岩波『科学』2003年9月号に掲載

地震予知計画の(意図せざる結果としての)欺瞞

(雑誌での原題は「大震法の制定過程とその問題点)

イントロ

 大規模地震対策特別措置法が作られてから四半世紀がたった。ここでは、地震学という一つの科学が、法律を作るのをどのように後押しし、どのように法律の恩恵と庇護を受け、そしていまはどうなったか、ということを、科学の面から検証してみよう。


1:法案の元になった科学的な根拠

 1978年に成立した大規模地震対策特別措置法(以下大震法と略す)は、世界でも類を見ない、地震を対象とする法律であった。この法律は地震予知が可能なことを前提にして、被害を少なくするために、社会や人々の生活を規制する法律である。

 この法律にもとづいて警戒宣言が発せられたときには、ほとんど戒厳令のような、さまざまな規制が行われることになっている。たとえば新幹線は停止し、高速道路は閉鎖される。また、銀行や郵便局も閉鎖される。スーパーやデパートも閉店するし、病院の外来も閉鎖されることになっている。また学校やオフィスは、それぞれ休校や退社させられる。地域住民は避難させられ、自衛隊も出動する。

 もちろん、法律の目的には、社会や人々の生活への地震の被害を最小限にすることをうたっている。しかし、ほとんど戒厳令なみの、これらの規制は、それまでの戦後の日本にはなかったものだ。つまり、法律による市民生活や私権の自由の制限をはじめて盛り込んだ法律でもあった。2003年のいまでこそ、市民生活や私権の自由を強く制限する有事立法が制定されたわけだが、四半世紀も前の、この種の制限は大震法が初めてである。

 大震法は、わずか2ヶ月のスピード審議で成立した。当時の福田赳夫総理大臣の強い意向があったといわれているが、相手が災害というだけに、野党も与党も、表だって反対する強い意見はなかった。「地震予知が可能ならば」、そのために備えるのは当然で、一時的な自由や私権の制限はやむを得ない、というのが、当時の国会、ジャーナリズム、そして多くの国民の意見であった。いつの世でもそうだが、国民の意見はジャーナリズムに強く影響される。この大震法の成立でも、ジャーナリズムは、大きな役割を果たした。

 しかし、これだけ強い制限や制約を国民に課する法律の元になった地震予知の科学的な根拠は、意外なことに、それほど強いものではなかった。当時の学問のレベルからいえば、地震予知は見込みのありそうな技術、という程度にすぎなかった。つまり「地震予知が可能ならば」を前提にするには、科学的な根拠が薄弱だったというべきである。

 私はこの法律の成立の周辺にいた地震学者として、私の先生たちに当たる当時の地震学者はなにを考えていたのか、なにをしたかったのかを紹介したい。研究予算がなければ科学は進められない。その予算を飛躍的に増やすための仕掛けとして、大震法の成立に手を貸したのが科学者だったからである。いや、それ以前、約十年来の成り行きから言って、手を貸さざるを得ない立場になっていたのが科学者だった、というべきかもしれない。


2:ブループリント

 日本の地震予知計画は1965年に発足した。それ以後、ほぼ5年ごとに、次々に5カ年計画が策定されて継続してきている。今年はすでに38年目になる。そして、5カ年毎の計画が作られるたびに、予算が増やされてきた。

 この地震予知計画が作られる前段階として、地震学者の有志が、地震予知についての提言を作ったことがある。当時の有力な地震学者数人が提唱し、90人の地震学者が参加したその提言は1962年に発表され、「ブループリント」と言われている。

 その提言は、地震予知が出来るものかどうか、観測を展開して検証してみようとするものであった。それによれば、当時の金で百億円かかる観測を展開し、10年間の観測をすれば、地震予知が実用化するかどうかを十分の信頼性を持って答えられるだろう、とある。つまり、地震予知が出来るとも出来ないとも言っていないのだが、それを検証するためには、多額の設備費用がかかる観測を展開して、しかも10年という長期の研究が必要である、としている。

 1960年代当時には、世界のどの国でも、地震予知に成功したという確実な報告はなかった。しかし、大地震の前には、前兆としての地殻変動や小さな地震の活動の変化や、地下水の変化などがあったという報告も散見されていた。このブループリントでは、これらの前兆は本当にあるかも知れず、それらの前兆を捉えることによって地震予知が出来るかもしれない、だとしたら、科学として検証してみようという姿勢であった。

