島村英紀の「大正期の出版広告学」
その2:震災直後、書籍以外の商品を広告するときのセンセーショナリズム

10万人以上の死者・行方不明者という日本史上最大の悲劇を生んだ1923年に起きた関東大震災のときに、当時の科学雑誌は何号にもわたって震災特集号を発行した。
その雑誌『科学知識』にも、いつもの号と同じように出版広告がある。
震災関連のものもあり、敢えて震災に触れていない広告もあるのはとても興味深い。会社としての姿勢が見える。


1−1:日本光学はいち早く「軽微な被害」を謳いました。軍需工場でもあったせいでしょう。

科学知識普及会というところが出していた一般向けの雑誌『科学知識』は、1923(大正12)年9月1日の関東大震災(地震名としては「関東地震」)の発生後、10月17日に10月号として『科学知識・震災号』を出した。奥付には10月17日印刷納本、10月20日発行とある。

夜を日に継いで、発行を急いだのであろう。これはその『震災号』に出た広告。「僅少の被害」「直ちに平常の通り回復」と、まるで大災害が他人事のような広告である。

軍隊用の双眼鏡などはもとより、軍艦の大砲のための測距儀や照準器などを国策で作っていた日本光学(現Nikon)にしてみれば、まさか「被害甚大」「回復未定」とは書けなかったのである。

しかしもちろん、東京近辺に住んでいる千人以上の従業員には大被害が出ていたはずだし、工場の被害がほんとうに軽微だったかどうか、かなり疑わしい。

げんに、右の写真の内務省のように、大蔵省、文部省、鉄道省など官庁街は丸焼けになっていた。

また、この広告の掲載誌である『科学知識』も、日本橋区にあった事務所は辛うじて崩壊は免れたものの、地震後燃え広がった猛火に包まれ、あちこちから集めた原稿も、預かった図書類も灰になってしまった。このため例えば、1923年7月以前のものは、『科学知識』のバックナンバーも合本もすべて焼失、定期購読者のカードも失ってしまったほどの大被害を被った。

仮に、自社の工場が無事だったとしても、近隣でこれだけの被害が出ているのに、無事なことだけを大々的に謳うのは、空々しい。

それにしても、資本金、ドイツ人技師の人数など、会社の技術水準や規模をどんなときにも誇示したがるのは、もしかしたら、今に続く会社の体質なのであろうか


この広告は科学知識普及会、『科学知識・震災号』、科学知識普及会、1923年から


(右上の写真は、関東大震災で燃え尽きてしまった内務省。内務省社会局、『大正震災志写真帖』、1926年から)


1−2:森永製菓は、まさか軍需工場ではなかったでしょうが、ここも「無事」を謳っています。

右に見られるように、菓子メーカー、森永製菓も、震災直後には、上の日本光学と同じように、会社の無事を謳っている。1頁大の広告だ。これは『科学知識・震災号』、1923年に載っている。

しかし、その一ヶ月後の同じ雑誌の次の号には、同じ1頁大の広告だが、まったく通常の広告に戻った。なお、雑誌の誌面には、この広告のすぐ次の頁も含めて、なまなましい震災の被害の写真が惨状を伝えている。

見事な変身と言うべきだろうか。この二つの広告には、震災を被った人々へのお見舞いや同情は、まったく窺えない。

上の日本光学もそうだが、自社がお見舞いされたことへの礼は述べても、他人に対するお見舞いは、会社の社会的な活動ではないと思っているのであろう。

これは『科学知識・震災踏査号』、科学知識普及会、1923年に載っている。


1−3:震災を転じて工場を拡張する強気を示す心意気。この会社は当時のベンチャー企業だったのでしょうか。

これは震災を被った企業の広告。
『科学知識・震災号』、1923年に載っている。

それにしても、なんと強気なのであろう。最大振幅12センチもの激震に襲われて倒壊・焼失し、自社内にバラック建物さえ出来ていないというのに、意気軒昂である。大地震からも生命を得るという秘法まで擁している発明会社なのであろう。

会社の世界は弱肉強食。ちょっとでも弱みを見せたくない、というのがビジネスマンの生き方だったのだ。

なお、ここに書かれている「振幅4寸」は、地震学者・今村明恒が9月1日の地震直後に新聞記者に発表した東京・本郷での関東地震の最大振幅だ。その後、9月3日になって、今村は日記で、最大振幅は6寸(約18センチ)に訂正した。それを知っていたら、この広告は、もっと迫力があるものになっていたかも知れない。



