島村英紀が撮ったシリーズ 「不器量な乗り物たち」その2:極地編(+番外編)

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1-1:日本の歴史的な雪上車「KD60型」

南極の昭和基地での日本の南極観測は1957年に始まった。以後、一度だけ中断したことがあるが、現在まで続いている。

南極観測になくてはならないものが、雪上車だ。硬軟さまざまな雪や氷の上を踏破するための特殊な乗り物だ。

写真は国立極地研究所の1階展示ホール
(南極の動物の剥製や南極隕石など、さまざまなものが展示してある。土日を除き、常時、一般の方々に公開している) にある604号の雪上車。これはKD60型といい、1968年に昭和基地から南極点までの、往復5180kmにもおよぶ大旅行を成し遂げた雪上車だ。

当時も今も、雪上車はオレンジや赤など、目立つ色に塗られるのが普通だ。しかし、この雪上車は、踏破隊の村山雅美隊長のアイデアで、真っ黒に塗られた。少しでも太陽熱を吸収しよう、という試みで、結果的には大成功だった。太陽が照っていれば、内部ではシャツ一枚ですごせたという。

雪上車の長さは5.5m、幅は2.5m、高さは2.7m(屋根の上のアンテナなどを除く)、重さは空荷で7.4トンある。エンジンは6気筒、6.4リットルのターボディーゼルで、出力は140馬力/2400rpm(高地燃料を入れたときには105馬力)だった。最大30°までの登坂能力がある。

この雪上車は小松製作所(現コマツ)で作られた。エンジンはいすゞ製である。最大8トンまでの機材を載せたそりを曳くことが出来る。当時としてはもっとも大型の雪上車だった。なお、最近、日本の南極基地で使っている大型の雪上車は11トンあり、大原製作所(新潟県長岡市)で作られている。

この雪上車の積載量は4人の乗員を入れて500kg、つまり全重量は7.9トンもある。しかし、クローラー(キャタピラー)の幅が広いので、接地圧は100平方センチあたり19kgしかない。つまり、人間の足の接地圧よりも小さいので、柔らかい雪にも潜って動けなくなってしまうことはめったにない。 なお、近年の雪上車はクローラーは(下の2-1や5-1のように)、ゴム製になっている。

変速機は前進5段、後進1段と乗用車なみだが、圧雪路での常用速度は12km/h、写真の右にあるような機材を載せたそりを曳くと5-7km/hになってしまう。しかも、雪や氷の状態によっては、とてもこの速度は出せない。げんに、南極点への旅行では、富士山より高い平原に登るためには、ずっと1速を使わざるを得なかった。また、4台で出発したが、故障のため、1台は放棄せざるを得なかった。1968年9月28日に昭和基地を出発した雪上車隊が南極点に到着したのは、ほとんど2ヶ月後の12月19日だった。たいへんな苦労の連続がつづいた大旅行だった。

車体内部には2段ベッド2つや調理台や南極基地(や、ときには日本)との連絡用の強力な無線機などがあって、いまでもそのまま保存されている。ヒーターの能力は12000kcal/hだったが、夜の停車時にはエンジンもヒーターも切ってしまうので、隊員たちは酷寒に耐えなければならなかった。

(撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。37mm相当、F2.8、1/5s)


2-1:ノルウェーの南極観測用の「寸詰まりの」雪上車

ノルウェーは南極に越冬基地を持つ。その歴史は日本よりもずっと長い。その南極基地用の雪上車が、北極圏のスピッツベルゲンで使われていた。ノルウェー国立極地研究所の所有車である。

なんとも寸詰まりの短い雪上車だ。小回りが利くことを狙ったのだろうが、滑稽なほど短く、その割には背が高い。クレバスに落ちたり、転倒したことはないのだろうか。車室を少しでも広くするために、エンジンやラジエターは前部に突き出している。

1998年8月、スピッツベルゲンの「首都」ロングイアービエンで。

(撮影機材はOlympus OM4、レンズはTamron Zoom 28-70mmF3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


2-2:この「寸詰まりの」雪上車の”親子”

上の2-1の寸詰まりの雪上車の”親子”がスピッツベルゲンの山の上にいた。後方は、イスフィヨルドである。

いや、厳密に言えば”親”は、鼻の長さが短いから、上の雪上車とはちょっと違うものだろう。いずれにせよ、雪上車は少量生産のものに違いないから、注文主に応じて、ほとんどワンオフの製品を作って納めるのだろう。

滑稽なことは、この小さな”親”が、大きな”子”を牽引していることだ。親は、よほどの力持ちに違いない。

親と子は頑丈そうな連結器のほか、ケーブルやホース類でつながっている。前後の乗組員で話をするための電話線や電力線のほか、ブレーキ用の圧搾空気、そして、もしかしたら暖房用の暖気とか灯油を送っているのかもしれない。

2002年8月、スピッツベルゲンの「首都」ロングイアービエンで。

(撮影機材はOlympus OM4、レンズはTamron Zoom 28-70mmF3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)

 


3-1:毎年、南極までの「冒険飛行」を繰り返す働きもの

ドイツの南極研究所(アルフレッドウェーゲナー極地海洋研究所)は、このドルニエ228機(極地バージョン)を2機持ち、毎年、南極へ送り込んで、南極観測に役立てている。

ドルニエはドイツの飛行機メーカーだった。かつては超大型飛行艇(下の3-4)などを作ったことがある。しかし1996年に米国のメーカーに買収されたあと、2002年に倒産してしまった。いまはダイムラーベンツアエロスペース社の一部になっている。

ところで、私たちの海底地震観測でもそうだが、浮いてきた海底地震計を発見するためには、どんな色がいちばん効果的か、いつも議論になる。海況や天候や太陽の向きによっては、黄色やオレンジ色や赤や、それぞれが有利な条件があるからである。

南極で、よく見える条件も同じようなものだ。天候や太陽によっては、どの色がいいか、とは一概に言えない。このためもあって、この飛行機は、考えられる、あらゆる派手な「厚化粧」を施している。南極の雪原で、はるか彼方に見えたものが次第に近づいてきたときの安心感を想像してもらえるだろうか。

人間だけをぎゅうぎゅう詰めても15人しか乗れない、比較的小さな双発のプロペラの飛行機だ。ドルニエ228は、1981年に初飛行した。北極海の孤島、スピッツベルゲンでも、科学者の専用機として使われている。

このドルニエ228は、225機ほど作られた。いまでも台湾で使われている。そのほとんどの用途はコミューター(短距離飛行)や、アイランド・ホッピング、つまり離島便だ。100型と200型があり、前者は15人、後者は19人の客が乗れる。

