島村英紀の裁判通信・その16
(2006年12月28日)

ドキュメント2月1日
島村英紀の家宅捜索・逮捕・連行の記

今年2月、私たちの友人・島村英紀が突然逮捕されました。

どこかの経済学者のような現行犯ではありません。

05年3月に北大が「業務上横領」で札幌「地検」に告訴し、相手にされないとみるや8月に札幌「地裁」に損害賠償を民事提訴した「横領」でもなく、「資格がないのに海底地震計を売った」という奇妙な「詐欺罪」でした。

島村はもちろん否認しました。

その結果、家族の面会や差し入れも許されず長期間に亘って拘束されました。

保釈が認められないまま、第1回公判が5月26日に始まり、11月7日の第11回公判で結審しました。

保釈がようやく認められたのは7月21日、じつに171日ぶりでした。


私たちは島村英紀の大学新聞時代の仲間でしたが、寝耳に水の逮捕報道に驚きました。

「島村はそんなに悪い学者だったのか?」

9800円の自転車を買うか買わないか迷っていた島村が2000万円もパクッたなんて。

なにもわからないままに情報収集を始めました。

北大の助手と他講座教授による内部告発だったこと、北大副学長が即日「本学の告訴をきっかけに逮捕につながったものであり、適正に処分されることを期待する」と述べたこと、日本地震学会が事実確認もしないまま、即座に反応して「極めて遺憾と申さざるを得ません」というコメントを発表したことがわかりました。

北大や地震学会の反応は素早すぎる。「地震予知可能」を否定していた島村つぶしではないのか? データを集めているうちに、私たちは島村を守らなくてはならないと考えました。

「徘徊ボケ老人」の集団ですから、「権力」に対抗する手段はなにもありません。しかし、せめて島村の友人たちには、なにが起こっているか、知らせておきたい。

いずれ戻ってきたときに「よぉ! 大変だったな」と気軽に声をかけられるようにしておきたい。

それだけの気持ちから、このメルマガ「島村英紀裁判通信」を発行することにしました。

今年ももう残り少なくなってきました。いままでは私たち編集部が調べた事実を送ってまいりましたが、今回は島村英紀自身が書いた手記「ドキュメント2月1日」を送ります。

本人でなければわからない迫真のルポに、みなさまも衝撃を受けるはず。

いずれご意見・感想を寄せていただけるでしょうが、すでに読み終わった私たちは、「島村英紀はやはり科学者だった」「島村英紀だから耐えることができた」との思いでいっぱいです。

余計な「まくら」はこのぐらいにして、あとは本人にまかせます。

<編集部>

手記・島村英紀
【前書き】

 とても、興味深い経験であった。逮捕と勾留のことだ。

 誰でも、望んで経験できることではない。しかし一方、とくに近頃は、望まないのに、誰でも、突然、遭遇することになるかも知れない経験でもある。

 たとえば、あなたが車を運転していて、道路際に駐車している車の陰から、いきなり子供が飛び出してきたり、あるいは、あなたが政治信条に基づいて反戦のビラを配ったところが、たまたま間の悪い官庁の宿舎だったりしたら、すぐにでも経験させられることになるかもしれないからだ。


【突然の家宅捜索劇】

 それは2006年2月1日、水曜日の早朝のことだった。私が朝、起きようとしていたときに、家宅捜索が始まったのである。

 朝7時だった。札幌地方検察庁(札幌地検)のS検事とやはり札幌地検から来た6人の検察事務官が、2台の車に分乗して、東京の郊外にある私の家を、何の予告もなく、訪れてきた。後で聞いたところでは、7人は前日に東京入りし、東京地検の車を借りてきたのだという。

 その約1年前の3月に、北海道大学が私を札幌地検に刑事告訴していたし、8月には同じく北海道大学が札幌地方裁判所(札幌地裁)に民事提訴をしていた。それゆえ、後から考えれば、家宅捜索も、その後の逮捕も、予測していても悪くはなかったのかも知れない。