1−4:他方、それほど強気にはなれない会社も、もちろんあります。正直に建て直していこう、という地味だが着実な広告だというべきでしょう。

これも『科学知識』本社と同じく、本店も日本橋区の出張所も全焼してしまった会社の広告。仮住まいのこと、一部の工場だけは稼働していること、着々とそれなりの復旧の手当をしていることが実直に述べられている。正直な会社なのであろう。

この会社は、広告の中にリストアップしているように、科学機器や海洋観測機器を製作したり輸入している会社だ。日本光学や森永製菓のように、国策を背負ったり、あるいは一般人にアピールする必要がない顧客相手の商売だったのであろう。

これは10月の『科学知識・震災号』ではなくその次の11月の『踏査号』に載っている。震災直後は、広告どころではなかったのだろう。

震災とは関係がないが、この会社のロゴマークは、あまりにもデザインも芸もないものである。もう少しましなものは考えなかったのだろうか。


1−5:不幸にして大被害を被った会社も、1頁の大広告を出しました。島津製作所。

この震災で大被害を受けた会社は多かった。島津製作所も、不幸にして東京支店も、事務所も、倉庫も、工場も、全部が燃えてしまった。

このため、これは東京の支店事務を京都に移す、という悲痛な広告である。

しかし、ここには従業員の被災状況は書かれていない。

身内の不幸は歯を食いしばって耐え、対外的には仕事の話しかしない、という日本の会社人間の心情が吐露されている。たとえば韓国と違って、家族の葬式では泣かない、という日本人の心情と共通したものがあるに違いない。

これは『科学知識・震災号』、1923年に載っている。


1−6:震災見舞いへのお礼よりも、自社製品の宣伝をしたくてたまらない企業もありました。敷島練乳。

この1頁大の広告の、いちばん上に、とってつけたような1行だけが浮いて見える。あとの全部は、震災とは関係のない、自社製品の広告なのである。

発売元は日本橋区、上記のように、ここにあった『科学知識』本社は震災で燃えてしまった。すぐ近くにあったこの会社にも震災の被害が及ばなかったとは考えにくい。

つまり、自社製品を売ることだけが命、といモーレツ社員の会社だったのだろうか。

いったい 、なまなましい震災の記録をこの広告が載っている雑誌で眺めた目でこの広告をみたら、福神漬けが食べたくなるのだろうか。

これは震災直後に出た『科学知識・震災号』に載っている。



1−7:これも、震災にはまったく無頓着な広告。マツダ(現東芝)がいかに優れた博士や学士たちが、いかにたくさんの研究費を使っているかを誇っています。しかし、一ヶ月後には豹変しました。

この広告も、震災にまったく関係のない広告を出している。

研究所の博士3人と学士たちの名前が列挙してある。つまり、これだけの研究陣を擁して、年に30万円も研究費を使っているのだぞ、という宣伝である。「首脳者(ここでは主脳とある)」というのが面白い。上の日本光学がドイツ人技師の数を誇っているのと同じである。

逆に言えば、のちに東芝になるくらいの会社でも、研究所全体、あるいは全社に、博士は僅か4人しかいなかったのであろう。

それに、電球のマークは、どう見ても米国のゼネラル・エレクトリックのものだ。つまり、自前で研究開発したものではなく、特許を買ってきたのか、技術提供を受けたのかであろう。「電球に関する研究」とは、どのようなものを、どのくらい日本でしていたのであろう。安く、大量に作る生産技術の研究なのであろうか。

ひとつ目を引くことは、この広告だけは、横書きのときに、左から右へ書いていることだ。私たちには馴染みやすいが、当時としては(ほかの広告に見られるように)異質のものだった。つまり、ほとんどが左書きだが、まれに右書きが混在していたのである。なんともまぎらわしい。

これは
『科学知識・震災号』、1923年に載っている。


しかし、川崎市にあったマツダの工場は、東京よりも震源に近いこともあって、大被害を受けていた。

マツダに限らず、川崎の工場は、どこも地獄絵のような惨状であった。今村明恒も、震災後の日記で、川崎のいくつもの工場の惨禍を書き残している。

この広告は11月に出た『科学知識・震災踏査号』に載った広告である。

あまりの大被害で、地震直後の『震災号』では。もしかしたら、事前に用意してあった広告を差し替える余裕もなく、一ヶ月後のこの広告で、ようやく震災について触れられた、ということかもしれない。あるいは大きな会社ゆえ動作が鈍く、判断に時間がかかったのだろうか。

広告では、震災後の態勢の立て直しが成功して、 供給が足りなくなることはない、と胸を張っている。社外には弱みを見せない、日本の会社ならでは、である。

しかし、一ヶ月くらいで大工場が完全に復旧できるわけもなく、また被災した多数の従業員の生活も、決して元には戻っていなかったはずだ。弱みを見せられない会社人間はつらいのである。