日本でも、1983〜1995の間、日本エアコミューターが鹿児島の離島路線で使っていたことがあるが、いまはサーブ340Bなどの機体に代わった。なお、日本エアコミューターは東亜国内航空(後に日本エアシステムになり、さらにその後日本航空の一部になった)と鹿児島県大島郡の離島14市町村が設立した会社である。

最大速度は370km/h。最大航続距離は3500km。機体の長さは15m、翼の幅は17m、最大離陸重量は6800kg。なお、スキーを履いているときは6400kgに減る。700馬力のターボプロップエンジンを二基、付けている。大きな飛行機は、立派な滑走路もなく、気象条件が厳しい南極基地へ飛んでいっても、着陸も離陸も出来ないことがほとんどである。この飛行機が精一杯、という南極基地は、この飛行機の目的地、ノイマイヤー南極基地(ドイツ)など、数多いのである。

なお、日本が持つ昭和基地は、この飛行機さえ着けない。つまり昭和基地は、冬の間は、全く隔絶した生活を送らざるを得ない、孤立した南極基地なのである。病人が出ても、怪我人が出ても、南極から運び出すことは出来ない。昭和基地にある二機の軽飛行機は、いずれも近くを飛び回るためだけのものだ。

極地バージョンとは、エンジンは零下54℃でも動作するほか、トランスミッションや電池を保温するなど、低温で始動するためのさまざまな装置を持っているということだ。 また、南極ではタイヤの替わりにスキーを取り付ける。

運転席のワイパーも冬用である。札幌など寒地で使う車用のワイパーは、アームの間に水分が入って凍るとアームが変形してしまう。それを防止するために柔らかいゴムでワイパーアーム全部を覆っている。それと同じものが付いていた。

このドルニエは、南極で各種の地球物理観測をするための飛行機だ。いろいろな観測装置やアンテナを積み替えながら、地形調査、重力調査、地磁気調査、アイスレーダーという電磁波を使った氷河の厚さの調査、大気中のエアロゾルの調査、など、短い南極の夏を忙しく飛び回っている。このときには、機長、副機長兼航空機関士のほか、5人の観測要員を載せるのが普通だ。ドイツ人は日本人より重いせいもあるが、各人の酸素マスク、安全器具、救命具などを装備すると、一人あたり140kgにもなるという。これら観測飛行は、約1000海里(1852km)程度を連続して飛ぶのが普通だという。満足な食事もトイレもなく、つらい飛行である。

元来の用途がコミューター(短距離飛行)や、アイランド・ホッピングだったから、離陸のときの滑走距離はごく短くてすむ。フラップを出し、風に向かい、エンジンを全開すれば、わずか250mの滑走距離で離陸することが出来るのが大きな特長である。離陸時の最低速度は60ノット(時速約111km)。スキーを履いた雪の抵抗が大きかったり、積み荷が重すぎたりしてこの速度に達することが出来なかったら、何キロも滑走して、なお離陸できないこともある。

南極のように、未知の大陸では、飛行機による調査の威力は絶大である。雪上車も徒歩も、それなりの観測をしているが、広い面積をまんべんなく調査できる飛行機が使えるかどうか、は科学にとって、極めて大事なことなのである。

(撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。36mm相当、F3.3、1/125s)


3-2:南極までの「冒険飛行」

大きな飛行機ではないから、燃料を積む量も限られていて、航続距離も知れている。毎年秋、つまり南極の春にドイツを発ったドルニエは、左の地図のように、ヨーロッパからアフリカ、そして大西洋でいちばん近いところを渡って南米、そして、南極まで5日間の、バッタのような飛行を繰り返す。

じつは、これでも、ぎりぎりの飛行なのである。なんの観測機器も積まず、つまり、南極で使うすべての観測機材は船で送り、操縦に必要な人間だけが、積めるだけの燃料と、乗組員の最小限の荷物とともに飛ぶ。

このドルニエ228の元来の用途はコミューター(短距離飛行)や、アイランド・ホッピングだ。なかには8分しか飛ばない隣の島への飛行にも使われていた。しかし、この冒険飛行は、いちばん長いところは9時間の間、寒くてトイレもない機内で過ごさなければならない。燃料を節約するためには、空気抵抗が少ない高空を飛んだほうがいいので、その分だけ、寒いし、酸素マスクも必要になる。

もちろん、一番緊張するのは、最後の部分だ。南米南端に近いチリのプンタアレナスでタイヤの下にスキー(橇)を着け、そこを出るときに南極の天候を読んで、一挙に飛ぶ。

タイヤだと畳み込んで機体にしまっておけるのと違って、橇を着けると空気抵抗がはるかに増えるから、速度は遅くなる。しかし、距離あたりの燃費は、じつは、エンジンの回転数もその分だけ落ちるので、ほとんど違わない。時間がかかって運動性能が落ちることは、もちろん違う。

しかし、南極の天気は変わりやすく、突然視界がなくなったり、ブリザードに襲われたりすることは珍しくはない。

最悪は、チリのプンタアレナスに引き帰す。また、地平線が見えないときでも、着陸することを余儀なくされることも多い。これが出来るのは、もちろん、限られた操縦士と副操縦士だけだ。南極に行くのは、毎年、たいへんな冒険だよ、と操縦士は言う。

じつは1983年にこの南極への飛行が始まったころは、ドルニエは自動操縦装置はなかった。操縦桿から一瞬も手を離せない。ほとんどサンテグジュペリの世界であった。

ホワイトアウトなど、視界が悪いときの着陸はスリルそのものだ。副操縦士は一瞬も目を上げず、地上からの高度計を注視しながら、数字を読み上げる。一方、操縦士は、見えない前方を睨みながら、計器を見て水平を保ちながら機体を少しずつ下げていく。地面がどんどん近づいてくる。最後の瞬間まで滑走路の一部さえ見えなければ、スロットルレバーを急激に開いて、全速で上昇して、着陸をやり直さなければならない。これを何度も繰り返すことがある。能力が高くて、しかも熟練した操縦士だけが着陸できる世界である。

【追記】そして、これだけ注意していても、事故は起きた。その後、このドルニエのうちの一機が、南極で着陸に失敗して、大破してしまったのである。幸い、死者は出なかった。

このドルニエに来てもらって、日本とドイツの共同研究として、昭和基地周辺の地球物理観測をする話が進んでいる。昭和基地は、この地図のノイマイヤー南極基地のさらに1800kmほど東にある。

こうして、南極の夏の間、約6ヶ月間の観測を終えたドルニエは、南極の秋、天気が悪くなる前に、また、バッタのような飛行を繰り返しながら、ドイツに帰るのである。


3-3:荷物を積むためだけに設計された機体

荷室部分の機体の断面がほとんど矩形だという、いかにも不器量な、機能だけの飛行機だ。まるでハコフグである。外形のスマートさや空気抵抗よりは、いかに多くの荷物を効率的に運ぶか、を第一に考えた無骨なデザインである。