 私も、刑事告訴以後、つてを頼って弁護士に依頼し、いろいろ事情を話して相談していた。1-3ヶ月に一度ほどで、私がやってきた研究とはどのような仕組みなのか、何を目標にして、誰と協力して、どんな成果を得たか、といった一般的な話をしてきていた。

 他方、私にも弁護士にも、札幌地検は何の動きもしているようには見えなかった。いわば、隠密行動の不意打ちだったのである。弁護士にとっても、まったくの不意打ちであった。

 メディアで見る限り、家宅捜索も、逮捕も、「事件」がデカデカと報道されてから数日とか数週間以内に行われることが多い。あれでは、もし、不利な証拠があれば隠滅するのに十分な時間もあるし、逮捕も、「正義の逮捕、晒し首の引き回し」になろう、と思っていた。

 私の場合には、隠すべき証拠はなにもないし、地検が告訴を受けてから1年近くも何の動きもなかったから、安心しきっていた、あるいは油断しきっていた、のかもしれない。

 年賀状も普通に出し、前日にも、先輩と電話で、何の関係もない話をしていた。

 一年前から非常勤講師(特認教授)として勤めていたある私立大学で私は4月から専任教授になり、ゼミも持つことになることになっていた。それで、前日には学生全員を集めて、そのゼミの説明をし、2月1日の当日には、希望者の学生の面接をすることになっていたのである。

 家宅捜索とはどんなものか、もちろん知らなかった。

 しかし、自分でも不思議なほど、足や声が震えるわけでもなく、慌てなかった。家では妻と時間帯が違うために、朝食は私が自分で作って食べるのが習慣になっていたから、検事に断って、自分で朝食を作り始めた。腹が空いていた。

 検事と検察官の態度は、十分、丁寧だった。全員スーツ姿だ。

 まずS検事が私にパソコンを開かせて、その中のファイルの説明を求めた。その間、1人の女性を含む6人の検察事務官は、私の机の引き出しを開けたり、積み重ねてある資料や書類を見始めていた。無表情で、職業的に、黙々と紙をめくっていく。

 私のパソコンには、ノルウェー関係や北海道大学関係のファイルが入っている。しかし、私や私の家庭の日常生活に必要なファイルも入っている。

 パソコンごと持って行かれては困る、と言うと、検事は、わかった、では必要なファイルだけ外部メディアに移してほしい、と言い、検察事務官が持ってきていた650MBのMOディスクに、ファイルをコピーした。

 食事を作り終えて私は食べ始めたが、私だけ食事をしているのも気が引けたので、コーヒーくらいは飲みませんか、と聞くと、結構です、と断る。「供応」を受けてはいけない、という規則なのであろうか。

 じつは私の家は築40年近い古い家で、しかも木の床で、室温は8℃ほど。とても寒いのだが、彼らはスリッパも固辞した。

 しかし、じつは寒かったに違いない。あとで札幌拘置所での検事の取り調べのときに、あのときは寒かったですねえ、とくに足の裏から寒さが上がってきて、と言われた。札幌の家に比べると、東京の家は一般に、ごく寒いのである。

 私は札幌に赴任する前は、冬に札幌の人が上京すると風邪を引く、というのを冗談だと、長らく思っていた。しかし、実際、札幌の家の方が、内部はずっと暖かいのである。

 その後、検事に、家の中の居間以外の部屋に何があるかを問われて説明した。

 彼らが探して持っていった物品は、段ボールで2個弱であった。ノルウェーとの共同研究の研究資料や論文作成のためのファイル。ある限りの銀行通帳。過去の手帳。過去と現在の旅券。クレジットカードの使用控。いまは使っていない昔のパソコン2台。データをバックアップしてあるハードディスク。

