『ディアログ・(Dialogues)』(アリアンス・フランセーズ・大阪発行)、第4号、1987年9月、18−23頁

フランス人に出来て、日本人に出来ないこと
原題は「日仏・初の共同海底調査――成功した深海潜水調査」

 (1)KAIKO計画の成功

 深い海の底は、人間にとって未知の世界である。そこにはどんな生物がいて、どんな生活をしているのか、また海の底はどんなありさまで、どんな岩があるのか、といったことは、まだほとんど知られていない。

 KAIKO(日仏日本海溝共同調査)計画は1984、85の両年に日本とフランスが共同で行った潜水計画で、多くの科学的な成果をおさめて終った。この成功を足がかりにして、2、3年後に計画されている第二次の日仏共同調査の計画が、いま、練られている。

 この第一次の計画には、7年にもわたる準備が必要だった。フランスに長くいた飯山敏道先生など何人かの日本の先生がフランスの科学者とともに呼びかけてはじめたもので、両国の多くの科学者が参加した。フランス側では、IFREMER(昔のCNEXO。国立海洋研究所)や、CNRS、それにパリ大学やオルレアン大学などの大学の研究者が参加した。この計画の参加者には、私たちのような地球物理学者のほか、地質学者も、岩石学者も、生物学者もいた。

 このKAIKO計画で使われたノーティール号は、深海探検に長い歴史をもっているフランスが作ったばかりの新鋭の深海潜水艇で、現在、世界でいちばん深くの6000メートルまでまで潜れる。

 じつは、6000メートルの深さまでもぐれる潜水艇は、ノーティール号が初めてではない。20年ほど前、アルシメード号というフランスの潜水艇は、1万メートルまで潜水したことがある。しかし、アルシメード号は、ノーティール号のようには自由に海底を動きまわることはできなかった。深海は「探検」の時代から、「科学」の時代になったわけである。


 (2)KAIKOは海溝のこと

 プレート・テクトニクスという最近の学説によれば、地球を卵にたとえれば、卵の殻にあたる岩の板が地球をおおっている。この岩の板がプレートである。卵の殻はつながっているが、地球の殻であるプレートは、いくつかに割れている。そして、それぞれが「白身」の上に乗って動いている。その動く速さは、人間の爪ののびる速さくらいである。

 KAIKOの名は、日本語の「海溝(かいこう)」からとった。海溝とは、海の底で、ふたつのプレートがぶつかって、押しあっているところで、片方のプレートが押しまけて、地球の中に沈んでいっているところである。

 プレートの厚さは百キロメートルもあり、その大きさも何千キロメートルもあるから、その押しあいには、たいへんな力がかかる。この岩の押しあいで片方が押しまけるたびに、日本の大地震や、アラスカの大地震や、南米の大地震がおきているわけである。

 それゆえ海溝は、日本になぜ大地震がおきるのかといったことや、そもそも日本列島がどうしてできたか、といった謎の鍵をにぎっている場所でもある。


 (3)日仏対等の研究協力

 今回の潜水の計画は2年がかりだった。1年目には、シービームという特殊な装置をつんだフランスの観測船が日本にきて、次の年の潜水予定地点をまわって、精密な海底の地図を作った。

 そして、2年目には、深海潜水艇ノーティールが来て、3ヶ月のあいだに、日本の各地の海底、27カ所で潜水を行った。潜水したのは、静岡県の沖にある南海トラフをはじめ、房総半島や茨城県の沖、それに北海道の襟裳岬の沖にある襟裳海山などであった。

 その潜水では、いろいろな研究が行われた。海底の地形や断層を観察したり、深海底だけに生きている不思議な貝の群落を見つけたりした。また、岩や動物や、海底からしみだしてくる水を取ってきた。これら多くの「材料」から、いま、深海底の謎に迫る研究が続けられている。

 この研究計画の中で、私と東京大学の金沢敏彦さんが主にやってきたのが、海底傾斜計の計画であった。

 私たちの海底傾斜計は、海底にあるプレートの動きを、はじめて、実際に測ってみよう、という試みであった。プレートは、海溝で押しまけ、まげられて地球のなかに沈んでいく。だから、プレートの上に海底傾斜計をすえつけて海底の傾きを測れば、プレートの動きが観測できる。もしかしたら、プレートの動きかたは、ときどき、速くなったり、遅くなったりしているかもしれない。

