私の講義「地震と人間」で高い評点を得た学生のレポート

  《科学・技術の世界》 「地震と人間」レポート -1

工学部物理工学系 1年 (レポートは実名。ここでは匿名希望、札幌南高出身)


 兵庫県南部地震が起こった時、私はまだ小学生であった。ずいぶん昔のことの様に思えるが、私の意識としては、もう7年も経ったのかというのが実際である。朝起きてくるとテレビで崩壊した街が次々と映されていたのを鮮明に覚えている。あれから7年、大学に入学し、日本全国から生徒が集まると自然と兵庫からも来た人もいる。自己紹介の時には決まって出身地を聞くことになるのだが、兵庫と聞くといまだに地震のことをたずねてしまう。他の人も同様で、兵庫県南部地震が我々に与えた影響はずいぶん大きかったのだと、今更ながらに思う。

 地震に関しての、様々な考察は教科書に与えられているが、ここでは私なりの考察、特に地震の被害と対策について、いくつか興味をもったものを挙げながら論じたいと思う。

コンクリートは地震に耐え得るか

 コンクリートは非常に扱いやすく、便利である。現在の建築物のほとんどに用いられ、非常に強いと印象を与える。だが、果たして本当にそうなのだろうか。兵庫県南部地震での阪神高速道路の倒壊は多くの人に計り知れないショックを与えたであろう。専門家からは絶対の保証付であった、この高速道路。一体、何が原因であったのか。そして、最大の疑問、首都高を始めとする全国の高速道路は兵庫県南部地震と同等の地震に耐えられるのだろうか。私は無理だと考えている。ここでは、特に首都高に限って考察したい。

 戦後、瓦礫の山と化した東京は皮肉なことに都市計画を志すものにとっては恰好の場であったのだ。都市計画とは、本来、確固とした先見性に裏打ちされて、徐々にではあるが確実に進行していなければならない。しかし、近代日本の都市計画の特徴は、平時においては、都市計画に対する政府、自治体、大衆の理解が得られず、財源不足の為に計画がなかなか具現化しない。都市計画が日の目を見るのは、残念なことに大災害などの非常時でなければ、国家的行事の際に限定される。

 大衆の理解を得た形で都市計画を進めてきた、東京。東京オリンピックの開催は、その都市計画の流れを加速させる。ここに至って、首都高の建設が俄然真実味を帯びてきたのである。本レポートの趣旨ではないので、完成までの政治的、経済的な問題は割愛するが、ここに大きな問題があったのは言うまでもない。推敲に推敲を重ね、計画された首都高は、終に完成する。そして、現在。首都高の実状はというと、惨憺たるものである。各方面からの苦情が絶えない状況にあるのだが、最大の問題は一見すればすぐ理解できる。この首都高、実は崩れかかっているのである。高架道路を支える柱から、道路面まで、至る所にひび割れが生じ、悪いところではコンクリート内部の鉄筋が見えているのである。

 これが、大地震に耐えられるのであろうか。専門家の中には耐えられると言い張る愚か者もいるにはいる。だが、私には地震が起こらずして壊れそうでならない。日本は極めて地震の多い国である。地震だけではない。災害自体が多く、国は災害対策に尽力しなければならないのだ。地震学者が地震の備えをしていないとは一緒にならない。政府には責任があるのだ。

 問題の首都高。何故、ここまで劣化してしまったのであろうか。もちろん、想像を大きく超える交通量が原因でもあるのだが、主たる犯人は海砂である。コンクリートはセメントに砂と砂利と水を混ぜて造られる。この混ぜる比率によって、コンクリートの強度は大きく異なる。それゆえ、悪質な業者が跡を絶たず、政府は建築物の製造に関しては、全国一律の基準で造られたコンクリートを専門の業者を経由して使うように指示したのである。後ろでぐるぐる回している大きな車がコンクリートを運んでいるのはこの為だ。本来ならば建築現場で混ぜれば良いコンクリートを様々な理由から建設現場では造れなくなったのだ。そこで、コンクリート中の砂や砂利が沈殿しない様に混ぜながらコンクリートを運ぶことになった。決して、固まらない様に回転しているわけではないのである。だが、ここに問題があった。

