島村英紀が撮ったシリーズ 「不器量な乗り物たち」その5:鉄道・路面電車編

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1-1:イモムシの頭をしたドイツの新幹線

ドイツの「新幹線」ICE特急。国境を越えて走る特急である。空気抵抗を最小にする形なのであろうが、なにやら、イモムシの頭を思わせる。しかし、まるで遊園地の乗り物のようだったが、近年はずっと醜悪になった日本の新幹線の顔つきが嫌いな私からすれば、まだ、ずっとましである。

このドイツの新幹線は高速新線 (NBS: Neubaustrecke) では250km/hから300km/hで運転する高速電車だ。それ以外の一般の線路でも、区間によっては200km/hで運転することもある。

1998年、走行中にタイヤが破裂して百人以上の犠牲者を出すという大事故を起こしたが、さすが技術の国のドイツ、驚くほど早く対策を施して、従来通りの高速で走っている。
(註1)。

太くて頑丈そうなワイパーアームは、いかにもドイツ人の設計と言うべきであろう。

なおDBはドイツ鉄道 (Deutche Bahn) のことである。 ドイツは日本の約9割の広さだが、約36,000kmにもおよぶ路線網を持ち、鉄道の密度が世界一高い国である。

かつての西ドイツのDB、つまりドイツ国鉄(Deutche Bundesbahn)と旧東ドイツ国鉄(DR,、Deutsche Reichsbahn ドイツ国有鉄道)が1994年に合わさって民営化された鉄道だ。しかし、政治家が利権のために国民の財産である国鉄を売り払ってしまった日本とちがって、ドイツでは、民営化後も、ドイツ国家の所有になっている「国鉄」である。

一等席は2+1列、二等席は2+2列か、または8人ごとのコンパートメントになる。椅子は革張りで、日本の新幹線よりよほど上等で、疲れない。真ん中に食堂車をはさんで5-6両の連結で走っている。日本の新幹線よりもはるかに短い編成だ。

前面に着いたおびただしい汚れは、この特急が、いかに多くの昆虫や、ときには鳥を殺しながら走っているかを示している。もっとも、これはドイツに限ったことではない。

よく見ると、いちばん前は不思議な仕掛けになっている。たぶん、二つに割れて、連結器が出てくるのであろう。

また、突き出している細い棒はなんだろう。

ピトー管(先端と側面との空気の圧力差から速度を測る、飛行機の先端に突き出している速度計)のように見えるが、鉄道では、タイヤの回転から正確な対地速度が出せるはずなので、ピトー管を必要としないはずだ。

日本のある鉄道関係者の説では、この連結器カバーを開けるためのレバーではないかという。

これは、私も、一番先に考えた可能性だ。だが、観光バスのドアを開けるレバーでさえ、バンパーの裏に隠れているというのに、これでは、あまりに芸がなさすぎる。


あるいは、サソリが多い地域で、見えないところへ手を突っ込むことが怖かった植民地の鉄道を持っていた欧州の宗主国各国の名残なのだろうか。

いずれにせよ、今度欧州へ行ったら、駅員の目を盗んで、ちょっと引っ張ってみようかと、考えている。

【追記】 2009年12月中旬に、ロシア初の高速列車「サプサン(Sapsan)」の営業運転が始まった。最高時速は250km/h。約600人を乗せて、それまでは4時間30分かかっていたモスクワ−サンクトペテルブルグ(旧レニングラード)間を3時間45分で走る。
サプサンとはロシア語でハヤブサという意味だ。

じつはこの車両はドイツのシーメンスが作ったもので、この上の写真のドイツの新幹線とそっくりである。しかし、前部に突き出ている「棒」はない。

(2004年7月、ドイツ・フランクフルト中央駅で。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。レンズは35mmフィルムカメラで43mm相当、F2.8、1/80s)


【2015年6月に追記】(註1)大学の先輩F氏から反論があった。「これは、どうしようも無くくだらない事故だと思います。 ドイツ鉄道の技術陣が、必要な,全く初歩的な実験を怠った事がこの事故の原因だとボクは信じます。そのために百人以上の人が殺されました(西洋の言葉では、事故死の場合殺されたと言うようですが(例えば,ボクが勉強した英語では be killed  と言うようですが、全く適切な表現だと思います。))。なぜ、ドイツの技術陣は必要なことを最初からやらなかったのですか」