 このためには、海底傾斜計という、いままで誰も作ったことのない機械を作って、しかもそれを、深海潜水艇を使って、海底にある岩の上にしっかりとすえつけなければならなかったのであった。

 KAIKO計画は、日本とフランスとが共同の対等の研究として行なった。対等の研究というからには、フランスの潜水艇に日本にきてもらって、それに科学者が乗るだけでは、日本側が潜水艇を借りているだけになってしまう。

 だから、日本の海底科学を生かして作った世界でもはじめての海底傾斜計を、フランスの潜水艇の能力を使って海底にすえつける、という組合せは、共同の研究の重要な目的のひとつとして、両方の国の人びとから支援された。


 (4)深海潜水艇の中は

 私にとっては、深海に潜るのは生まれてはじめてだった。潜水艇に乗ってみると、おどろくことばかりで、海の中というのは、こんなにも美しく、またかわった世界だということは、想像もできなかった。

 ノーティール号は長さが8メートル。色は黄色で、頭が丸く、しっぽのほうにいくにつれて全体が細くなっているので、全体の形は鯨に似ている。

 潜水艇の中は、おそろしく狭い。小さなバスくらいの大きさの深海潜水艇のうち、人間が乗っているところは、直径わずか2メートルの球の中にしかすぎない。しかも、その中には操縦のための機械が、壁から天井まで、ぎっしりつまっている。

 乗組員は3人。そのうち2人は床に腹ばいになり、1人はその2人のあいだの小さい椅子に膝をかかえて座る。床に寝るのはパイロットと科学者、うしろに座るのは副パイロットで、パイロットと科学者の前には、それぞれ、小さい丸い窓がある。窓の直径は、わずか12センチメートル。このため、鼻がガラスにぶつかるくらいに顔を近づけないと、外の景色は見られない。

 私たちがはいっている金属の球には、大変な水圧がかかる。6000メートルの深海にいくと、球の外には6万トンという、すさまじい力がかかる。6万トン。もし、球にちょっと弱いところでもあったら、中にいる人間も機械もペチャンコになってしまう力である。潜水をしているときに、このすさまじい水圧を思いだすのは、あまり気持ちのよいものではなかった。

 ノーティール号は、機械じかけの腕、マニュピュレーターが2本ある。このマニュピュレーターを操って、私たちの海底傾斜計は、無事に水深3900メートルの襟裳海山にすえつけることができた。

 13時間という、ノーティールができてから最長の潜水で苦闘した、かなりの大仕事であった。世界で最も経験の長い2人の深海潜水艇のパイロット、ジョルジュ・アーヌーさんと、ギイ・シアロンさんの力がなければこの設置は成功しなかったにちがいない。

 海底で科学的な研究をする時代をひらくために作られたばかりのノーティール号が、この潜水で海底で私たちの機械を初めて据え付けることができた、というのは、フランス人にとっても、たいへんうれしいことであったという。


 (5)設計者ジラードさんの無念

 ノーティール号は、全部で4台あるプロペラとタンクに入った水銀を動かすことによって、海の中でいろいろの動き方ができる。

 しかし、このノーティール号を設計したフランス国立海洋研究所のドミニク・ジラードさんにとっては、海底での動きは、まだ不満なのである。

 6年ほど前、私はこのKAIKO計画のためにジラードさんに会いにいった。観測の機械を海の底にとりつける仕事は、フランスにとっても日本にとっても、はじめての経験だった。このため、私たちの海底傾斜計をノーティール号のマニュピュレーターでつかんで海底にすえつけるためには、そのそれぞれをどう設計して、海底でどんな作業をすればいいか、を打合せるためであった。

 打合せがおわったあと、ジラードさんは私を空港まで送ってくれた。小さな車にやっとからだを押しこんだジラードさんは、車で混雑するパリの狭い道を、右に左に、ほかの車の間をすばしこくすりぬけて、空港へむかっていた。

 その途中、ジラードさんは、設計中のノーティール号についての夢を聞かせてくれた。たんに、もぐれる深さが世界で一番というだけではなく、マニュピュレーターも、海底で作業する能力も世界一の潜水艇をつくるんだ、という情熱がほとばしっていた。