この壁のような側壁を見れば、このドルニエが、観測機器を載せて、南極の上空を飛び回るのにいかに適しているかが分かる。ドイツのノイマイヤー南極基地にほとんど空荷で着いてから、いろいろな観測器やアンテナを取っ替え引っ替え積み込んで、つぎつぎに観測を続けるためには、この、箱のような「入れ物」はとても強力な武器なのである。

2-2に書いたように、南極に着いたときは、このタイヤの下にスキーを着け、タイヤ部分のカウル(金属製のカバー)は取り外す。

臨機応変に観測装置を積み込んで、アンテナや撮影レンズやセンサーを機体から突き出すという観測を行うためには、私たちが普通に乗っている旅客機のように、機体の予圧(客室を密閉して、内部の気圧を上げること)が出来ない、ということでもある。

【2013年8月に追記】 じつは、このドルニエ228は、もともと与圧しないで飛ぶ設計であった。それゆえ機体の断面が四角い。このため定期旅客機として使うときには(上昇限度は8500mあまりだが)巡航高度は3000m程度のことが多かった。なお、ドルニエがこの後に製作したドルニエ328は機体を与圧するために機体の断面が丸い、上翼・ターボプロップ機であった。

つまり、上空へ行くほど気圧が低くなり、3500mを超えるときには、一人一人が酸素マスクを必要とする。限られた燃料で航続距離を伸ばすためには、空気抵抗が小さい高々度を飛ぶ必要がある。このため、ドイツから南極までの飛行でも、次の着陸地点まで遠いところでは、酸素マスク着用になる。

気圧が低いときの反応には一人一人個性があるから、乗組員も研究者も、この飛行機に乗る前には、特別な医学的な検査を受ける。つまり高山病にかかりやすい人は乗れない、ということになる。

また、機内を暖める暖房もない。内部は零下30℃近くにもなる。つまり、快適さを犠牲にしないと、多くの観測は出来ないのである。

(撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。64mm相当、F4.0、1/250s)


3-4:これも「機能だけ」の操縦席

ドルニエの操縦席。1980年代に作られた飛行機だから、すでに20年も空を飛んでいることになる。自動車だったらとうにポンコツだろうが、飛行機は、適切な整備をして必要な部品交換をしていれば、まだまだ現役である。

2-2に書いたように、1983年にこの飛行が始まったころは、ドルニエは自動操縦装置はなかった。その後付けられた自動操縦装置が、手前の青い箱に入っている。

この青い箱には、GPSや慣性航法装置も入っている。操縦席は左が操縦士(機長)、右が副操縦士で、それぞれの前には、同じ計器が並んでいる。コンピューター制御以前の操縦装置だから、古いが、すべて直接的で、いかにも飛行機を五感と手足で操っているという実感が湧く操縦装置である。

たとえば、旅客機として多く使われているボーイング747は、747-200や747-300までが前世代の操縦装置、747-400になってからはコンピューター制御になった。昔の「手動の」操縦、たとえば着陸直前に機首をほんの少引き起こして、静かに着陸するといった「技」を懐かしむパイロットは、いまだに多い。その意味では、このドルニエは、ほとんどが、手動操縦そのものである。

中央のディスプレイは気象レーダーの画面である。気象レーダーは、ドルニエの鼻先、最先端部分に入っている。この飛行機の鼻が異常に長いのは、気象レーダーと操縦席の間には、荷物を入れるトランクがあるからである。

(撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。36mm相当、F2.8、1/80s)


3-5:船が空を飛んだ---過去の超巨大ドルニエ飛行艇Do-X(模型)と過去最大の飛行艇(模型)

かつてドルニエはプロペラが12も着いた超大型飛行艇を作ったことがある。1929年のことだ。右写真はその1/50の模型である。

これは当時の水上飛行艇設計の第一人者、クラウディウス・ドルニエ博士が直々に、設計したものだ。

飛行艇だから水上で離発着をする機体とはいえ、これは、まるで船だ。機首はどう見ても船首だし、操縦席(コックピット)はまるで船のブリッジ(船橋)の形をしている。客室の丸窓も船そのものだ。

エンジンは12基ついており、それが前後一基ずつ組み合わせられて、前後1個ずつのプロペラを駆動する。それぞのエンジンの出力は600馬力だったから、合計7200馬力ということになる。このエンジンは当時としては世界でもっとも高出力のエンジンだった。

主翼の幅は48メートル、全長40メートル、重さ58トンもある、当時としては、図抜けた大きさの巨大飛行機だった。170人乗りだ。

この巨大機に”乗船”する航空機関士は、飛行中にも、胴体から主翼の中に設けられていた通路を通って、主翼の上にあるエンジンのところに行って、必要な修理をすることが出来るような設計になっていた。これも船の発想である。しかし、いまの飛行機よりはずっと遅いとはいえ、飛行中の翼の上に上がって強大な風圧の中で修理するというのは、考えただけでも身の毛がよだつほど、大変なことだ。

見られるようにエンジンはそれぞれ二つのエンジンを前後に組み合わせてあったが、はじめに採用した空冷エンジンはこのレイアウトのために冷却不足になり、その後水冷のエンジンに切り替えた。

当時は、飛行船だけが客を乗せて定期便としての大西洋横断が可能だった時代だった。 飛行船にかわる最初の定期便を狙った飛行機が、このドルニエDo-Xだった。

内部は高級な絨毯を敷き詰めたサロン、寝室、真っ白で糊のきいたテーブルクロスが掛けられたテーブルがある食堂やシャワーなど、豪華客船と同じような「船室」がしつらえられていた。

しかし、あまりに巨大で重かったわりにはエンジンが非力で、営業的にはまったくの失敗作だった。設計最大速度は210km/hだったが、気温が高く、それゆえエンジンの出力が小さくなる海域では、飛行高度はわずか3メートルしかとれなかったという。

たとえば、お披露目処女航海だった大西洋横断は、トラブル続きで10ヶ月もの日数がかかってしまった。そして、この巨大で高価な機体を買って、定期便を飛ばそうという会社が現れなかったのである。(イタリアが2機買ったが、試験飛行だけで、実際には使われなかった)。

この「設計倒れ」の巨大飛行艇が、空を飛んでいる絵がドイツ北部の港町ブレーメンハーフェンの海事博物館にあった(右の写真)。書いてきたように高度も取れず、大西洋横断もトラブル続きだった飛行艇だ
が、勇躍、大西洋横断の客船を追い越しながら空を飛んでいる絵をドイツ人は描きたかったに違いない。幻の絵というべきだろうか。