「日本で新幹線が開業し、時速200kmの運転を始める以前から,ヨーロッパでは時速160kmくらい(あるいはそれ以上)の高速列車がけっこう走っていました(フランスの「ミストラル」とか「パリーボルドー急行」など)し、また、200km/h 以上で走る急行列車もあったと聞いています。だから新しい高速鉄道を作って、200km/hを越えて走らせてもたいしたことは無いと言う考えが、心のどこかにあったのではないでしょうか。
 でも、連続で、長距離を常に200km/h 以上で走るということは新しい経験であったはずです。車両について考えても,毎日のように200km/h 以上で走り回れば,廃車されるまでに走行する距離はものすごいものになるでしょう。昔の特急列車がところどころで200km/hを出していたのとは大きな違いです。 
 であるなら、日本の国鉄の技術陣がやったように,必要な実験装置を作って、実験室の中で必要十分な距離を走らせてみるべきだったのです。ボクたちは「コメット機の事故」という先行する貴重な事故の経験も持っているのです。ドイツの技術陣にはそういうことに対する謙虚さが無かったことが事故を起こした(事故が起こったのではありません、起こしたのです)原因です」


1-2:フランスの新幹線は、もっとまともな顔をしています

1-1のドイツの「新幹線」ICE特急とくらべて、フランスの新幹線TGV(「高速列車」を意味する Train a Grande Vitesse )は、昆虫じみてはいない。もちろん、日本の近年の新幹線ほど醜悪な顔つきをしているわけではない。少し目が寄っているものの、さすがにフランスの良識というべきであろう。(註2)。

じつは、フランスは高速鉄道のパイオニアである。このTGVも、はじめはガスタービン電気式機関車として計画された。ガスタービンは機関車として普通に使われているディーゼルエンジンよりも小型軽量であり、長時間に連続で高い出力を発揮するために選ばれたものだった。

これは、ジェット旅客機に使われているのと同じターボプロップエンジンで発電機をまわして電力に変換し、車軸に接続したモーターを駆動するもので、1967年に試作され、量産化もされてイランやエジプトにも輸出された。

じつは、私は1977年に海底地震観測のために、ホメイニ革命の直前だったイランに行ったことがある。そのとき、首都テヘランから、私の共同研究者だったイラン人科学者がいる、イラン第二の都会、マシャドまで行く、高速鉄道にだけは乗るな、と言われたのを覚えている。汽車は高速で走るのだが、線路の保安がついていっていないので、事故が多くて、とても危険だと忠告されたのである。そこを走っていたのは、このフランス製の高速機関車であった。

なお、当時のイランは石油の利権を王族が独占しており、鉄道や軍備には巨費を使っていた。軍艦も、英国ロールスロイス社製のガスタービンエンジンを備えており、恐ろしく速くて、甲板上では呼吸が困難なほどだった。

フランスでは、1972年に、新幹線用として最初のTGV車両である「TGV001」というガスタービン機関車が試作された。これは時速318kmにまで達することが出来たので、当時世界で最速の列車であった日本の新幹線の速度を大きく上回った。しかし、その後のオイルショックで、フランスのTGVはガスタービンをやめ、電気機関車方式に変更したのであった。

ところで、最初に在来線のレールを使った高速鉄道を始めて、時速200キロを優に超える速度を出したのは、世界でもこのフランスのTGVが最初であった。

フランスのTGVが日本の新幹線より有利だったのは、 在来線の軌間(レールの間隔)が1,067mm(狭軌)となっている日本とちがって、フランスを含むヨーロッパの多くの国では在来線も軌間は1,435mm(標準軌)となっていることだった。

このためTGVはスピードを落とせば在来線をそのまま走ることができるので、新幹線用の土地を新たに買収して線路を引く必要が少なかったことであった。とくに用地買収が難しい都会での新線建設の必要がないのが最大の利点であった。(なお、日本でも、京浜急行、京王線、京成線、都営地下鉄新宿線などは、標準軌を使っている)。

TGVは、1981年9月27日に首都パリからフランス南部のリヨン間が開業し、時速260kmでの営業運転が始まった。

開業当時はこの2つの大都市を、飛行機よりも高速に結ぶ最速の交通手段であることが「売り」だった。

その後、このTGVは広く欧州各国を走るようになり、1994年: ユーロトンネル(英仏トンネル)開通に伴い、ユーロスターがロンドンまで乗り入れた。

私が乗ったのは、1984年の夏で、フランスでの開業後、それほど時間がたっていないころだった。座席にまわってきた愛嬌がよくて愛くるしい車掌(右写真の右)に頼んだら、あっさり、運転席に連れて行ってくれた。

運転手もこの新幹線が自慢らしく、時速260キロを超える速度で走りながら、運転のやり方など、いろいろ教えてくれた。在来線のレールの上を走るところもあり、それなりに気を遣うのだよ、と言っていたのが記憶に残っている。

新幹線に限らず、私はよく、飛行機の操縦席も見せて貰った。今は昔のことになるが、1990年代までは、欧州を飛ぶ旅客機は、操縦席のドアを開けたまま飛んでいるのが普通で、気安く操縦席に案内してくれた。

なかでも、私が地球物理学者だとわかると、気象レーダーなどを操作して、実際に前方の雲を見せてくれたり、操縦席から見えるオーロラの話をしてくれたりしたものだ。

左写真は運転席の操作盤。丸いハンドル様のものが二重になっていて、この二つを常に握っていないと、列車は自動的に停止するようになっている。日本の列車のように、レバーを前に倒すだけだと、運転手が意識を失って倒れかかったら、そのままになってしまうから、それよりは、このフランスの新幹線方式のほうが安全だろう。

