島村英紀『日本人が知りたい地震の疑問66----地震が多い日本だからこそ、知識の備えも忘れずに!』サイエンス・アイ新書に掲載した写真のカラー版(島村英紀撮影)と、追加の写真


23頁:1986年撮影の根尾谷断層。道や雑草のために、ほとんど消えてしまっていた。

【本文22頁から】
 日本で起きた最大の内陸地震は濃尾地震(のうびじしん、1891年)でした。しかし、これでも四川大地震よりはずっと小さな地震でした。

 この濃尾地震で14万戸もの家が全壊、7000人あまりが犠牲になりました。また、1万カ所を超える山崩れが起きるなど、岐阜県と愛知県を中心に大きな被害を生みました。

 この濃尾地震では岐阜県の根尾谷(ねおだに)にある水鳥(みどり)村(いまの岐阜県本巣市根尾水鳥)で、畑を断ち切って高さ6メートルにおよぶ地震断層の食い違いが地表に顔を出しました。水平方向にも2メートルも食い違っていました。

 なにもなかったところにこれほど目立つ地震断層が現れたのは、世界的にも珍しいことでした。

 この地震断層は全体では85キロメートルほど延びていたと考えられています。しかし、この長さは四川大地震の地震断層の280キロメートルよりもずっと短いので、日本の内陸で起きた最大の地震でも、四川大地震よりは、かなり小さかったことになります。

ここには1992年に「地震断層観察館」が建てられて、天然記念物になったこの地震断層を保存しています。しかし、じつはこの断層はなくなってしまうところだったのです。

 それは1970年代の半ばに、この断層を横切って当時の国鉄(いまのJR)が線路を作りはじめたときでした。樽見線の延長工事でした。

 断層を横切って土盛りがはじまってから事態を知ってびっくりしたのは当時の岐阜大学教授で地震学者の村松郁栄さんでした。


(撮影機材はOlympus OM4Ti。レンズはTamron Zoom 28-70mm f3.5-3.5、フィルムはコダクロームKR。 1986年10月に撮影)


37頁:1977年イラン地震の被害

【本文16頁から】
 でも、中国ではちがいました。多くの建物は、日干し煉瓦を積み上げて作ったものでしたし、コンクリート造りの学校なども、日本のような鉄筋コンクリート造りではありませんでした。

 四川大地震で倒壊してしまった学校を見ると、鉄筋がほとんど入っていなかったり、壁や床が建物全体を支える構造になっていなかったことがわかります。

 日干し煉瓦というのは、普通の煉瓦のように粘土を火で焼いて固めたものではなく、泥を水で練って天日に干しただけの、とても弱い建築材料なのです。

 この日干し煉瓦は、中国にかぎらず、中近東一帯に使われています。材料は泥ですから手に入れやすく、とても安価な建築材料だからです。世界のどの国でも、庶民の家は、このように安くて入手しやすい材料で作られているのです。

 しかし、いったん地震に遭うと、この日干し煉瓦で作った家は、土に帰ってしまうのです。

【本文35頁から】
 日本の陸地の面積は地球表面のわずか0.28%、まわりの海を入れても0.6% しかないことを考えれば、なんとも不公平ではありませんか。

 でも、日本よりももっと不幸な地震国もあるのです。たとえばイランでは、世界で記録に残っているもっとも古い地震が紀元前3000年にイランで起きて以来、現在のイラン領土の中だけで、1万人以上の犠牲者を生んだ地震だけでも35回も起きたのです。

 イランでいままでに起きた地震の犠牲者の総数は200万人を越えています。日本では地震による犠牲者総数は80万人ほどですから、イランの方が、ずっと多いことになります。

 しかもイランの不幸なことは、近年の被害が多いことです。この半世紀の間だけでも1978年の地震で25000人、1990年の地震で50000人が亡くなるなど犠牲者が1万人を越える地震に4回も襲われたのです。


