島村英紀が撮ったシリーズ 「定期旅客機から見た下界」
地球物理学者は飛行機から下を見るときに、なにを思うのだろう

私の先生の一人である地質学者の故・中村一明氏は、飛行機から下界を眺めるのが好きだった。
それも、事前によく研究して、どの時間に、機体のどちら側に座ればなにが見えるか、専門の火山だけではなくて、地形や人工物も「研究」していた。薫陶を受けた私も、外を眺めるのが好きだ。
幸いデジカメと画像処理(*)の発達で、フィルムカメラの時代と違って、はるかに見栄えがする写真が撮れる。
*) レベル補正、コントラスト補正、色調補正、トーンカーブなどを調整して、かなりの「厚化粧」をした。
どのくらいの「化粧」をしたかは、7-1の右下に載せてあるオリジナルを見ていただきたい。


1-1:長野県・妙高高原上空から見た、富士山を背景に中噴火する浅間山

幸い、その後1年あまりで収まったが、活火山・浅間山(群馬県と長野県の県境、標高2568m)が2004年夏に中噴火した。右下の写真にあるように、カルデラの一部だけから噴煙が上がっている。

噴煙が東の群馬県側に流れている。 浅間山の右手前にあるのは浅間山の北麓の嬬恋村にある田代湖。

今回は中規模の噴火ですんだが、世界的に見ても活発な活火山である浅間山や富士山(じつは富士山も、たまたま18世紀以後噴火していないが、立派な活火山である)のまわりに、別荘やリゾートがひしめいているのは、地球物理学者としては、決して気持ちがいいものではない。

右下の写真に見られるように、浅間山の手前左の北麓からは、近年開発された別荘地やゴルフ場が這い登って行っている。

1783年に起きた浅間山の大噴火(天明の大噴火)は、地球を半周したグリーンランドの氷河のボーリングから火山灰が見つかったほどの大噴火だった。大火砕流で多くの人命が失われたほか、鳥居や神社の階段が埋まるなど、大被害を生んだ。それが再来しない、という保証はない。

浅間の向こう側に見える南麓も同じである。 自然の緑が広範囲に剥がされているところが軽井沢。その開発はさらに先方の妙義山に向かって延びているのが見える。

なお、右の写真で浅間山の右にある尖った山頂は剣が峰である。

浅間山は、そこから西北西に延びる火山の連山の東端にある。

左下の写真はその連山を写したもの。なお、気象庁地震課や気象庁松代地震観測所のほか、各地の気象台で活躍した檜皮久義氏(元気象庁)が、写真に地名を入れてくださった。 また、檜皮さんは、この他の写真でも、写っている山の名前を教えてくださった。

これらの山は、長野県の小諸・上田・更埴などの町の北側に屏風のように立ち並んでいる。これらの連山のおかげで、冬の季節風が運んでくる雪が落とされて、これら南側の町では、乾いた天気のいい冬の日が続く。 ここを流れる千曲川とともに自然の恵みである。ここの自然は島崎藤村や若山牧水の文学も生んだ。

浅間をはじめ、烏帽子岳など、このへんの山は地元中学校の遠足のメッカとして親しまれてきている。

また、この写真の外、下側(西北側)に隣接する菅平は明治から昭和初期にかけて、国が開拓者をつのって土地を安く 売り、須坂市や仁礼村から移住した人たちが住みついたところだ。有名観光地になったいまの菅平からは想像もできないが、当時は、 病院も警察も消防もなく、ひと世代前の菅平の住民たちには、無免許で トラックやジープを運転していた人もたくさんいたといわれている。

【2008年8月に追記】浅間山は2008年8月、ここにある写真の時以来、4年ぶりの噴火をした。幸い、小噴火にとどまっている。

冬の浅間山の写真はこちらへ

(2004年10月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。左上の写真はレンズは165mm相当、F2.8, 1/1000s。右の写真はレンズは207mm相当、F2.8, 1/500s。左下の写真はレンズは122mm相当、F2.8, 1/400s)


1-2:長野県木曽福島上空約8000mから見た、日本第2の高山(南アルプス)を前景にした富士山

富士山(3776m)は東の関東側から見るよりも、北や西側から見た方が美しい。それは、1707年の宝永の噴火で、それまでバウムクーヘンのように丁寧に作ってきた形がやや崩れてしまったからである。

左の写真は手前に黒っぽく見える南アルプスの三山、左から北岳、間ノ岳、農鳥岳と、後方にそびえる富士山。この三山は白峰三山と呼ばれる。

富士山は上空から見るほど、つまり裾野の低いところが手前の山々に邪魔されずに見えるほど、美しい。 山頂にわずかに雪が見える。

なお北岳は標高3193m。富士山に次ぐ日本第2位の高峰で南アルプスの最高峰でもある。別名、白根山とも呼ばれている。

しかし、富士山と比べると、なんと地味な形をしているのだろう。世の中には多い「ナンバー2の悲哀」を背負った悲劇の形に見える。

ちなみに、火山だけを見てみると、富士山(3776m)に次ぐ高山は御岳火山(3067m)、次に乗鞍火山(3026m)だが、これらはまわりの山がすでに高くなっていた「土台」の上に噴火した「かさ上げ」火山だ。その意味では、単独に立ち上がった富士山とは「格」が違う。

やはり上記の檜皮久義さんが、この写真の解説図(右)を2009年初めに作ってくださった(この図は、上の写真にいちばん近い図になるように、見ている高度をいろいろ変えて作ってくださったうちの一枚である。約8000mのときに、いちばん写真と合う、と檜皮久義さんはおっしゃっておられる)。

毛無山など、甲府の南西にある山がよく目立つが、いずれにせよ、孤立峰である富士山の”形を損なわない”程度に慎ましく控えているように見える。

間ノ岳は標高3189m。これも日本第4位の高峰である。白峰三山の中央にある。野呂川(早川―富士川)と大井川の分水嶺でもある。東面の谷には夏の初めまで残雪がある。

農鳥岳は山梨県と静岡県との境にある。西農鳥岳は標高3051m、東農鳥岳は標高3026m。毎年春、農業が始まるころ、この山の雪が、白鳥が首を伸ばした形に消え残るので、この名が付いた。「農鳥」が現れると苗しろに稲の種子をおろし、「農牛」が見えると大豆や小豆を蒔くという。また秋の「農牛」が現れると秋の農業が始まる。

(2004年10月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズ232mm相当、F2.8, 1/320s)



1-3:長野県上空から見た、八ヶ岳を前景にした富士山

左の写真は富士山を背景にした八ヶ岳。 富士山の体積は400立方キロメートルもある。これは桜島(鹿児島)の10倍、浅間山(1-1)の7倍もある。底辺の直径も40キロメートルある。日本最大の火山である。

八ヶ岳のうち、この写真に見えているのは南八ヶ岳と言われている南側の山々で、左から八ヶ岳の最高峰である赤岳(2899m)、ちょっと低くて尖っている山が阿弥陀岳、ちょっとおいて権現岳、少し低い丸い山が編笠岳である。

右下の図は檜皮久義氏(元気象庁)が、写真と同じアングルになるように、作ってくださった解説図である。(杉本智彦さんが作ったソフト、カシミール3Dで作成)。

この北側には蓼科山(2530m)に至る北八ヶ岳が続いている。高校の寮が蓼科山麓にあったために、私は蓼科には何度も登っている。

八ヶ岳は、かつては現在の富士山よりも大きな、立派な火山だった。噴火で山体が崩れ落ち、いまの形になったものだ。名前は「八つ」だが、実際のピークはもっと多い。もちろん、当時、見ていた人がいるわけではないが、そこはさすがに地質学、周囲に飛び散った岩石の種類や体積や、また、ある”点”から飛び散った大小さまざまな岩の広がりの特有の分布などから、推測したものだ。

その噴火のときの岩屑流は、今から25〜20万年前に起きたと考えられている。現在の八ヶ岳連峰の最高峰、赤岳の西にある阿弥陀岳付近を中心に数度の噴火を繰り返し、3400m程度の高さに達していたと考えられている成層火山(富士山のような外観の火山)の「古阿弥陀岳」が崩壊した。