元フィルムだと、ハンドル前方の長細い窓に速度計があり、このときには時速264キロを示して数字が明瞭に見える。

ハンドルの上に乗っているのは、走行ダイヤである。

運転席からの前方の眺めは、さすがに圧巻であった。速度自体は、飛行機の離陸速度とそれほどちがうわけではないが、飛行機のように側方ではなく、前方の線路やそのまわりが見え、飛ぶように後ろへ去っていくのであった。

 フランスでは、1990年には、大西洋線での走行試験で、鉄路を走る列車としては世界最速の515.3km/hを出している。また、2007年4月には、開業前のTGV 東線 (LGV Est) での公式走行試験で、特別編成の列車が時速574.8km/hを出して、浮上しない列車としては世界記録を更新した。高速列車は、いわば、フランスの意地なのである。

【追記:2012年10月】その後、元日本の新幹線の運転士、のちに運転司令室の職員という人に会った。いまは東京でタクシーの運転手をしている人だ。

その人によれば、日本の新幹線の前の窓から前方は(はるか彼方以外は)ほとんど見えず、運転士はもっぱらディスプレイだけを見ながら運転している、上記フランスのように、何かを握っていないと停止してしまう装置はなく、運転士の「誤操作の後始末」は、中央の運転司令室と、ATS(列車自動停止装置)だけに頼っている、という。

その意味では前の窓はなくてもいいし(そのうえ、何かを見つけて急ブレーキをかけても間に合うわけがない速度で走っている)、石などが飛んできて破損することを考えれば、窓はないほうがいいが、前方窓のない列車では「乗客が心配」するので、窓をつけているのだ、という。このために、運転士の視力は(飛行機のパイロットのように)特別にいい必要もなく、メガネをかけていても採用になるという。

つまり、フランスの運転士より日本の新幹線の運転士のほうが、はるかに”非人間的”な仕事をしている、というわけだ。

【追記の追記】なお、2005年に開業した「つくばエクスプレス」はさらに自動化が進み、運転士は、発車ボタンを押す以外はすることがないという。日本の運転士は、ますます”非人間的”な仕事に従事するようになっている。


「フランス人にできて、日本人にできないこと」

(1984年7月、フランス南部・リヨン駅(ずっと上)とパリまでの途中(右上とすぐ上)で。撮影機材は Olympus OM-2。レンズは Tamron 35-80mm zoom。フィルムはコダクロームKR)

【2015年6月に追記】(註2)大学の先輩F氏から意見があった。「最近の日本の新幹線の顔つきについては同感ですが、日本のように市街地の近くのトンネルがある場合、衝撃波(?)の影響を緩和するために列車先端の形状に選択の余地が少ないのでしょう。現在の形が唯一解だとは思いませんが。
 ドイツの卵型もTGVもそれほど褒められた形とも思えません。あなたはTGVの先頭車の形について「フランスの良識」と言っていますが、もしこの先頭車を日本の新幹線で250km/hくらいで走らせたら,トンネルの近くの民家の窓ガラスを皆割れてしまうかも。
 ボクは,新幹線の最初の形が一番気に入っています。新幹線を作った人たち、それを応援した人たちの気持ちが込められているように思えます。もちろん、この形は現在の速度には適しませんが 」


2-1:二度の世界大戦を生き抜いたドイツの路面電車(ブレーメン中央駅前で)

ドイツは第一次と第二次の二つの世界大戦で、ほとんどの都市は壊滅的な破壊を受けた。ハンブルグでは、米英軍の空襲(いまで言えば空爆)を受けて、市街地が炎上し、その火が「火災旋風」を起こして、被害を劇的に拡大してしまった。

この「火災旋風」は、将来、日本の都会が大地震に襲われたときに、もっとも恐れられている災害のひとつだ。火が火を呼んで拡大するのである。

ここ北ドイツのブレーメンでも、第二次大戦では、市街地の69%が灰になった。写真に見られるように、ブレーメン中央駅前には、古くて由緒ある建物がない。すべて、戦後の建物である。

ブレーメンには新旧、いろいろな路面電車が走っている。新しいものは、「ブレーメン型」として知られている1990年に登場した超低床タイプで、熊本市電では日本版のブレーメン型が走り始めたほど有名なものだ。

写真の「134号車」は、1904年に作られたものだ(伊藤風天博士の調査による)。二度の世界大戦を生き延びて、すでに100年以上も走っていることになる。日本とちがって、古いものを大事にするヨーロッパならでは、の旧車である。

車輪を付けた「台車」が車体に対して(鉛直軸のまわりを)回転する電車とちがって、わずか4つの車輪が、車体の底に固定されている「単車」という仕組みだ。乗客の約半分も、運転手や車掌も、車輪よりは外側の「空中」に乗っていることになる。

