新潟水銀中毒事件特別研究報告書」が発表された。報告書は明快なものだった。「鹿瀬工場からのメチル水銀化合物が阿賀野川に流入し、川魚の体内に蓄積し(中略)、メチル水銀化合物が人体に蓄積し,中毒を起こして発病したものと診断する」という内容だった。証拠がこれほど明らかになってしまった以上、国としても否定しようがなくなってしまったのである。

 そして一九六七年、新潟水俣病患者ら一三名は昭和電工を相手取って慰謝料請求の訴訟を起こした。この新潟で患者が相手企業を訴えたことは国やチッソに衝撃を与えた。

 こうして翌一九六八年になって水俣病の原因をチッソの有機水銀を含む廃液であると政府がようやく認めた。熊本大学や厚生省の水俣食中毒特別部会からじつに一二年もたっていた。またチッソがアセトアルデヒドの生産をやめて有機水銀を流さなくなったのも同じ一九六八年だった。この遅れの間にも被害は拡大し続けていた。

 そしてこの後、一九六九年には、熊本水俣病患者とその家族のうち一一二人もチッソを被告として、熊本地方裁判所に損害賠償請求訴訟を起こした。熊本水俣病第一次訴訟である。

 一九七一年には新潟水俣病一次訴訟の判決があり、昭和電工は全面敗訴した。裁判所は初めて、公害による健康被害に対して企業の過失責任と損害賠償をはっきり認めたのである。

 ついで一九七三年には熊本水俣病第一次訴訟に対しても原告勝訴の判決が下った。「化学工場が廃水を放流する際には地域住民の生命や健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務がある」として、公害による健康被害の防止についての企業の責任を明確にした判決だった。

 しかし、ここまでの道は遠かった。国やチッソがメチル水銀原因説を押さえ込み、原因の確定を遅らせたせいで、その間も、次々に被害者が増えていってしまった。

 それだけではない。政府やチッソが水俣病の原因がメチル水銀だということを意識的に隠したために、住民の間では伝染病だ、たたりだ、と誤解され、結婚や就職で差別される人々も増えた。

 また難聴、言葉がはっきりしない、動きがぎこちなくなる、などの水俣病のなかでは軽い症状が出ても、外から見ると働かない、さぼっているという評価にもなった。これらはすべて政府とチッソの対応の遅れのせいだった。拡大しなくてもすんだはずのいろいろな被害が拡大していったのである。

 じつは原因がメチル水銀とわかったあとも、行政は積極的に広報しなかった。そのため、誤解はなかなか融けず、具合が悪くても差別を恐れて、人々は水俣病と言い出せない状況になってしまったのである。

 このように政府やチッソが被害を認め、被害を拡大するのを食い止めなかったことは、最終的には企業側にとっての補償額の増大という結果を生むことになった。

 もし政府が熊本での水俣病が発生した段階で原因の究明をきちんと行ってチッソ水俣工場と同じ生産を行っていた昭和電工鹿瀬工場を操業停止させていたら、新潟水俣病は避けられたはずなのだ。政府の企業擁護の姿勢が増やさなくてもすんだ患者を増やしたのである。もちろん、熊本での被害もずっと減ったはずだ。

 しかし現在でもまだ国は患者の救済に十分の力を尽くしてはいない。裁判でそれぞれの企業が負けた後も、熊本にも新潟にも国は「患者の認定基準」を非常に厳しく決めていて、その後も基準を変えようとはしていない。このため実質的には水俣病にかかっていながら、患者と認定されないために補償も受けられない人たちが、まだたくさん残っているのである。国による認定が厳しすぎるため救われない患者のために、いくつもの裁判が起こされていまでも係争中だ。