この種の山体崩壊は、アメリカのセントヘレンズ火山や磐梯山(下の14-1)でも起きている。 岩屑流は、甲府盆地を覆い尽くして広がり、御坂山地の麓に広がる曽根丘陵にぶつかって止まるまで、50 km以上の距離を流れ下った。

この岩屑流の厚さは、最大で200mにも達し、全体の体積は10万立方km と、日本で発生した岩屑流の中では最大規模のものだった。

写真で八ヶ岳の右後方、遠方に見える甲府盆地にまで延びている平地は、じつはこの大規模な岩屑流が流れ下ってできたものなのである。山麓の小淵沢から富士見を経て韮崎を経て甲府まで、大変な数の人々が、この火山が押し流した「瓦礫」の上に住んでいるわけなのである。ここには釜無川(富士川)が流れている。この凹地は、糸魚川から静岡を結ぶフォッサマグナの一部である。

この大崩壊によって、古阿弥陀岳の山頂は吹き飛ばされて、標高は一気に 1500 m ほども低くなってしまって、富士山とは比ぶべくもなくなってしまったのであった。

右の図は、檜皮久義氏(元気象庁)が、写真と同じアングルになるように、作ってくださった解説図である。

写真や右の図に見られるように、八ヶ岳の南(右側)斜面のなだらかな形は、富士山の斜面とよく似ていて、かつての秀麗な孤峰の面影は山腹から下には残っている。もし、この山の全体が残っていたら、現代の私たちは富士山をどう見ていただろう。

ところで現在でも、八ヶ岳を全体として見れば、山体の体積や火山からの噴出量は日本で最大級の火山である。

(2004年10月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズ169mm相当、F2.8, 1/800s)


1-4:火山をよく描いた宮沢賢治にとって、もっとも近くにあった火山、岩手山

左の写真は東京から札幌へ飛ぶジェット機で、約10000メートルの高度から撮った岩手山。

雪解けの5月下旬の季節だから、山体の起伏がもっともよく見える季節である。

賢治の『グスコーブドリの伝記』(初稿・最終稿)と『ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』には、子どものころ噴火に悩まされたグスコーブドリやネネムの描写がある。

 そして『グスコーブドリの伝記』には、グスコーブドリが長じて火山技師になり、自らの身を犠牲にして、火山の噴火を制御して地元を救う感動的なクライマックスも描かれている。つまり火山の噴火は、賢治にとって、とても大きなテーマのひとつだった。

岩手山はひとつの火山ではなく、東西に並んだいくつかの火山体があり、地形から言えば、西岩手山と東岩手山に分かれている。

東岩手山(写真上部の中央)は薬師岳とも言われ、丸い火口がある。標高は2038mある。

写真の下部に見える大きな凹みは西岩手山で、こちらは、過去に大きな噴火があったことが地質学的に知られている。西岩手カルデラの大きさは東西約2.5km、南北約 1.5kmにもなる。

  ここには、夏は水をたたえている御苗代湖があるが、写真の5月にはまだ凍っていた。

(2010年5月下旬。撮影機材はPanasonic DMC-G1。レンズはLumix Vario Zoom 90mm相当、F8, 1/400s, ISO (ASA) 100)。このほか、過去の大規模な山体崩壊の跡がわかる写真はこちらに)


2-1:南米アンデス山脈の真上から見た脊梁部分

ブエノスアイレス(アルゼンチン)とサンチアゴ(チリ)を結ぶ路線は、旅客機の腹を擦る(こする)のではないかと思われるくらい、アンデス山脈に接近する。この辺の山頂の標高は約6000mある。

写真右側の雪渓(氷河の一部分)にみられる茶色い汚れは、泥ではなくて、じつは最近発見された氷河の上の生物活動のひとつだ。白い氷と違って、茶色く変色した氷は、太陽熱をたくさん吸収して、溶けるのが早い。地球の将来を考えたり、人類が利用できる水資源のためには、重要な「汚れ」なのである。

このアンデスの最高峰は、アコンカグア山(6960m)だ。この山頂に重力計を持ち込んで、世界最高地点での重力測定をしたのは、私の知人であるペドロ・スバルチャである。しかし、その記録は、1975年に、中国隊がチョモランマ(エベレスト)山頂に重力計を持ち込んで、破られた。

地球物理学からいえば、アンデス山脈も、北米大陸の西岸近くを太平洋岸に沿って走るロッキー山脈も、ともに、プレートの押し合いで造られて、せり上がったものだ。

約1億年前に、(いまのアフリカ大陸と南米大陸が合わせた)かつての巨大な大陸が分裂して大西洋が誕生して拡がりだした。

南米大陸はプレートに乗って西へ西へと動いていたのだが、そのときにはまだ、アンデス山脈はなかった。

大西洋の拡大がある程度、止まったために、太平洋のプレートと南米大陸の押し合いが強まった。それで誕生したのがアンデスやロッキーなどの山脈なのである。

その地球の歴史を、この、夏でも雪や氷河を抱く険しいアンデス山脈は物語っているのである。

(2004年10月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは99mm相当、F5.7, 1/1600s)


2-2:南米アンデス山脈の南端に近い「針の山」、チャルテン

中央に見える尖った山は、有名なパイネ尖峰(フィッツ・ロイ、地元ではチャルテンと呼ぶ)である。この世のものとも思われない針のような岩が何本もそびえている。

写真は、このフィッツロイ(チャルテン)をアルゼンチン東部のカラファテに着陸する直前、飛行機内から超望遠レンズで撮ったもの。手前の山はアルゼンチンの山だが、尖った山はチリ側にある。

揺れる飛行機から、窓ガラスを通して、遠い距離のものを撮ったために、いい写真ではないが、なんとも不思議な山が連なっている。

(2004年9月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10、レンズは432mm相当、F4.6、1/1600s。露出補正は-1.0EV)

この他のアンデスとパタゴニアの写真はこちらにも


2-3:北米にもプレートが潜り込んで造った山脈がある。しかし人々は地震が起きることを忘れている

カナダのバンクーバーを発って、メキシコへ向かう路線も、旅客機の腹を擦る(こする)のではないかと思われるくらい、高い雪山を超える。

これは米国北西端にあるワシントン州にあるオリンピックマウンテンだ。いくつかの連山になっている。

この山々も、プレートの押し合いで造られて、せり上がったものだ。

米国の西岸では、プレートが太平洋の海底から、陸地の下へ向かって、潜り込んでいる。このプレートの動きが山を造り、地下でマグマを造って、火山を噴火させる。

また、ワシントン州にはセントヘレンズ火山があり、1980年5月に大噴火をして、山容をすっかり変えてしまった。噴火は1986年まで続いた。

じつは、このプレートの潜り込みは、かつて巨大なプレート境界型の地震(海溝型の大地震)を起こしたことがある。日本の太平洋岸に起きて、過去たびたび大災害をもたらした巨大地震と同類の地震だ。

しかし、当時は、この付近は人口がごく少なく、そのうえ、文字を持つ民族は住んでいなかった。つまり、過去の大地震は津波の痕跡にしか残っていない。

巨大地震が襲ってくる間隔は、ときには数百年以上ということもある。いま、地元に住む米国人たちにとって、巨大地震は現実のものとは考えられてはいない。私たち地球物理学者だけが心配しているのである。

(2004年9月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは75mm相当、F.3.7, 1/1600s, ISO (ASA) 50)


3-1:千葉県木更津上空から見た東京湾横断道路

大・公共事業として作ったが完成後、いまだに閑古鳥が鳴いている東京湾横断道路。手前の千葉県側から途中の海ほたる休憩所までは海上を走り、以後、東京都側までは海底トンネルになっている。