 いうまでもなく、地震の災害は日本の自然災害の中でも、もっとも悲惨なものである。80年前の1923年に起きた関東大震災では、死者行方不明15万人、流言飛語による在日外国人への迫害など、「人災」も含めて忘れがたい災害になった。その地震の被害を少なくするために、地震予知というものがもし可能ならば追求してみたい、というのは科学者として当然のことであったといえるだろう。

 つまり、災害を減らして人々を救おうとする目的と、多額の費用を要する観測、という研究の二つの特質が、この1960年代初期の提言の段階ですでに強く方向付けられていた。この二つが、その後、大震法の成立、そして現在に至る地震予知研究への底流になっているのである。


3:測地学審議会の建議

 地球科学や天文学の将来の研究について審議し、政府に建議する測地学審議会という審議会があった。事務局は文部省に置かれていた。過去形で書いているのは、2001年の省庁統合で、文部省が科学技術庁と統合して以来、この仕組みが変わったからである。

 科学者の自主的な会議である学術会議が、ときによっては政府批判を繰り返したり、特定の政党の影響を強く受けたりしたことでことで政府に軽んじられ、学術会議が作る提言が政府に受け入れられず、予算もつかない状態が続いていた。たとえば、学術会議が科学者の審議で提言した固体地球科学研究所は、予算化のめどが全くつかないまま、幻の研究所として消えてしまった。

 一方、学術会議の方でも、「学者の国会」という権威に甘んじて、学者の勲章としての学術会議会員になるための思惑や、ボスを会員にするためのなりふり構わぬ選挙運動のために、科学者が真に科学のためを考えて建設的に提言するという精神を失っていた。

 こういった事情があった学術会議の提言と違って、測地学審議会の建議は、政府にとっては重いものであった。各省庁のいわゆる審議会の多くは、じつはその内容や結論は官僚がお膳立てをして、審議会に集められた学者たちが形式的にすぎない審議をして審議会の権威付けに利用される。しかし、測地学審議会はそれとは異なり、科学者が意外なほど率直で活発な議論をして建議案を作る、という雰囲気があった。

 これは、当時の文部省のなかでも、研究を育てることに理解がある、質のいい官僚が担当していたことにもよる。しかし、この測地学審議会も、後に述べる年次計画を繰り返していくたびに、他と変わることのない審議会に変わっていった。

 その測地学審議会が、このブループリントをとりあげて審議し、地震予知研究計画の立ち上げを建議した。こうして1965年に地震予知研究計画が5年計画として立ち上がることになった。

 先に述べた「災害を減らして人々を救おうとする目的」は、この審議でも錦の御旗になった。1964年には新潟地震が起き、26人の人が亡くなったほか、石油タンクが半月も燃え続けたり、液状化で県営アパートが横倒しになるなど、いままでの地震にはなかった被害の映像がテレビや新聞で流れて、人々が改めて目にした地震の恐怖がこの建議案の後押しをしたことも大きかった。


4:地震予知「研究」計画の発足

 こうして1965年に地震予知研究計画は年額1億7千万円の予算でスタートした。科学研究としては多額の費用だが、ブループリントで言っている100億円には到底及ばない金額であった。

地震の前に起きるかも知れない前兆としては、地殻変動や小さな地震の活動の変化や地下水の変化、地球の磁場の変化など、いろいろ考えられた。これら多くの観測項目を、しかも多くの観測地点で展開するためには、予算も人も、決して十分ではない、と地震学者たちは考えていた。

 次の地震が日本のどこを襲うかは誰も分かっていなかったから、全国各地に観測を展開したい、観測項目も増やしたい、どこかで地震が起きたときに、そこに観測器がなければ、せっかくの前兆が捉えられないかも知れないという、観測拡大志向が極めて強い異例の研究が、こうして始められた。地震学者たちは、機会があれば、予算と観測の拡大と人員の確保を狙っていたのであった。

 しかも、地震予知研究は大学だけのものではなかった。建議案は各省庁の大臣にも伝えられ、運輸省所管の気象庁と海上保安庁、建設省国土地理院、通産省工業技術院地質調査所、郵政省電波研究所、科学技術庁が、一斉に地震予知に走り出したのである。つまり各省庁の各機関が競争で予算や人員の獲得に走った。各省庁の大臣だけではなく族議員まで動員して、各省庁の予算や人員の獲得競争が行われることになった。