それにしても、巨大なパンタグラフをつけている。高さはほとんど車体の高さほどもあり、しかもパンタグラフのさらに上に、ビューゲルと言われる、別の方式の集電装置までつけて二段重ねにしている。 これは、自動車の高さの規制が、昔よりも高くなったために、昔の電車にとっては、いまの架線が高すぎたので足したのではないだろうか。

自動車の高さの規制は、欧州の方が、日本よりも高い。このため、英国やドイツの二階建てバスを日本に持ち込むときには、日本仕様として、特別に背を低くしたり、あるいは、走れる路線を限定したりして対処している。

(2004年10月、ドイツ・ブレーメン中央駅前で。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。レンズは170mm相当、F2.8、1/640s)

2-2:これも古さではひけをとらないリスボン(ポルトガル)の市電(リスボン市内で)

ポルトガルの市電も古いものが多い。なかでも、坂を上るための市電は、それぞれの坂の傾斜に合わせて専用の車体が作られているために、おいそれと更新できないという事情があるのだろう。

平地を走る「普通の」市電でも、これは古い。上のドイツの市電と同じように、二回の大戦を生き抜いたか、少なくともあとの大戦よりは前のものに違いない。

上のドイツのものと同じように、「単車」という素朴な仕組みだ。車体の全長に比べた軸距は、もっと小さく、転ぶのではないか、と心配させるほどだ。ブレーキ性能も低いに違いない。

集電装置も、もっとも安価で素朴な、ポール式だ。終点では、運転手が先端から垂れている紐を引っ張って、掛け替える。

この車体をデザインしたときに、行く先表示板と路線番号表示板を忘れたので、あとから無骨なものを載せたのだろうか。いや、もしかしたら、路線がたった一本しかない時代から、生き延びている車体で、路線表示が必要でなかったのかもしれない。

ついでながら、ポルトガルのタクシーは、すべて右の車のような配色をしている。なかなかの配色だ。なお、アルゼンチンでは下は黒だが上は黄色で、これも洒落ている。ドイツのタクシーの肌色一色や、京都のタクシーの薄緑一色よりは、ずっとセンスがある。

(1991年3月、ポルトガル・リスボン市内で。撮影機材は Olympus OM4Ti。レンズは Tamron 28-70mm F4.5-5.6。フィルムはコダクロームKR )

2-3:これは1950-1960年代のものでしょうか。レニングラード(現サンクトペテルブルグ、ロシア)の市電(1974年)

サンクトペテルブルグは世界でも、もっとも市電が発達している町だといわれている。かつてのソ連の時代から、市内にはこのような二両連結の市電が四通八達していた。

また、トロリーバスも多かった。トロリーバスは、市電のような架線と集電装置を持ったバスだ。排気ガスを出さないのが特長だ。かつて日本にもあったが、このトロリーバスをなくしてしまったのは、大変な失政だと思う。

2009年現在、さすがに、この写真の旧型車はなくなって、ロシア製の新型に切り替わっている。新型は前後の窓が大きく、この写真のように、車掌が窓を開けて顔を出す”人間的な仕組み”にはなっていない。

また屋根の上にある集電装置も、写真のビューゲルとは違って、菱形のパンタグラフが多い。しかし、二両連結なのはそのままだ。

(1974年3月、レニングラード(ソ連)で(現サンクトペテルブルグ(ロシア))。撮影機材は Olympus OM1。レンズは Zuiko 40mm F2.0。フィルムはコダクロームKR64)

2-4:ウィーンの市電は形も駅も”丸い”のです

市電のデザインは上のレニングラードのように、あくまで角張るか、このウィーンの市電のように、どこまでも丸くするか、どちらかしかないのだろうか。

しかも、この市電は、乗り降りする駅まで、丸い。これでは、プラットホームと電車の隙間が大きく開いてしまうから、高齢者には楽ではない。

また、上のレニングラードの市電もそうだが、この市電も絶対に後ろ向きには運行しないことを想定して作られている。つまり、ヘッドライトも運転席も、こちら側にはない。

つまり、すべての市電の前後両側に運転席を作るよりは、それぞれの市電の線の終点にこの写真のようなループ状の線路を造ったほうが安上がり、ということなのであろう。

もちろん、故障車を牽引したりすることもあるから、写真のように、後部に連結器は用意されている。

(1996年1月、オーストリア・ウィーン市内で。撮影機材は Olympus OM-4Ti。レンズは Tamron 35-80mm zoom。フィルムはコダクロームKL200)


2-5:スイス・チューリヒの市電はレニングラードのより、もっと角張っていました(1975年)

これは、上の丸い市電を、そのまま角張らせたような不思議な形だ。このため、前部の運転席の窓は、普通の横長どころか、正方形を通り越して縦長になってしまっている。

どうしてここまで前部を絞る必要があったのだろう。車ならば、曲がるときに「外側回転半径」を小さくするために前部の角を絞ることがよく行われる。しかし、市電はレールの上しか走れないわけだから、無理をしてここまで絞る理由はないように見える。たんにデザインなのだろうか。