海底トンネルの中間点近くには、換気のための海中塔が建てられている。白くて、ヨットの帆のような形をしている。

この道路はほぼ富士山(遠くに霞んでいる)の向きに伸びている。なお、向こう岸の中央から右側にかけて茶色い空き地のように見えるところは羽田空港である。

(2003年12月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは190mm相当、F4.0, 1/500s)


4-1:千葉県上空から見た東京湾。左手に伊豆大島、右手に三浦半島が見える

冬で空気が澄んでいて、風が強いときには、千葉上空から、伊豆大島や相模湾まで、よく見える。左手のいちばん先端は千葉県館山の洲崎。手前に光っている海は千葉県君津の工場群。

伊豆大島も活火山だ。東京大学地震研究所が伊豆大島火山観測所を持っている。前回の1986年の噴火のときは、気象庁に本部がある火山噴火予知連絡会が「噴火は切迫していない」と発表した直後に起きてしまい、全島避難にまで至った。次の噴火が近づいている、という説もある。


右の写真は宮崎・羽田間の定期航空から撮った。中央が雪をかぶった三原山(758 m)。その先に見えるのが大島最大の町、元町で、大島唯一の滑走路や港の桟橋も見える。全体が火山島だから、噴火したら逃げる場所がない。なお、波浮の港は画面下に見える。後方にそびえているのは富士山、その手前に拡がっているのは伊豆半島である。

(左の写真は2003年12月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは113mm相当、F4.0, 1/400s。右の写真は2016年11月。機材はOlympus OM-D EM5、レンズは98mm相当、F5.0, 1/1000s)


5-1:東京湾上空から見た船の科学館。南極観測船『宗谷』が見える

東京都中央区青海にある船の科学館には、日本の初代南極観測船『宗谷』が繋留されている。写真中央で赤く見える船だ。その他にも、手前の肌色の青函連絡船『羊蹄丸』など、歴史的な日本の船が展示されている。

なお、いちばん大きく見える白い船型のものは、船ではなくビルである。

【2017年4月に追記】青函連絡船『羊蹄丸』など、歴史的な日本の船はなくなっていて、『宗谷』だけが展示されていた(左下の写真)。船の形をした「本館」も展示がなかった。

【2019年2月に追記】青函連絡船『羊蹄丸』(8311トン、全長132メートル)は青函トンネルの開通後廃船になり2012年までの15年間展示されていたが、その後撤去され、『宗谷』の脇に『羊蹄丸』の直径3.25mもある可変ピッチプロペラだけが展示されていた。写真に見られるように、プロペラの角度を船橋からの指示で変えられる仕組みだ。(右写真)。ほかの船はなくなり、展示は『宗谷』だけになってしまった。

敗戦後の混乱からようやく立ち上がった日本の熱気を集めて南極観測が始められたのは1956年だった。海上保安庁の燈台補給船だった『宗谷』を、突貫工事で砕氷船に仕立てて南極に向かった。

この『宗谷』は、第二次大戦中の1938年に耐氷型貨物船として作られてから、太平洋戦争でも使われ、戦後は外地にいた日本兵や民間人のための引き揚げ船、そして灯台補給船と転々として、すでに老朽化していたものだった。

このため、砕氷能力も十分ではなくて、南極でもたびたび氷に閉じこめられて動けなくなり、日本中をはらはらさせた。科学者も船乗りも、手探りで南極観測を始めた時代だった。宗谷時代の南極観測隊員(地球物理学者、山登り、気象庁職員など)や乗組員(海上保安庁職員)は厳しい条件の中で喜怒哀楽をともにした戦友のようなもので、仲がいい。

【2017年4月に追記】右の電報は、『宗谷』が1958年に氷に閉じ込められて動けなくなり、米国の砕氷船『バートン・アイランド』号に打った電報である。『バートン・アイランド』号は1947年から米国の南極観測に従事していた 6515トンの砕氷船で、『宗谷』より倍も大きい。この電報を見て2500km先から駆けつけてくれて、『宗谷』を氷海から助け出した。
『宗谷』は前年1957年にも氷に閉じ込められてソ連の砕氷船オビ号(全長140m、12600トン)に救出されている。なお、『バートン・アイランド』号は1978年に退役した

『宗谷』の関係者は、いまでも毎月、東京の半蔵門近くのレストランに集まって親睦会を開いているほどである。私も国立極地研究所の所長時代に参加したことがあるが、「定刻」に行ったら、すでに遅かった。「開会」時間を待ちきれなくて、「定刻」には出来上がっているお年寄りたちが多かったからである。

(上の写真は2004年12月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは142mm相当、F2.8, 1/500s。下の『宗谷』と羊蹄丸の可変ピッチプロペラの写真は2017年4月と2019年2月。撮影機材はOlympus OM-D E-M5


6-1:北海道・苫小牧上空から見た出光興産苫小牧精油所。十勝沖地震で燃え続けて崩壊した石油タンクが痛々しい

2003年9月に起きた「2003年十勝沖地震」の震源から出た長周期表面波は、200km以上離れた苫小牧の巨大な石油タンクの液面を共鳴させて、原油タンクのふたが外れ、出火した猛火は、中の石油が燃え尽きるまで、約44時間も燃え続けた。中央左側にあるタンクはほぼ完全に崩壊してしまっている。幸い、周囲に人家はなく、延焼はなかった。

この石油タンクは「浮屋根式タンク」といわれ、1964年の新潟地震でも炎上して12日間も燃え続け、地元の消防では手を着けられない事態になって、東京消防庁や米軍の応援まで得て、ようやく鎮火した。日本の地震災害史上、最初の石油タンク炎上被害になった石油タンクだ。

じつは、震源から離れたところまで、地震学的には「実体波よりも、ずっと減衰しないで伝わってくる」大振幅の長周期表面波が、近代的な建築物を襲ったことはない。

このような巨大な石油タンクに限らず、超高層ビルや、長大な橋、新幹線の土木構造物など、振動の固有周期が長い建造物が、 長周期表面波の洗礼を受けたことがないばかりではなくて、設計のときにもどのくらいの地震波が来るか知らないで設計しているのは、地震学者として、とても心配なことだ。

写真上は本州に行くフェリーのターミナル。 大きさを比べると、石油タンクがいかに巨大なものか分かろう。

(2003年12月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは228mm相当、F4.0, 1/320s)


7-1:千葉市上空から見た千葉市幕張のメッセや高層ビル群

東京湾周辺は埋め立てが進んで、かつての海岸線ははるか内陸になっている。ここ幕張やその東にある稲毛では、私たちが小学校のころ潮干狩りをした遠浅の海岸は、いまでは海岸から数キロも内陸になってしまった。

この軟弱な埋め立て地に、鉄道や道路や、高層ビルが建てられている。写真中央の巨大な平屋根は国際展示場・幕張メッセで、その周辺には高層ビルが林立している。

画面左下から右上に横切っているのは京葉線の電車。右端は首都高速湾岸線の道路だ。中央やや右寄りの高層ビルの谷間に海浜幕張駅がある。

丸い千葉マリンスタジアムを囲んで、左手海岸沿いには幕張海浜公園が伸びている。松林や砂浜が続いていて、一見自然の海浜に見えるが、もちろん、すべて人工的なものである。手前を左右に流れているのは花見川。

この種の軟弱な埋め立て地の上に築かれた「文明」がどのくらい地震に耐えうるのか、憂慮する地球物理学者は多い。

かつての大地震のときの「飽和していない正確な地動」が記録されていない以上、今後の大地震でどれだけ揺れるか、分からないまま、設計されて建造されているからである。

(右は画像処理をする前のオリジナル画像。他の写真も同様だが、レベル補正、コントラスト補正、色調補正、トーンカーブなどを調整して、かなりの「厚化粧」をしている。

(2004年10月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは98mm相当、F3.7, 1/640s)


7-2:木更津近くにある浸透実験池

北風のときには、羽田空港に着陸する航空機は、房総半島の木更津上空から進入する。

このとき右窓側の東京湾岸に不思議なものが見える。かつて実験に使われた浸透池である。池の水が、どのように地中にしみ込むものかを実験したといわれているが、いまは使われていない。