 あらゆる、建築物のコンクリートをまとめて製造するこのシステム、一見すると非常に効率が良いようである。しかし、一括して製造することが、海砂の利用を促したのもまた事実である。コンクリート中の砂には海砂を利用したのである。ショベルカーで一気に掻き揚げて、トラックで運ぶ。コストも少なく理想の手段に思われた。だが、強固なコンクリートは実は塩が天敵なのである。コンクリートは塩に弱く、劣化しやすくなってしまう。海砂にはもちろん、塩化ナトリウムが大量に含まれている。その為、潮風や波飛沫が届かない内陸地においても、コンクリートが異常な劣化を始めてしまう。授業で見たビデオの中で、フランス領の何とか島の大学が崩れかかっていたのは同様の理由だと考えられる。加えて、海岸沿い立地していることが崩壊を助長したと考えられる。

 当時の東京の財政や技術力などを考えれば、仕方のないことかもしれないが、十分に予期できたことである。これは、間違いなく国の責任である。首都高だけではない。同時期に造られたRC造の建築物、所謂鉄筋コンクリートは全て、首都高と同じ状態にあると考えてよい。ただでさえ壊れかかっているのに、そこに地震が起こればひとたまりもないであろうことは自明である。首都高の強度に自信がある人たちは、こういった劣化を考慮していないのであろうか。高層ビルは共振するから尚更揺れが大きく、倒壊する確率は高くなる。東京においてはそれほど大きくない地震でも被害は甚大であろう。これは明らかに人災である。自らの技術力に慢心していると、いつか足をすくわれるかもしれない。新たな技術は新たな災害を生む。それは仕方のないことだが、地震はいつどこで起こるかわからないのである。だからこそ、兼ねてより備えが重要である、と私は思う。


  ガラスはコンクリートより丈夫か


 幸いにして、現在では海砂は使われなくなっているが、今でも海砂を使用した建物が残っていることに変りはない。では、今後どのような建築物が望まれるのだろうか。兵庫県南部地震で倒壊した多くの建築物の中で、被害を免れた建築物もある。それらの建築物の中で、興味を引かれるものは、比較的ガラス張りの建物が多いことである。コンクリートでがっちり固められた建物は、揺れると建物自体が一つの塊として揺れることになる。その為、多くの箇所に負荷がかかり損傷するわけだが、ガラス張りの場合、ある程度まで揺れを吸収する余裕が生まれる。地震が起こると、ガラスが粉々に砕け散ってしまいそうで、脆そうに思えるが、実は建物自体には被害は少ないのである。

 よく日本刀に求められるものとして、「折れず、曲がらず、よく切れる」という言葉がある。折れない為には柔らかく、曲がらない為には固く、よく切れるためにはさらに固くなければならない。相反する現実を絶妙のバランスを保って、造られたのが日本刀というわけだ。では、建物に求められるものはなんだろうか。もちろん、快適性など様々だが、ここでは強度に注目して、「倒れず、崩れず、長くもつ」ということにしよう。倒れない為には柔らかく、崩れない為には固く、長持ちするためにはさらに固くなければならない。

 柔らかい材質と言えば、木材やガラスである。固い、即ち強い材質はコンクリートである。問題はどちらを取るかであるが、最近では、より強いコンクリートを研究することで、強度を増そうとしているようだ。最近の研究により、コンクリートの強度は劇的に向上した。コンクリートそのものだけでなく、周りに鉄を巻きつけることで強度を増したり、あの手この手が尽くされている。しかし、強ければ良いかというと、そうでもない。その強度を維持しつづけることが重要なのである。コンクリートの強度が増せば、コンクリート自体は長持ちする。だが、建物が長持ちするかと言われれば、別な話だ。コンクリートは思っているよりずっとアルカリの度が強くpHはなんと13もある。内部の鉄はpH11以下で腐食し出すので、常にコンクリートのpHを11以上に保たなければならない。こういった、表には見えないところまで配慮しだしたことで、確実に建物の強度は保たれ、災害時の被害は減少する。少しずつではあるが先は明るくなってきているのだ。