大洋横断飛行は1930年代の半ばには実用になるようになった。このときに使われたのは、1934年に初飛行した米国のシコルスキーが設計したS-42だった。これは4発のエンジンとプロペラをつけて、最高速度は300km/h弱であった。

しかし、当時の大洋横断飛行がどんなものだったか、ご存知だろうか。 たとえば1930年代半ばの米国西岸から太平洋を横断してフィリピンまでの水上飛行艇は6日間もかかった。ロンドンからシドニーまでは9日かかった。

これは、飛行艇の航続距離と航続時間が短く、また、飛行艇が離水や着水をするのは、まわりが明るくて海面の状態が見える時間帯でないと危険だったからだ。

つまり、夜通し飛ぶことは出来ず、早朝、海が静かなときに飛び立って、夕方までに着水して、人々は、そこで陸上のホテルに泊まり、翌朝早朝に起こされて、また飛行を続けたのである。毎朝、起こされる時間は朝3時とか4時だったという。つまり、飛行機で海外へ行くというのは、たいへんな体力を必要としたのだ。

上の、毎年、南極を往復しているドルニエ機は、いわば、この昔の苦労をなぞっているようなものなのだ。

ところで、このドルニエDo-Xには”先輩”がいた。それは1922年に初飛行をしたドルニエ”鯨(クジラ)”、Do-Jワールだった。

ワールは鯨のことだ。これはもちろんDo-Xよりも小さくて、エンジンはDo-Xのように前後に並べたものが一組だけで、前後のプロペラを駆動するものだった。しかし、総生産数は300機と言われ、当時としては成功した機体であった。

この”鯨”の主翼と尾翼は全金属ではなく、当時の飛行機の構造としては一般的な、鋼材とジュラルミンで骨格を作って、それに帆布を張ったものだった。形は無骨でなんの変哲もない長方形である。さすがに、水につかる艇体は、全部ジュラルミンで作られていたが。
もっとも、その後にはもっと大きな飛行艇が作られたこともある。

左の写真は米国で1947年にテスト飛行だけの初飛行をした、翼幅が98メートルもある世界最大の航空機「ヒューズHK-1」の1/72模型である。全長は67メートルある。(のちに「H-4ハーキュリーズ」と呼ばれた)。全備重量は181トンあった。

2012年現在でも、この飛行機を超える幅の飛行機はない。なお、長さは「An(アントノフ)-225 ムリーヤ」が、84メートルで世界最長(全幅は89メートル)である。なお、An-225はソビエト連邦・ウクライナ共和国のアントノフ設計局(現ウクライナのANTKアントーノウ)が開発した6発の大型輸送機で1988年に初飛行した。最大離陸重量が600トンと、世界一重い航空機でもある。

このヒューズHK-1は、すでに大型飛行艇の時代が終わっていたのに作られた巨大飛行艇で、飛行機史上、最大の愚行との評価がある。実際にも完成したのは一機だけで、それも試験飛行で高度25メートルで1マイルほど、1分にも満たない時間を飛んだだけだった。その後、一度も飛んだことはない。

なお、全金属製に見えるが、じつはこの飛行機は木製である。この飛行艇たった一機を作るためには戦闘機百機分のアルミニウム合金が必要なため、木製にされた。機体の材質は主にバーチ(白樺などカンバ)が用いられ、一部にスプルース(トウヒ)も使われた。

主翼と胴体との接続箇所は主翼の厚さが3.5メートルもあったが、飛行中に整備員がエンジンの調子を確認したり、整備するためにエンジンのところまで行くことが可能な円筒状の通路が作られていた。このトンネルを通ってエンジンのところに行くのは、楽しくない仕事であったろう。

エンジンは空冷で、星型4列で28気筒のプラット・アンド・ホイットニー R-4360を8機搭載し、直径5.2メートルのプロペラがそれぞれ4枚ずつついていた。

(北海道・札幌千歳空港にある常設展示の模型。上の写真は撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ20。46mm相当、F2.8、1/80s、下2枚の写真は2013年1月にPanasonic Digital DMC-G2で撮影。飛行艇が飛んでいる絵は2004年、ドイツ北部のブレーメンハーフェンの海事博物館で。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ20。F2.8、1/8s、ISO200。カメラを絵の正面に構えられなかったために2014年にRAW現像ソフトでシフト補正を行った)


4-1:南極でいちばん活躍したC130ヘラクレス(ハーキュリーズ)

これはイラクでも数多く飛び回っているロッキードC130輸送機。世界の多くの国で軍用の輸送機のベストセラーである。頑丈で荷物がたくさん積めるのが輸送機としての取り柄である。

このC130は、もともとは軍用輸送機として作られたものだが、給油機や気象観測機、そして民間でも使われているベストセラーの貨物機である。初飛行は1954年で、現在60ヶ国以上で70機種以上のバリエーションを持つC130機が飛んでいる。

しかしこの飛行機がほかのC130機と違うことは、この機体は巨体を支えるスキーを履いていることだ。もちろん、南極の雪の上に着陸するためだ。正式の形式名はLC-130H。Lは極地用を意味している。

上のドルニエがうりざね顔なのと比べて、このC130は典型的な丸顔である。こんな形のものがいったい空を飛ぶのか、と思われるくらい、豊満な体つきをしている。

撃ち落とされないよう、なるべく目立たない色に塗ってある軍用のC130と違って、この飛行機は水平尾翼も垂直尾翼も朱色とオレンジ色に塗ってある。プロペラの先端部はオレンジ色に塗ってある。つまり極地の観測支援専用の、目立つことを厭わない、軍用機が多いC130のなかでも異端児なのである。

この飛行機も上のドルニエと同じくらい古い。1983年製である。しかし、いまでももちろん現役で、南極や北極の、もっとも困難な飛行にはこの機体とチームが起用されるエースである。主翼の幅は40.5m、機体の長さは29.7m、垂直尾翼の高さは11.6mある。

(撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。61mm相当、F5.2、1/500s)


4-2:たぶん、世界でいちばん丈夫なスキー、その1

これはイラクでおなじみC-130軍用輸送機。しかし違うことは、この機体は巨体を支えるスキー(橇)を履いていることだ。

満載時のC130の機体重量は70トンにもなる。満載のダンプカー3台分以上になる。その重量をこのスキーと、左右の二つのスキーで支えなければならない。

動物がぱっくり口を開いたように見えるが、これは、これは、飛行時の空気抵抗を少しでも減らすために、このスキー部分を機体側に畳み込むためと、滑走時に、スキー部分に着いている懸架装置(バネなどのサスペンション、一部が見えている)が動くための余裕を見ているためである。丸いものは左右に着いているヘッドライト。

(撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。36mm相当、F4.0、1/250s)