 2006年の、つまりいま使っている手帳と、いま使っているパソコンは置いていってもらうことにした。

 しかし、私の逮捕・勾留後約1週間して、妻しか居ないときに再捜査が入り、このパソコンも持っていってしまった。面白かったのは、このときに私の車も捜索したようで、使わなかったデスクダイアリー(ビジネス日記帳)を日記としてではなく、自動車の整備メモにしていたのを、「車に隠していたに違いない日記」として押収していったことだ。

 パソコンが帰ってきたのは9月13日だったから、保釈後も、この間、知人や友人からの過去のメールも、いろいろなファイルも、書きかけの原稿やその資料も、知人や友人のメールアドレスも使えず、たいへんな苦労をすることになった。

 もちろん、私あてに、その後届いたメールも、検察は読めてしまったことになる。また、私の名簿にあるすべての友人知人の住所や連絡先も、入手したことになる。


【突然の逮捕劇】

 家宅捜索は2時間ほどで終わった。そして、S検事は、事情聴取をしたいので東京地検まで同行してもらえませんか、と言ってきた。東京地検は霞ヶ関にある。

 私としては私なりの言い分を説明したかったし、拒む理由はなかった。

 なるべく少ない荷物で、鞄は持たないで、印鑑は持って、とS検事は言う。じつは、このときに私を逮捕する手続きはすべて終わっていたのだが、そのことについて、検事はおくびにも出さなかった。

 事情聴取が終わったら、家に帰れるのだろう、と帰りの電車賃だけを確かめて、T検察事務官が運転する車の後席に、S検事と並んで腰掛けることになった。

 前の助手席はG検察事務官である。このG検察事務官は、北海道の美唄の高校を出てから札幌地検に就職した。S検事とコンビらしく、逮捕後の取り調べでも、ずっと私の担当になっていた。あとで知ったことだが、S検事とともに、6月頃、ノルウェー・ベルゲン大学まで、調査に行っていた事務官でもある。

 車は、小型のミニバン、トヨタのファンカーゴだった。4人乗りである。よくテレビに出てくる、後部座席に黒いフィルムやカーテンがある車ではなかった。パトカーにあるような特別な装備や無線設備があるようには見えない。

 唯一「地検」向きなのは、後部座席のドアは、内部からは開かなくなっていたことだ。これはいわゆるチャイルドプルーフという仕組みで、幼い子供が外へ飛び出さない仕掛けなのだが、「地検の用途」に使われるとは、初めて知った。

 車は東京地検のものだが、車にはカーナビがついていた。札幌地検の検察事務官が東京で車を運転するためには必須なのであろう。

 その指示通りに、家から東京外環道に向かい、そこから首都高速を通り、霞ヶ関まで1時間40分余りかかった。

 その後起きることを何も知らない私は、検事と四方山話や、私の家族のことを問わず語りに話した。「事件」のことは、全く話題にならなかった。

 S検事は中大卒で、じつは北海道大学にも受かっていたが中大を選んだ経歴を持つ。1984年に中大に入学している。司法関係者の間では司法研修生で何期という言い方が普通だが、それによると50期になる。

 東京地検に着いた。しかし、玄関で降りるのではなかった。車はぐるっと地検の建物を裏に回り、地下の駐車場へ入って、そこで降ろされた。

 エレベーターで6階の640号取調室へ行き、オフィス用のデスクを二つ向かい合わせた向こう側にS検事が座った。肘掛けつきの立派な椅子だ。

 私は手前のパイプ椅子だった。もちろん肘掛けはない。

 壁には何の飾りや写真もなく、殺風景な部屋だ。同じような部屋が、この階には並んでいる。

 じつは向かい合った机の右側に、小さな片袖の事務机があり、そこにパソコンとプリンターが置いてある。G検察事務官の机である。

 そのときだった。部屋の右手後方に立っていたT検察事務官が、「逮捕状が出ています」と告げ、黄色のプラスチックのカラーフォルダーに入れたA4の書類をS検事に手渡した。

 検事は私に起立させ、逮捕状を読み上げた。逮捕は「普通逮捕」、容疑は「詐欺」。たんたんと、感情を殺して読み上げる。北海道大学が告発したのは「業務上横領」だったから、容疑が変わったことになる。