 しかし、地盤などの自然要因は改良することは不可能である。既に、そこに都市がある以上、そこに建物を建てなくてはならないのである。これについては国が積極的に動くしかない。新たな技術は新たな災害を生む。地震波の伝播や液状化の有無、地盤の調査を行って、行政に反映させなくてはならない。住民も素直にそれを受け入れるべきであろう。インターネットの普及で最新の情報を素早く手に入れることが可能になった。最新の研究結果は素早く行政に反映させなくてはならない。

 学問の境界は日々薄れてきていると言われている。様々な分野と協力しながらでなければ、時代を切り開いて行くことはできない。政府の様にくだらない利権に左右されていては、いつまで経っても、本来の目的は達成できない。今後一層の、関係各部の協力を願うばかりだ。


  見ないのか、見えてないのか


 地震の際に、地面が裂けたりするのは良くある。日本には断層が多く、目に見えない地中においても何かしら起こっていると考えるのが普通だ。ところが、その地中で断層がずれた時に、地下に人口の「何か」があった場合はどうなるのだろうか。それが、地下街なら目に見えるし、大きなニュースになるだろうが、問題は目に見えずして、甚大な被害を及ぼす場合である。核廃棄物である。今だ嘗てこのような事態は起こっていないし、起こる確率も低いのだろうが、そんなことで良いのだろうか。

 日本でも、毎年多くの核廃棄物が出ている。それらは、半減期が極めて長く、処理のしようがない。結局のところ、どうする手立てもなく、ただ埋めるだけというのが国の対応である。半減期はおおよそ1000年単位であるから、それを封じている容器も1000年単位でもたなければならない。しかし、現在はチェルノブイリと同じく、コンクリートに詰めているだけなのだ。現在のコンクリート技術ではせいぜい100年しかもたない。最も適していると言われている、チタンはコストが高く使い物にならない。現状ではコンクリートに頼るしかないのである。

 そのコンクリート容器、一体何処に埋めているのだろうか。断層の裂け目に沿って埋められている可能性も否定できないのではないだろうか。いざ、地震が起こり、地中で地震エネルギーがコンクリートに伝われば、内部の核廃棄物が、漏れ出すことも十分に考えられる。そこのところの対策はなされているのか、詳しいことはわからないが、コンクリートに廃棄物を詰めている現状を考えれば、十分になされているとは考えにくい。大地震が起こらないと考えられていたところでも、容赦なく大地震は起こるのである。はたして、そういう危機感があるのかさえも怪しいのだが。テレビの特集などでも、廃棄物の処理については述べられても、埋設後の話には進まない。いずれ、誰かが警鐘を鳴らさなくてはなるまい。

 他の部署の縄張りに足を踏み入れるのはよく思われない為に、日本ではこういった異分野間の連携が一向に進まない。分野と分野の隙間を埋めるような部分では、問題が山積みである。特に、核廃棄物に関しては地中のコンクリートに何が起こっているか把握できないことが問題である。それに気付くことができるのは、周囲の環境に異常をきたしてからである。日本の後手後手政策はいずれ、取り返しのつかない事態を招いてしまうかもしれない。これについては完全に国の責任である。わかっているものを、気付かない振りをしてやり過ごす。結果は目に見えている。しかし、損害を被るのは、決まって罪のない住民である。本当の恐怖には、気付くことすらできないのだ。

 社会事象は複雑に絡み合っている。それらを紐解くには、各分野で相互協力を惜しまないことももちろん大事だが、マルチなタレントを要する新規の人材が不可欠である。そういった意味で、大学が果たす役割は極めて重要だ。地球は生き物であるから、尚更、変化に富んでいる。嘗ては日本には見られなかった事象も、突如として見られることもある。常に危機感をもって接しなければ、本当の安全は得られないだろう。