(写真は、ともに撮影機材はOlympus OM2。レンズはZuiko 28mm f3.5。フィルムはコダクロームKR ISO (ASA) 64。 1977年4月、イラン南部の内陸地帯で撮る)。 なお、3枚目の写真は本には載せていません。)


91頁:千島列島の国後島の爺爺岳。山腹の下部に見える黒っぽい部分は1973年の噴火で流れ出た溶岩(撮影:吉本充宏)。

【本文90頁から】
 地震と火山は両方とも地下で起きる現象ですから、なにかがつながっているのにちがいないのですが、残念ながら現在の科学では、地震と火山がどうつながっているかはわかりません。

 過去には、大地震と大噴火が連動した例が日本にかぎらず、世界でもいくつかあります。

 近年では北方四島の国後(くなしり)島にある爺爺岳(ちゃちゃだけ。1822メートル)の例があります。

 この火山は、19世紀のはじめ以降200年近くも噴火しておらず、噴火はしていない火山でもよく見られる噴気(水蒸気の発生)さえも見えないほどでした。

 しかし1973年に噴火して以来活動が活発になり、1978年7月にも噴火しました。写真に見える中腹から下の黒い部分は、1973 年の噴火のときに流れ出た溶岩です。

 そして、その5ヶ月後の1978年12月には、すぐ南東側の海(北海道の東にある国後水道)でモーメント・マグニチュードが7.8という大きな地震が起きたのです。阪神淡路大震災をおこした兵庫県南部地震(1995年)よりも30倍もエネルギーが大きな地震でした。

 この地震は震源が100キロもの深いところでした。千島海溝から潜り込んでいった太平洋プレートが押し合っているうちに太平洋プレートの一部が裂けてしまって起きた地震だと思われています。

 震源は爺爺岳とはある程度離れているのですが、千島海溝から潜り込んでいった太平洋プレートが起こした地震と、そのプレートの潜り込みで生まれたマグマが上がってきた火山ということですから、因果関係はわからないものの、なにかの関連があったと考えられています。

 また、恐れられている東海地震の「先祖」のひとつである宝永(ほうえい)地震(1707年)は日本では史上最大の地震でしたが、そのときも火山が噴火したのです。


92頁:噴火する浅間山上空から見た富士山(2004年撮影)

【本文91頁から】

 この宝永地震の一ヶ月半後に富士山が大噴火をしました。この噴火で富士山の南側の山腹に出っ張っている宝永山を作りました。東京から見る富士山が左右対称ではなく左側が醜く出っ張っているのは、この噴火でできた宝永山なのです。

 じつは宝永の地震のもう一つ前の先祖の地震は慶長(けいちょう)地震(1605年)でしたが、そのときにも火山が噴火しました。この地震では被害が房総半島から伊豆諸島、南海道におよびました。そして、その9カ月後には八丈島が噴火したのです。

 これらの「祖先」をもつ、こんど起きる東海地震、あるいは連動型の大地震のときに、どこかの火山が噴火するかどうか、残念ながらいまの科学ではわかりません。

 でも、たとえば富士山や浅間山のすぐまわりにも、びっしりリゾート地が拡がってきてしまっているのは、地球物理学者としては心配なのです。

 地震も火山の噴火も、地下にだんだんエネルギーがたまっていって、いまにも起きそうになっているときには、ちょっとした刺激が引き金を引いてしまうことは、十分にあり得ることなのです。地震が火山噴火の引き金を引いたり、あるいは噴火が地震の引き金を引くことがあっても不思議ではありません。

 宮沢賢治の「グスコーブドリの伝記」にあるように、人工的に噴火を起こすことも、あるいは可能かもしれません。

(2004年10月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは165mm相当、F2.8, 1/1000s。