 予算獲得のために使える材料は、なんでも使った。なかでも次々に日本を襲った地震とその被害は、もっとも強い支援材料になった。

 1965年に長野県の松代町(現在は長野市の一部)で始まった群発地震は、翌年にはさらに数を増やし、多いときは一日に数百回もの有感地震が繰り返して、人々の不安を煽った。この群発地震は全国的なニュースになり、松代町長の「いま、ほしいものは学問」という言葉が、立ち上がったばかりの地震予知研究計画の後押しをすることになった。松代の群発地震の騒ぎの翌年の1967 年には、地震予知研究計画の予算が倍になった。

 また、1968年には地震予知連絡会が建設省国土地理院に事務局を置く形で作られた。全国の地震観測を所管する気象庁ではなくて、地図を作ることが本務の国土地理院に地震予知連絡会が置かれたのを奇異に思う地震学者は多かったが、誰が陰で動いたのかは知られていない。

 のちに大震法で地震防災対策観測強化地域判定会(以下、判定会と略す)が置かれたのは気象庁であった。なお、判定会が作られてからも、地震予知連絡会はそのままの形で存続しており、阪神淡路大震災以後には、地震調査委員会という、また別の委員会が作られて、以後、すべてが並列に走っており、世間の誤解を招くばかりか、国費と時間の無駄遣いを続けている。


5:地震予知研究計画の名前から「研究」を取る

 さらに「地震の後押し」が続いた。なかでも中国で起きた海城地震(1975年、当時は遼寧省地震と言われた。マグニチュード7.3)が地震予知に成功したと報じられたことは大きかった。

 海城地震では、警報が出て、急遽、野外に作ったテントに住民を避難させた後に地震が起こり、被害を最小限に食いとめることができたと報じられた。

 また、その原動力になったのは大衆観測が成功したからだ、と華々しく日本でも紹介された。大衆観測とは、近代的な観測器を使わずに、宏観現象といわれる動物の行動や井戸水の変化などさまざまな異常を、専門家ではない大衆が目視で集める観測である。日本で大衆観測を薦める地震学者まで現れた。

 海城地震の前には、小さな地震が突然増えてきたほか、地下水や地下ガス、動物の異常などが一斉に現れたといわれている。観測器を使わない目視の大衆観測で前兆が捉えられるのなら、適当な観測器を使えば、もっと小さな前兆信号でも捉えられるはずだ、と地震学者たちが考えたとしても不思議ではなかった。

 このほか、1970年代には、当時の地震予知先進国、つまり、中国、当時のソ連邦のうち中央アジアの共和国、米国東部などで前兆が相次いで報告された。たとえば中央アジアでは、地球から出てくるガスや地下水の量や成分が地震の前に変化したという地震の前兆が多数、報告された。また日本でも伊豆大島近海地震(1978年、マグニチュード7.0)などいくつかの地震のあとで、地震活動、地下水の異常、地殻変動などに、いくつもの前兆があったという報告があった。しかし、海城地震以外のすべては、地震後の発表であった。

 つまり1970年代には、前兆が見つかれば予知が可能になるのではないかという、学問的な根拠というよりは研究の期待や願いというべきものが、地震学者にあった。震源で何が起きているのか、なぜ、どのように前兆が出るのかという科学的な解明はあとでもいい、とにかく前兆を捕まえて地震予知が可能になれば、というのが地震予知を研究している地震学者の心情であった。

 そして、それら前兆を捉えた「成功例」がジャーナリズムに乗って華々しく国民に流され、それが予算を左右する政府の意向にも影響したのであった。

 もう一つ、ショルツ理論が登場した影響もあった。米国の地震学者ショルツ(Christopher Scholz)が、震源に歪みがたまってくると、将来の大地震の震源域から地下水を吸いこんだり吐き出したりしながら岩がふくらみ、やがて破壊に至るという新理論を発表した。日本のジャーナリズムにも華やかに取り上げられ、ある新聞社の招待でショルツが来日したこともある。

 この理論は、一見、地震の準備から発生までの過程を統一的に説明するように見えたので、ショルツが言う各段階の前兆をつかまえれば地震予知ができるのではないかと期待された。しかし、この説はその後、当てはまらない例が多く見られ、現在では廃れてしまっている。

 一方、気象庁を総括する当時の中曽根康弘運輸大臣が「研究」計画では予算は100万円単位がせいぜいだが、「事業」計画という名前に替えれば1000万円以上の単位の予算が得られると助言したといわれている。この政治家の入れ知恵で、実質的には「研究」計画にすぎなかった地震予知計画は、「研究」の文字を取った「地震予知計画」に格上げされることになった。