 一方、水俣病の患者として認定されて病気の代償として補償を受けることができた人々は、周囲から「補償金で家を建てた」などとねたまれることもあった。こういったねたみを嫌がって認定されなかった人たちもいるし、これから認定の申請をしたい人たちも「お金目的のニセ患者」だと中傷されたりした。差別されることを避けたいという理由で申し出なかった人たちもいる。こうしてチッソと国は、肉体的な被害を多くの人々に与えただけではなく、仲が良かった地域のきずなを壊し、人々の間に埋めがたい深い溝を生み出してしまったのである。

 ところで二〇〇九年に当時の与野党(自由民主党と民主党)で政治的な解決案が作られた。手足のしびれなどの症状がありながら水俣病と認定されない被害者を救済するための特別措置法(未認定患者救済の特措法)である。

 しかしこれは決して十分な救済にはなっていない。この特措法で救済の対象になる患者が以前よりも増えたとはいえ、胎児性水俣病患者に見られる大脳皮質障害による知的障害など多くの患者は救済対象から外されてしまった。救済対象から外される患者は一万人近くにもなると言われている。しかもこの解決案では、現皇太子妃の祖父が社長だったチッソの分社化が認められる。つまりチッソを免罪して幕引きを図ろうとする意図もあると指摘されている。

 水俣病が公式に確認されてから四〇年になる一九九六年、水俣湾埋立地に隣接する水俣市明神地区に「水俣病メモリアル」が作られた。またその十年後の二〇〇六年に水俣湾親水護岸に「水俣病慰霊の碑」も建てられた。

 碑には犠牲者の名簿が収められている。しかし名簿にある犠牲者の数は、行政によって認定された死亡患者のたった二割にすぎない。しかも名簿は一般に公開されない。これは水俣病患者や遺族が、いまも続く水俣病水俣病患者に対する差別を恐れた結果なのである。

 このほか政府の認定基準が厳しすぎたために水俣病「未認定」で死亡した患者は名簿にその名を記したくても、許されていない。

 最初の発病から半世紀以上が経過した二〇〇八年八月になって、新たに水俣病被害者の連絡会議が結成されることになった。「全面救済」が目標である。国などに損害賠償を求め、新潟、大阪、熊本の三地裁で係争中の水俣病被害者三団体とその弁護団が「ノーモア・ミナマタ被害者・弁護団全国連絡会議」を結成したものだ。

 連絡会議では全国各地で検診を実施して被害者の掘り起こしを進め、裁判への参加を促すとともに、早期解決のため国などに和解協議に応じるよう訴えていく方針を申し合わせた。

 水俣病は、まだ終わっていないのである。


第7章:地球を汚し続けてきた人類 ●第4節 : その昔の大気汚染と水質汚染、そしていま

 鉱工業が原因で発生する公害を鉱害(こうがい)ということがある。イタイイタイ病もそのひとつだが、それ以外にも日本各地で多数、起きてきている。

 たとえば「足尾鉱毒事件」(足尾銅山鉱毒事件とも言われる)は、明治時代後期に発生したもので、日本の公害の原点とも言われている。

 これは栃木県上都賀郡足尾町(現在の日光市足尾地区)にあった銅山が川に捨てた廃液が下流の群馬・栃木両県を流れる渡良瀬川に流れこみ、広くその周辺で起こした公害だ。原因企業は古河鉱業(現在の古河機械金属)である。また廃水だけではなく、精製時に発生する二酸化硫黄などの有毒な鉱毒ガスも多大な被害を引き起こした。

 足尾銅山は年間生産量数千トンにも達する、銅山としては日本最大、東アジアでも随一の銅鉱山であった。銅は電線などに使われ、重要な戦略物資でもある。いまでこそ日本は銅の輸入国だが、一時は銅は日本の主要輸出品のひとつだった。二〇世紀のはじめには全国の産出量の四分の一をも占めていたのが足尾銅山だった。

 川に流れた鉱毒のために、渡良瀬川から取水する田圃で稲が枯れ枯れる被害が続出した。鮎も大量死した。被害の範囲は渡良瀬川流域だけではなく、江戸川を経由して千葉県の行徳方面、そして利根川を経由して茨城県の霞ヶ浦方面にまで拡がっていた。