  災害も流行


 ここまで、地震の主な被害と、今だ感知されていないであろう被害について私なりに論じてきたが、地震の被害と言うものは、もちろんこれだけにとどまらない。様々な被害が予想しうるし、予想だにしない被害に遭うこともあるだろう。それらの被害を、我々はテレビなどのマスメディアを通じて認識している。情報が速く、誰しもがそのマスメディアに頼り、何より、現場の悲惨さが如実に伝わってくる。視聴者には大きな衝撃を与え、心に響く。兵庫県南部地震で全国各地からボランティアが集まったのは、そういったことも要因の一つだろう。

 しかし、テレビもやはり商売で、視聴率を稼ぐ為には次から次へと新しい情報を発信し続けなくてはならない。視聴率にこだわるあまり、真実を捻じ曲げて発信することも問題となっている。だが、もっと大きな問題は、視聴者がテレビについて行ってしまうことである。テレビはその性格上、次々に新情報を発信するが、旧情報はほとんど発信しない。視聴者は、テレビの向うにあるものが現実だと錯覚してしまう為に、発信されない情報はないものだと決めつけてしまう。つまり、関心が次から次へと移ってしまいやすいのだ。

 百聞は一見にしかず、と言うぐらい、映像の効果は計り知れない。テレビで大地震の被害が報じられれば、視聴者は釘づけになり、問題意識を継続できる。だが、テレビが次なるニュースを放映し、地震については触れられなくなると、視聴者の地震についての意識は急速に薄れてしまう。映像は、見た一瞬は鮮烈だが、忘れる速さもまた速いのである。実際に被害にあった人には、一生に渡ってその記憶が忘れ去られることはない。地震の襲撃直後は、同情してくれた多くの人も、被害者に比べ急速に、地震のことを忘れてしまう。

 これが、映像の恐ろしさである、と私は思う。そう、災害もまた流行なのだ。嘗て群がった視聴者の興味は全く別なところに向いている。危機感も薄れ、同じ失敗を繰り返す。反省がいかされないのも当然であろう。本来、望むべきは被害を自分の目で見極めることである。だが、それができない以上、マスメディアに頼らずるをえなく、こうした事態は今後も改善されることがないだろう。できることなら、マスコミと当局の協力のもと心の灯を消さない様に努めなくてはならないだろう。新たな技術は新たな災害を生む。マスメディアという、現代に不可欠な技術が生み出した新たな問題である。これが、災害における最大の被害である、と私は思う。 


  神は偉大な数学者


 以上が私なりの地震における被害の主な見解である。もちろん、これらについて問題意識を持っていれば、地震が起こっても被害は少ないはずであろう。だが、被害を究極的に減らす手段として存在しつづけるのが、地震予知である。現在、日本では前兆さえ認識できれば地震の余地は確実だとされている。しかし、そんなことが不可能であるのは、誰しもが認識し始めている。しかし、政府が従来の体制を改めることは、責任問題に発展することなどを考慮して、するとは考えにくい。一体、どういう経緯でこういう事態に陥ってしまったのか。

 教科書によると、70年代の栄光に満ちた地震予知研究の反省として次のように記されている。震源で何が起こっているのか、なぜ前兆現象が起こるのかという研究がほとんど進んでいなかったにも関わらず、ひたすら前兆現象そのものを追いかけてきたというのだ。もちろん、それは政府の利権が絡んで、複雑な様相を呈していたであろう。しかし、データを集めて統計的に処理しようとしたこと事態が間違いであると思う。

 地球内部の震源付近では確かに統計的に規則正しく、前兆後に地震は起こるかもしれないが、地表の状態を予測するのは難しいと思われる。地盤の様子や、都市の形成、人間が様々な手を加えているために、地表での地震の様子を予測することは不可能である。まして、元になるデータが地表で取られたものである以上は。