 ここでも、私は身体が震えるわけでもなく、なるほど、逮捕とはこんなものか、と他人事のように思っていた。

 いままでしたことがない経験に踏み出す。これから何が起きるのだろう、そういった意味では、はじめて南極に立ったときのほうが、よほど興奮していたと思う。

 たとえば南極では、私がこれからやらなければならないこと、今まで最善と思ってやってきた準備をどう生かせるか、生かせないのか、をまず考えた。これは私の長年の習慣になっている。

 しかし、今度はちがう。私が何をしなければならない、という主体的なものはなにもないからである。私がなにか出来ることは、ごく限られてしまっている。

 だとしたら、私がどうなるのか、どのようにされるのか、いわば私の中の他人として冷静に眺めていてやろうか、そんな気分であった。

 「普通逮捕とはなんでしょう?」と聞いてみた。現行犯逮捕に対して普通逮捕がある、という返事であった。逮捕状は裁判所が承認してから出される。その意味では、かなり前から周到な準備が極秘裏に進んでいたに違いない。

 T検察事務官が手錠と捕縄を取り出してきて、生まれて初めて、手錠をはめられることになった。

 後ろ手ではなく、体の前ではめる。手首の太さに合わせて「直径」を固定できるようになっているし、手首同士の距離は10センチあまりあるから、思ったほど窮屈ではない。

 一方、手錠から伸びている腰縄のヒモは、なんの変哲もない、ごく普通のヒモだ。


【弁解録取書】

 この後、手錠をかけたまま椅子に座って、S検事の取り調べを受けることになる。私にとっては容疑を否認するしかなく、いままでの研究とその進め方について話す。

 S検事はしきりにメモを取りながら話を聞き、やがて、G検察事務官に対して、口述筆記で調書を書き取らせる。

 G検察事務官は、パソコンでそれを入力する。この逮捕直後の調書を弁解録取書という。

 これを2時間ほど繰り返した。

 最後に調書をプリントアウトする。横書きのA4版の罫線を引いた書式である。字も大きく、行間も広い。調書の右上の端には朱色の印があり、調書であることがすぐ分かるようになっている。ちなみに、この調書用紙は、大学の入試問題と同じく、刑務所で受刑者の労働として印刷している。

 横書きになったのは5年前からだった。それまではB4版の縦書きだった。その後しばらくは、右綴じの縦書き書類と、左綴じの横書き書類が、一緒に綴じられている、という不便な時代が続いたという。

 この調書をS検事が読み上げる。

 これはよく聞かねばならない。

 私が言ったことを、いわば検事が検事の目でフィルターしたものだから、私が言いたいこと、言ったことと違う可能性があるからである。あるいは、文章の順番によっては、言ったことと読み手の印象が違うこともあり得る。

 その後の札幌での取り調べのときもそうだったが、調書が作られている段階で、私の言い分や異論に検事が納得しても、作られている調書を書き直してくれることはめったにない。調書の最後に、私の言いたい変更分を書き足すだけである。

 これでは、読み手によっては、本文を書き直したのとは印象が違ってくる。しかし、これが日本の検察の取調の習慣なのである。


【札幌への護送劇】

 午後1時半ごろ、では、これから札幌まで一緒に行ってもらいます、と告げられた。なるほど、護送なのだな、と分かる。

 少し図々しいかも知れない、と思いながらも、お腹が減ったので、なにか食べられませんか、と聞いてみる。

 言ってみるものだ。T検察事務官が、東京地検の地下にある売店へ行って、2個入りのいなり寿司とペットボトルの茶を買ってきてくれる。

 そして、またこの4人で、今度は東京地検の別の車で、羽田空港に向かった。この車は、ずっと大きな8人乗りのミニバン、トヨタのグランピアだった。

 これは、ホリエモンを東京拘置所まで送り、メディアがヘリコプターまで使って追いかけた車に違いない。窓は暗い黒いフィルムで覆われ、さらに、3列ある座席のいちばん後の席は、厚いカーテンで四方を覆えるようになっている。