4-3:たぶん、世界でいちばん丈夫なスキー、その2

このスキーが胴体の左右について、胴体を支える。

南極へ飛んでいるC130は他国にも多いが、スキーを着けて、雪原に降りることができるC130は、ごく限られている。

たとえばアルゼンチンのC130はタイヤを付けて、同国が持つマランビオ南極基地の舗装していない永久凍土の滑走路に下りる。このため、気温が上がってぬかるみになる時間帯には離着陸することが出来ない。

一方、この米国のC130は、南極点にある米国の南極基地など、雪に覆われたところにスキーを履いて離着陸するのが専門である。

ブリザード。舞い上がる雪煙。ホワイトアウト。ほかの飛行機や操縦チームが着けない悪い条件のときに、この機体と操縦チーム(機長はMax H. Della Pia)の出番となる。この機体とこのチームは、もっとも南極での離着陸の経験が深い。また何度も、困難な人命救助に活躍してきた。

(撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。36mm相当、F4.0、1/320s)


4-4:その操縦席

このスキーを履いた南極行きの特殊なC130も、操縦席(コックピット)そのものは、ふつうのC130とほとんど同じに見える。左が機長、右が副操縦士で、その後に航空機関士が座り、3人が操縦室に座る。

この機体が並みのC130と違うところは、履いたスキーや操縦士たちの経験だけではなくて、何重もの航法装置を備えていることだ。

普通の長距離飛行機や旅客機が備えている慣性航法装置やGPSは二系統ずつ備えている。それだけではない、もっとも古い航海用の位置決めである六分儀さえ、コックピットの天井に備えているのである(下の3-2)。

それぞれの操縦士のすぐ前、操縦桿に着いているプラスチックの板は、地図や航路のメモをはさむためのもの。

もう一枚のコックピットの写真

(撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。36mm相当、F2.8、1/80s)


4-5:コックピットの天井に着いている六分儀(ろくぶんぎ)

普通の中型以上の飛行機や旅客機が備えている慣性航法装置やGPSのほか、この六分儀を、コックピットの天井に備えている。どんなに悪い条件でも、飛行機の位置を知るための、最後の頼みの綱である。

しかし、六分儀は、そもそも航海用に開発されたもので、水平線と、狙った星や太陽との角度を測るものだ。

船で使うときには、右下の写真のように、望遠鏡のような仕組みで、水平線と、天空の星か太陽を同時に眺めて、その角度の差を、その時の時刻とともに、読みとることによって、その船の位置を知る仕掛けである。

この船長は、アイスランドの海上保安庁の観測船『オディン』の船長。私たちの海底地震計を設置してくれたときに、アイスランドの北方海域で、大きな氷山を見つけて、その位置を確認しているところである。

船長が左手の親指と人差し指で回転しているノブが、角度を読みとるゲージになっている。右手は六分儀全体を支えて、水平線を狙っている。

ところで、船上でもそうだが、揺れる飛行機の中ではとくに、六分儀を操作するのは、楽なことではあるまい。一方、その測定精度は、目のいい測定者だと1海里(1852m)を十分上回るから、非常用の装置としてはまあまあの精度なのである。

上の写真の右上方向が機首方向になる。

(上の写真:撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。73mm相当、F2.8、1/80s。下の写真:撮影したのは1997年5月。撮影機材は Olympus OM4-Ti、レンズは Tokinar 80-200mm F4、フィルムはコダクロームKL)


4-6:広大な荷室

C130は、後部が写真のようにがばっと開いて、荷物を積み込むための斜面が出現する。この斜面を通って、車輌や荷物や人間が積み込める。

見られるように、内部は広大だ。必要に応じて、人間も、機材も、ときには担架を運ぶ。 この極地飛行に特化したC130は、荷物だけならば16トンも積める。ダンプカー2台分に近い。

真ん中に立っている柱と、そこから突き出している金属は、担架を支えるものだ。怪我人や病人を運ぶときには、74名を運ぶことが出来る。なお、軍用機としては、全装備の兵隊ならば92名、パラシュートを背負った兵隊ならば64名載せられる。

私がブエノスアイレスからアルゼンチンのマランビオ南極基地まで飛んだC130は、全くの満席だった。

南極へ飛んで着陸できる大型の飛行機には、このほか、ロシアのイリューシン76(IL76TD)がある。これは上の2-2の地図にあるように、南アフリカから、ロシアの南極基地(ノボラザレフスカヤ基地)まで飛んでいる。

イリューシン76は1971年に初公開され、1974年以降、軍用ジェット輸送機や民間機として実用化された。ジェットエンジンを4つ付けた大型機で、20トンの荷物、または78人の人間を運ぶことが出来る。

イリューシン76が開発された当時の旧ソビエト連邦では、シベリア地域など、未整備で長さの短い滑走路で運用できる大型輸送機を必要としていた。そのために開発されたのがこの貨物機である。着陸装置は非常に頑丈で、荒れた未舗装の滑走路でも離着陸できるのが取り柄だ。

一時はソ連空軍だけで450機も使われていたほか、東欧やアフリカ諸国などの「友好国」に幅広く輸出された。総生産機数は、1996年までに900機を超え、現在も年産10機ペースで生産を続けている、貨物機の傑作である。

最大荷重での航続距離は6500km。巡航速度は750-780km/hと、さすがジェット機だけにC130よりはずっと速い。巡航高度は9000-11000m。ケープタウンから南極まで、約6時間の飛行である。なお、離陸に必要な滑走路の長さは1500-2000mである。なお、ノボラザレフスカヤ基地は、硬い氷(ブルーアイス)のため、スキーは履かず、車輪のまま着陸や離陸を行っている。

なお、ノボラザレフスカヤ基地にはアントノフAN-2Mという、単発の小型の複葉機がいる。最大10人乗り。巡航速度は175km/hと自動車並みで、航続距離は1000kmだ。目立つように真っ赤に塗られていて、スキーを履いていて、離陸の滑走距離はわずか150m、着陸は170mと短い。この機動性を生かして、近くを飛び回っている。

このアントノフAN-2Mの機体には、不幸にして南極で不時着したときに備えて、緊急袋が常備されている。その袋には、極地用のテント、小型ストーブ、乗組員と乗客のための1週間分の非常食などが入っている。1週間分とは、飛行機で一飛びのところでも、南極での地上からの救援は、すぐに何日もかかってしまうための備えである。

(撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。36mm相当、F2.8、1/80s)