さすがに、頬がこけたような、この陰気なデザインの市電は評判がよくなかったのか、いまは(2009年現在)廃れていて、もっと親しみのある形の新型車が何種類か投入されている。

この写真の市電の”後継者”は低床化され、縦長の前の窓が下すぼまりの梯形になっている。なお、チューリヒも、サンクトペテルブルグと同じように、市電が四通八達している市電の町である。

この写真で見ると、欧州に多い二両の永久連結の市電は、前の車両にパンタグラフも、モーターも、運転席も、みんな集まっていて、後部車両は、たんに引っ張られているだけであることがわかる。

上のウィーンの市電もそうだが、この「10番」の市電も、路線番号が途方もない大きさに掲示されている。これは年寄りや、眼が弱い人にとっては福音である。

(1975年8月、スイス・チューリヒ(チューリッヒ)で。撮影機材はOlympus OM1。レンズは Zuiko 50mm F1.8。フィルムはコダクロームKR64)


2-6:路面電車の「裏方」

そのブレーメンの路面電車を支えているのは、こういった「裏方」の作業車たちだ。欧州では普通にある石畳の道路の補修は、最後は手作業に頼るしかないが、それ以外は、それなりに機械化が進んでいる。

これは、土や砂や砂利を運ぶ油圧ショベル(パワーショベル、Hydraulic Excavator)。ほかでもよくある機械だが、先端にクラムシェル(Clamshell、ブームを下げて上から落とすと、二枚貝状のバケットが開いてその中に土砂を抱え込み、上に上げるときに、重みでバケットが自動的に閉じて土砂をすくい込む)をつけている。

日本では油圧ショベルはクローラ(キャタピラ)式が多い。これは、接地面積が大きいので安定していて、工事現場の軟弱な地盤上でも移動できる利点がある一方で、トレーラートラックに積んで現場へ運ぶ手間がかかる。

一方、写真の重機は車輪に建設機械用のゴムタイヤをつけている。道路を走って現場へ行くためだが、このタイヤ方式は、作業するときには安定性が悪く、掘削力などの作業性も劣る。

日本ではトレーラートラックでいったん現場へ運んだあとは、工事が終わるまでそこで放置するのが普通だ。

しかし、多くの国では、夜間は無人になる工事現場に車両を置きっぱなしにするなど、考えられない、まず間違いなく、盗まれてしまうという。このため、毎日、持ち帰る必要があり、自前の高速移動手段であるタイヤが必要なのである。国境がない島国で、かなり悪くなったとはいえ、いまのところはまだ他国よりは治安がいい日本ならでは、であろう。

写真の重機がほかのパワーショベルとちがうのは、路面電車の軌道を走れるように、油圧で上下する車輪が着いているところだ。

しかし、これだけ立派なゴムのタイヤがついているのに、車輪をわざわざ下ろしてレールの上を走る必要があるのだろうか。

あるいは、鉄橋の上で作業するときとか、あるいは現場まで自走せずに、レールの上を牽引してもらうときに、この車輪を使うのだろうか。

なお、建設用の重機は、日本でも欧州でも黄色が普通だが、インドネシアに輸出するときだけは、黄色が葬式の色として忌み嫌われるので、別の色に塗るのだ、と日本の重機メーカーの人に聞いたことがある。

(2004年7月、ブレーメン市内で。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。45mm相当、F2.8、1/250s。なお、この項目は滝澤睦夫さんにいろいろ教えていただきました。)


2-7:電車の「裏方」には、こんな奇妙な「軌陸車」もあります。

日本でも、鉄道を支えている裏方には、これと似た「乗り物」がある。向こうに見えるのはトラック、手前にあるのはパワーショベル(左下の写真にもある)で、ともに、レールの上も、道路の上も走れる両用車である。

これらを、日本では「軌陸車(きりくしゃ)」と言っている、知らなければ、耳から聞いても、決して分からない業界用語である。

これらは、平地を走るためのゴムタイヤや、無限軌道(クローラー)を持っているが、同時に、線路を走るための鉄輪も持っている。

そして、これらの鉄輪を使うときは、油圧で車体を持ち上げて滑稽な姿になり、タイヤや無限軌道が地面を離れている状態で、鉄輪を本体のエンジンで駆動する仕掛けになっている。

重い車体を細い”足”で支えている姿は、まるで山田紳が描くところの漫画の人物像のようだ。

つまりこの奇妙な乗り物は、線路の上を、とてもゆっくりながら、走ることができる作業車なのである。もともと鈍重な車だし、もちろん、ロードホールディングも、ステアリングレスポンスも問題外の運転を強いられることになる。