 やはり、カーナビがついている。道に迷ったり、人に道を尋ねるわけにはいくまいから、地検の車には必須の道具なのであろう。

 車はしきりに雨が降る首都高速道路を走り、羽田近くで、不思議な出口から出た。そこは空港警察であった。

 そこで、小さな部屋をあてがわれて、4人で半時間ほど待つことになった。T検察事務官が事務方をやっているようで、4人分のチェックインをしてくる、といって出かけていった。

 その後、また同じ車に乗って、いままで見たこともない金網のゲートから、空港の駐機場に入った。空港内を走る車のための特別ゲートだ。

 そして、搭乗口から飛行機に延びるボーディングブリッジの根元、つまり、到着した飛行機の清掃のために係が出入りする階段を通って、飛行機の搭乗口に行くことになる。一般の客からは見えない、搭乗口の先にあるちょっとしたベンチである。

 飛行機はAir Do、機材はB-767だった。

 一般客よりも前に4人で乗り込み、客席の最後部、2-3-2席の真ん中の3席分を占める。私の両隣にはそれぞれS検事とG検察事務官が座り、一列前の端にはT検察事務官が座る。つまり、3人に取り囲まれる形になった。

 手錠はかけたままだ。しかし、こちらから頼まないのに、検察事務官らは、毛布を手錠と手首に掛けてくれる。

 やがて、一般客が乗り込んでくる。繁忙期ではないので、空席が目立つ。検察から航空会社に配慮を求めてあったのか、近くの席に座る客はいない。

 飛行機は16時半、ほぼ定刻に飛び立った。

 自分で飛行機賃を払ったのではないとはいえ、機内の飲み物は乗客の権利でもある。何か飲み物がほしい、と隣の検事たちに申し出て、一般客と同じものを貰う。検事たちは飲まなかった。

 その後、検事たちは居眠りを始めた。昨日の上京、そして多分あった、昨日の打ち合わせ、今朝早く起きての出動、と疲れがたまっていたのであろう。私もしばらくの睡眠を楽しむ。

 18時すぎ、札幌・千歳空港に着いたときは、一般客が降りきってから、また、ボーディングブリッジの端にある階段を降りた。

 そこには札幌地検の車が待っていた。今度は5人乗りのミニバンだった。

 東京からの私たち4人を載せて、今度は地検から来た検察事務官が運転する。今度は私が後部座席の中央に座り、左右を検事と検察事務官が囲む。

 ここで、また、握り飯と飲み物を貰った。貰ったのは私だけだった。

 そちらは?と聞いてみたが、私たちはあとで食べますから、ということだった。「食事にうるさい”客”」として札幌側に連絡が行って、私のためにわざわざ買ってくれていたのかもしれない。

 車は道央高速道路を通り、札幌市内の北東部にある札幌拘置所に近づいた。拘置所は札幌刑務所と同じ敷地にあり、地元では刑務所として知られている場所だ。すでに、あたりは日がとっぷり暮れていた。

 門まで1、2キロのところまで来たときに、検察官と検察事務官とがひそひそ話している。

 やがて、検察官が、もしかしたら、メディアのカメラが拘置所の門で待ちかまえているかもしれない、検察事務官のジャンパーを貸しますから、頭に被りませんか、と私に言った。

 好意に甘えることにした。

 どんな顔で写るのかは知らないが、「憔悴した顔で拘置所の門をくぐる●●容疑者」、といったコメントが付けられる写真を掲載されるのも楽しくはない。逆に、「悪びれずに(ふてぶてしく)門をくぐる容疑者」も、別の意味で好ましくないだろう。