島村英紀が撮った「定期旅客機から見た下界」から
)。

【2008年8月に追記】浅間山は2008年8月、ここにある写真の時以来、4年ぶりの噴火をした。幸い、小噴火にとどまっている。


154頁:岩手県田老町の防潮堤

【本文152頁から】
 ですから、津波の高さが増幅されて、大きな被害を生むのは湾の形のせいであることが多いのです。三陸地方はリアス式の海岸ですから、入ってきた津波が大きくなりやすい湾が多く、昔から津波の被害がくり返されてきました。

 これは、どの津波のときも同じですから、こういった湾の近くに住む人は、気をつけなければいけません。

【本文153頁から】

 岩手県下閉伊(しもへい)郡田老(たろう)町(いまの宮古(みやこ)市田老町)では、過去数十回の津波に襲われて、大被害を何度もこうむっていました。

 たとえば三陸沖地震(1933年)では、田老村の人口の42%に当たる763人が亡くなり、家屋の98%に当たる358戸もが全壊してしまいました。津波に襲われた田老村は、まるで更地のような姿になってしまったのです。

 しかし1950年代に第一期工事、そして1982年までに写真のような高さ10メートル、総延長2,433メートルの防潮堤(写真=島村英紀撮影)が作られてからは、大きな被害が出なくなったのです。

 とくに、1960年に起きたチリ地震(x頁)が起こした津波で、日本全体では140名の犠牲者を出すなど大きな被害を生んだのに、ここでは防潮堤のおかげで被害がごく少なかったので、この防潮堤は有名になりました。

(撮影機材はOlympus OM1。レンズはZuiko 28mm f3.5、フィルムはコダクロームKR。 1980年5月撮影)


169頁:伊豆半島・丹那断層でのトレンチ法調査。南北に8kmほど伸びるこの活断層は過去8000年間に9回の地震を起こしたことが知られている。北伊豆地震(1930年、マグニチュード7.3)もその地震のひとつだ。

【本文16頁から】
 地面を掘り下げて調べる方法をトレンチ法といいます。土木機械を使い、手間もお金もかかる手法です。トレンチとは軍隊が掘る細長い塹壕(ざんごう)のことで、活断層に沿って細長い矩形の穴を掘り下げるので、こういわれます。

 活断層を掘り下げてみると、地震で食い違った地層のずれが見つかることがあります。そしてそのそれぞれの地層がどのくらい古いものかを調べれば、過去の地震の繰り返しの歴史がわかることがあるのです。

 こうして活断層調査が行われるのです。しかし、この三段階目はもちろん、二段階目でも結構なお金がかかるので、いわゆる活断層地図では、第一段階だけで見つけた活断層が載っていることが多いのです。

 けれども、三段階までくわしく調べてみると、かつては活断層地形にちがいないと思われていた富山市内を走っている呉羽山(くれはやま)断層のように、じつは活断層ではなく、ほんものの活断層は2キロメートルも別のところにあったこともあります。つまり、活断層地図はそれほどあてになるものではないのです。

なお、写真の右端に写っているのは宇津徳治氏(本文12, 27, 65, 82頁。当時名古屋大学理学部地球科学教室)である。

(撮影機材はOlympus OM1。レンズはZuiko 28mm f3.5、フィルムはコダクロームKR。1983年12月に撮影)


182頁:ポルトガル領アゾレス諸島の地熱発電所

【本文16頁から】
 それよりも、地震が起きるところにはかならずある地熱を利用するほうがよほど得策かもしれません。地熱は、火山のエネルギー源であると同時に、地震を起こすエネルギー源でもあります。

 大西洋の北部にあるアイスランドは、日本と同じように地震も起き、火山も噴火する島です。

 アイスランドでは、各家庭に供給されている温水は無料です。また電気代もとても安いのです。これは地熱で多くの電気を作っているからです。また地下から汲み上げる温水を都市まで何十キロメートルも太いパイプラインで運んでいます。

