島村英紀『夕刊フジ』 2013年8月16日(金曜)。5面。コラムその15:「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識」

建物の倒壊。東京・神保町が危ない

 まもなく9月1日の防災の日が来る。ちょうど90年前の1923年に大正関東地震が起きた日である。首都圏直下で起きたマグニチュード(M)7.9の地震は関東大震災を引きおこして、日本の地震史上最多の10万人以上が犠牲になった。

 日本に起きる地震には「海溝型地震」と「直下型地震」がある。だがこれは海溝型地震だった。関東地方は海溝が陸のすぐ近くの相模湾を走っているために、海溝型地震が陸の下で起きてしまうところなのだ。

 この震災の犠牲者の大部分は、地震で出火した火が燃え拡がっていったための焼死だった。大火は東京の下町を焼き尽くした。

 この大火災のために、地震でどのくらいの家が倒れたのか知られていなかった。地震で倒れなくても焼けてしまった家が多かったからである。

 倒壊率の調査がまとまったのは近年になってからだ。それによれば、東京・千代田区神田の神保町の交差点から水道橋の駅に伸びる帯でとくに倒壊率が高い。いまの震度でいえば帯の中は震度7。まわりは震度5だったから震度階で3〜4段階も大きかったのである。

 交差点のまわりは九段下から小川町、そして神田駅の先まで平地が拡がっている。しかしこの帯の中だけの被害がとくに目立った。

 いま現場に立ってみてもビルや家がびっしり建っていて、「帯」のなんの痕跡も見えない。

 しかし、カギは地下にあった。江戸時代までは、この帯のところに日本橋川という川が流れていたのであった。

 江戸時代にこの川の大規模な改修が行われた。江戸城を洪水から守り、江戸の港が土砂で埋まるのを防ぐための川の切り替えだった。切り替えられた川の水は、いま中央線や総武線の線路沿いにあるお堀(右の写真。お茶の水駅と聖橋。島村英紀撮影)を流れている。

 この土木工事のために江戸城も港も救われた。工事を完成した将軍は名君と讃(たた)えられたに違いない。

 だが地下は、その歴史をちゃんと覚えていた。川が運んできた軟弱な堆積物の上で震度がとくに大きかったのだ。

 関東大震災当時には、かつての川を埋めた平地が拡がっていて、まわりと区別がつかない住宅密集地になっていた。

 住民が知らないのに、地下が昔のことを覚えている例は他にも多い。

 たとえば東日本大震災で東京湾岸の砂地にある千葉県浦安市では大規模な液状化が起きたが、東京湾から20キロ以上も内陸に入った千葉県我孫子市でも液状化が起きて120軒以上の家が全壊してしまった。

 じつは我孫子のこの場所は1870年に近くの利根川があふれる水害が起きて沼ができていた。その後1952年に川底から浚渫した砂を使って沼を埋め立てて住宅地になっていたところだったのである。

 首都圏には限らない。これから襲ってくる地震でも、これら「わけあり」の地下があるところは、まわりよりも揺れるに違いないのである。

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