島村英紀が撮った熱帯の写真(海底地震観測時)
(もともとは35mmフルサイズの写真ですので、ピントもコントラストもずっといいのですが、画像を軽くするために圧縮してあるので、お見苦しいのはご容赦ください)
1:ラバウル(パプアニューギニア)
1994年の噴火の爪痕。
2:ラバウル
1994年の噴火の元凶の一つ。ブルカン火山。
3:ラバウル
1994年の噴火の元凶のもう一つだったタブルブル火山
4:ラバウル。私たちの海底地震計を使った地下のマグマの研究。
1996年に私が予備調査したあと、1997年に北海道大学の海底地震計をラバウルまで運び、地球トモグラフィーの手法で地下構造を探り、マグマが地下のどこに、どのようにあるかを研究した
。
海底地震計の設置や回収のために借りたのは、この『クトゥブ』 号、長さ12メートルしかない船で、もちろん船室もない。
海底地震計の作業の帰りに、船からヒモと釣り針を垂らしておくと、長さ1メートルを超える大カマスやシイラが、よくかかった。船速が最大でも8ノット、向かい風だと4ノットにも満たないほど遅いのも、たまには良いことがあるのである。
船が速すぎると、かかった魚のアゴがとれてしまって、漁獲にはならないばかりか、無益な殺生をすることになる。
なお、このときの研究について私が『日経サイエンス』1997年3月号に書いた説明(1頁目、2頁目、3頁目)と『EOS』(米国地球物理学会機関紙)の1999年6月15日号(80巻24号)に載せた観測点の配置図があります。
(1997年10月に撮影)
5:ラバウル。タブルブル火山の噴火。
タブルブル火山(Tavurvur)は私の滞在中(1997年)に一回噴火した。交代で滞在していた北大の観測陣の半年間の滞在中にたった一回の、つまりone-offの噴火であった。北大のチームとしては私だけが噴火に遭遇したことになる。手前は1994年の噴火で廃墟になってしまったラバウルの町。
ラバウルの町を見下ろす高台にあるラバウル火山観測所から撮った。1997年12月24日のクリスマスの前の日の昼であった。翌日のクリスマスを控えて「御用納め」で仕事を終わり、観測所の庭でささやかなビールパーティを開いているときだった。距離が離れているために、噴火は音もなく、始まっていた。
この火山は、ずっと噴気が続いていた。わずか数日前には、私の知人であるスペインの地球化学者が噴気ガスを取りに、この火山の山頂に登っていた。じつに危ないところであった。
北大の私の同僚の火山学者も南米の火山で間一髪で助かったことがある。私の知る限り、火山学者は、職業としてはもっとも危ない科学者なのである。
なお、細い柱のような雲が立ち上がる、という意味では入道雲(積乱雲)と似ていなくもないが、実際にはメカニズムも違うので、「柱」の色も形も違うものだ。
6:ラバウル。1994年の噴火の元凶の一つだったブルカン火山。
噴火が終わって、廃墟になった町をよそに、静かなラバウル湾が戻ってきている。天然の良港だ。ラバウル火山観測所の庭から撮った。
世界の火山観測所は景色のいいところにあることが多いが、なかでもここは、写真のように、素晴らしい眺望のところだ。
しかし、大噴火がラバウルの町のほとんどすべてを損なってしまった。観測所は幸い、それほどの被害を受けなかった。
海の中に二つ立っている岩は、火山のプラグである。南極・南シェットランド諸島にある三兄弟山と同じものだ。
不思議な形だ。日本人には馴染みがない、と思う人も多いだろう。しかし、
宮沢賢治は『楢ノ木大学士の野宿』のなかで、この三兄弟ならぬ岩頸四兄弟の寓話を書いている。
(1996年11月に撮影)
7:ラバウル。噴火から5年。一部の植物はほぼ元に戻った。
ラバウル火山観測所の庭で。色鮮やかなハイビスカス。しかし、後ろに見える火山は厚い灰に覆われたままだ。
(1996年11月に撮影)
8:ラバウル。旧日本軍への恨み
9:ラバウル。戦時中の日本の地震観測所。
10:ラバウル。かつて日本が設置した地震計。 ![]()
11:ラバウル。1971年当時のラバウル市街の中央通り。
12:ラバウル。ラバウル火山観測所から見た1971年当時のラバウル市街。右後方の白っぽい山はタブルブル火山。
13:ラバウル。1971年当時のラバウル風景。![]()
島村英紀が撮った海底地震計の現場
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