 そのほか、鉱山が出す廃ガスやその結果としての酸性雨によって近辺の山は禿山となり、広範囲の森が失われて土壌が流出した。崩れた土砂は渡良瀬川に流されて下流で堆積した。このため下流域では河床が高くなって、たびたび洪水に襲われることになった。

 このように広範囲で農作物に被害が及ぶに至って、怒った農民らが数度にわたって蜂起した。この農民運動は農民や支援者の共感を得て拡大し、大きな社会的な事件になっていった。

 農民運動の中心となって活躍したのは、この鉱毒事件に命を懸けた衆議院議員の田中正造だった。田中は一八九一年から何度も国会でこの被害について訴えたがが、政府はなんの鉱毒対策もとらなかった。むしろ言論封殺を図ったのである。企業を守り「国策」を推進するこの国のやり方は、半世紀以上あとの水俣での水銀中毒まで一貫している。

 しかし一八九七年に農民たちが大挙して上京し請願を行うなど、世論がさらに高まってくると、政府はようやく足尾銅山鉱毒調査委員会を設置した。

 こうして政府は数度の鉱毒予防令を出して対策を指示した。廃水の濾過池や沈殿池と堆積場の設置、煙突への脱硫装置の設置といった対策だった。しかし対策としては決して十分なものではなかった。鉱山側はこれらの対策をとったが、沈殿池が建設の翌年に決壊したこともあって、その後も公害は続くことになった。

 最終的に公害の排出が止まったのは銅が掘りつくされてしまって鉱山が閉山になったときだった。一九七三年のことである。なお、その後も精錬所の操業だけは続いたが、それも一九八〇年代に終わった。足尾鉱毒事件は、原因企業が操業をやめるまで、止めることができなかったのであった。

 鉱山ではなく、鉱山とは別の場所に作られた精錬所が公害を起こしたこともある。「安中(あんなか)公害訴訟」で知られる公害は、一九三七年から群馬県安中市周辺で起きたもので、原因企業は日本亜鉛製錬(のちの東邦亜鉛)であった。
 原因物質はイタイイタイ病と同じカドミウムで、田畑で稲や桑が立ち枯れ、地域の主力産業だったカイコが生育不良になり、魚の大量死も起きた。

 日本亜鉛製錬は安中の工場の操業開始前には、「工場は鉄兜に使う高度鋼という特殊な合金を製造する」と住民に説明していた。しかし一九三七年に操業を始めた翌日に「高度鋼」の看板を取り外して「亜鉛」につけかえた。地元民を騙したのである。

 そして操業直後から公害が始まった。被害を受けて翌年ごろから公害反対運動が立ち上がり、一九四一年に工場は戦前としては唯一の補償覚書を住民と取り交わした。覚書は被害で耕作できなくなった農民の土地を工場が引き取って、その場所を防毒林にするという約束であった。

 だが住民はまたも騙された。工場側は農民から引き取った土地に植林をしなかったばかりか、その土地に工場をさらに拡張したのである。

 戦後の一九四九年、工場はさらに拡張を図った。農民らは群馬県知事に拡張を許可しないよう嘆願したが、企業側に立つ県は取り上げずに、拡張を推進した。

 ここでピエロまで登場する。翌年、被害地区農民大会が開かれたとき、地元選出の国会議員だった中曽根康弘(のちの総理大臣)は「昭和の田中正造になる」と大見得を切った。しかし農民のための活動はほとんど行わず、のちに公害反対運動が社会党や共産党の支援を受ける時代になると、いつのまにか沈黙してしまった。後年、風見鶏と言われた一端はすでに現れていたのである。

 また同じ一九四九年には、農民らの要求によって東京大学が水質検査と土壌調査を行ったが、東京大学側は結果の公表を拒否した。大学も国策を推進する一員だったのである。こうして工場は拡張され、公害は一層ひどくなった。

