島村英紀『夕刊フジ』 2014年6月20日(金曜)。5面。コラムその56 「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識」

日本特有 震度「10段階」のワケ
夕刊フジの公式ホームページでの副題は「国際的な震度は”12段階”」

 震度7の地震なのに、震度6としか記録されなかった地震がある。

 その地震は福井地震(1948年)。マグニチュード(M)は7.1。九頭竜(くずりゅう)川の柔らかい堆積物がたまった福井平野の北部では98 - 100 %もの家が倒壊してしまった町や村もあった。

 地震が起きたのは夕方だったので屋外で農作業をしていた人も多かったが、それでも3800人余の犠牲者が出た。そのほとんどは福井市と坂井郡(現坂井市)に集中していた。人口比でいえば日本史上最大級の死者を生んでしまった。

 ところで、この地震が起きたことを東京の気象庁(当時は中央気象台)は翌日まで知らなかった。

 当時は地震計の記録は現在のようにオンラインで東京に送る仕組みはなく、震度だけを東京に電報で知らせることになっていた。

 福井県には福井地方気象台に地震計が1台あるだけだった。第二次世界大戦後3年しかたっておらず、この気象台も大戦での米軍の空襲で全焼してバラックの仮庁舎にいた。この庁舎が地震で全壊したので電報が送れなかったのだ。

 このため、東京の気象庁に届いたのは近隣の県からの最大震度4という地震の電報だけだった。震度4なら珍しくはない。こうして大地震も、大被害も知らなかったのである。

 この福井地震での最大の震度は6と記録されている。いまなら当然、震度7だったが当時の震度は6までしかなかったからだ。この福井地震の大被害を見て翌年気象庁は震度階に震度7を追加した。

 そもそも日本で震度を初めて決めたのは明治時代の1884年だった。そのときには微震、弱震、強震、烈震の4段階しかなかった。

 その後、濃尾地震(のうびじしん。1891年)や大津波による甚大な被害を生んだ明治三陸地震津波(1896年)の大地震後の1898年には7段階になった。

 弱震を「弱い弱震」と「弱震」に、強震を「弱い強震」と「強震」に分けて6段階とし、さらに人体には感じない「微震(感覚ナシ)」をつけ足して合計7段階としたものだった。

 「弱い弱震」とか「弱い強震」は、なんともへんな名前だった。さすがに評判が悪かったのか、昭和三陸地震(1933年)のあとの1936年には7段階のまま、「弱い弱震」を軽震、「弱い強震」を中震と名前を変えた。

 そして福井地震の翌年には、さらに震度7の「激震」を足した。

 こうして、無感、微震、軽震、弱震、中震、強震、烈震、激震の8段階になった。それぞれが数字に対応していて震度0から震度7までとされた。

 さらに1995年の阪神淡路大震災以後、気象庁は震度の震度6と5をそれぞれ強弱の2つに分け、全体で10段階にした。

 だが世界でこの震度を使っているのは日本だけだ。世界のほとんどの国は12段階の国際的な震度を使っている。

 なお韓国では2001年に日本式の震度をやめ、国際的な12段階のものに変更した。かつての植民地だった韓国は日本風の震度を「押しつけられた」と感じたのだろう。


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