 しかし内実は、「研究」段階が終わったから「実用」段階に入ったというわけでは決してなかった。こうして1970年から発足した第二次地震予知計画が、それまでの地震予知「研究」計画を引き継ぐことになった。


6:予算は拡大の一途、しかし足りない

 地震予知計画が拡大していくのと歩調を合わせるように、次々に話題になる地震が起きた。たとえば1973年に起きた根室半島沖地震(マグニチュード7.4)は、千島海溝沿いの、巨大地震が起きていないことが指摘されていた空白地域を埋めるように起きた。これも地震予知の成功だと大々的に報じられた。

 このため、地震の翌年には地震予知の予算は前年比2倍に急増した。つまり1970年代には、地震予知の未来はバラ色に見えた。観測をさらに強化していけば、なにかの前兆が捕まるに違いない、という期待が充満していた時代が続いていた。

 しかし、1970年代には、まだ全体としてのデータが少なかったので、ごく少数の希望的なデータを一般的なものだと思って楽観的になっていた面がある。それゆえ、前兆のデータが集まりさえすれば地震予知は簡単だと信じられていたのであった。

 これは、物理学や化学のように追試というものができない地球科学の宿命的な弱点であった。中国で起きた、旧ソ連で起きたといっても、ほかの場所や実験室でその状態を再現して確かめることはできない。

 こうして、ひたすら観測器を増やし、それぞれの観測器の感度を上げて、日本でも同じような現象を捉えようとする、いわば装置産業的な傾向をますます強めていったのである。予算はいくら増えても、まだ、足りなかった。

 一方で、各省庁の研究機関が別々に予算申請し、別々に観測をはじめたことから、似た観測器がすぐそばに置いてあったりする、よく言えば研究競争、悪く言えば無駄もないわけではなかった。

 また、予算査定の季節になると、当時の大蔵省への影響を狙って、針小棒大に、各機関の成果の大本営発表が目立った。各省庁にある記者クラブで発表されるこれらの宣伝は、ジャーナリズムに乗って全国に流れた。一般の人々が、なるほど前兆はこんなに捉えられているのか、それでは地震予知技術の完成は近いな、と思ったとしても不思議ではない。


7:石橋克彦学説の衝撃

 地震予知計画の拡大は、1976年の石橋克彦氏(当時東京大学理学部)の東海地震説の登場から、別の段階を迎えることになった。

 同年5月に開かれた定例の地震予知連絡会で、石橋氏は東海地震が起きる可能性を発表した。その後8月に共同通信が報じると全国的なニュースになり、10月(*)の地震学会で石橋氏が発表する日には全国紙が競って大きく報道することになった。

 このニュースは国会でも話題になり、1976年10月4日の参議院予算委員会では、石橋氏の研究室の教授である浅田敏氏(東京大学理学部)は次のように証言している

 「いま中国で地震予知にある程度成功していることは間違いない事実なので、地震予知ができるというほかに答え方はないのでございます」。中国での成功など、地震予知を実現するための圧力は、地震学者には大変に強かったことがうかがわれる。

 しかし同じ証言で浅田氏は「たとえば東海地震に巨大な予算をつぎ込んでも、地震予知の技術がすぐに進むかというと、これも難しい問題」とも述べている。つまり、前兆を捉えるための観測を展開しても、地震予知の見通しが十分にあるわけではないことも述べていた。観測は展開したい、しかし展開してみなければわからない、というのが当時の地震学者の正直な考えだったのであろう。

 この東海地震説を受けて、1976年11月には測地学審議会は「第三次地震予知計画の再度一部見直し」を建議した。いわば東海地震シフトである。

 こうして東海地震の危険が周知され、一方で地震予知が出来る可能性があることもジャーナリズムで流された折りも折り、1978年1月、死者25人を出した伊豆大島近海地震が起きた。地震でこれだけの死者が出たのは1964年の新潟地震以来14年ぶりのことであった。しかも場所は問題の東海地震の震源に近い。もし本当に東海地震が襲ったら、という恐れが皆の頭をよぎった。