 しかしその後に工場が無断で工場増設をしていたことが明らかになった。このため一九六九年に安中公害弁護団の弁護士と住民が工場の増設認可取り消しを求めて提訴した。そして同年、増設部分の操業停止命令が出た。住民はようやく勝ったのである。

 このため安中製錬所の生産量は三分の一に減少した。さらに翌一九七〇年には違法増設の鉱山保安法違反で、前橋地裁で東邦亜鉛と幹部二名に有罪の判決が下った。この工場側の”敵失”がなければ、公害はもっと広がっていたかも知れない。

 この安中での企業の姿勢や、政府や経済界が企業に行った援護策は、やはりほかの公害と同じだった。企業は拡大の志向と利潤を追求し続け、それを政府が国策として推進し、経済界が後押しをする、という同じパターンがここでも繰り返された。

 このほか、一九七〇年代までの日本の高度成長期には日本各地で「精錬に伴う亜硫酸ガスの発生」や「ズリ山(ボタ山)からの重金属の流出」や「強酸性や毒性のある廃水の流出」などの公害が頻発した。企業活動は周辺住民に被害を与えただけではない。廃水や廃ガスは最終的には地球規模で広がっていき、地球を汚し続けてきたのである。

 しかし、さすがに健康被害や農作物の被害が目立ってくるにつれてこれらの公害は世論の反発を買い、それなりの防止策が採られるようになった。

 これは、長い目で見ると企業にとっても、そしてもちろん日本の将来にとっても「公害を出さずに操業する」ほうが有利なこと、公害を出すことが企業にとって結局高くつくことが理解されたからだ。こうして一時のような目だった公害は減ってきている。

 その一方で、途上国での公害はいまだに深刻である。たとえば一九七〇年代に中国の吉林省から黒竜江省にかけての松花江流域で、メチル水銀と無機水銀による土壌汚染が明らかになった。これは水俣のチッソや新潟の昭和電工と同じように吉林省吉林市にある化学工場からの廃水が原因であった。

 また一九九〇年代になってブラジルのアマゾン川流域でも水銀による住民の健康被害が確認された。これは流域の金の採鉱に利用した金属水銀がアマゾン川に流れ込んだものだった。

 途上国で公害が増えたのは、その国の産業が原因企業であったものだけではなく、日本で操業できなくなった企業が途上国に工場を移す動きが活発になったせいもある。「公害の輸出」である。これは日本には限らない、先進各国の企業が、環境規制が緩い途上国で各種の公害を引き起こしているのである。

 前に述べたように「公害」には特定の原因企業がある。一般に企業というものは、なるべく安いコストで、最大の利潤をあげるというのが至上命令になっている。公害の規制が緩いということと労働コストが安いことは両方とも企業の利益にとって魅力的なので、「公害の輸出」が続くのである。


第8章:地球との共生 ●第5節 : 地球環境問題の歴史「地球寒冷化」から「環境汚染」へ

 地球環境問題の歴史を振り返ってみよう。

 宮沢賢治の『グスコーブドリの伝記』には、冷害による農業の不作を止めるために火山噴火を起こして二酸化炭素を増やそうとする場面がある。主人公グスコーブドリが身を犠牲にして火山を噴火させ、冷害を止めるという物語だ。

 グスコーブドリはイーハトーブの森に木こりの子どもとして生まれ、冷害のせいで一家が離散したほか、火山噴火や干ばつなど数々の苦難を経験して育ち、その後イーハトーブ火山局の技師となった。

 二酸化炭素が地球を温暖化するということは一九世紀以前から知られていた。しかし、一部の科学者によって警告されてはいたものの、まだ地球の将来を左右する”悪者”としてのイメージは一般的にはなかったのであった。

 この童話が発表されたのは一九三二年、雑誌『児童文学』だった。宮澤賢治の生前に発表された童話は少ないが、これはそのひとつだ。

 その後、前に述べたように一九四〇年代から一九七〇年代にかけて地球の気温は低下した。この頃までは地球は寒冷化するというのが気象や気候関係の学会の定説であった。地球の気温上昇についての研究や議論は下火になっていたのである。