そして、この鉄輪は車軸の両端にそれぞれ一つずつが付けられている、ごく普通の仕組みだが、じつは、両側の鉄輪は「電気的に絶縁されて」いる。つまり、普通の鉄製の車軸ではないのだ。これは左の写真のパワーショベルの鉄輪をよく見ると分かる。左右の鉄輪を単純に車軸でつないだ構造にはなっていないのである。

これは、上の2-6のドイツ・ブレーメンの軌陸車とは違うところだ。ブレーメンのものは、単純な鉄の車軸が通っている。

それは、これも業界用語だが、「線閉(せんぺい)」と言われる「線路閉鎖信号システム」のためなのである。この「線閉」とは、汽車や電車が踏切に近づいたときに、踏切を閉めたり警報機を鳴らすための自動システムで、踏切の何百メートルか以内で、両側の線路が汽車や電車の車軸によって電気的にショートされたときに働くようになっている。

しかし、この種の作業車は、踏切のすぐ近くで作業しなければならないこともある。たとえば鉄道が走っていない深夜に踏切ではないところで作業しているときに、踏切が作動してくれては困ることが多い。このための電気的な絶縁なのである。

(東京・練馬区の西武池袋線の石神井公園〜大泉学園間の高架工事現場で。撮影機材はRicoh Caplio R1。上の写真は2009年12月、、レンズは135mm相当、F4.8、1/28s、ISO (ASA) 154。下の写真は2010年1月、レンズは28mm相当、F3.3、1/84s、ISO (ASA) 100。)


なお、約半世紀前の「軌陸車」の写真はこちらに


3-1:形もドアもバスそのものの鉄道(ドイツのローカル線を支えたレールバス)

乗客がごく少なく、電化もしていないローカル線では、このようなレールバスが使われていた。

フロントガラス、出入口のドア、全体の形、どれをとっても、鉄道というよりは1950年代のバスそのものである。

唯一ちがうところは、ドイツ国鉄の伝統に倣って、額の上に3つ目のヘッドライトがついていることと、どちら向きにでも走れるよう、前後対称形になっていることだ。

現在は、このレールバスは引退してしまった。右の車輌は、ずいぶん色褪せてしまっている。

それにしても、架線がない鉄道線路というものは、なんと空が広いのだろう。

ところで、運転席の上の屋根に立っている四角くて短い柱はなんだろう。音声通信用の列車無線のアンテナだろうか。あるいは踏切の信号を自動操作する無線発信用なのだろうか。

(2004年10月、ブレーメン郊外の田舎で。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。200mm相当、F2.8、1/400s)

4-1:よほど衝突が怖いのでしょう(フランクフルト中央駅の「暴走防止」柵)

鉄道の運転手がいちばん緊張するのは。たぶん間違いなく、終着駅へ着いたときだ。

そこには行き止まりの線路があり、絶対に越えてはいけない一線がある。また、もちろん手前に止まりすぎてもいけない。ときには国境を越えてきた長距離運転の最後に、緊張する一瞬である。

たとえば、東京の西武池袋線では、終着駅池袋から2kmも手前にある最後の駅のホームを出たところに「(ブレーキの)圧力計確認」という運転手向けの注意書きがある。最後に止まれないことを、そこまで恐れているのである。

しかし、そこは人間のすること。あるいは、どんな機械でも故障することがある。そのため、欧州の終着駅には、写真のような、いざというときのために、列車をくい止める柵がついている。

見られるように、柵はいかにも頑丈そうなストッパーのほか、衝撃を吸収できる構造もついている。

どのくらいの衝撃まで耐えるのかはわからないが、この柵は、過去に一度は、衝撃を吸収した履歴が残っている。手前から4番目の関節にゆがみが残っているのである。あるいは、右側のプラットホームの上に積んであるのは、その「事故」の残骸だろうか。

【追記】 南米アルゼンチンの
首都ブエノスアイレスで2013年10月19日朝、旅客列車が終点の駅の停止位置で止まらず、ホームの車止めにぶつかったあとそのままホームに乗り上げて止まった。この事故で子どもを含む乗客・乗員と、駅のホームで列車を待っていた人たち少なくとも80人がけがをし、このうち5人は骨を折る大けがだった。

  地元テレビ局の映像ではホームに乗り上げ改札のすぐ近くまで迫った列車の先頭車両が、激しく壊れている様子が映った。乗客の男性は「急ブレーキがかかったようには感じず、列車のスピードも落ちないまま衝突して、電気が消えた」と話したという。

 なお、この同じ駅では2012年2月にも、列車がホームの車止めに激突して52人が死亡し数百人がけがをする大惨事が起きた。

(2004年8月、ドイツ・フランクフルト中央駅で。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。レンズは38mm相当、F2.8、1/80s)


4-2:日本の例。留萌(るもい)本線の終着駅、増毛(ましけ)の車輌止め

北海道の国鉄(その後JR北海道)を象徴するような、全線が単線の、それでも「本線」の終点。もちろん電化はしていない。

この留萌本線には、札幌と旭川の間にある深川市の函館本線・深川駅から留萌市の留萌駅を経て、増毛郡増毛町の増毛駅を結ぶ 67 km に20の駅がある。ここは終点、増毛駅だ。