 地下から大量に吹き出てくる蒸気で巨大な発電機をまわすことによって電気を作るのが地熱発電です。

 日本では輸入した石油やガスを燃すことによって蒸気を作り、その蒸気で発電器をまわしています。それとちがってアイスランドでは自然にわき出てくる蒸気を使っているわけですから、二酸化炭素も出さないうえ、ずっと安く電気が作られるのはあたりまえなのです。また大西洋の中部にあるアゾレス諸島でも地熱発電が行われています。

 じつは日本はほかの大部分の国にくらべれば地熱が多い国なのです。

 しかし地熱発電はほとんど行われていません。これは地熱地帯の多くが国立公園の中にあって発電所などの施設を作ることが禁止されているせいです。

右の写真(本には載せていない)の地熱発電所は1982年から稼働している北海道・渡島(おしま)半島にある森地熱発電所だが、出力は50MW。これは北海道にある他の火力発電所にくらべると、1/14〜1/70という小さなものでしかない

(撮影機材はOlympus OM4Ti。レンズはTokina 80-200mm f4.0、フィルムはコダクロームKR。 1992年夏、アゾレス諸島サンミゲル島ポンタデルガタで撮影。右上の写真は1995年夏に撮影。影機材はOlympus OM4Ti。レンズはTamron Zoom 28-70mm f3.5-4.5、フィルムはコダクロームKR)


 

197頁:「Q65.高層ビルでは上のほうがゆれがひどいと聞いたことがありますが本当ですか?」の追加の図

【本文194頁から】
 まずはエレベーターの例について紹介しておきましょう。新潟県中越地震(2004年、マグニチュード6.8)のとき、東京の都心にある54階建ての高層ビルでは、約70基あるエレベーターのうち、6基が機器が損傷したりワイヤが絡まったりして停止し、うち2基で乗客が一時閉じこめられました。
 調べたら、エレベーターのひとつで、8本ある主ワイヤーの1本が切れていました。これは直径1センチもある太い鋼鉄製のワイヤーでした。

この本を書いた後で、村松郁栄さん(本文24頁)から教えていただいたのですが、氏は、すでに1984年に、ここにある二つの図のような、見事な記録を地震計で観測していた。

これらは、ともに1984年の長野県西部地震(マグニチュード6.8)のときに、東京、新宿にあった超高層ビルの最上階と地階に設置してあった地震計の記録である。

図に見られるように、最上階(実線)と地階(点線)では、揺れの振幅が驚くほどちがう。最上階では、地階の20倍以上も揺れているのである。

この地震のときの東京の震度は3だった。この程度では、なんの被害もないのが普通で、交通機関も普通に走っていたが、新宿の超高層ビル群の多くで、エレベーターの「管制ケーブル」というものが切れてしまった。また、震度3という小さい震度ゆえ、地震のときにエレベーターを緊急停止するための震度計(地震計)も働かなかった。二重に、まずいことが起きていたのであった。

図の中の数字は、震幅をmmで表している。つまり、地下ではせいぜい2cmしか揺れなかったのに、最上階では15cmを超える揺れが記録された。

二枚の図は、上が初動から41秒後から61秒後まで、下が72秒後から88秒後までの、同じ地震計で記録した地震記象である、つまり、地震後2分経っても、震幅は全然おさまらなかったのであった。(なお、村松氏は”紳士協定”ゆえ、地震計を設置したこのビルの名前を明かしていない)。

じつは、この前、秋田沖で起きた日本海中部地震(1983年、マグニチュード7.7)のときにも、新宿の超高層ビルのエレベーターの管制ケーブルが揺れて、カウンターウェイトと衝突して切断された。このときは、東京の震度は0、つまり身体には感じないほどの小さな揺れだった。

【これらの村松氏のデータは氏の退官記念論文集『大自然の力』1988年発行(全271頁)による。なお、この本は約300部作成された】


この本の目次と前書きと後書き
出版後に気がついた訂正(ミスプリント)


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