 「氷河期が来る」といった本もいくつか出されていた。数千年以内に次の氷河期が到来するという学説も出された。地球温暖化が合い言葉のようになっている昨今からは考えられない時代であった。

 一九六〇年代には地球環境問題で一番大きな問題は環境汚染と公害であった。日本では前に述べたように水俣病などの公害病が問題になっていた。

 一方、米国では一冊の本が環境政策を変えた。それほどの大きな影響を与えたのは『沈黙の春』であった。環境汚染の問題を告発したこの本はレイチェル・カーソンによって書かれ、一九六二年に発売になった。カーソンは女性生物学者で、米国内務省魚類野生生物局の水産生物学者だった。

 本の題名はDDTを始めとする農薬などの化学物質によって鳥や小動物たちが死滅して鳥が鳴かなくなった春、という意味である。DDTは殺虫剤で、非常に安価に大量生産できるうえ、少量で効果があるといわれた薬品だ。殺虫効果を発見した科学者は一九四八年にノーベル生理学・医学賞を受賞している。

 この本は産業界から激しい反発を受けたが、反響は大きく、当時の米国政府が推進していた化学薬品を使った有害生物絶滅計画は中止になり、DDTの全面禁止など、その後の米国の環境行政に大きな影響を与えた。

 しかしこの本には現代の科学からは間違っている記述もある。たとえば前に述べたように爬虫類であるワニは水温の上昇のために雄雌の比が変わってしまう。温暖化の影響でこのようになるのだが、カーソンは化学薬品の影響だとしていた。

 またDDTには強い発がん性があるとされ、それもDDTの禁止につながった。しかしその後の研究では、可能性はあるもののDDTに明確な発がん性があることは認められていない。

 DDTの禁止は良いことばかりではなかった。たとえばスリランカでは一九四八年から一九六二年まではDDTを定期的に散布していて、それまで年間二五〇万人もいたマラリア患者をたった三一人にまで激減させていた。(一七件という記述もある)。しかしDDTを使わなくなってからは僅か五年足らずで年間二五〇万人の患者を出すほどに逆戻りしてしまったのである。

 つまり貧しい途上国では安価で有効な殺虫剤が使えなくなってしまった一方、高価な代替品は使えない事情があるのだ。

 世界保健機関(WHO)によれば二〇〇六年には二億五〇〇〇万人がマラリアに感染して一〇〇万人が死亡したという。なお二〇〇八年には世界の一〇九ヶ国でマラリアが発生している。このうち半数近い四五ヶ国がアフリカ諸国だ。

 世界でもっとも多くの人が死ぬ三大感染症はHIV(エイズ)と結核とマラリアだ。HIVは年間二〇〇万人、結核は一七〇万人が死んでいる。この三つの病気だけで年に五〇〇万もの命が奪われているのである。

 このため、WHOは途上国でマラリア予防のためにDDTを限定的に使用することを二〇〇六年に認めることになった。こうしてDDTは現在、中国とインドで作られ、途上国に輸出されている。

 これは、もちろん最善の策ではない。ここにはむつかしい問題がある。貧しい途上国で、より多くの人命を救うためには安価だが害のあるDDTを使うしかないのか、ということである。先進国と途上国の格差は二酸化炭素の排出量やその規制だけではない。

 ところでDDTに代わって使われるようになったパラチオンなどの農薬は、食べても死なないDDTよりもはるかに毒性が強い。またそれによる死者や被害者はDDTよりもずっと多いという指摘もある。DDTだけを排除すればすむわけではないのである。

【2013年1月追記】上記のようにチッソべったりの清浦雷作教授は東工大教授だったが、他方、新潟水俣病の原因者であった昭和電工鹿瀬(かのせ)工場の無罪を、塩水楔説ででっちあげた北川徹三教授も、横浜国大に安全工学科を作った”権威”だった。


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