 自然の動きを予想する学問は全て、その根幹の情報を判断材料にする。例えば、天気予報であれば、雲の状態、気温、気圧、湿度、風向き・・・天気形成の要因となる様々な情報を元に予想している。最近雨が降ってないから、そろそろ大量の雨が降るだろう。今、小雨が降ったから、そのうち雨が強くなるはずだ、とは決して予想しない。なぜ、天気が変わるのか、その要因を突き止めるのである。

 一方で地震の予知はというと、あまりに情けない。最近、地震がないからとか、小さな地震がきたから、それは余震だとか、という予想はあてにできるはずがない。はっきり言って、現在の地震予知研究は統計学なのである。地震が起こってから、こういうわけで予想できたと主張するのは、事後分析であって、予知の判断材料にはなりえない。現在、地震予知体制が大きな体質改善を望まれているのは間違いない。

 では、地球内部の事がわかれば、いずれは地震予知が可能なのだろうか。私は可能であると思う。私の尊敬するポール・ディラックが言うように「神が世界を創られた際、極めて高度な数学を用いられた」からである。即ち、自然の本質を表す数式は驚くほど簡単に記述できる。それを、ディラックは「数学的に簡明で、美しい式を、自然が採用しないはずはない」と述べている。これこそが、彼の研究理念であったのであるが、これが正しいのであれば、地球の内部の様子を詳しく観察し、高度な数学の知識を用いて地震の発生原因を突き止めることができれば、現在の天気予報のレベル程度にまで地震が予知できる未来が来るかもしれないと思うのである。

 予知以前に、まず前兆が起こる原因を突き止めなくては、前兆とみなすことはできない。ひたすらに結果だけを追い求めるのではなく、その過程を大事にして欲しい。地球は生き物であるから、地震の判断は難しい。いきなり、予知をすることは不可能である。まず、それを認めた上で、少しずつではあるが、されど確実に、意義のあることを研究してもらいたいと思う。


結び 地震と
人間


 ここまで、地震に対する被害と対策について、私なりに興味を持った視点から書いてみた。日本に住んでいる以上、地震を始めとする自然災害は避けられないものである。大切なのは、まずそのことを理解した上で開発を進めることである。無理な開発に対して、自然は必然的な結果をもって答えてくる。自然は生き物なのだ。人類は自然を利用することはできても、それだけである。自然の本質的な解明は、全くと言って良いほどなされていないのが現状である。自然の本質が解明されていない以上、元に戻すこともできないし、同じものを創るということは夢のまた夢である。だからこそ、慎重にならざるをえないはずである。しかし、現実には、奢り高ぶった人類が自然の声を無視して暴走してしまっている。人類の傲慢な態度に、自然が答える日も、そう遠くないのかもしれない。

 技術革新は、予想だにしない被害をもたらすことがしばしばである。技術革新と並んで、被害も進化するのである。どんなに、優れた技術が研究されたとしても、自然はその上を行っている。人間の身体と同じく、自然自体にも適応能力があるのだ。今までもそうであった様に、これからも間違いなく、人類の進歩と共に自然の進歩がある。それが進歩と言うかは別として、人類は自然の一部なのであるから当然のことである。抜きつ抜かれつ、進化を続けていく。人類の進歩と自然とは、決して交わることのない平行線の如く見える。だが、最も大切なことは、平行線は決して交わることがないものの、常にすぐ隣に存在していることである、と私は思う。


  《科学・技術の世界》 「地震と人間」レポート -2

理学部物理系1年 東 龍介 北海道北広島高出身


 私は、以前より地球科学に関心があり、その中でも特に、気象・地震などの分野に興味がありました。一学期は気象に関する講義を受講したので、二学期では地震に関する講義を受講しようと思いこの講義を選択しました。

 太古から大陸はプレートに乗って移動していることや、地震の発生するメカニズムなどは、『Newton』やNHKスペシャル、他の講義などを通して知識としてある程度取り入れていました。そのため、講義の内容には自分としては周知の事実のようなヵ所もあったので、さほど新鮮ではありませんでした