*)雑誌に掲載した「11月」は間違いです。申し訳ありません。


8:大震法の成立へ

 こうして、当時の福田赳夫首相の強い指示で、わずか2ヶ月のスピード審議で1978年6月7日、大規模地震対策特別措置法(大震法)が成立することになった。

 初めに述べたように、ほとんど戒厳令の施行のような、強い規制を行う法律の条文そのものは地震学者が関与したものではない。当時の治安、公安関係の政治家や、その意を受けた官僚が動いたと言われている。しかし、この大震法の一番の基本は、地震予知が出来ることを前提にしている。

 では、この法案の審議の段階で、地震学者たちは国会でどのように証言したのだろう。

 法案成立の2ヶ月半前の1978年3月22日の衆議院科学技術特別委員会で、浅田氏はこう述べている。「地震予知技術はまだ緒についたばかりだが、東海地震についてはもう議論をしていられない。ともかく、いろいろな観測器を置いてみよう、というのが研究の実状である。どこまで置けば十分かということは分からない。それゆえ、出来るだけたくさん置きたい。そして観測器からのデータを見ながら地震予知が出来るように努力したい」。

 証言していることは1年半前の国会証言と違わない。観測器をたくさん置きたい、置いて地震予知に努力したい、と言っている。

 地震学者の証言は、人によりニュアンスは違う。

 たとえば法案が成立してから12月14日に施行されるまでの期間中、10月19日に開かれた衆議院災害対策特別委員会では、宇津徳治氏(東京大学地震研究所)は「地震予知にあまりウエイトをかけてそれに頼るという姿勢はとらないでいただきたい。震災に対する対策を予算、人員、時間をかけてしていただきたい」と言っている。

 一方、同じ委員会で茂木清夫氏(東京大学地震研究所)は「過去の地震では、現在の水準の地震予知技術をもってすれば予知できたに違いないという地震がいくつかある。地震予知が出来る可能性は大いにあるということは間違いのないこと」「観測態勢を充実していけば、前兆を捉えて地震予知する可能性がかなりある」と証言している。

 こうしてみると茂木清夫氏の証言が地震予知の可能性が「大いに」「かなり」あると指摘しているものの、「東海地方に観測器を展開すれば東海地震の予知が出来る」とはどの地震学者も明言していない。

 地震予知が可能なことを前提とする強い規制の法律を作ろうというのに、これでは困る、と法案作成の政府・官僚側は思ったに違いない。

 窮した政府・官僚側は、このため、国会の委員会では、政府側の気象庁の委員に、地震学者よりはずっと強い言い方をさせている。

 法案成立2ヶ月前の1978年4月18日と4月21日の衆議院災害対策特別委員会で、気象庁の末広重二参事官は以下のように述べた。

 「地震学会全般の意見では、マグニチュード8程度の地震ならばそれなりの観測施設をおけば予知できるというところまで進んでいる。それならば、これをぜひ防災に結びつけるべきであろう」「常時監視をしていれば、地震の数時間前から数日前に、相当顕著な前兆現象が、いろいろな種目にわたって、かつ広範囲に捕まえることができる、と予測している」。

 じつは末広氏は官僚出身ではなくて、研究者出身である。自身でも地震学の研究業績が多く、新しい観測器を展開しなければ、いままで得られなかったデータを取ることは出来ないという認識を強く持っていたはずである。浅田氏の親友でもあった。

 巨費、といっても、いわゆる巨大科学である宇宙開発や原子力開発に比べればずっと少ない額ではあったが、地球物理学の中では飛び抜けて大きな予算を使っていた地震予知研究は、この段階で、すでに予算の慢性飢餓状態に陥っていた。

 観測点一つ作るにも、土地を買い、岩にトンネルや穴を掘って高価な観測器を備え付け、そのデータを高価なテレメータ装置を使って観測の中枢に送る。中枢ではデータの処理装置も、監視に必要な人員も必要である。

 世界で初めての機械観測による地震予知を確実に実現するためには、いわば法律の庇護を受けることで予算が飛躍的に増えるのなら、その道を選択せざるを得ない、というのが当時の地震予知にかかわっていた地震学者たちの考えであった。また、法律が地震予知を前提としている以上、なるべく多くの予算を得て、一日も早く、「完全な」観測に持っていきたい、ぜひ防災に役立てたい、という考えがあったに違いない。

 しかし、当時の地震学会は、この法案についてなにも議論しようとはしなかった。そのうえ、地震予知は不可能と強く主張するだけの学問的な根拠もなかった。他方、それまで前兆捕捉情報を地震予知の成功とたびたび報じてきたジャーナリズムも、法案の前提となる地震予知の学問的な可能性や、法案成立過程の問題点を指摘したり批判することは、ほとんどなかった。