ここにある車止めは、レールを曲げて作っただけの簡素なものだ。上のドイツのものとは雲泥の差がある。これは、レールがなくなってしまう、この終点・増毛より先へ行こうという運転手は絶対にいない、という想定のもとに作られているのであろう。

それにしても、なぜ、アルゼンチンで事故が繰り返すのだろう。やはり、ラテンの国だからだろうか。

もっとも、「ぶつかる」方も、ディーゼル駆動の客車一両だけだから、この車止めでも十分に止まるのかもしれない。

深川駅から留萌駅間でさえ2〜 3時間に1本、留萌駅から増毛駅間はもっと少なく、5時間以上運行間隔の開く時間帯がある。増毛駅にある時刻表には、一日で7本の時刻しか載っていない。生徒たちを乗せた朝7時35分発の列車が出てしまうと12時54分まで発車する列車はない。

なお「本線」と名づけられたJR線の中では、66 kmの筑豊本線に次いで2番目に短い本線である。

(2013年9月、増毛駅で。撮影機材は Panasonic DMC-G2。レンズは 28 mm 相当)


4-3:オーストリアの電車は、あくまで長方形が嫌いのようです

電車の運転席の窓は、普通にデザインすれば、なんの変哲もない横長の長方形になってしまう。

これは視界をなるべく広く取るための、ある意味では必然である。バスや車の運転席も、同じ理由で、基本的には長方形である。

ところが、芸術の国、オーストリアのデザイナーはちがった。窓を末広がりの台形としてデザインし、それを強調するために、さらに台形の青い枠まで取り付けたのだ。

機能的には、このデザインで空気抵抗が減るわけでもないし、なんの意味もない。しかし、そこが”芸術”なのかもしれない。初めて見るとかなり滑稽に見えるが、ウィーン子は見慣れてしまったのであろう。

この4020系電車はオーストリア国鉄が主力として使っている通勤電車で、1979年から作られている。出力は1200 kw/h、最高速度は120 km/hである。

(1996年1月、オーストリア・ウィーン西駅で。撮影機材は Olympus OM-4Ti。レンズは Tamron 35-80mm zoom。フィルムはコダクロームKL200)


4-4:しかしオーストリアの一世代前の電車は、まったくちがう、丸っこいデザインでした

上の4020の14年前、1965年から作られたのが、この4010型の電車だった。出力は2265kw/h、最高速度は150km/hという高性能車だ。

いまだに現役だが、当初の都市間高速長距離電車から、しだいにローカル線用に「格落ちの」使われ方に変わってきている。

この電車のデザインは、上の4020型とはまったくちがう。丸くて、愛らしいというべきだろうか。

しかし、両側のヘッドライトまわりと、それを囲んで車体の側面へ流れていく線は、それなりのデザインの意欲を感じさせる。日本の新幹線の気味の悪さとはまったく無縁の、親しみやすいデザインというべきであろう。

(1996年1月、オーストリア・ウィーン西駅で。撮影機材は Olympus OM-4Ti。レンズは Tamron 35-80mm zoom。フィルムはコダクロームKL200)


4-5:その同時期に作られたドイツ国鉄の電気機関車は、まるでスキンヘッドの巨漢のようでした

これは1965年から試作された、ドイツ国鉄を風靡した「103型」の電気機関車である。特急旅客用列車を牽引する交流電気機関車だ。その前に広く使われていた「110型」を置き換えるために作られたものだ。

ドイツ国鉄で最初の200km/h対応の電気機関車で、量産車は1970年 - 1974年にかけて作られ、総製造数は量産車として145両(このほかに試作車が4両)と多かった。

機関車としての重量は114 トン、軸配置は6動軸、全長が 20.2m (後期製造車)、 交流の15 kV、定格出力は 7,440 kWで最高速度 200 km/hを誇った。当時としては200 km/h 運転が可能な機関車はこの103型しかなかった。

そのためだろう、車体の前部には虫の死骸がいっぱい付いている。

形は空気抵抗を減らした流線型と称されたが、屋根部分も一体になった、まるでスキンヘッドの巨漢のように見える

なお、この色はTEE(Trans Europe Express, 1957年から西ヨーロッパで運行されていた列車)用客車と同じく、えんじ色とクリーム色の通称「TEE色 (rot-beige)」であり、西ドイツ国鉄の看板列車TEEを始めとした特急牽引
用の電気機関車であることを示している。

なお1971年7月21日にドイツ・ラインワイラーで103 106号機牽引の急行列車が脱線・転覆事故を起こし、死者23人・負傷121人にのぼる惨事となった。調査で制限速度75 km/h のカーブを140 km/h で通過したことが判ったので、103型機関車自体の問題ではなく、その速度制御装置の欠陥だと分かった。