1−8:これも、震災にはまったく無頓着で、しかもセンセーショナルな広告。

これも『科学知識・震災号』のなまなましい被害写真の対面の頁に出ている。しかしこの広告も、震災には一切触れていない。

脚気は、日本では昔からよくある病気だった。そして、大正期以降、ビタミンB1を含まない、精米された白米が普及したので、昔よりも一層多くの患者と死亡者を生み、脚気は結核と双璧の二大国民病といわれた。

脚気による死亡者は、この関東大震災の年、1923年の26,796人がピークだった。その後も、1938(昭和13)年まで年間1万〜2万人という多数が死んでいた。

農学者の鈴木梅太郎は、1910(明治43)年の東京化学会で、ニワトリとハトを白米で飼育すると脚気のような症状が出て、やがて死ぬこと、糠と麦と玄米には脚気を予防して快復させる成分があることことを発表した。白米には、精米したために、いろいろな成分が欠乏していたのである。

しかし鈴木は、その成分の化学抽出はしていなかった。その後研究を続け、翌年、論文を発表して、糠の有効成分(のちにオリザニンと命名)は、脚気を防ぐだけではなく、人や動物に不可欠なことを示した。さらに1912年にオリザニンを結晶として抽出したと発表した。

しかし、このオリザニン結晶はニコチン酸を含む不純化合物で、純粋に単離に成功するのは1931年になってからであった。オリザニンが販売されて20年後のことだ。つまり、左の広告で高らかに効能を謳っているオリザニンは、まだ完全なものではなく、不純物だったのである。、

じつは、
1911年に、オリザニンが販売されたが、ほかの薬が先行していたこともあって、医学界にはなかなか受け入れられなかった。8年もたった1919年に、ようやく初めてオリザニンを使った脚気の治療報告が出され、1932年になってようやく脚気病研究会でオリザニンの純粋結晶が脚気に特効のあることが報告された。

つまり、この広告が載せられたころは、開発者やメーカーの意欲にもかかわらず、まだ世に受け入れられていなかった時代であった。それゆえ、震災のお見舞いどころではなく、とにかく名前を売れ、薬を売れ、というのが至上命令だったのであろう。センセーショナリズムには、それなりの背景があったのである。

その同じ製薬会社が、同じ雑誌に出している広告。こちらは強気だ。すべての腸の病気の治療にも予防にも使える、と万能薬扱いである。

当時の医薬品の広告基準がどのようなものであったのかは知らないが、いまの眼から見ると、誇大広告のようなものも多い。

ところで、これも、右横書きになっている。同じ雑誌の、同じ製薬会社なのに、上の「オリザニン」と逆さまになっているのは面白い。もっとも「オリザニン」は商標なので、まさか裏返しには出来なかったのかも知れない。

読まされる方は、混乱したに違いない。もっとも、1970年代のはじめに私が台湾に行ったときには、左書きで横書きをしていた。この右書き、左書きの文化とその混乱は、日本だけではなかったのである。


1−9:こんなものを誰が買うのでしょう。カビや細菌の「オタク」が当時もいたのでしょうか。

カビと黴菌のセット。いったい、どのくらい多くの読者が買ってくれるものなのだろう。

この雑誌の値段が60銭(0.6円)だったことを考えれば、その十倍とは、結構、高い値段で売っている。元手も、培養の手間もかかっているのだろうが、それだけ高くても、買ってくれる客が期待できたのであろう。

下の方に「学校や公共団体には、後金でも送る」とあるから、これら以外の客も、もちろん想定しているのだろう。マニアか。いまで言うオタクなのか。飼っていても、楽しいものではあるまいに。

売っているところが「仮事務所」というのが悲しい。震災にやられても、大事なカビや黴菌だけは、運び出したのであろう。なお、「住所」に見られるように、当時は駒込(いまの山手線のごく近く、文京区)でも、東京の市外であった。

この1頁広告は、同じ雑誌の同じ号に出ているのに、上の三共製薬と違って、タイトルと会社名は右書きだ。しかし、カビと細菌の名前は、欧文の後に書いてあるからであろう、左書きになっている。

アラビア語は、右書きだが、数式は左書きだ。それと同じように、あるいはそれ以上に、まぎらわしい時代であった。

この広告は『科学知識・震災号』に載っている。



1−10:博士の数を誇った電気会社に対して、銀行はお金の額を誇ります。それにしても奥の単位から百円の単位まで載せるとは。

この1頁大の広告も『科学知識・震災号』に載っている。さすがに銀行、自らの被害を語ることもなく、仮事務所での営業でもない。皆様のお金を預かる、信用第一の商売だけに、口が裂けても、自社の被害は言いたくないのであろう。