廃液を地中に捨てるための実験でもしたのだろうか。

向こうの田圃と比べてみると、かなりの大きさの池だということが分かる。

(2003年12月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは160mm相当、F4.0, 1/250s, ISO (ASA) 50)


8-1:東京湾上空から見た横浜全景と富士山

千葉県側と同じく、神奈川県側でも埋め立てと、その上に巨大な建造物が造られている。画面左手には、横浜ベイブリッジや、みなとみらいの高層ビル群が見える。画面右手は川崎市(横浜市と東京都の間にある)の工場群である。

同じ東京湾で、もちろん、神奈川県側の埋め立て地だけが地盤が強いことはない。こちら側も同じように弱いはずである。

手前の海上にあるのは、東京湾横断道路の海底トンネル部分の換気設備(3-1)である。

冠雪の富士山は美しい。

(2003年12月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは222mm相当、F4.6, 1/1000s)

もっと標高が低いところから見ると、右の写真のようになる。

これは東京湾横断道路の「うみほたる」駐車場から撮った。つまり、手前に暗く見えるのは東京湾だ。

富士山の左側山腹に見えるのは宝永火口の出っ張りである。

写真右手に見えるのは、横浜のみなとみらいの高層ビル群や、観覧車である。

(2011年11月。撮影機材はPanasonic DMC-G1。レンズは218mm相当、ISO1600、F4.8, 1/10s)


8-2:東京湾上空から見た東京南部と富士山

東京都の埋め立ては、横浜より大規模だ。中央の島のように見えるのは副都心。そこから一番手前まで、すべてが埋め立て地で、もともとは海だったところだ。

しかも、中央やや左の、田圃の畦のように見えるところも、いま、盛んに埋め立てている。

富士山と、手前の丹沢山塊との位置関係が、横浜と東京で、かなり違うことが分かる。丹沢山塊は、日本列島に最後に衝突した島であった伊豆半島と、本州の押し合いで盛り上がった「皺(しわ)」である。

(2003年12月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは156mm相当、F5.3, 1/500s)


9-1:静岡県裾野市上空から見た富士山(宝永火口)と東富士演習場

富士山は遠くから見た方が美しい。

近くで見ると、自然、人工、両方によるあらが目立つ。南南東、山頂近くの山腹には、写真に見られるように、大きな穴が開いている。

宝永火口だ。 富士山の一番最近の噴火である、1707年の宝永の噴火で、それまでは山頂噴火を繰り返してバウムクーヘンのように丁寧に作ってきた形が崩れて横腹に大きな穴が開いてしまった。

それだけではない。近頃は米軍も使っている自衛隊の東富士演習場が、見られるように、広大な面積を醜く変色させている。また、愛鷹山の山麓近くの山腹を削っている東名高速道路も痛々しい。

中央やや左に見える白い部分は人工雪のスキー場だ。静岡県は九州や四国よりも雪が少ないから、小学校には「雪見遠足」というものがあるほどだ。

子供たちは山梨県に行って雪を触って楽しむ。これに目を付けた商魂が、静岡側の富士山に人工雪を降らせている、というわけである。

富士山の左肩に、わずかに本栖湖が見えている。

右の図は、檜皮久義氏(元気象庁)が、写真と同じアングルになるように、作ってくださった解説図である。(杉本智彦さんが作ったソフト、カシミール3Dで作成)

宝永火口は、正面から見ると、もっと凄みがあり、もっと醜いものであることがわかる。

恐れられている「東海地震」の先祖のひとつであるスマトラ沖地震(2003年)型の巨大地震であった宝永地震が起きてから49日目に、この宝永火口での噴火が起きた。

左の写真は、同じく上空から、正面から宝永火口を撮ったものだ。上から順に第1、第2、第3宝永火口が重なり合って並んでいるが、第1火口がいちばん大きいので、麓から見ると第1火口だけが見える。しかし、この写真では上空から見ているために、第1火口の下の底にある二つを含めて、三つの火口が見える。

宝永火口は、富士山の南南東斜面にぽっかり口を開けていて、海抜は2100から3100mにおよんでいる。噴火は第2、第3火口から始まり、最初の数時間は軽石と黒曜石を放出した。その後噴火は第1火口に移り、玄武岩質のスコリアや火山弾を放出した。(この項目は檜皮久義さんにお教えいただいた)。

宝永噴火の特徴は大量の火山灰を噴き出したことだ。噴火の噴出物量は8億立方メートルもあった。100km離れた江戸でも多くの火山灰が積もった。 江戸で降った最初の火山灰は白い灰であったが、夕方には黒い灰に変わったという。火口が移り、火山灰の成分が変化したのだった。江戸に降り積もった火山灰は当時の文書によれば5〜10cmといわれている。

全体で、2週間続いた噴火だった。しかし、溶岩が流れ下ることはなかった。

【追記】 宝永火口がよく見えるのは春先だ(右写真)。深く積もった雪が火口の縁から融け出すので、噴火口のすさまじさが強調される。これは2014年3月、伊豆半島の”背骨”を南北に走る伊豆スカイラインの滝知山(標高649m)から。

これは富士山の最後の噴火だったが、じつは、その後現在に至るまで、これほど長い噴火の休止期間は、いままでになかった。しかし、今後永遠に噴火がないことはあり得ない。地球物理学者は、山麓や山腹のリゾート開発に寒気を覚えているのである。

(左上の写真と上の写真は、ともに2005年12月撮影。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。左上の写真はレンズは150mm相当、F5.2, 1/800s、上の写真は288mm相当、F5.2、1/1000s。右下の春の宝永火口の写真は伊豆スカイライン・滝知山から。レンズは400mm相当。2014年3月)

【追記】
このときの宝永噴火は日本の過去の火山噴火の中でも十指に入るほど大規模なもので、火山から噴出した火山灰や熔岩や火山弾の量は1億立方メートルを超えた。なお、このほか総噴出量が1億立方メートルを超えた大規模な噴火としては1783年の長野・浅間山の噴火1914年の鹿児島・桜島の噴火などがある。


9-2:富士山の左右対称を崩した宝永噴火

この宝永噴火(1707年)で出来た宝永火口のおかげで、それまで山頂噴火を繰り返してきて、どちらから見ても左右対称の、のびやかな姿をしていた富士山は、みっともない出っ張りが出来てしまった。

この出っ張りがいちばん目立つのは、東京よりやや北の関東平野から眺めたときの富士山だ。宝永火口は、富士山の南南東側の斜面にあるからである。

左の写真は、常磐高速道の千葉県柏市付近から撮った夕方の富士山と丹沢山塊だ。丹沢山塊のどの山よりも高く、宝永火山が出っ張っているのが分かる。

これは、東京都や横浜上空から見た富士山(上の8-1や8-2)よりも、ずっと目立つ。

右の図は、檜皮久義さんが「カシミール」で作ってくださった、茨城県取手市役所から見た富士山と丹沢山塊である。上の写真とほぼ同じ角度で、少し遠くから眺めたときの図だ。

関東平野のこのあたりから見ると、丹沢山塊から遠ざかった分、富士山が圧倒的な高さでそびえている孤立峰であるのが分かる。じつは、私たち地球物理学者にとっては、この形の火山は世界各地にありふれている。カムチャッカに行けば、まるで葛飾北斎が誇張したような、もっと尖って美しい「富士山」さえある。

しかし、まわりに高い山がない孤立峰という意味では、富士山は抜きんでている山なのである。その富士山を”汚して”しまった宝永噴火と関連がある(にちがいないが地球物理学では、その関連が解明されていない、日本史上有数の大きさだった)宝永地震の”再来”が、じつは恐れられているいま、地球物理学者としては、宝永火口の出っ張りを見るたびに、将来の大地震について憂慮せざるを得ないのである。

(2008年12月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは180mm相当、F2.8, 1/50s)