 『地震列島との共生』では、主に日本における事例について述べられていますが(タイトルにも「地震列島」とあるので当然と言えば当然)、取り上げられている地域が狭い分とてもわかりやすいものでした。過去に起きた地震や火山噴火ではどれほどの被害が出たのか。それと比べると、最近の災害はどういったものなのか。また、火山噴火はほぼ定期的であり周期も短いので予測しやすい。一方、地震は肉眼で見ることのできない地中深部で発生する上に、地震を再発させるエネルギーが貯まるまでの周期が長い場合もあるので、正確な予測すら立てられずにいる。

 私にとって特別新しい情報はあまりありませんでしたが、とても共感できる主張がありました。この文献の本題ともいえる「6 地震列島との共生」のパラグラフです。どのように共感できたか?と尋ねられると少々困ります。というのも、人間の自然に対する姿勢のあり方が、私の考え方とほとんど合致しているからです。地震活動も火山活動も、地球上に人間が誕生するはるか昔からあたりまえのように盛んに起きていたことです(地球のこれまでの歴史に比べれば)。台風の発生だって特別なことではありません。雨が降れば洪水や山崩れが起こる可能性は十分にあるし、逆に少雨だと干ばつを引き起こすこともあります。

 つまり、現在私たちが恐れているような自然災害はすべて、太古から何度も繰り返し起こってきたただの自然「現象」なのであって、地球からすれば大騒ぎするほどのことではないと思います。ここから現代人の身勝手さを感じ取ることができます。

  話がそれますが、最近話題になっている環境問題に地球温暖化があります。これまでのアイスコアなどの観測結果から、産業革命以降になってから温室効果ガスが急激に増加していることがわかっています。工場排ガス、自動車排ガス、冷蔵庫に使われているフロンなどが主な原因です。

  が、しかし、ある専門家は「焼畑農耕が二酸化炭素を増加させている」などというのです。こんな馬鹿な話がどこにあるでしょうか!生物は基本的に呼吸するので、CO2を吐き出すのはごく自然なことです。焼畑農耕は産業革命以前も行われていた伝統的な農法です。人間が化石燃料を大量に消費するようになり、いまになって海面上昇だの生態系の変化が予想されるだの騒ぎ立てても、現在の科学技術ではどうにもならないのです。私もその科学技術の恩恵を受けて生活している一人です。大半の人間は地震や火山活動などの自然現象をただの「災害」としか感じないのでしょう。

  しかし、都市に住む人間たち以外のあらゆる生物からすれば、人間の方がとんでもない疫病神なのだと思います。人間の土地開発のため、野生動物の生息域が減少する。そこに建てられたマンションやビルが、地震によって破壊される。そして人間は天災を恐れる。犠牲者の矛先は、必ずといっていいほど、建築会社や行政に向けられる。しかし、被告側は、事前調査のデータを挙げて自分たちの過ちを認めない。

  この文献で大いに賛成できることがあります。それは、日本政府はいつも対応が後手後手だということです。事件が起きてしまった後になって初めて慌てふためき、混乱して大した役割も果たせないうちに時間が経ってしまうのです。危機管理体制の厳格なチェック。惨事を起こさないためにも不可欠な要素です。

  私は思います。そもそも私たちはこれ以上何のために開発を進めるのでしょうか。土地を削り、森林を伐採すれば、山崩れや土砂災害の危険性が高まりますし、いくら斜面をコンクリートで補強しているといっても、所詮は人間のすること。自然の猛威にはかなうはずがありません。 地震大国である日本に暮らす私たち日本人がすべきことは、何事も専門家に頼りすぎず、一般人であっても自ら進んで科学に興味を持つようにし(HPの雑文にもありましたが、専門家が大衆の前で「無料」で講演するのは大事だと思います)、知識を蓄えるべきだと思います。