 しかし、ジラードさんは、じつはひとつだけ、残念なことがあるんだ、と言った。

 すでに活躍しているサイアナ号は、深さ3000メートルまで潜る設計なので、軽くて小さく、このジラードさんの小さな車のように海の中を自由自在にとびまわれた。

 だが、ノーティール号は、6000メートルまで潜れるように作るために、同じ3人乗りなのに、ずっと重くなってしまう。だから、海の中で動きまわる性能が、どうしても犠牲になってしまうというのであった。

 しかし、ジラードさんは、フランス人であった。3000メートルの限界を4000メートルに改造しているアメリカのアルビン号という潜水艇よりは、それでも、ずっと動きまわる性能がいいんだよ、とアメリカとの対抗心をむきだしにして、フランス人らしいお国自慢もするのであった。


 (6)生命の淵から帰ってきたよろこび

 外国の観測船に乗るのは、私にとってはそう珍しいことではない。西独、米国、ソ連、イランといった国の観測船に、私たちが作った海底地震計の研究で乗ったことがある。船は、「国」でもあり「家庭」でもある。それぞれのお国ぶりを知るにはいい機会であった。

 しかし、フランスの観測船は初めてであった。一番びっくりしたのは、はじめて海の底へ行った人を祝福するための、いささか荒っぽい儀式だった。

 その儀式は、母船の上に帰ってきたノーティール号が開けられる前から準備がはじまる。バケツをもったフランス人が、あちらの階段をのぼったり、こちらの屋根にのぼったりしはじめる。

 ハッチが開く時から儀式が始まる。エンジニアが、ノーティール号から出てきた研究者から、カメラやフィルムや着物のはいった袋を、いかにも、持ってあげよう、というように、とりあげてしまう。研究者は、なにも知らないで、高いところにあるハッチから階段をおりはじめる。

 そのときである。いままでニコニコしていた、階段の上にいるフランス人が、その研究者の頭の上から、いきなりバケツの水をあびせる。

 それをきっかけに、あちこちの屋根の上や階段の上から、バケツの水がふってくる。色の着いた水もある。ときにはバケツごと、落ちてくる。誰がふりまわしているのか、ホースの水もあちこちにとびまわる。

 もちろん研究者は、びしょぬれ。しかし、水をかけるほうは容赦はしない。そのあとはパイロットと副パイロットの番だ。

 ふたりは外で何がおこるか知っているので、なかなかノーティール号から出てはこない。もう、外の人があきらめたころ、ようやく出てきて、走って階段をおりようとする。

 しかし、待っている方も執念深い。みんな、帰ったような顔をしていても、一人だけ、屋根の上でバケツをもって隠れていたりする。

 そしてパイロットや副パイロットがびしょぬれになると、隠れていたみんなが顔を出して、それからは、おたがいに水のかけあいになる。甲板の上はおおさわぎである。

 この祝福の儀式は、私から見れば度肝をぬかれるような騒ぎであった。

 しかし、もしなにかの事故がおきれば、命がなくなるかもしれない、そんな
生命の淵のようなところから無事に帰ってきたり、また、その大仕事を無事にやりとげた、という心からの喜びがこのようにはげしく出るのだろう。生きていることの喜びを、みんなでかみしめているような、陽気な騒ぎであった。


 (7)手作りの科学

 私がノーティール号にのって、いちばん感心したのは、そのすぐれた性能ではなくて、みんなが汗と油まみれになって、でも楽しそうに、深海から帰ってきたノーティール号を分解して直しているありさまだった。

 もし、潜水したノーティール号にちょっとでもまずいところがあると、あっというまに、みんなでよってたかって直してしまう。パイロットもエンジニアもない。潜水隊長のジャン・ルーさんをはじめとして、みんなで油まみれになって修理する。じつは、このチームのみんなが、ノーティール号を設計しているときからずっと続いているのだ。

 あるときは、海底で強い水の流れがあったので、ノーティール号がうまく動きまわれないことがあった。すると、次の日には、このチームは、プロペラをまわすモーターをとりかえてしまった。

 また、あるときは、マニュピュレーターをひっこめてきたときに窓のガラスにぶつかりそうになった。すると彼らは、すぐに窓ガラスの外側に、まるで眉毛のような金属の板をとりつけた。もちろん、こんな板がもともとあったわけではなく、のこぎりとやすりで作ったのである。