 つまり、大地震から国民を守るという錦の御旗に叛旗を翻すほどの勇気や根拠を、誰も持っていなかったのであった。


9:大震法後の問題点

 大震法が成立してから、地震予知計画は5年ごとの年次計画をつぎつぎに拡大していった。予算も目論見通り増えた。予算は1994年段階で年間70億円になり、その後さらに増えて1997年まで、つまり地震予知計画発足後の約30年間に1800億円が投じられた。これには人件費は入っていないが、地震予知関係の公務員も、数百人規模で増やされた。

 しかし予算のほとんどは観測網の維持と拡張に充てられた。つまり地震予知研究の財政は極端に硬直化していて、新しい研究を始めるのには振り向けられない。これは大学も同じだった。

 大学の地震予知研究には別の問題もあった。国立大学の地震予知研究の研究予算や研究者や技官の配分を、旧制帝大(北海道大学、東北大学、東京大学、名古屋大学、京都大学、九州大学。同じ旧制帝大である大阪大学は入っていない)だけが独占していたことであった。例えば東海地震の地元の静岡大学や、特異な大地震の研究で知られている富山大学などの新制大学には、たとえ有能な研究者がいても、予算も人員も回されない仕組みになっていた。神戸大学に都市安全研究センターが作られて発足したのは阪神淡路大震災以後、つまり神戸が大被害に遭ってからである。

 また、縄張りの問題もある。たとえば、和歌山・広島・大分・高知・長野・新潟の各県には東大の施設があり、鳥取・鹿児島・宮崎・大分・熊本の各県には京大の施設があるなど、地元の大学をさしおいて旧制帝大は既得権を手放さない。

 一方、これだけの観測網を擁しても、前兆捕捉そのものに問題が出てきたのである。

 いまにして思えば、海城地震はあまりに幸運な例だった。現地に地震観測所を置いてから10年近くも地震がなくて、突然小さな地震が増えてきたうえ、いろいろな異常な現象がいっせいに現れてくれば、誰でも大地震を疑ったに違いない。

 じつは各国とも、その後観測をつづけていると、同じような地震が来ても肝心の前兆が現れなかったことが何回も経験されたり、他方、前の成功例と同じ「前兆」が現れたのに地震が来ない例も多く経験されるようになってきた。

 前に述べたように1970年代には、まだ全体としてのデータが少なかったので、ごく少数の希望的なデータを一般的なものだと思って地震学者は楽観的になっていた。

 いまでは、当時報告された前兆の多くは、疑いの眼を持って見られている。これらの前兆は、まったく別の原因からきた単なる雑音だったり、たまたま大地震の前に偶然に起きた現象だったのではないかと主張している学者もいる。

 一方、いまでも、前兆が観測される地震は、地震の全部ではないにしろ、少なくとも一部はあるだろうと考えている学者もいる。前兆があれば、将来の大地震が予知できる可能性は残っている。しかしこれらの学者でも前兆にはさまざまな種類と現れかたがあることは認めており、どんな前兆をどう捕まえたら確実な地震予知ができるのかは、決してわかっているわけではない。

 いずれにせよ、しだいに地震予知とは一筋縄ではいかないものだということがわかってきた。つまり、胃と足と頭の痛みが違うように、場所によって地震の性質がかなり違うのである。最近になるにしたがって、世界的に地震予知の難しさがわかってきたともいえる。

 いままでの地震予知研究は、病気で言えば、原因がわからずに病状だけを見ているようなものだった。これは医学で言えば「症例」が少ないこと、場所ごとに「症状」が違うこと、診断するための「透視」も難しく、事後の「解剖」も不可能なことのせいなのである。


10:いままでの地震予知計画の「科学」

いままでの地震予知計画の進め方についてはいろいろな批判がある。国民を人質にとって、地震のたびに太っていった。地震学者もそれに馴れ、次々に観測を拡大しようとした。悪くいえば「地震に乗じる」「国民の期待を膨らませる」、よく言えば、その動機は「国民を守ることに燃えた」のであった。

 しかし、ここでは、科学という面からいままでの地震予知計画を見てみよう。

 日本でいままで40年近くも地震予知研究が行われてきたのに、地震のときに震源で何が起きるかが物理学的にきちんと分かっていない。地震予知には地震の準備過程から本震に至るまでの過程が、逐一、分かっていることが必要なはずだ。それができなければ、地震予知は科学にはなりえない。