【2016年8月に追記】この特殊な輸送機の全景は


5-1:スウェーデンの新鋭雪上車

雪上車のマーケットはどのくらいあるのか、ご存知だろうか。

世界的な雪上車メーカーであるこのスウェーデン車の場合、年産5台という規模だ。個人で買う客もいないだろうから、「産業」としては、きわめて小さな規模なのである。

しかし、その能力や信頼性に対する客の要求は厳しい。それに応えるためには、それなりの経験や実績が必要なのである。

もちろん、あまりに高価になってしまっても売れない。このため、この車の場合には、キャブ(運転席の箱)はボルボ(スウェーデンのトラックと乗用車のメーカー)の民生用のトラックのものを、またエンジンはカミンズの6気筒トラック用ターボディーゼルエンジンを、また、ゴム製のクローラー(無限軌道。なおキャタピラーは特定メーカーの商品名)は 軍用車向けのものをそのまま流用して、コストを抑えている。クローラーは軍用のものと材料も同じで、-45℃〜+45℃に耐える。

燃料はディーゼルとして一般的な軽油のほか、南極基地で使いやすいよう、ジェット燃料(ドルニエやC130のターボプロップエンジンも同じ)も使える。つまり、南極基地としては、ジェット燃料だけを持っていれば、何にでも融通できる利点がある。

ただし排気ガス規制のため、ジェット燃料のときは触媒フィルターが入り、走行250kmごとに自動的に取替える仕組みになっている。

牽引される車輌(右側。クレーンが着いている)もクローラーつきで、「頭」から、プロペラシャフトで駆動されてクローラーを動かす。つまり全クローラー駆動である。「頭」がクレバスに落ちて動けなくなっても、「尻尾」が、落ちた「頭」を引っ張り上げて抜け出すことが可能になっているのは大事なことだ。

写真のようにキャブはティルト式で、エンジンの点検や整備がしやすいようになっている。これは大型トラックと同じ仕組みである。

「頭」だけで重さ7トンもあるが、クローラーが幅広なので、面積あたりの重量は人間よりも小さく、雪の上では普通の橇(そり)くらいしか沈まない。

この車は、最近、ノルウェーの南極観測隊が買った。キャビンの横に着いているのは、ノルウェーの南極観測隊のマークである。

(ドイツ・ブレーメンで。2004年7月。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。39mm相当、F4.0、1/250s)

5-2:スウェーデンの新鋭雪上車の運転席

もちろん、寒冷地で使うために、いろいろの改造を行っている。冷間時始動用に、燃料、吸入空気、エンジンオイルを電気的に温める仕掛けがある。また、上の写真に見られるように、エンジンの吸入空気は、天井よりももっと高いところから取っている。これは、雪煙を吸い込まない工夫である。

暖気後は普通のトラックや乗用車のエンジンと同じ水温、80-90℃で走る。ただし、エンジンが冷えすぎないよう、エンジンの冷却ファンは可変ピッチプロペラになっていて、設定した水温まではファンが冷却用の空気を送らないようになっているのである。

写真は運転席。ペダルもハンドルも自動車と変わらない。ハンドルにノブが着いていることだけが違う(もっとも、日本の大型トラックにも付けている運転手がいるし、フォークリフトには普通に付いている)。非常駐車灯(ハザードランプ)のスイッチもある。

中央やや右に見えるのは速度計。60km/hまで目盛がある。その右は燃料計、中央の大きなものはエンジンの回転計(3000 rpmまで目盛がある)。左側の二つは油温計と水温計。

写真右上端に一部だけ写っているのはGPSのディスプレイ。視界が悪いときはこの「カーナビ」が威力を発揮する。

もとがボルボの大型トラックのキャブだから、この運転席のすぐ後には、快適なベッドがある。 ハンドルの中心はホーンボタンだ。

(ドイツ・ブレーメンで。2004年7月。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。36mm相当、F2.8、1/80s)


6-1:北緯78度でも、小さくて孤立した村なら、こんな「普通の」消防車でも走りまわれるのです

ここは北緯78度という、北極海に浮かぶスバルバール諸島のスピッツベルゲンだ。

この島はノルウェーが管理しているが、スバルバール条約によって、どの国の領土でもない。それゆえ、ロシアの炭坑町・バレンツブルグもある。

村ともいうべき小さな町だが、ここは、ロシア人しかない、風景も食べ物も、ロシアそのものだ。写真に見える建物も、その内装も、いかにもロシア風である。当然、消防車もロシアのものだ。

緯度は高いが、メキシコ湾流という暖流のおかげで、緯度ほどは寒くはない。寒さからいえば、シベリアのほうが寒いところがある。

このため、小さな街の生活道路だけを除雪すれば、冬でも、タイヤをつけた、この種の消防車の出番がある。ロシア本土ではー50℃になっても、エンジンがかかる車でないと実用にはならない。この消防トラックも同じだろう。

ただし、前部のラジエターだけは、冷えすぎを防ぐために、ラジエターカバーをしている。写真のときは夏の8月。夏でも雪が降る気候だけに、この日は半分だけカバーを開ける、という芸の細かいことをしている。

1998年8月、スピッツベルゲンのバレンツブルグで。

(撮影機材はOlympus OM4、レンズはTamron Zoom 28-70mmF3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR)


7-1:極地用除雪車。「関節」が多くて丈夫そうなのが厳しい環境用の設計です

雪の深いところでは、「除雪車」を使うのが普通になっている。しかし除雪と一口に言っても、雪の質はじつにさまざまだ。新潟のような水気をたくさん含んだ重い雪もあるし、北海道のような、雪合戦をしようにも、握れないくらい軽い粉雪もある。

私の友人が北海道のスキー場で転んだときには、スキーだけが雪面から出て、身体が逆さまになって粉雪の中に刺さってしまった。これでは、どうもがいても一人では脱出できない。ようやくスキーパトロールに助けて貰ったことがある。


一方、新潟の雪は、道路や新幹線の線路に水をまいただけで消えてくれる。北海道でこんなことをしたら、たちまちスケートリンクになってしまう。

極地に降る雪は、一般には北海道のような粉雪だ。しかしときには気温が比較的に高くて湿った雪も降る。また、強いブリザードで、巨大な吹き溜まりがあっという間に出来ることもある。つまり極地の除雪車は、迅速に、どんな雪でも対応しなければならないのである。

もうひとつの制約は、極地では、ごく少人数ですべての仕事をこなさなければならないことだ。除雪も例外ではない。このため、除雪車の動作も高度に自動化されている。

写真は極地で使われる除雪車だ。ドイツでの南極の委員会で展示されていた。車体の駆動はクローラー(無限軌道)。車体のフロントガラスは驚くほど下まで伸びていて、前方はすぐ下まで見える。またワイパーも強力で、前方の視界が確保されている。

また前方を照らすヘッドライトが、車体の上部にも運転席の横にも、合計7つも着いていて、極夜の仕事にも差し支えないように作られている。

ちなみに、極地での怪我はほかの場所と違って、きわめて重大なことになる。怪我人を病院まで運べるわけではないからだ。このため、除雪にも安全が最優先になる。日本の昭和基地の場合は除雪車に限らず、雪上車が動き出すときには、必ずホーンを鳴らして、周囲の警戒を促すことになっている。このため、帰国してからも、その習慣が抜けない隊員がいたほどだ。

