島村英紀『夕刊フジ』 2013年8月30日(金曜)。5面。コラムその17:「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識」

地震が生み出す新たな陸地

 地震は疫病神のように恐れられている。しかし、そう言うには気の毒なこともある。

 西日本から羽田空港に着陸する飛行機は、伊豆大島の真上を抜け、房総半島の南部をかすめながら左旋回して東京湾を横切って、空港に南から進入することが多い。

 そのときに房総半島の南端部に階段状の地形を見た人も多いだろう。

 階段の幅は数十メートルから数百メートル、段差は10メートル弱のものが4段ほど見えるはずだ。階段全体としては10階建てのビルほどの高さだ。海岸段丘という。

 これはちょうど90年前の9月1日に関東大震災を起こした大正関東地震(1923年)やその先代の関東地震が繰り返したことで作ってくれた陸地なのである。地震のたびに、それまでの海底が飛び上がって新しい陸地が増えてきたのであった。(右の図は島村英紀『新・地震をさぐる』から)

 この階段は房総半島南端の西部にある館山市から、半島の南端をまわって東側の南房総市千倉(ちくら)まで30キロも続いている。つまり東京ドーム300個分もの広さの土地が、地震で増えたことになる。

 一回の地震で海底が飛び上がって陸地になった高さは、たとえば半島南端の野島崎で大正関東地震のときに1.8メートル。その先代の元禄関東地震(1703年)のときにはずっと大きく5メートル。これは地震が大きかったせいである。

 なお、ここにある野島崎灯台は大正関東地震で下から5分の1ほどのところで折れて倒壊してしまった。この灯台は東京湾に出入りする船にとって重要な目印なので、洋式灯台としては観音埼灯台(神奈川県横須賀市)に続いて日本で2番目、1870年に点灯したものだ。設計したのはフランス人技師だった。

 この灯台が立っている野島崎は、元禄関東地震のときにそれまでは沖合の島だったのが、陸地とくっついたものだ。(左の写真。2012年7月。島村英紀撮影)

 元禄関東地震で新しく生まれた土地を村人が平等に分けたという伝承がある。水田のほか、畑にしたり、イワシや網の干場にしたことも記録されている。一方、隆起した陸地が増えたために村境争いが起きるなど、いろいろな悲喜劇があった。

 いま観光客に人気の和田や白浜など南房総市のお花畑は、もと海底、いまは海岸段丘になっている平地に拡がっているものだ。

 ところで元禄関東地震よりもっと先代の地震のことは歴史史料には残っていない。このため正確にはいつ起きた地震か、どんな地震だったのかは分かっていない。

 しかし段丘の地球科学的な調査からは、少なくともあと3回、元禄関東地震なみの大地震があって、同じくらいの大きさの海岸段丘が作られたことが分かっている。今から約3000年前、約5000年前と約7200年前だ。そのほかに、大正関東地震のときなみの小さめの段丘がそれぞれの間にはさまっている。

 この関東地震のメカニズムは海溝型地震だから、日本人が日本に住み着くはるか前から、何千回も繰り返してきている。私たちは、そのうちで、ごく近年のものだけしか知らないのである。

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