島村英紀『夕刊フジ』 2020年10月30日(金曜)。4面。コラムその371「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識」 

地球で一番深く掘られた穴
『夕刊フジ』公式ホームページの題は「世界で一番深く掘られた穴 地球物理学の常識をくつがえした「コラ半島」の掘削」

 さびた鉄材が散らばった中に、12本のボルトで密封された蓋がある。いまは廃墟になっているが、この穴の深さは世界一で12キロメートルもある。

 この穴はロシアの北西部にあるコラ半島ムルマンスク市の近くで20年間、掘り続けられた。江戸時代に禅海和尚が30年かかって掘り抜いた大分の「青の洞門」に匹敵する気の長さだ。

 掘削は深くなるほど大変で時間もかかる。だが高い温度は想定外の大敵だった。深さ15キロメートルをめざしていたが、深さ12キロメートルでの温度が180℃にも達し、当初予想していた温度よりも80℃も高温だったために、通過することができなかった。結局、1994年に12キロメートルで打ち止めになった。


 しかしこの深さは世界一で、いまだにこの記録は破られていない。


 コラ半島の掘削は純粋に地球物理学のための実験で、ロシア(旧ソ連)の国内だけで3000人もの科学者が関与した大がかりなものだった。


 掘削の結果は、いままでの地球物理学の常識をいくつもくつがえした。


 いちばん違ったのは岩の種類だった。もともとコラ半島が選ばれたのは古い大陸の安定した地殻の見本のようなところで、その地下も教科書に載っているような典型的な大陸の地殻構造だからだった。つまり、花崗(かこう)岩質の層が玄武岩質の層に乗っている構造だ。岩質も弾性波の速度も違う。


 世界中の大陸の地下も、弾性波の速度から、ほぼ同じ構造だと思われている。大陸プレートの典型である。コラ半島では、その二つの層の境は7キロメートルだと推測されていた。つまりこの掘削で掘り抜ける深さのはずだった。


 その境とはどんなものか、なぜそこにそんな境があるのかは、よく分かってはいない。解明されるはずの謎解きに世界の期待が集まっていた。


 ところが、掘っても掘っても、出て来るのは花崗岩質の岩ばかりなのだ。


 世界の科学者はキツネにつままれた。教科書に書いてある事実はおろか、過去の研究方法の権威が問われるほどの事態になってしまったのだ。


 また、地球物理学者が地表のデータから綿密な計算をしていた地下の温度も違った。10キロメートルの深さで100℃だったはずが200℃もあった。掘削を止めざるを得なかったのも、この高温のせいだ。


 岩の種類も温度も、事前の予想より違った理由は、いまだに分からない。その後、ドイツやスウェーデンで地球物理学のための深い穴掘りが続いたが、いずれも7、8キロメートル止まりだった。この謎は解けないままだ。


 一方、日本では熱心な研究者たちが実現のために奔走した。だがゼニにならない学問だけに費用のメドは立たなかった。


 そんな大金があったら他の科学の振興にまわすべきではないか、一ケ所だけに穴を掘るのは、狭いウサギ小屋に巨大なテレビを買うような一点豪華主義ではないか、という批判が強かったのだ。


 世界一深い穴。しかし12キロメートルでも地球の半径のわずか500分の1にすぎない。サッカーボールの縫い目よりも浅い。人類はそれより中のものを見たことも触ったこともないのである。


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