10-1:室戸岬上空

四国の南側、太平洋に突き出している室戸岬も足摺岬も、また紀伊半島南端の潮岬も、フィリピン海プレートの潜り込みとともに、年に5-7mmほど、沈み続けている。

こうして、やがて起きる巨大地震の直前には数十センチから1メートルあまり沈み込み、地震とともに、沈んだよりも少し多く飛び上がることを繰り返してきている。

こうした地震の繰り返しで少しずつ増えてきた海岸沿いの平地に、ほとんど隙間なく、集落や道が作られ、人々が住み着いている。たとえば写真左端近くにある室津港では、1700年以来、こうして4mほど海岸が上昇して土地が増えた。

また、急峻な川が山崩れとともに作ってきた川沿いの平地も、集落や農地で埋められている。上空から見ると、猫の額のような土地に、人々が張り付いて暮らしているのだ。日本人の暮らしは、このように、自然を作り、同時に自然災害も起こす自然の営力とともに成り立ってきたものなのである。

日本の総面積のうち、人が住み着けるところ(可住地面積)は33%しかない、という。人口2000万人を超える国の中では最低である。日本より人口が少ないドイツもフランスも、平坦地ははるかに広い。それにしても、この写真の中では、人々はわずか数パーセントの平坦地にしがみついて生きているのが一目瞭然だ。

ところで、巨大な地震の繰り返しは、いままでは数十年から百数十年のことが多かった。次の巨大地震が怖れられている

室戸岬の燈台は画面一番手前の小高い丘の上にある。写真左側が高知市方向、画面上側が徳島方向になる。

(2005年12月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは135mm相当、F4.6, 1/800s)


11-1:東京湾上空から見た東京副都心

その東京都の埋め立て地に出現した東京副都心のビル街。東京と結んでいるのはレインボーブリッジで、ここには首都高速道路と、一般道路と、電車が入っている。

写真中央にある銀色の球を抱えたビルがフジテレビ、その後方にある赤い塔が東京タワーである。左手の六本木の超高層ビルを含めて、東京の超高層ビルの多くが見えている。

これらの高層ビルは、上に書いたように、振幅が大きい長周期表面波の洗礼を受けたことがない。じつは、鳥取県西部地震(1996年。マグニチュード7.3)で、意外な振幅で揺れて、関係者を驚かせたことがある。マグニチュード7クラスの遠い地震でこんなに揺れるとは、ほとんどの関係者は考えてもいなかった。

2005年7月になってから、2004年10月に起きた新潟県中越地震(マグニチュード6.8)の震源から出た長周期表面波で、東京の超高層ビルのエレベーターに14件もの「被害」が出ていたことが発表された。エレベーターがレールから外れたなどの事故だ。

マグニチュード7クラスの地震ではなく、もっとマグニチュードが大きな地震では、この程度の「被害」ではすむまい。

2005年7月23日に首都圏でマグニチュード6.0の直下型の地震があった。震源は千葉県北西部の地下73km。東京では13年ぶりの震度5だった。土曜日夕方の地震だった。

マグニチュード6という、地震のエネルギーからいえばマグニチュード7の地震の1/30、マグニチュード8の地震の1/1000の地震だったのに、東京・神奈川・埼玉・千葉の一都三県でエレベーター64000台が停止し、ある超高層マンションでは非常用を含め、7台すべてが4時間半も停止してしまった。エレベーター内へ閉じこめられた「災難」も78件。そのうち73件は、本来なら最寄り階に停まってドアが開くはずのシステムが作動しなかったという。3時間以上閉じこめられたエレベーターもあった。

超高層マンション(建築基準法では高さ60m以上)ブームは2000年から本格化。2004年までに111棟建った。2010年までに、さらに216棟が増加する見込みという。もう少し大きな地震だったら、エレベーターはしばらく使えなくなり、水や電気も疑わしい。超高層マンションの高層階は老人が好んで買っているというが、高層階で地震に遭ったら、階段を歩いて上下するだけでも想像を絶する。

超高層ビルそのものは大丈夫でも、「超高層ビル難民」が大量に発生する可能性がないわけではない。 しかし。現在の東京都の被害想定には高層マンションの被害も、そこからの避難も考慮されていない。 対策が現実に追いついていないのである。

(2004年10月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは65mm相当、F3.2, 1/640s)


12-1:上空から見たメキシコシティ (メキシコの首都)

世界でも最大の都市といわれているメキシコシティは人口2000万人、郊外を含めれば3000万人近い人を抱える。しかし、市の中心部には、写真に見えるチャプルテペック公園など、緑も多い。白い建物は、世界的に有名なコレクションを集めた国立民俗学博物館である。

市の中心部で標高は2200メートル。郊外はもっと高い。このため、緯度が低いわりには気温が低く、また昼夜の気温差も大きい。まわりを火山に囲まれた盆地に町が拡がっている。

公園の先から斜め左に伸びている大通りがレフォルマ通り。訳せば革命通りだ。日本では死語になってしまった革命という言葉が、この国では生きている。

じつは、この町は、巨大な湖を埋め立てて作られた。それゆえ、地盤は決してよくない。

1985年にこの町から300キロメートルも離れた太平洋岸でマグニチュード8.1の大地震(ミチョアカン地震)が起きた。そのときに、この町では多くの建物が倒れ、約1万人ものたいへんな死者を生んでしまった。

これほど遠くの地震で、これほどの被害を出したのは、世界でも初めてである。いわば、仙台の先に起きた地震で東京に大被害が出たようなものである。

メキシコ市で倒壊した約400棟のビルのほとんどは、中層ビルや低めの高層ビルで、低層のビルや一般住宅も、また中南米有数の高さだった高層ビル・ラテンアメリカタワーも、無傷で残った。これは倒れたビルと地震波との共鳴現象が起きたためだ。

地震の震源から出る地震波はさまざまな周波数を含んでいる。震源の深さ、震源からの距離、地盤などによって、卓越周波数(震幅が大きい周波数)が違うので、いちがいに、どの周波数が危ない、とはいえない。

(2004年9月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは60mm相当、F2.8, 1/80s)


13-1:岐阜県平湯付近の上空から見た早春の槍ヶ岳(北アルプス)

北アルプスの槍ヶ岳(3180m)の尖った姿は、飛行機から見てもよく目立つ。3月の北アルプスはまだ厳冬の景色だが、日射しだけは春めいている。

地震は日本のどこでも起きる。北アルプスの地下も例外ではない。かつて、このへんの地下で震源が「逃げ回って」、地震学者を翻弄したことがあった。

右の図は、檜皮久義氏(元気象庁)が、写真と同じアングルになるように、作ってくださった解説図である。(杉本智彦さんが作ったソフト、カシミール3Dで作成)。槍ヶ岳から南へ続く稜線の山や、湯俣岳が示されている。

(2005年3月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは288mm相当、F4.0, 1/1000s)


14-1:まるで血管の静脈のような南米・パタゴニアの川

ブエノスアイレスからパタゴニアのウスアイアに飛ぶ飛行機は、大西洋岸に沿って飛ぶ。

見渡すかぎりの大平原、パタゴニアのほとんどは乾燥地帯だが、ときどき、このような大河が平原をゆったりと流れている。水源は、パタゴニアの西部にあるアンデス山脈(1-1)にある氷河である。

大陸氷河は、人類に残された数少ない水資源である。その消長を研究する学問は、しかし、まだ十分に進んでいるとは言えない。

ほとんど平地を流れているから、ちょっとしたきっかけで、このように、無限の蛇行や枝分かれを繰り返す。明治時代に日本が呼んだ欧米の土木技師が、日本の川は、川ではなくて滝だ、と言ったというのも頷ける(うなずける)。

右下は大西洋だ。川が持ってきた土砂のために、紺碧の海の色が薄められている。

なお、同じ川の蛇行でも、シベリアや北米大陸では、その様相が違う(22-1、22-2)。

(2004年9月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは101mm相当、F3.7, 1/800s)


14-2:パタゴニアの峻険な山

そして、ブエノスアイレスからウシュアイアに向かう飛行機が、南米大陸の南端に近づくと、突然、景色が変わる。アンデス山脈の「尻尾」が東にまわって、大西洋岸近くまで押し寄せてきているのがパタゴニアなのである。

