首都圏のごく浅いところに「地震の巣」
安政江戸地震の新事実
関東大震災を起こした大正関東地震(1923年)とその「先代」について話してきた。これらは日本を襲う二種類の地震のうちのひとつ、「海溝型地震」である。
しかし、首都圏を襲う地震はこれだけではない。もうひとつの種類「直下型地震」も、甚大な被害をたびたび生んできた。
たとえば直下型地震としては日本最大の死者数、約1万人を生んだのは1855年(安政2年)の安政江戸地震だった。直下型ゆえ、被害は直径20キロあまりの狭い範囲に集中していたが、そこにちょうど江戸の下町があったのが不幸だった。
なかでも被害が大きかったのが江戸城の外濠に囲まれた区域で、老中や大名の屋敷が立ち並んでいたところだった。小川町、小石川、下谷、浅草や日比谷の入江埋立地、本所、深川といった埋立地でも被害が目立った。
しかしこれでも死者数は過小だという説がある。町の住民についてだけは町役人の公式報告がある。だが諸国からの出稼ぎ者、流入窮民などの実態は分かっておらず、それゆえ公式報告から漏れた可能性が大きいからである。
そもそも江戸にあった各藩の屋敷にいた武家人口そのものが秘密であったうえ、各藩にとって、いわば弱みをさらけ出すことになる死傷者数は極秘事項だったこともある。
水戸藩では小石川、駒込、本所の三ヶ所にあった藩邸がすべて壊滅的な被害をこうむって、藤田東湖と戸田蓬軒という藩主・水戸斉昭の両腕の名士が圧死した。西郷隆盛は師と仰いだ藤田東湖の死を知って興奮のあまり自ら髷(まげ)を切ろうとしたが、同僚に止められたという話が残っている。
ところで、当時は地震計はもちろんなかったから、正確な震源の位置や深さは分からない。
だが被害の分布から見れば震源は明らかに荒川の河口近くにあった。
一方、震源の深さは比較的深いのではないかという学説が強かった。震源が深いほど、遠くまで強い震度が伝わる。震度4相当の揺れだった地域が500キロ以上も離れた宮城県石巻、新潟県、岐阜県、愛知県豊川といった広い範囲に広がっていたことが根拠だった。
ところが最近の研究で、この地震は浅い地震だったことが明らかになった。震源が浅くても遠くまで伝わる「地殻内トラップS波」の存在が証明されて、遠くまで強い揺れが伝わったナゾが解けたからだ。この地震が北米プレートの浅い地殻内で起きたのが分かったことになる。
つまり首都圏には、ごく浅いところにも「地震の巣」があって、安政江戸地震を引きおこしたのだ。
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