目を引くのは、名士で言えば肩書きのところに並んでいる数字だ。資本金、積立金、そして、客からの預金残高まで列挙している。これは、毎号の雑誌に載る広告を見て、安堵したり心配になったりする客へのエンターテインメントなのであろうか。

これらを誇っているということは、少なくとも、ほかの銀行より見劣りしている数字ではなかった、ということなのであろう。

それにしてもい、預かり金を億の単位から百円の単位まで載せているのは。毎日の閉店後、1円の単位まで収支が合わないと、銀行員は帰れなかったと聞いたことがある。それが習い性となっているのだろう

大恐慌(昭和恐慌)で銀行業界は激震を被った。その前の、古きよき時代の広告である。




1−11:『新年復興号』の表紙裏の1頁広告。震災になんの関係もなく、人々をほっとさせるのが目的なのでしょうか。しかし「学理をもっとも親切に応用した」とは、科学雑誌とはいえ、意味不明で理屈が過ぎます。しかしその背景は・・・。

この広告は、関東大震災の翌1924年正月、『科学知識・新年復興号』の表表紙の裏に載っている。ほんわかとしたカラー印刷。大正レトロの字体(フォント)。化粧品の広告だけのことはある。

広告主は発売元の津村順天館。桃谷化粧品研究所が製造した白粉(おしろい)の広告である。

目を引くのは、「学理を親切に応用した」という、意味不明のキャッチコピーだ。

ところで、女性が多用していた白粉には、長らく、「鉛白」が使用されていた。鉛白とは、古代から使用されてきた白色の顔料で、油絵具の白の顔料でもある。塩基性炭酸鉛のことだ、

鉛はもちろん、人体に有害な重金属だ。このため、白粉を使ったために鉛中毒になる女性が、胃腸病、脳病、神経麻痺といった病気になって死に至る事故が頻発した。

それだけではない。使用した母親の影響で胎児が死亡する影響も出ていた。

じつは、この鉛白を白粉として製造することが禁止されたのは、この広告よりずっと後、1934(昭和9)年のことだった。

つまり、この意味不明のキャッチコピーが怪しいのは、鉛白入りの白粉の方が、ほかの白粉よりも美しく見えるとされていた女心も、有毒なことも熟知しながら、製造して売り続けていた怪しさなのかもしれない。無害なら、無害と高らかに謳ったはずだからである。


1−12:この精緻な細密画。精密機械を売ろうというのなら、これほどの絵を描く努力が必要なのでしょう。

この半頁大の広告も『科学知識・震災号』にも、次の『震災踏査号』にも同じものが載っている。

ドイツ製の精密天秤。極めて精密に重さを量る秤だ。空気が揺れても測定に差し支えるから、図のようなガラス器に入っている。ガラス器は、もちろん、精密に水平を取らなければならないから、足には精密なネジが切ってある。

操作するときに天秤に手を触れるなど、もってのほか。ガラス器の手前に出ている丸いノブをまわして、天秤をそっと、尖ったナイフエッジに載せて、測定を開始する。

それにしても、なんという精密な絵であろう。ガラス器には細い平行線が無数に描かれているほか、どんな小さな部品も正確に描かれている。

それだけでは気分がすまなかったのであろう。まわりに額縁のような、これも精緻な枠を、まるで、賞状のように描いてしまった。

この枠も、よく見ると、恐るべき精緻な絵であることが分かる。

ぜひ、カタログを見てみたかった。ドイツ語のカタログということは、ドイツの製造元が作ったカタログであろう。

案外、この絵と同じものがドイツ語のカタログに載っていたりして。



1−13:歯ブラシや歯磨きも、それなりに負けずに精密画を売りにしていました。大正の出版広告の心意気です。

精密天秤は、いかに「価格低廉」を謳っているとはいえ、普通の人が買える値段ではあるまい。

だが、このライオン製品は、庶民が買ってくれなければ困る。

しかし、これらの絵も、天秤には劣るものの、ずいぶん精緻なものだ。製品の内容ではなく、新しくした外装で勝負しようというだけに、写真ではなくて、精密画を必要としたのであろう。

製品そのものも、一番下の「万歳歯ブラシ」以外は、いったいどこから輸入したのかと思われるくらい、横文字だらけだ。 横文字ではくを付けようという哀しい、いや、当時としてはハイカラな魂胆なのであろう。