この険しい山を越えたところに、ウシュアイアがある。世界最南端の町で、南極に行く船の最後の補給地でもある。

海から来た風と湿気が渦巻く、この辺では、山上毎に晴れわたることは、めったにない。一部しか見えない山頂や岩壁が、山の峻険さを一層際だたせている。

(2004年9月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは240mm相当、F4.6, 1/1300s, ISO (ASA) 50)


15-1:福島県郡山市上空から見た磐梯山と猪苗代湖と吾妻火山群(吾妻小富士)

猪苗代湖は、まだ比較的水がきれいで、湖岸に多くの海(湖)水浴場がある。

この写真の右側(外側)に会津磐梯山(1819m)がある。写真は猪苗代湖の東から撮った。

この火山は、過去たびたび猛烈な噴火をした。もともとは富士山のような孤立峰の美しい山だったと考えられているが、大爆発(水蒸気爆発)で山頂部分がなくなってしまって、今の形になった。

地球物理学的にいえば、浅い地震がまず起き、それが山体崩壊を起こして、噴火につながったという一連の出来事だ。この種の一連の出来事は、近年では北海道・駒ケ岳、北海道・渡島大島、雲仙岳、磐梯山とおよそ百年に一回程度は発生している。これからも警戒を緩められない。

その意味では、1-2にあるように、長野県にある八ヶ岳も同じで、もともとは「八ヶ」ではなくて「一ヶ」岳だった山が、山頂がなくなって今の形になった。もともとは富士山より大きかったと考えられている。

磐梯山のいちばん近年の噴火は1888年7月に起きた。大変な規模の噴火で、20億から30億トンともいわれる途方もない量の岩石が噴出し、477人もの犠牲者を生み、湖底に沈んでしまった民家もあった。

この噴火は森や川を埋め尽くし、堰き止められた河川や泥流の窪地に、五色沼など、大小300余の裏磐梯の湖沼群が生まれた。磐梯山から流れてくる金属を大量に含んだ水のために、沼の色がとりどりになっているので五色沼と名付けられた。

私が思い出すのは2000年夏の「噴火前兆?」騒ぎだ。以下は私が静岡新聞の連載『大地の不思議』、2001年3月26日(No.8)に『あれだけの前兆があったのに』として書いた、その騒ぎの顛末である。なお、右の写真は磐梯山。写真右側(北側)に流れた大きな山体崩壊の跡が見える。この山体崩壊は1888年の大噴火のときに起きた。

 地元の人たちは、喉(のど)から心臓が飛び出すような思いをしていたに違いない。

 その火山では、突然、火山性地震が増えはじめ、3ヶ月後には、日に400回という回数になっていた。40年前、ここに地震計が置かれて以来、最も多い地震だった。

 しかも震源は山頂直下だった。噴火の前には、はじめ震源は深く、しだいに浅くなって山頂の直下に至ることが多い。マグマが上がってくるとともに、火山性地震も上がってくるからである。

 話に聞いていた悪夢が、皆の頭をよぎった。この火山はかつてすさまじい噴火をして、山の上半分を吹き飛ばして、山の形を激変させてしまったことがある。百年ほど前、富士山の宝永噴火よりもずっと後のことだ。水蒸気爆発と泥流でいくつもの村や山林や耕地が埋まったほか、約500人もの死者が出た。

 やがて、山頂直下で起きる低周波地震や火山性微動もときどき観測されるようになった。これも40年来初めてだった。1989年に伊東市沖の海底で手石海丘が噴火したときも、群発地震から始まり、火山性微動が出て、間もなく噴火した。

 まだ山頂から蒸気は出ていないようだった。しかし地殻変動や地磁気のデータにもわずかながら変化が出始めていた。

 いつ噴火しても不思議ではなかった。他の火山では、この程度の「前兆」で噴火した例はいくらでもあった。

 しかし、結局、噴火はしなかった。

 火山性地震は次第に減りはじめ、観光で生きる地元は、気象庁や噴火予知連絡会が渋い顔をしているのを尻目に、独自の判断で入山規制を解除した(注)。結果的には、気象庁の判断よりは正しかった。昨年夏、福島県の磐梯山での出来事である。

 いや、私は前回の地震の例や今回の火山の例で「前兆」が出ても無視していいと言っているのではない。もっと少ない前兆で地震や噴火が起きたことも多い。もちろん、何が起きてもいいだけの備えをしておくのが望ましい。

 残念なことながら、現代の地球科学は、地下で何が起きようとしているのか、正確に知る能力を、まだ持ち合わせてはいない。

 「引き続き注意が必要です」といった紋切り型の発表にしびれを切らした地元の独走は痛いほど分かる。しかし、実際に何が分かっていて、何がまだ分かっていないのかを正確に理解してもらうことは、実に難しいことなのである。

【追記】気象庁のホームページによると、
「2000(平成12)年4月下旬以降 地震活動が活発化し、8月には地震回数が激増した。5月10日 観測開始(1965年)以来初めて火山性微動発生。山体直下を震源とする地震が5月21日(M1.9)、8月15日(M2.1、M2.4)に発生(それぞれ猪苗代町城南で震度1)。山体直下の浅いところを震源をする低周波地震、モホ面付近を震源とする低周波地震、火山性微動はたびたび発生。
 2001(平成13)年 地震活動やや活発。山体直下の浅いところを震源とする低周波地震、モホ面付近を震源とする低周波地震、火山性地震も引き続き発生。5月以降は地震活動も低下した。」


注) そのときに地元福島県の消防防災課(噴火や災害の担当部署)は全国の地震・火山学者にアンケートのメールを送って、見通しを聞いた。私も聞かれた。アンケート後、県からお礼のメールは来たが、肝腎の集計した結果や、そもそも何人に聞いて何人から返事が来たのかについては、ついになにも教えてもらえなかった。「アリバイ」づくりに使われたのであろう。

  もっとも、気象庁も三宅島の有害な火山ガスが、あと何年噴出するかという学者の計算が5.5年から26年だったのに「行政的な判断」で、あと1年、と発表したことがある。地方も中央も、お役所は科学の結果を、このように「使う」ことがある。

 ところで、右上と下の写真は、磐梯山のすぐ東北(約20km)にある吾妻火山群。右上の写真の右側(と左下の写真の左側)に見える噴火口は吾妻小富士(1705m)。下の写真では右手が北になる。この写真で見ると、火口は北西側に傾いているのがわかる。

上の写真で、雲とまぎらわしいが、吾妻小富士の左下にひときわ白く見えるのは、この付近で唯一活発に活動している一切経山(いっさいきょうやま、いっさいきょうざん。1949m)の噴気である。じつは噴気は左下の写真でも、火口の後ろ側の平坦部分に見えている。湯気のように立ち上がっているのが噴気だ。

 吾妻火山は那須火山帯の中で最大の火山群だが、歴史時代に入ってからの噴火は一切経山に限られる。1893年(明治26年)の大噴火のときには噴煙が直径2,000m、噴出容積は約50万立方mにも達した。この大噴火で当時現地を調査していた技師2名が亡くなった。

 一切経山は1977年(昭和52年)にも小規模な噴火を起こしたことがあり、気象庁が噴火警戒レベルを導入している全国26火山のひとつだ。2011年11月段階でも、写真のように、噴気が続いている。

(猪苗代湖の空撮は2004年1月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは105mm相当、F4.0, 1/400s。右上の写真は吾妻小富士(1705m)など吾妻火山群。この空撮は2011年11月。まだ雪がない。撮影機材はPanasonic DMC-G2。レンズは135mm相当、F6.3, 1/640s, ISO100。写真の左手が北になる。左の写真は同じく吾妻火山群。こちらは冠雪している。撮影は2013年1月。撮影機材はPanasonic DMC-G2。レンズは約500mm相当。F8, 1/1300s, ISO100。磐梯山の空撮は
レンズ168mm相当、撮影は2013年1月。撮影機材はPanasonic DMC-G2)

