島村英紀『夕刊フジ』 2019年6月21日(金曜)。4面。コラムその302「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識」 

1771年--住民の半数が犠牲になった石垣島 確実に来る「次」の大津波
『夕刊フジ』公式ホームページの題は「確実に来る「次」の大津波 1771年、住民の半数が犠牲になった石垣島」

 山形県沖の日本海で地震が起きて、津波注意報が出た。幸い、注意報よりも小さな津波だった。

 私の学生時代、日本最大の高さ100メートルにもなった津波のことを教わった。1771年に沖縄・石垣島の住民の約半数が犠牲になった「明和の大津波」のことだ。「八重山大津波」とも呼ばれている。

 八重山諸島の政治と経済と文化の中心だった石垣島が壊滅的打撃を被った。当時、石垣島の人口の49%にもなる約8000人が、また八重山諸島全体でも32%の約9000人が死亡・行方不明になった。人口割にしても大変な災害だった。宮古・八重山の両諸島で死者行方不明者は12000人以上、家屋流失は2000戸以上にものぼった。

 近年の調査では100メートルということはなく、最大遡上高が30メートルくらいだったことが明らかになっているが、それにしても大きな津波だった。

 地震としてはそれほど大きくはなかった。震源に近い石垣島でも震度4。地震動による被害はなかった。その割に津波が大きかったのは地震断層が起こした津波だけではなくて、海底地滑りが起きたと思われている。

 世界各地で、地震が直接発生させるよりも大きな津波が起きたことがある。グリーンランドやニュージーランドで、マグニチュード(M)4クラスの小地震でも大きな津波が生まれて被害を生んだことがある。

 日本でも2009年に駿河湾で起きた地震(M6.5)のときは、地震断層が起こしたより倍以上も高い津波が来た。これも海底地滑りが津波を起こしたものだった。

 ただ、この沖縄の1771年の海底地滑りがどこで起きたのかは、まだ見つかっていない。

 じつは当時の沖縄は「琉球王国」で、年号も日本の「明和」は使っておらず、中国の元号を取って「乾隆大津波」と言われていた。

 津波は後をひいた。耕作可能地の多くが塩害の影響をうけ、農作物の生産が低迷して飢饉(ききん)が続いた。また疫病も流行った。

 琉球王朝は被害復興のため、被害が大きかった地域に他の島から入植させる政策を行った。しかし明治時代初頭でさえ人口は地震前の3分の1ほどにしか回復しなかった。

 移住者たちは違う方言を話していた地域から移り住んだから、方言、風習、芸能が21世紀になっても石垣市街の中心部とは違いがある。

 石垣市では毎年、明和の大津波が発生した4月24日に慰霊祭を開催している。今年は約200人が参列して、市内の小中学校の児童・生徒が明和の大津波などを教訓にして、防災意識の重要性を訴える作文を朗読した。

 恐ろしいことに、最近の研究では150年から400年の周期で大規模な津波が来襲したことが分かって来た。過去2400年間の調査だ。

 私たちは、その最後のものしか知らないのだ。「次」がいつかは今の学問では分からない。だが、確実に「次」が来る。周期から見ると、いつ襲ってきても不思議ではない時期になっているというべきであろう。

 現在は地震のMと海底の地震断層の動きから津波の高さを予測している。しかし、海底地滑りはその予測を超えるものかもしれないのだ。

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