 また、地震には前兆現象が出るものだとすれば、それがいつ出るのか、なぜ出るのか、どのように出るのかが、きちんと分かっていなければならない。しかし本震の前にどういう前兆が、いつ、なぜ、どのように出るか分かっているわけではない。

 そのほか、いままで前兆として報告されたものについての疑問もある。これまで報告された前兆例は、地殻変動、微小地震活動の変化、電磁気現象、地震雲、発光現象、動植物の異常、地下水や地下ガスの異常、その他にも数多い。しかし、いずれも、その出方は、時間的にも空間的にも、系統的ではなくまちまちであり、どれも定量的ではないことが大きな問題である。

 定量性がないだけではなくて、もう一つの問題は、地殻変動も含めて、報告された前兆現象に再現性、普遍性がほとんどないことなのである。一つの地震で出た前兆が、たとえ同じ場所に起きた地震でも、別の地震で同じように出た例はほとんどない。

 いままで、世界でも日本でも、いくつもの「前兆」報告があった。しかし、注意すべきなのは、これらの「前兆」はいずれも地震後に報告されたもので、しかも観測者が報告したものだった。観測者以外からの客観的で厳正な評価を経ているものはほとんどなかった。

 したがって、報告された前兆は、地震の有無に関係なく生じる現象、つまり地震の前にたまたま他の原因で生じた現象、たとえば他の自然現象や人工現象で生じた現象を、報告者が前兆だと判断して随意に羅列したものに過ぎないのではないかという疑念がいつも拭いきれない。

 つまり、最大の問題は、発見された前兆に客観性があるのか、ということである。いままで前兆について膨大な数の論文が出されているが、それぞれに対して客観的に評価するのは、ほとんど不可能な作業なのである。

 地震予知の研究の困難さは、地震の例数が少なすぎる(母集団が小さすぎる)ということにもある。統計学的に十分有意な結果を得るためには数百例くらいはないと有意な数字とは言えないが、過去の歴史が比較的分かっている東海地震でさえたった7回(7例)しか挙げられない。他の地域の地震も大同小異なのである。

 そういう意味で、母集団があまりにも小さい。地震はそれぞれ起こり方もメカニズムも違うから、阪神淡路大震災を起こした地震と北海道の地震を同じ統計として扱うわけにはいかないのである。


11:大震法後の現状

 国の予算措置として、地震予知関係に多額の予算が大学(文部省)や官庁(運輸省、通産省、郵政省、建設省、科学技術庁)に配分されてきた。行政は確立した技術としての地震予知を前提にし、学者は当時の学会の情勢を反映してバラ色の夢を追った。いわば、行政と地震学者が地震予知を介して、かたや実用化は確実、かたやまだまだ研究段階だがそのうちうまくいくに違いないという同床異夢をはらみながら、お互いにもたれあう構造が生み出されたのである。

 他方、官庁や国立大学の「役所の本能」も働いた。いかにたくさんの予算を獲得し、いかにたくさんの観測設備を保有し、いかにたくさん自分の省庁の公務員の定員を増やすかという省庁間の激しい競争が行われた。

 それゆえ、震源でなにが起きているのか、なぜ前兆現象が出るのかという根本的な研究はさておいて、微小地震観測や地殻変動観測など、当面実施可能で予算が獲得しやすかった観測設備を充実して前兆を捕まえることに主眼が置かれたのは、なりゆきからして当然のことであった。あまりに先進的、実験的な研究や観測は、地震予知「事業」ではない、そのような観測は科学研究費などの別の予算を申請しろ、と言われていた。

 その後の25年は学問としては長く、その慣性も大きかった。地震予知のための観測網は全国に張り巡らされたが、一方で、大学も官庁も、科学的研究よりはむしろ、自分の組織や観測網を維持し拡大する「事業」に地震予知関係者の努力と時間の多くが割かれるようになってしまっていた。

 地震予知研究が、このようなルーティン観測(日常的な定常観測)とそれに基づく研究になってしまったことは、一方で若い研究者の関心を失うことになった。地震予知は地震学会での大きなテーマと思っている人は多いが、じつは、地震学会での地震予知セッションはセッション全体の1/30くらいしかない。そのセッションでの発表も少なく、聴衆の集まりも悪いことも、それを示している。