このほか、雪の八甲田山の空撮写真はこちらに



16-1:東京湾の埋め立て地に出現した東京ディズニーランド(向こう)と東京ディズニーシー(手前)

東京湾は、埋め立てによって、どんどん狭くなっていっている。もっとも埋め立てが進んでいるのは、東京湾に限らず、大阪湾でも、瀬戸内海でも同じだ。埋め立てによって、大阪府が日本最小の都道府県から脱したこともある。

千葉県浦安は、かつては、のどかな漁師町だった。私も中学生のころ、見学の遠足にいったことがある。 しかし、ディズニーランドが出来たいまの浦安から、昔の浦安を感じさせるものは、なにもなくなってしまった。

そもそもかつての浦安は、この写真のさらに右の外側だけに拡がっている海岸だった。

その後、千葉県と企業によって広大な埋め立て地が作られた。まず東京ディズニーランドがアジアで最初のディズニーランドとして1983年に作られ、その後の2001年に東京ディズニーシーが隣に作られて、多くの客を集めている。中央左にある駐車場には、おびただしい数の車がとまっている。

フランス・パリの郊外に1992年に作られたヨーロッパ初のディズニーランドも、最初はヨーロッパ人の反感を買って客が少なかったが、その後、営業方針を変えて、ある程度持ち直した。よほど、商売が上手なのであろう。

しかし、上空から見ると、なんともちまちました造作の箱庭のようにしか見えない。中に入れば、それなりに「乗せられて」しまって人々は楽しんでいるのだろう。なんともスケールの小さな娯楽である。

この巨大な埋め立て地は、右の写真に見られるように、旧江戸川の河口に作られた(右側にディズニーランドの駐車場やホテルが見える)。旧江戸川は蛇行しながら、最後にここで海に入る。

右岸側には、高層アパート群が建てられているほか、川の両岸は見渡すかぎりの住宅密集地が続いている。最近建てられた建物は別として、古い木造住宅も多い。地球物理学者としては、地震のあと、燃え続けて14万人を超える死者・行方不明者を生んでしまった関東大震災(1923年)を思い出さざるを得ない。

阪神淡路大震災(1995年)では6400人を超える人命が失われた。しかし、被害を調べると、1971年以前に建てられた住宅やビルの倒壊がとくに多かった。段階的に強化された建築基準法と、シロアリや腐蝕などによる住宅の老朽化のせいである。 もし、これらの古い建物が耐震強化されていたら、死者の数は1/5以下になったのではないかという試算もある。

都会を襲う地震のこの種の大被害が繰り返さないですむのか、いわば人類の知恵が試されているのである。

(上は2003年12月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは46mm相当、F3.7, 1/100s。下は2003年11月。撮影機材は同じ。レンズは102mm相当、F2.8, 1/25s。露出から分かるように、夕暮れ前に撮った。日没前の一瞬の太陽光がビルを照らしている)



17-1:下北半島。日本の「ばらまき行政とたかり政治」の縮図

青森県の下北半島。太宰治の故郷・津軽半島とともに本州最北端から北へ突き出した、寒々とした半島だ。写真の左端が、北端の大間岬で、白い燈台が建っていて、交通の要所、津軽海峡の入り口を示している。

過去たびたび冷害や飢饉に見舞われ、その後は過疎に悩まされてきた本州北端の地は、日本の政治に縋って(すがって)生きる道を選んだ。

原子力発電所、核廃棄物の一時貯蔵、核廃棄物の再処理、戦略物質プルトニウムの抽出、日本初の原子力船『むつ』の母港、と、日本の国策に協力することによって、次々と巨大な施設を誘致し、それと引き換えに、地元は莫大な交付金を受け取り続けてきた。

その『むつ』は初航海で放射能漏れ事故を起こし、母港に帰れなくなるなどの大騒ぎを起こしたあげく、すぐに廃船になってしまった。いまは巨大な人工港である母港だけが残された。

その後『むつ』は、これも莫大な費用をつぎ込んで原子炉を取り外し、船体を輪切りにし、エンジンを通常型のディーゼルエンジンに積み替えるなど大改造されて、船名までも隠し、JAMSTEC(海洋科学技術センター)の海洋観測船『みらい』になった。

そして、原子力発電や廃棄物というマイナスのイメージが拡がるにつれて、そのイメージを払拭するためにか、これもおびただしい数の風力発電の風車が建てられ、下北半島の脊梁を形作る山の嶺に続いている。これも国策である。

いま下北半島を上空から見ると、「開発」という名の、これら巨大施設の工事の材料を採るために大規模に抉られた山肌と、本来の半島の景色にはそぐわない人工物が、とってつけたように、ちりばめられている。下北半島の自然は、人間の都合のために痛めつけられている、と表現するのが、いちばん素直な感想であろう。

【追記】:下の写真は2016年6月に撮った。上の写真から約10年たっている。よく見ると、下北半島の北側(写真の下方)、津軽海峡沿いに道路が拓かれているのが見える。下北半島は、人間にとってはますます「便利」になっていっているのであろう。

(上の写真は2006年9月。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは58mm相当、F2.8, 1/80s。下の写真は2016年6月。撮影機材はOlympus OM-D E-M5。レンズは88mm相当)

六ヶ所村の再処理工場の空撮はこちらに。
牡鹿半島の女川町と女川原子力発電所の空撮はこちらに。



18-1:典型的な夏の雲・入道雲。この下は激しい雷雨になるに違いない

入道雲(積乱雲)は典型的な夏の雲だ。20-30分といった短い間に、飛行機の巡航高度11000mをはるかに超える高さまで、まるでコブラが鎌首をもたげたように立ち上がる。

大きな積乱雲ではゴルフボールくらいの大きさがある雹(ひょう=氷の固まり)が上昇流に支えられて落ちてこないことがあるので、雲の中の上昇流の速さは台風なみの数十m/sくらいにもなるといわれている。それゆえ、定期旅客機は、旋回してこの雲を避けて飛ぶ。

この積乱雲はまた、雷の元でもある。このように積乱雲が発達したあと、下界では、やがて激しい雷雨に襲われることになる。

積乱雲は、下界にある湿った層が太陽光線で暖められているのに、その上に寒気が入っていることで逆転層が出来て、おさえられていている不安定な状態から始まる。

この不安定が破れ、下にある湿った空気の対流が逆転層を突抜けると、このように爆発的に積乱雲が立ち上がることになる。専門的にいえば、潜熱 が解放されたときの浮力で、雲が上空にまで延びていくのである。写真右手、積乱雲の陰の手前(積乱雲の根元)に、次の積雲が上昇する構えで待機しているのが見える。

熱帯地方はもちろん、日本の夏のように、下界(下層)の気温が高いと多くの水蒸気を含むことが出来るので、 水平スケールの割に高さの高い、つまりこの写真のように背高のっぽの積雲が出来る。ただし、熱帯でも海の上だと陸地のような「熱源」がないので、このような積乱雲は立たない

ところで、いわゆる泰西名画には、なぜ積雲ばかりしか描かれないのだろう。巻雲や高積雲もめったに出てこない。日本の絵巻物や仏画の巻雲や、北斎には、さまざまなタイプの雲が効果的に描かれている。

これは、緯度からいえば地中海なみの日本と、欧州中央部の緯度の違いによるものだろう。緯度が高い地方の雲は 下層空気に含まれる水蒸気の量があまり多くないので、雲が違う。たとえば、このような積乱雲にはめったにならないのである。

つまり、この形の積乱雲は、熱帯や温帯の夏の風物詩なのである。

この写真を見て「火山の噴火のときの噴煙?」と聞いた人がいた。柱のように立ち上がる形は似ているが、噴煙の場合には、火山灰が噴火とともに押し上げられるので、「柱」の色も形も違うのが普通である。ラバウルのタブルブルの噴火の「柱」と比べてほしい。

アンダマン海の積乱雲の空撮はこちらに

(2005年8月。福島県上空 12000m で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは36mm相当、F5.2, 1/500s)