ニッケル蓋、ニッケル振り出し口がついている、とある。まだクロームメッキなどが普及していなかった当時は、ニッケルは、赤みがかった光沢を持つ高級な金属であった。初期のライカのカメラのレンズの鏡胴部分に使われていて、いまでも中古品で高い人気がある。

それにして、なぜ「万歳」歯ブラシなのであろう。万歳をしたら、歯を磨けないではないか。

この1頁大の広告も『科学知識・震災号』に載っている


追記】その後、愛媛県在住のzinさんからご指摘があり、「ライオン歯磨きは在日外国人にもアピールできるよう商品に英文を付けていたようです、もともと、広告のうまさで大きくなった会社ですから」と教えていただきました。


1−14:これが掲載誌の『科学知識』1923年11月、『震災踏査号』の内「巻頭画」です。震災からの復興をイメージしたつもりなのでしょうか。

この雑誌『科学知識』は1921年に創刊されたばかりの科学雑誌だった。日本の科学雑誌のなかでも、古い方である。

この雑誌には「巻頭讃」と「巻頭画」がある。右の絵は、その「巻頭画」で、工学博士伊東忠太とある。また「巻頭讃」は『震災号』は理学博士・今村明恒、『震災踏査号』は子爵・後藤新平とある、見られるように、「禍を転じて福と為す」という後藤新平の達筆の文字が記されている。後藤は帝都復興審議会の幹事長・内務大臣であった。なお、渋沢栄一は同審議会の委員で、震災善後会副会長であった。

しかし、この絵はなんであろう。 崩れた西洋建築、西洋風のシャベル、筋骨たくましい、しかしなぜか半裸の男。震災にも、復興にもそぐわない絵に見える。

震災を被った西洋建築は、左の写真の警視庁を想定していたのであろうか。(写真は大日本雄弁会講談社、『噫!悲絶凄絶空前の大惨事!! 大正大震災大火災』、1923年から)


追記】その後、愛媛県在住のzinさんからご指摘があり、この巻頭画は、当時の帝大の建築の教授、
伊東忠太のもので、伊東は元々画家志望で、風刺画や美人画、妖怪画も多く描いていることを教えていただきました。

追記2】伊東忠太は建築家として、その後、関東大震災の震災記念堂の設計に携わった。


1−15:これが掲載誌の『科学知識』1923年10月号、つまり『震災号』の「巻頭画」です。当時の人は地震といえばこんなプロレスラーのようなナマズを思いうかべ、大火というとこんな火の神を思いだしたのでしょうか。

ナマズをこれだけ凶悪に描くのは、なかなか大変なことだ。

それにしても、上の絵といいこの絵といい、アートでも漫画でもない、震災を悲しむでもなく、震災からの復興を鼓舞するものでもない、意図も表現も、なんとも安直で不可思議な絵なのである。

なお、左下の「巻頭讃」は今村明恒によるものとある。

1855年の安政江戸地震の直後に、多くの鯰絵(なまず絵、ナマズ絵)
を載せた大衆出版物が出されたが、どれも、これほど凶悪は面相はしていない。ナマズは庶民の味方で、金持ちや代官の首を絞める姿に描かれていた。

なお、この安政江戸地震は、江戸を襲った直下型地震で、東京の震度は関東地震よりも大きかったと言われている。私の友人は祖母が、「安政地震に比べれば、関東地震の揺れは大したことはなかったよ」と言っていたのを憶えている。


右の絵は『安政地震漫画』からの鯰絵である。

要石(かなめいし)を背中に背負ったナマズが、地震で壊れた千両箱にしがみつく金持ちの首を締め上げている。地震によって失うものが多い金持ちや代官を描いた、庶民の痛烈な皮肉を表している。

しかし、ついにこの関東大震災を生んで、愛想を尽きされたのだろうか。



なお、「要石」はいまの茨城県鹿島にあって,
地下にいて地震を起こすナマズの頭と尻尾を重ねて押さえている石のことだ。左の図に、その要石が示されている。

この絵も『安政地震漫画』から。




なお、「要石」は、ときに「火難目石」と書かれることもあった。右の絵も『安政地震漫画』から。

少なくとも、これら安政地震のときのナマズは、上の関東地震のときのナマズよりも、親しみを込めて描かれている。ナマズは、まだ庶民の味方と考えられていたのである。

この擬人化したナマズは、ナマズの模様?が入れ墨風に人体に”接続”していて、なかなかの傑作である。 右足先の表現もいい。


この前編である「その2:書籍を広告するときのセンセーショナリズム」はこちら



地震学者が大地震に遭ったとき---今村明恒の関東大震災当日の日記から
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