この除雪車も、車外の隊員に怪我をさせないだけではなく、排雪板を操作するのに車から降りる、という極地ではもっとも危険な作業をしなくてもいいように設計されている。

ところで、この除雪車の特徴は右の写真にあるように、排雪板を操作する関節がじつに多いことだ。白く光ったシリンダー部分は見えるだけで7つもある。すべて油圧シリンダーで、車内から操作できる。排雪板の自由度がとても高い。これは、車から降りなくても、ブリザードによる吹き溜まりなど、複雑な除雪を簡単にこなせるという特技を持っていることになる。

また、この除雪車は、白い橇が着いた大きな青いトレーラーを牽引する馬力を持っている。

他方、日本の多くの場所で使われている除雪車は、「専業」ではないことが多い。左の写真は長野県佐久穂町の東部、武州街道の群馬県境に近いところで使われていた除雪車。といっても、地元の土建業者から県が借り上げたいすゞの旧式のダンプカーに、排雪板を付けただけの除雪車だ。

もちろん、クローラー(無限軌道)ではなくて、普通の冬タイヤにチェーンを巻いただけの装備だ。

それほど雪が降らない佐久穂町だから、これでいいのだろう。油圧のシリンダーは、排雪板の仰角を変えるひとつだけだ。あとの調整は、運転手が車から降りて手動でやらなければならない。

(上2枚の写真はドイツ・ブレーメンで。2004年7月。下の写真は2013年11月、長野県佐久穂町の武州街道で)


8-1:アイスランドでは21世紀まで現役のダグラスDC3。1935年に初飛行したので、もう80年も前の飛行機です。じつは南極でも改造したDC3が現役なのです。

米国ダグラス (Douglas) 社のDC3は、1935年に初飛行した双発のプロペラ旅客機・輸送機で、信頼性が高くてめっぽう丈夫なために名機と言われた。1945年までにDC3は1万機以上が作られた。双発の輸送機としては世界一の量産記録だった。

もっともその多くは米英などの連合国の軍用輸送機「C47」として作られたものだったが。第二次世界大戦で生き残った多数が、その後民間輸送機仕様に改造されて「DC3」となった歴史を持つ。

機体は全長 19.66 m、全幅 28.96 m、全高 5.16 m。いまの飛行機、たとえば後方にある近年の飛行機(下記の註)、から見ると、ずいぶん、太ってずんぐりしている。翼面積は91.7 平米、重量は、運用時に8,030 kg、最大離陸時に 12,700 kgだった。エンジンはレシプロ、 1,200馬力のものを左右2基備えていた。巡航速度は266km/h(最大速度は 346 km/h)、航続距離は 2,420 kmである。パイロットは 2人だ。

写真に見られるように、乗客のための窓は左右に6つずつしかない。つまり 3列席だと21人、4列席だと28 - 32(戦後改良されたスーパーDC-3)人が乗客の定員だった。

第二次世界大戦後
、数千機が米国内の航空会社だけではなくて各国の航空会社に使われた。信頼性が高くて輸送能力にも経済性にも優れたこのDC3のおかげで、1940-1950年代の世界の航空は発展した。日本の民間航空会社でも1950-1960年代にかけて、ローカル路線で用いられた。また運輸省航空局も使っていた。

写真のようにアイスランドでは21世紀になっても現役で使われている。大きな貨物用のドアと乗客用の小さなドアが組み合わされているのが写真で見える。このほか、世界で100機以上がまだ飛んでいるという説もある。初飛行から80年がたとうとしているから、驚くべきことである。

じつは、DC3がいま、いちばん活躍しているのは南極である。チリが持つユニオン・グレーシャー南極基地を起点に南極点などへ飛ぶ航空路に飛んでいる。チリ南部にあるプンタアレナスからユニオン・グレーシャー基地まではロシアのジェット輸送機イリューシン IL-76 で約4時間半飛び、ユニオン・グレーシャー基地で前輪二つと後輪にスキーを履いたDC3に乗り換える。

このルートは観光客にも、また日本など各国の南極関係者にも使われている。南極の自然は弱く、一般的には科学的な目的のためだけに行けることになっているが、チリやロシアにとっては南極をだしに外貨を稼ぐ手段になっている。

このDC3は「バスラーターボ」と言われている。エンジンをターボプロップエンジンに換装したもので、エンジンはプラット・アンド・ホイットニー・カナダPT6A-67R、プロペラは5翅ブレードのものに変更された。またエンジンが長いためにコックピットがプロペラの回転面より後ろになってしまう。このため、レシプロエンジンの元々のDC3よりもコックピットがプロペラの回転面より前になるように前部胴体が延長されている。また、航続距離も燃料タンクの増設により大幅に伸びている。

エンジンがレシプロからターボプロップエンジンに換装したことは、じつは、燃料がジェット機と同じジェット燃料になったということだ。南極基地のように備蓄が限られているところでは、ターボプロップエンジンではないレシプロエンジンの飛行機用の燃料はない。以前、ある国の冒険家がレシプロの軽飛行機で南極の各国の基地をまわったことがあり、このときには各国の基地がこの冒険家のためにわざわざレシプロ機の燃料をあらかじめ備蓄しなければならないので大変な迷惑を被ったことがある。

ところで「バスラーターボ」の全体の形は、DC3そのものである。離陸と着陸のときに(現代の旅客機とは違って)尻が下がって上向きになることも同じだ。

なお、製造したダグラス・エアクラフト社は、現在はボーイング社になっている。

註)この写真でDC3のすぐ後ろに写っている二機の小さい飛行機について、航空写真家の淵野哲氏に問い合わせたところ、全景が見えない機体も含めてたちどころに教えてくださったうえ、氏が撮影した各機の写真も送ってくださった。氏によれば「いちばん後ろは British Aerospace 社の 「BAe‐3212 jetstream Super31」で、ジェットストリーム自体は1980年に初飛行しているが、31は1988年に初飛行した。中間にある飛行機は、Beech craft(ビーチクラフト) PD-373MkU/T-6 TexanUという機体で、 1992年に米空軍と海軍で開発された単発で乗員2名が前後に座る練習機。写真に写っている機体はプロトタイプとして製造された2機のうちの1機だと思われる。この機体はPD-373MkUとして開発され、のちにT-6テキサンUという名称になって量産された。つまり
Beech craft PD-373MkU/T-6 TexanUと書くのが正確だろう」という。

(アイスランド・レイキャビック市内の国内空港で。1999年6月に撮影)