  また、メディアのあり方も問われるべきです。手に入れた情報をいかに早く大衆に届けるか、ではなく、しっかり審議して熟成させて、大衆に誤った知識を流し込んで混乱させないようにしなければならないと思うのです。

  人の力では真正面からはなかなか太刀打ちできない地震、火山噴火ですが、横道へそれる、つまり直撃を避け大惨事を防ぐことは、開発の時点までさかのぼれば可能なことだと、私は思うのです。このことが出来て、初めて、私たちは地震列島との共生が実現できるのだと思います。自然現象は受けるほかありません。

《科学・技術の世界》 「地震と人間」レポート -3

工学部物理工学系 1年 山本勝考 (札幌南高出身

 我々人間にとって地震とは災害以外の何者でもないものだ。地震が昔から災害であった理由には、まず人間の死が一番大きく、生き残った人間も家族の死に対する悲しみを心に残してしまう。また、本人が死の淵に立たされるということもある。今まで、生き埋めになって助けを求めながら死んでいった人間も多くいることだろう。破壊された住居の中に思い出の品々が埋もれてしまったという悲しみをしょって生きている人間もいる。

 人間はこのような苦しみを受けるたびに、次にまた起こるであろう地震をはじめとした災害に対して何とか対処しようと努力をしてきた。技術や科学が発達していなかった明治以前では、災害を神仏の仕業と考え、毎日お祈りをするしかなかったが、災害が起きないように願った。もしくは災害の兆候を観察して備えていた。災害のメカニズムが分かってきた現代では、長期のデータ収集や技術の発展によって、台風などの気象的災害をある程度予測できるようになった。また、予測が困難な地震に対しても、耐震構造の建築方法を研究してきた。

 しかし、人間はその努力を自ら無駄にしてきた。人間は考えが甘かった。科学が発達して人間は自然に手を加えるようになり、自分たちは自然を支配していると思い込むようになった。そして、自然を甘く見た結果、阪神淡路大震災のような被害を生んだのだ。

 日本の場合大規模な地震は、どこでも起こる可能性があるとわかっているのに、地震の頻度が低く、起こっても小さなものだといった経験だけで、少ない可能性を捨ててしまった。逆に地震が良く起こる地域を決めて、限定的に地震対策を行ってしまったがために、自然に不意打ちを食らってしまったのがあの大震災だった。実際、阪神大震災の地震よりも規模の大きい地震が釧路沖で起こったが、そこの地域は地震が多く、対策が阪神地域よりも進められていたので、被害に遭った人や建物の数は阪神淡路大震災よりも相対的に少なかった。

 また、この阪神大震災では、倒れたビルの手抜き工事はもちろんのこと、耐震の基準そのものについても考えの甘さがあったことが、地震に強く造られた鉄道の高架橋が崩壊したことで露呈した。この程度ならいいだろう、という安易な考えが研究者の中にもあったのかもしれない。

 「壊れたらまた建て直せばいい」、とか、「壊れてから新しくすればいい」といった考えも、危険事態を招く土台となっている。消費者にとっては壊れてから買い換えるのは当たり前だが、ある程度大きさのあるものは、古さが危険を招く。政府も、壊れてからでは遅いということはわかっているはずだが、人間がもつ甘さのために、ずるずると引きずってきたのではないだろうか。

 このような考えの甘さはどこから生まれるのかと考えると、行き着く先はやはりお金の問題だろう。税金を効率よく使うために無駄な出費をいかにして減らすかが政府の課題のひとつであり、それは政府を国民に置き換えると賢い消費者であるための条件でもある。ここで重要なのは、どれが無駄な出費であるかの判断である。これに失敗すると損することになり、悪い時では阪神淡路大震災のように、古い建築基準でそのまま使われ続けたビルが倒れて死者が出るなどという危険な事態を招くことにもなる。