 いわば、研究は「事業」に埋もれてしまったのであった。日本全国の陸地には多くの観測点が展開されたにもかかわらず、捕まえるはずの前兆の捕捉は遅々として進まなかった。

 この間、地震学会は全く無力だった。地震予知研究の現状や見通しについて、学会として問題にしたり議論することも、学会として社会に発言することもなかった。

 私たち地震学者から見て不満だったのは、ジャーナリズムのチェック機構も働かなかったことだ。新薬や新しい治療法の発表と同じで、国民を人質に取った科学の報道は、針小棒大になりがちである。発表者は自分の結果に都合悪いことは言わない。ときには発表者は官庁の予算獲得の先兵としての発表をしているのである。

 ジャーナリズムが裏をとろうにも、評価できるのは同じ学会の属する研究者仲間しかいないので、客観的で厳しい評価にはなりにくい。「地震の前に起きた現象を一つ見つけただけの」前兆の報告を「地震予知の成功」とセンセーショナルに報じてこなかっただろうか。

 また、毎年9月1日の防災の日。判定会が招集され、全市町村へ警戒宣言が伝達される。つまり地震予知は出来る、地震予知に失敗しての不意打ちはない、という国民への宣伝の一翼を担った。ジャーナリズムは疑問を呈したことがあっただろうか。


12:大震法をどうすべきなのだろう

 地震予知をめざす研究の歴史と推移、それに大震法がどう絡んできたかを述べてきた。大震法以後、地震予知研究の予算は飛躍的に増え、いままでの総額は2000億円を超えている。しかし、地震予知研究推進論者から見れば、観測網はまだ十分ではない。しかし、これから先、どのように観測を拡張すれば、どんな成果が出るのか、それを説明できる材料はない。

 この文の最初に「地震予知が可能ならば」、そのために備えるのは当然で、一時的な自由や私権の制限をする大震法はやむを得ない、というのが、当時の空気だったと書いた。それから四半世紀もたって、いまだにその前提が達成されていないことについて科学者の責任はまぬがれないだろう。

 法律は、作られたあとは自分で走り始めるものだ。科学の現状が法律の前提と違っていることは事実で、板挟みになった気象庁は「日本全体の地震予知と東海地震の予知とは別だ」といった苦しい弁明をしてきた。もちろん学問的には、東海地震だけが別の起き方をするはずがない。

 このように、科学の現状が違ってきてしまった以上、地震予知が実用化されていることを前提にした大震法は、廃止するのが当然であろう。

 2003年7月の末、政府は東海地震の地震防災計画の見直しを行い、大震法を廃止しないまま、地震予知を黒か白かの二段階判定から、注意報を含む三段階判定へ移行することを発表した。これは前代の判定会長茂木清夫氏が提言したが役所側に容れられず、1996年に会長辞任に至った「灰色判定」の、遅ればせながらの実現である。

 しかし、東海地震予知の最前線にいた科学者である茂木氏が、判定を黒とも白とも言えない情況が危惧されるので提言せざるを得なかった学問の現状は、当時となにも変わっていない。どちらにしても多大な影響が懸念される「空振り」と「見逃し」を恐れた政府の、当面のつじつま合わせというべきものである。

 この数年、有事立法(有事法制関連三法案)や、名は体を表さない「個人情報保護法案」と私権や市民生活の自由を制限する法律が次々に作られていっている。土地の提供、物資の供出、多くの業種に業務従事命令が出され、民間放送、輸送業界、電気通信業界、電力会社も協力を強制される。交通規制や通行禁止に従わなかったら処罰される。

 世界のどの国の為政者も、自分の安泰のために、国民を縛りたい誘惑から逃れられない。もし、日本の為政者が思慮深くて、戦後一貫して日本をある向きに向けようと図ってきたとすれば、四半世紀前の大震法は、その貴重な一歩だったに違いない。ここ数年の、戦争という「国難」や「災害」のためには国民に我慢してもらおうという説得の仕方は、大震法のときそのままなのである。


著者注:この小論に載せた内容を含めて、日本の地震予知計画がどう動いてきたかを2004年2月に『公認「地震予知」を疑う』(柏書房)という本にまとめました。

【追記】、『公認 地震予知を疑う』(柏書房)に、その後の地震についての情勢(緊急地震速報など)や私の意見を加筆して、2008年11月に、『「地震予知」はウソだらけ』(講談社文庫)を出しました。

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