 チームの誰もが、ノーティール号のすみずみまで、よく知っている。ノーティール号は、みんなから、大変に愛情をもたれていて、毎日、改良されているのである。

 こうやって、自分で作った機械を自分で直していいものにしていくやりかたは、私にはよくわかる。

というのは、私たちがこの20年近くやっている海底地震計のやりかたが、これとそっくりだからである。いわば、手づくりの科学である。私たちの海底地震計も手づくりのようなもので、うまくいけばうれしいし、うまくいかなければ、自分たちで考えて、直して、またやってみるわけである。

 私は、こんなやりかたが、いままでに誰もやっていなかった仕事をするときや、いままでどこにもなかった機械を作ろうとするときには、いちばん、効率的でいいやりかただと思う。

 じつは、私がナディール号に乗ったときには、科学技術庁の人も乗っていたのだが、このフランス人のやりかたを見て、目を丸くしていた。日本だったら、ちょっと何かを変えようとしても、いくつのはんこがいるかわからないし、とても、次の日に直すわけにはいきません、というのである。

 私にとってのKAIKO計画とは、私たちが海底で観測してきた経験を生かして、日本側で海底にすえつける機械を、そしてフランス側でノーティール号を、それぞれ出しあってようやく成功した仕事であった。

 ノーティール号も、私たちの海底地震計や海底傾斜計も、まず手づくりからはじまって、現場の経験を生かしながら改良をつづけていっている。現場で機械をじっさいに使う人が設計して、さらに、設計したり作ったりした人が研究の現場にいって機械を改良する、それが大切なことなのだろう。

 科学を進めていく最前線というのは、どの科学でも同じようなものなのだと思う。


 (8)1台目を「創る」か、2台目からを「作る」のか

 この研究計画を7年がかりでやってきたおかげで、フランスの人について、フランスの科学について、そしてフランスの国について、いろいろ知ることができた。それらは、たんに科学者としてではなく、私にとっての貴重な財産になっていると思う。また、フランス人も、私たちを通して、日本人を知り、日本の科学や国について知識を得たに違いない。

 個人的にも、フランス人と親しくなった。ときには深刻な議論もできる間柄にもなったし、冗談も言ってきた。

 私の知合いのフランス人のひとりは、ドイツの車に乗っている。フランスの車や家庭の電気製品などは、故障が多くて困る、だからドイツの車に乗るのだという。

 普通の人にとっては、なるほど、そんな話か、という程度の話題かも知れない。しかし、作ったばかりの深海潜水艇に命を預けなければならない私にとっては、聞きずてならない話であった。もし、潜水中に何かがおきたら、世界のどの深海潜水艇も助けにきてくれない深さに行かなければならないのである。

 フランスの工業技術のレベルの「人柱」になるのかね、という私のぶつけた冗談は、しかし、ノーティールに関係しているフランス人に見事にいなされた。なに、フランス人は、「最初の1台」を作るのはうまいのだ、というのである。

 なるほど、フランス人は、芸術や文化だけではなく、科学や技術の面でも、多くの独創的なものを作ってきた。私がかねてから憧れていて、いまだに乗れないシトロエンも、いまでこそ「普通」の車に似てきてしまったが、それでも、他の国には、とうてい造れない独創的な車である。

 ひるがえって、日本はどうだろう。多くの国と貿易摩擦を起こすくらい工業製品を作り、輸出しながら、そのじつ、日本で本当に独創的に造ったものは、ほとんどないのではないか。

 フランス人が最初の1台を「創る」のが得意だとすれば、日本人は2台目からあとをたくさん「作る」のが得意なのだろうか。ノーティールとそれを支えるフランス人たちを見ながら、日本について考えている私である。

(註)なお、KAIKO計画関係の本としては、写真集『日本周辺の海溝』(東京大学出版会、1987年、8800円)、島村英紀『深海にもぐる・・潜水艇ノーティール号乗船記』(国土社、1987年、1200円)、小林和男『深海6000メートルの謎にいどむ』(ポプラ社どんぐりブックス、1986年、980円)などがある。

なお、私たちの海底地震計の開発の苦労については島村英紀『地球の腹と胸の内――地震研究の最前線と冒険譚』(情報センター出版局)がある。

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