島村英紀『夕刊フジ』 2017年6月9日(金曜)。4面。コラムその201「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識」 

大地震にかけられた「あらぬ疑い」
『夕刊フジ』公式ホームページの題は「大地震にかけられた「あらぬ疑い」…新潟水俣病もそのひとつ」

 地震が「あらぬ疑い」をかけられることがある。

 ちょうど53年前の1964年6月に新潟地震が起きた。マグニチュード(M)は7.5。この地震は地震史上で最大のコンビナート火災を起こした。

 一般の家からは火は出なかった。しかし新潟市内の石油製油所と貯蔵所4カ所から出火し、なかでも昭和石油新潟製油所の巨大な石油タンクが12日間も燃え続けたのだ。東京消防庁や米軍の応援まで得てようやく鎮火したが、近くの住宅60棟が全焼した。

 私が学生のころ、地震学者の大先生が作った地図では新潟が日本でいちばん地震がないところとされていた。だが、その直後に起きたのが、この新潟地震だった。

 この先生の研究に限らず、将来の地震危険度を表した地図はいくつもある。政府の委員会も権威があるはずの地図を毎年発表している。

 しかし、どの地図でも、安全だとされたところにその後、地震が起きている。たとえば2005年に起きた福岡県西方沖地震(M7.0)は日本史上初めて起きた地震だったのでまったくのノーマークだった。過去の歴史から将来の地震を予想することはかくも難しい。

 新潟地震では26名がなくなったほか、開通直後だった市内の昭和大橋が崩落したり、液状化で4階建ての県営川岸町アパートが倒れた。新潟県ばかりではなく秋田、山形など8県でも被害が出た。

 他方、この新潟地震が「濡れ衣」を着せられたこともある。

 当時は熊本県の水俣病が明らかになりかかっていた時代だった。1965年、新潟大学は、新潟県の阿賀野川流域で有機水銀中毒と見られる患者が発生していると発表した。新潟水俣病あるいは第二水俣病だ。

 原因企業は昭和電工だった。昭和電工鹿瀬工場(のちに鹿瀬電工、その後新潟昭和の傘下に入った)でアセトアルデヒドを生産するときに、水俣のチッソと同じようにメチル水銀を処理せずに川に流していたのだ。このため川で獲れた魚介類を食べていた人々の体に有機水銀が蓄積されて水俣病が発病したのである。

 だが昭和電工は水俣のチッソと同じく原因を隠そうとした。患者が起こした損害賠償請求訴訟では、昭和電工側は「原因は新潟地震によって川に流出した農薬」と主張した。新潟地震で水銀系の農薬を保管していた新潟港の埠頭(ふとう)にある倉庫が浸水する被害を受け、そのとき農薬が流出したというのである。

 しかし、農薬として使用されていた水銀はほとんどがフェニル水銀で、水銀中毒の原因物質となったメチル水銀ではない。また新潟県当局も被災した農薬の全量を調査していて、農薬は安全に処理されていたことを確認していた。

 昭和電工が主張していた農薬説の根拠は、第一次訴訟までに被害を訴えていた患者が河口近くの下流域にしかいなかったことだった。

 だがその後、農薬が流れ出した場所よりもずっと上流の地域にも患者が発生していたことが明らかになった。地震原因説は崩れたのだ。

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