 幸い、カメラマンは誰もいなかった。


【拘置所の「入所儀礼」】

 拘置所には、一階に、新しく入所する拘置者を受け入れるための部屋がある。そこへ案内されて、拘置所の係員に引き渡される。

 S検事、東京から同行した二人の検察事務官は、では私たちはこれで、とそそくさと去っていった。じつは、彼らが立ち会いたくない光景、そのあとで裸にされて検査される「入所儀礼」が待っていたのである。

 私は東京地検に行って、そのあと家へ帰るつもりで、決して札幌へ行く装いではなかった。薄い下着に、オープンシャツに、ジャケット、それにレインコートだけだった。また靴は、雪の上を歩くには適さない、底が平らな靴、靴下は薄いものであった。

 まず、ポケットにあるものをすべて出さされた。財布、小銭入れ、櫛、携帯電話。

 つぎに財布の中身をすべて、こちらの確認を取りながら書き取っていく。キャッシュカード。銀行カード。免許証。名刺・・。お金も万札、千円札、小銭も500円何枚、100円何枚・・。すべてこちらの確認を取りながら、表に記載していく。こちらも、向こうも立ったままだ。

 次に、衣類を全部取るように言われる。拘置所に持ち込んでいいものと悪いものがあるはずで、その検査なのであろう。

 寒々としたコンクリートの床に薄っべらいゴザが敷かれ、その上で、真っ裸にさせられる。

 私の感情は、逮捕のときと同じだった。私が自分でしたいことが出来るわけでも、その結果について私が責任を負わなければならないわけでもない。たんに、私という人間を私の中の他人が冷静に見ている、という感じであった。

 麻薬や武器や、もしかしたら毒薬を隠している可能性を調べるのであろう。後ろを向かされて、尻の穴や、髪の毛の中まで見られた。

 やがて、この「入所儀礼」が終わり、財布、小銭入れ、腕時計、ズボンのベルト、レインコート、傘、靴、櫛、ボールペンやシャープペンシルなどが「預かり」になり、下着からジャケットまでの衣類を身につけて、支給されたサンダルを履いて、独房へ向かうことになる。

 長い「儀礼」であった。人によっては、この屈辱を大いに気にするであろう。

 あるいは検察庁にとってみれば、こうして人間の尊厳を損じることによって、明日からの取調を有利に運ぼうとする意図があるのに違いない。

 もう夜8時を回っていた。逮捕されてから8時間余。すでに電灯が消された暗い廊下を歩いて、あてがわれた西館4階の76号室へ案内される。

 このときから、私の名前はなくなった。116号という番号で、すべてが管理される。

 西館と東館は廊下で繋がっていて、V字型に配置されている。その中央部分にエレベーターと階段がある。

 途中でこの中央部分にある看守の詰め所に寄り、夕食のおかずの乗った金属の皿と薄黄色いプラスチックの丼に入った麦入りの米飯、小さなタオル、石鹸、歯ブラシ、歯磨き粉、ボールペン1本、それに紙コップを渡される。

 紙コップは翌朝、一番に、尿を取るものだ。覚醒剤の検査であろう。まさか、親切にも、糖尿病の検査をしてくれるわけではあるまい。

 こうして、私の拘置生活が始まった。

 食事はすでに冷たくなっていたが、食べなければ明日以降の体調に響く。全部食べ終わって、することもないので、部屋の隅に畳んであった蒲団を敷いて寝る。

 考えることがいっぱいあって、あるいは悔しさで、寝られないのでは、との懸念は杞憂にすぎなかった。

 普通に、自分でも意外なほど、よく寝られたのである。

 ただ、廊下は暗かったが、独房の中は、巡回する看守から見えるように、明かりを昼間より落としているとはいえ、新聞がかろうじて読めるほど明るい。天井の真ん中にある10Wの蛍光灯が点きっぱなしなのである。

 これには、その後も、なかなか慣れなかった。


この「逮捕連行劇」と「獄中記」は2007年10月、講談社文庫(『私はなぜ逮捕され、そこで何を見たか。』)として、大幅に加筆して、刊行されました。

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