18-2:ブロッケンの妖怪

高い山頂に登って、日の出や日の入りに立ち会うと、「ブロッケンの妖怪」という気象現象に遭うことがある。ドイツのブロッケン山では、よくこの現象が起きることから、この名前がついた。 「ブロッケン現象」ともいう。

日本語では「御来迎(ごらいごう)」 と言うこともある。太陽を背に受けた山頂や自分の姿が下界の霧や雲に投影されて、そのまわりに虹色の輪が取り巻く形になることから、弥陀が光背(こうはい)を背負って神々しく来迎するのになぞらえたのである。

高い山に登らなくても、飛行機の窓から、このブロッケンの妖怪は、ときどき見ることが出来る。高度の低い太陽を後に背負い、飛行機より下に霧と雲があるときである。自分(と山体や、ときには機体)のまわりで起きる太陽の光線の回折現象だから、「スクリーン」になる霧や雲との距離が近いほど、輪の大きさは大きくなる。

なお、ブロッケン山はドイツ中東部、旧東ドイツ領内にあって旧西ドイツとの国境に近かったハルツ山脈の最高峰で、標高は 1142m ある。ドイツは南半分にはもっと高い山があるが、北半分では、ここが最高峰である。ゲーテの『ファウスト』に出てくる山としても有名だ。

(2006年9月。青森県上空10000mで。「スクリーン」である雲との距離はかなり遠い。濃い青の部分は太平洋。撮影機材はPanasonic DMC-FZ20。レンズは100mm相当、F4.0, 1/1300s)


19-1:米国の灌漑農業は「未来」から水を奪っている

広大な米国本土では大規模な農業が行われている。なかでも、乾燥地帯である中部から西部にかけて、小麦やトウモロコシなどが広範囲に栽培されていて、世界有数の大穀倉地帯になっている。

これら農作物は米国内で消費されるだけではなくて、各国に輸出されている。農業は米国にとっての主要な輸出産業なのである。

しかし、本来乾燥地帯だっただけに、太陽の光の恵みは存分にはあるものの、灌漑をしなければ農業は成り立たない。

このため、莫大な量の地下水の汲み上げが行われ、写真に見られるように、直径400から1000mにも及ぶ円形の農地に、アームの長さが円の半径分だけある回転式の巨大な散水器、センターピボットを備える人工的な農場が各地に発達している。この散水がなければ、作物は育たないのである。

写真に見るように、砂漠の中に出現した緑の丸い農地は、いかにも人工的なものだ。米国人は自然を征服した、と思っているのかも知れない。

しかし、地下水は有限なものだ。 貯まるまでに数千年かかった地下水を、わずか数十年で使い切ってしまうペースで大量の地下水を消費しているのだ。つまり「未来」の人たちが使う水を、「いま」の米国が奪い取ることによって、米国の農業が成り立っているのである。

それだけではない。地下水に含まれる塩分の影響で、農業の出来ない土壌になってしまっているところも急増している。写真に見える白っぽくなって放棄された「元」農地は、その「被害」なのだろう。

(2004年9月。米国アイダホ州上空で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは109mm相当、F4.0, 1/800s)

この写真は島村英紀『地球環境のしくみ』(さ・え・ら書房)に、塩水が上がってきてしまう灌漑農業の見本として掲載しました。
この写真は小学館「ビックコミックスピリッツ」で2008年7月19日から始まった環境漫画『ココナッツ・ピリオド』の7月28日発売のコラムにも使われました。


20-1:ヨーロッパアルプスは二つのプレートが衝突してできた「皺(しわ)」だ

観光客や登山家を集めるアルプスは、もともとはヨーロッパ大陸にはなかった。

アルプスができたのは、南からアフリカプレートがユーラシアプレートに衝突してからだ。アルプスは、衝突の結果としてできた「皺(しわ」なのである。モンブランも、マッターホルンも、皺のひとつにすぎない。

画面下方には、谷間の集落がいくつも見えている。この狭くて入り組んだ谷間に、道が通り、鉄道が走り、農地が作られ、人々の生活が営まれているのである。

ノルウェー西岸に沿ったフィヨルド地帯もそうだが、よくこんなところに人が住み着いて暮らしているものだと思う。歴史的・政治的な理由がそうさせたのだろう。

写真はルーマニアの首都・ブカレスト(現地の発音ではブクレシュティ)のオトペニ空港からフランス・パリ南郊のオルリー空港への途中で撮った。この航路はオーストリアを串刺しにし、スイスをかすめながら、アルプスの真上を飛ぶ。

これだけの皺を作るエネルギーは想像を絶するが、他方、これだけの皺ができてしまうと、もはや東洋の水墨画が対象とする世界ではなくなってしまう。

(1985年9月。撮影機材はOlympus OM2N。フィルムはコダクロームKR, ISO (ASA) 64)


21-1:オランダ。人工の極致

オランダの面積の大半は海面より低い。つまり人工的に海のなかに作った土地だ。

長大な堤防を作り、その中の海水を汲み出して、いままで海底だったところを陸地にする。日本でもおこなわれているが、せいぜい、大阪府が埋め立てのおかげで香川県より大きくなった程度だから、オランダとは桁がちがう。

これだけの土木技術の蓄積があるオランダだから、この写真に見られるように、家の庭先にボートやヨットをつないでおく、というヨーロッパ人にとっての夢の暮らしを実現することは、決して不可能ではなかった。

ただ、この夢の暮らしの希望者が多すぎた。すべての希望者の願いを満たすためには、このように、途方もなく長細い「陸地」とこれもまた長細い「海」を折り合わせることしかなかったのであろう。

人々は、海際の家と自分のヨットやボートに満足しているのであろう。しかし、家に帰ってくる車も、海から帰ってくるヨットやボートも、「一本の道(水路)」も間違えることが許されない。一本ちがえば、とうてい、家には帰れないからである。

いっぽう、郵便配達は、同じ家の数を持つほかの地域よりも、はるかにたくさん走り回らなければならない。いま流の言い方をすれば、人々が風光明媚な生活を送るために、多くの二酸化炭素が排出される文化なのである。

(2004年7月。アムステルダム北郊上空で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは156mm相当、F2.8, 1/320s)


22-1:川が踊るダンス。その1。シベリアの川の蛇行。

中学や高校のときに、川の蛇行について教わった。そのときの教材の写真は、たぶん、北海道中央部の石狩川だったと思う。

日本では、それ以上のスケールの川の蛇行はなかったのだろう。

しかし、日本よりも平地の面積が断然多いところでは、川の蛇行もスケールが違う。

これは、ロシア北部、シベリアの川の蛇行だ。ジェット旅客機で数十分飛んでも、まだ同じような蛇行が続いている。

蛇行は、いわば、川のダンスだ。思うように踊り、思うように川筋を変えていく。

(2004年7月。シベリア上空で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは85mm相当、F3.2, 1/640s)



22-2:川が踊るダンス。その2。米国・ユタ州の川

これは、別の、川のダンス。

上の22-1と違って、この場合は、川にとって、少し、相手が固かった。しかし、川は年月を味方にして、硬い地層を削っていったのである。

そして、いまも川は岩を削りつづける。濁った川の色は、それを示している。

(2004年9月。米国西部、ユタ州上空で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは120mm相当、F4.0, 1/800s)


23-1:成田空港。夜の離陸

空から見る夜の景色には、汚いものは見えない。見えるのは下界の光の海であり、ときには満天の星だったり、空に踊るオーロラだったりする。

国策という名のもとに土地を取り上げられた農民たちの犠牲の上に、あれほどの血を流して造られた成田空港も、日本を離れる感傷に浸っている、歴史を知らない旅人には、美しい夜景としか見えないだろう。

もっとも、空港の犠牲になるのは、人間だけとは限らない

(2004年8月。成田空港上空で。撮影機材はPanasonic DMC-FZ10。レンズは36mm相当、F2.8, 1/4s)

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島村英紀が撮った海底地震計の現場
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