【番外編:日本の「極寒地」にいる不器量な乗り物たち】

6-1:レジャーの徒花。これほど不格好な乗り物はないでしょう。

これが乗り物とは信じられるだろうか。

たしかに、運転台があり、その上にヘッドライトがあり、無限軌道(クローラー)で自走できるから、立派な乗り物なのである。

それにしても、弁慶も真っ青なくらいの道具立てを背負っている。

これは、長野県・白馬乗鞍スキー場にある、スノーボードのための「ハーフパイプ」という特殊なゲレンデを作る専用車だ。弓なりのカーブは、ハーフパイプの大きさになっている。

それにしても、スポーツは、もともと、簡素な道具と自然の地形で楽しむものだったはずだ。それが、つぎつぎに、道具にも場所にも金がかかるようになり、ついには、土を盛って、凹んだ地形を作り、そこに雪をはりつけて削る、高価に違いない、こんな専用車まで必要とするようになった。

しかし、バブルっぽいスキーブームは、いまや、ピーク時の1/20に落ち込んでしまったという。夏草の中にたたずむ、外国生まれのこの乗り物はなにを思っているのであろう。

(2008年6月、長野県白馬乗鞍スキー場で。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ20。300mm相当、F4.0、1/200s)


6-2:車幅感覚がこれほどつかみにくい乗り物もないでしょう。

これは、同じく白馬乗鞍スキー場で使われている、スキーのゲレンデを平らにならすための車だ。一見、足ばかりが巨大で胴体が小さい昆虫を思わせる。

柔らかい新雪でも沈まないよう、巨大な幅の無限軌道(クローラー)があり、その前に雪を均す(ならす) ための「雪かき」風の幅広の金属板がついている。

スキーのゲレンデに、ちょっとでも新雪が残って、客が足首をひねって捻挫したりしたら困る、ということでこの種の車が、こまめに出動することになる。こうして、過保護のスキーヤーばかりが跋扈(ばっこ)することになるのだ。

ところで、この車幅は、あらゆる乗り物の中で、飛行機に匹敵するくらい広いものだ。しかも、飛行機と違って、地上を走るものだけに、運転するには、正確な車幅感覚が必要になる。なかなかの芸を要するにちがいない。

北海道札幌市にある藻岩山(531m)の山頂付近で、この白馬の雪上車の「きょうだい」を見つけた(右写真)。同じメーカーの製品だろうが、こちらは運転席の後ろに乗客を乗せる箱を背負っている。

巨大な幅の無限軌道は、この写真でよく見える。なお、後ろにある橙色の雪上車は「オハラ」。国産の雪上車メーカーだ。

カナダのスキー場で、夏に国際的な研究会が開かれて、出席したことがある。スキー客が来ない夏は安いわりに宿泊設備が整っているという理由で、スキー場が選ばれたものだ。そのときに、この種の車の運転手から、いちばんはじめに覚える日本語は「アブナ〜イ」だ、と聞いた。危険が察知できず、ぼおっと立っている日本人スキー客が多いのだという。

たしかに、外国で会う日本人は、周囲の外国人と比較して見てしまうせいか、危機察知能力や敏捷性に欠けている男女が多い。日本人の中でもそういう傾向の人が外国へ観光旅行に行くのか、あるいは日本人全体がそうなのか、どちらなのだろう。

(2008年6月、長野県白馬乗鞍スキー場で。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ20。レンズは300mm相当、F4.0、1/160s。下の写真は2014年10月、札幌・藻岩山の山頂近くで。撮影機材はOlympus OM-D E-M5。レンズは24mm相当

 


6-3:シュノーケルで息を吸う雪上車。

これは、北海道札幌市の藻岩山スキー場で使われている雪上車だ。巨大なダンプカーの荷台を背負っている。

荷台は黄色い木の板でかさ上げされていて、本来の荷台よりもずっとたくさんの「荷物」を積むようになっている。

じつは、このかさ上げ用の板は、冬になると札幌市内で除雪した雪を雪捨て場まで運ぶためにダンプカーに付いているのと同じ仕掛けだ。土砂の比重は約2、雪の比重は1より小さいから、荷台をかさ上げしても積載オーバーにはならないという仕掛けである。

札幌市内を冬中走り回っているダンプカーは、冬になると土木工事がなくなってしまう北国では、土建業にとってとても大事な生き延び策なのである。

スキー場専門の「ダンプカー」である。荷台は普通のダンプカー並みの大きなもので、かなりの巨体だ。しかし、運転席には一人しか乗れない。ところで、この雪上車のダンプは、ナンバーが着いていないから、スキー場の中だけを走るためのものだ。スキー場で、凹んだところに雪を詰めたり、雪が少なくて草木が出てしまうところを埋めたりするのに使うのであろう。

重さが7トンもあるこんな巨大な乗り物でも、クローラー(キャタピラ)のために、接地圧としては1平方センチあたり、わずか100グラムあまりしかない。つまり、雪の上でも沈まないで作業ができるのである。

ところで、この写真は、茨城県にある諸岡というメーカーのもので、クローラーキャリア ダンプトラックという商品名のものだ。この種の雪上車を作るメーカーは、国の内外を問わず、ごく限られている。顧客も限られているに違いない。それゆえ、どんな無骨なものでも、機能さえあれば、いかに不器量でもいいデザインなのである。

この車も例外ではない。最低限必要なものが、何のデザインもなく取り付けられているだけの、デザインのないデザインというべきものである。運転席も、丸いハンドルの代わりに、T字型のバーが中央に生えていて、足許に巨大にヒーターが剥き出しになっているだけの殺風景なもので、運転席の前のメーター類も、まるで軍用車のようだ。

潜水中に海上の空気を吸って呼吸するためのシュノーケルのように、エンジンから出た吸気管が長く伸びて運転席の屋上にまで達している。これは、少しでも雪煙を吸い込みたくないためである。意図してデザインしたものではないだろうが、このシュノーケルが、無機質な機械に、まるで昆虫のような印象を付け足しているのは面白い。

一方、上のスキーのゲレンデを平らにならすための車と同じく、危ない人々がウロウロしてるスキー場では、この種の車の運転手にとって、スキー客を避けることが一番の関心事だ。このため、4灯のヘッドライトだけでは足りず、運転席の屋根にも強力なライトを二つ、追加している。

私が札幌へ着任したとき、「ママさんダンプ」という言葉を初めて聞いた。ダンプはダンプでも、この車のようなものではなく、家庭での除雪のときに、雪を載せて移動させる、幅60センチほどのプラスチックの四角い皿に、押すための取っ手がついたものだ。旦那が”社畜”(たしか佐高信が言いだした言葉)になって不在のときに、主婦が除雪するための道具としては秀逸なネーミングと言うべきであろう。

(2009年9月、札幌市内・藻岩山ファミリーゲレンデで。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FX500。50mm相当、F4.3、1/80s)


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