島村英紀『夕刊フジ』 2015年3月13日(金曜)。5面。コラムその93 「警戒せよ! 生死を分ける地震の基礎知識」

警察署長がウソついた「諏訪大地震」
『夕刊フジ』公式ホームページでのタイトルは「警察署長がウソついた「諏訪大地震」 資料も焼却」

 第二次世界大戦が終わりかけていたころのことだ。1944年12月7日に大地震が長野県諏訪(すわ)地方を襲って大きな被害を生んだ。

 地震後2時間あまりで諏訪警察署長の布告が出た。「本日午後1時40分ごろ、諏訪市を震源とする地震発生。市内に大きな損害が出たが郡民は流言に惑わされず、復旧と生産に励め」とあった。

 諏訪地方では建物の損壊が300棟を超え、多くの死者も出るなど大被害を生んでいた。

 なかでも諏訪湖の南に集中していた多くの軍需工場が大被害をこうむった。学徒動員や工員に多数の死傷者が出た。

 軍需工場が数多く倒壊したのは昔の田圃など地盤が悪いところに建てられていただけではなくて、建物の木材も細く、筋交い(すじかい)のような補強材も不足していたからだ。つまり、戦争末期になってからあわてて作られた工場だった。

 大昔の諏訪湖はいまより倍くらいも大きかった。その南側が川が運んできた堆積物で埋まり、人々は田圃を作った。それゆえ湖の南側は地盤が軟弱で、地震の被害が大きくなりやすい。

 しかし警察署長の布告はウソだった。震源は諏訪ではなく、200キロメートル以上も南で起きた東南海地震(マグニチュード(M)7.9)だったのだ。この地震は愛知県から三重県の沖にかけての海底で起きた海溝型地震で、いま恐れられている南海トラフ地震の「先祖」のひとつだ。

 愛知県とその周辺では被害は甚大だった。とくに名古屋市を中心とした中京地域は航空機産業の中心だったため、軍用機を生産する工場が壊滅的な被害を受けて「逆神風」と言われたほどだった。

 この東南海地震は新聞やラジオでは軍部の意向で、ほとんど報道されなかった。戦争中だったために厳重な報道管制が敷かれていたからだ。軍需工場の被害を伏せるためと国民の戦意を低下させたくないないという軍部や日本政府の思惑があったのである。

 なお、このころ太平洋やアジア各地で日本軍の敗退や玉砕が続いており、これらの情報も同じ理由から報道されていなかった。

 東南海地震では死者行方不明者数は1200名余、住宅の全半壊は54000軒とされている。だが被害は報道されなかった。

 また、被害を受けた各地の住民も「被害について話さないように、話すことはスパイ行為に等しい」と指示された。

 諏訪警察署長は、東南海地震について知っていたに違いない。戦後調べたところでは、諏訪市役所にあった地震関係の資料も戦時中の資料とともに、軍部の命令ですべて焼かれていた。

 長野県民は長らくこの地震の真相を知らないままだった。

 この「諏訪大地震」がじつは東南海地震だったということが地元の研究家によって地震学会で発表されたのは1987年になってからだ。地震後40年も後だった。

 諏訪は長野県内では唯一の被災地だった。地盤のせいで震源に近い飯田市や伊那市よりはずっと大きな被害が出てしまったのだ。

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