  しかし、政府はまるで失敗を恐れていないかのように、安易に判断している部分があるように思われる。日本は「地震の国」であり、「地域によっては地震が起こる国」ではないのだ。必ず起こる震災に備えて、地震対策を全国に推し進めていくことは、決して無駄な出費ではないので、予算を拡大すべきである。そのためには、無駄に予算を使っている機関を減らしたりまとめたり、無駄な公共事業を見直す、赤字が見えている高速道路建設を中止するなどの、いろいろな予算抽出の方法をとるべきだが、今は、これらのような税金の無駄遣い事業の問題や不良債権問題など、政府のお金に関する問題が山積みのようなので、地震対策の前にひとつずつ処理していくのが先決になっていて、先は見えてこない。

 もう一つのお金の問題に、震災の被災者への救済がある。住宅を失った人々の中には、仮設住宅に入居できない人、あるいは、入居できても期限内に新しい住居を見つけることができない人がいる。そのような状況の中で、以前の住宅のローンを払い続けなければならない人も多数いる。政府はこのような人々に給付金を出すが、ローンの足しにはならず、新しい住居に移るための一時的な援助に過ぎない。今はもう存在しないものにお金を払い続け、なおかつ新しい家にもお金を払う、という悲惨な状況も見られる。このような状況を目の当たりにしているのだから、援助を優先して、どこか別に割り当てられた予算から融通すればいいのだが、後でお金を返すのが困難になるので大金は動かせない。

  やはり、防災対策と同じように、根っこにあるのは予算の割り振りであり、適切な予算計画をするべきである。それには、将来起こりうる災害の規模と、そこから想定される被害状況を把握していることが前提となる。しかし、起こりうる最大の地震は大体わかっているのだが、肝心の被害状況が、阪神地域では把握されてなかった。「関西では大地震は起きないだろう」という、万が一のための備えとはまったく逆方向の予測が、「もし、日本有数の人口密集地で大地震が起きたらどうなるのか」という、誰もが想像したことがある状況を、考慮に入れさせなかったのである。

 阪神淡路大震災は、現代の日本人に新たな教訓を与え、この悲劇を二度と繰り返さないために、この経験から新たな基準で地震対策が推し進められている。一方、日本では地震が起こる前に対処しようと、地震の兆候と予知の研究をしてきた。

  しかし、地震と兆候の関係を解明しようとすることは、果たして本当に必要なことなのであろうか。もし、地震が予知できるようになれば、地震による死者は激減するだろうし、大切なものを持って逃げることもできるだろう。だが、有珠山噴火による避難のときのように、火事場泥棒が発生する可能性もあるだろうし、建物の被害もあまり変わらないだろう。また、数ヶ月、あるいは数年前から予知できるとする。すると、地震がくる前に引っ越す人が増えて、町の経済基盤に影響が出るし、一戸建てが減り、マンションがアパートに変わるだろう。すると、今までの市場経済が一変し、混乱を招くことになるだろう。死傷者が減るだけでも、地震予知は大変役に立つが、結局は地震時の対策が必要であり、科学的に説明できるかどうかわからない兆候について研究するよりも、科学的なメカニズムである地震の、まだ解明されていない部分を研究したほうが、科学が支配するこの時代には、より重要である。

 地震による被害は、科学技術の発展によって増大したと言える。戦後の高度経済成長など、近年の経済と技術の発展は、莫大な人口増加を促し、都市に人口が集中した。それに伴い、宅地造成、住宅建設が進み、都市は密集した。しかし、地震対策は急速な都市拡大に覆い隠されてしまった。これは朝三暮四、目先の利益だけを考えて発展を目指した結果ではないだろうか。人間もサルと同様であったのである。これからも地震は人間を襲いつづけ、逃れることはできない。技術発展は偏りなく多分野においてなされるべきである。

 今後、いくつもの大地震が人間を襲うが、それは地震にとっては今までとは変わらないことである。変わったのは人間であり、変わらなくてはならないのも人間である。人間はこれからも発展していくだろうが、これまでの経験を新たな基盤として、21世紀、「新・地震と人間」の世界を構築するとよいのだと思う。

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