前方の窓を拭くためなどにつかまる「取っ手」が右側にしかないのはどうしてだろう。左側の窓には手が届かない。

この103型電気機関車は、2003年に定期営業運転を終了した。とても長く使われた名車であった。

(1984年、ドイツ・フランクフルト中央駅で。撮影機材は Olympus OM-4Ti。レンズは Tamron 35-80mm zoom。フィルムはコダクロームKR64)


4-6:その同時期に作られたドイツ国鉄の電車は、ベストセラーになりました

これは1969年から1997年にかけて合計480編成が製造され、ドイツ国鉄で広く使われた「420型」の電車だ。1972年のミュンヘンオリンピック開催に間に合うように開発された経緯から、「Olympia-S-Bahn」 とも呼ばれた。

最高速度は120 km/h。都市とその近郊型の近距離電車だ。

交流15kV、架線集電式の交流型電車だが、全部が電動車である3両の固定編成になっている。編成全体の出力は2,400kWである。

車体ははじめは先頭車は鋼製、中間車はアルミ製だった。その後先頭車もアルミ製となった。写真のものは全部アルミになってからのものだ。ドアは各車両に片側4つある。

車体の色は、元々は明るい灰色に窓周りを橙、青などに塗り分けたものであったが、1990年代後半にドイツ国鉄のコーポレートカラーであるこの写真の「交通赤色」(Verkehrsrot)に白を配したものに統一された。

この「420型」の電車はSバーン用高性能電車として、旧西ドイツ各地で広く使われた。3両が固定されていて、それぞれがモーターを持っている構成のために、基本編成のほか、それを二つ(6両)とか三つ(9両)つないだ編成のものも使われた。

1960年代から作られているものとしては前面ガラスに大きな曲面ガラスを使うなど、なかなか洒落ている。ガラスの下に見えるものはスクリーンウオッシャーだろう。

この写真のものはS15の路線。フランクフルト中央駅からフランクフルト空港までの
電車だ。20分ほどの近距離走行である。

(1984年1月、ドイツ・フランクフルト中央駅で。撮影機材は Olympus OM-4Ti。レンズは Tamron 35-80mm zoom。フィルムはコダクロームKR64)


4-7:その同時期に使われていたドイツ国鉄のやや古い列車

「プッシュプル運転用の
制御客車」というものである。機関車に引っぱられる列車の最後尾にあって、機関車を前後付け替えなくても、終点からの折り返しでは後ろ向きに運転できるものだ。

それゆえ、運転席が、最後尾の客車に後ろ向きに付いている。もちろん、雨の時のワイパーもついている。

こちらが前部になって走るときは、最後部に機関車をつけたまま、逆走する形だ。初めて見たらぎょっとするに違いない。日本にはない。だが、ドイツ流というか、とても合理的な仕組みである。

上の「420型」よりは古い列車だろう。写真のマンハイム行きは距離にして80kmあまりだが、こういった中距離路線に使われていた。

上の「103型」と同じく、やはり前方の窓を拭くためなどにつかまる「取っ手」が右側にしかないのはどうしてだろう。左側の窓には手が届かない。これがドイツ流の風習なのであろうか。

ところで、この取っ手のすぐ近くに、不思議なものがある。上方に蝶番がある、なにかのスイッチのように見える。じつは上の
4-5の電気機関車「103」にも、まったく同じものが着いている。ちょっとよじ登って、この蓋を開けてみたくなったが、もちろんいけないことなのかもしれない。

私は小学校のときに、学校の階段の下にあった同じようにふたの付いたスイッチを押してみたことがある。それが非常扉を閉めるためのスイッチだったことは、押してからわかった。しかも悪いことに、スイッチを戻しても、扉は閉まり続けたのだ。大目玉を食らったのは言うまでもない。

もしかしたら、この取っ手に掴まってガラスを拭いているときなどに、いきなり汽車が走り出したら、その危険を知らせるために、サイレンか警報を鳴らすスイッチでも入っているのだろうか。

それにしても、ホームと列車の隙間が、日本よりもずっと広く開いている。このくらいの隙間は欧州では当たり前のことだろうが、日本では車内放送などで口をすっぱくするくらい注意しているのを思い出すと、あまりの違いに呆然としてしまう。

(1984年1月、ドイツ・フランクフルト中央駅で。撮影機材は Olympus OM-4Ti。レンズは Tamron 35-80mm zoom。フィルムはコダクロームKR64)


5-1:二本の角を生やしたイモムシ(ドイツのローカル線を支える主力ディーゼル機関車)

ドイツの鉄道が日本の東京や大阪とちがうところは、大都会にもディーゼル機関車やディーゼル列車が乗り入れていることだ。

たとえば北ドイツの中心都市であるハンブルグでも、IC特急のような高速電車は乗り入れているものの、写真のような、近郊の町や村に行くディーゼル機関車が牽引している列車も、乗り入れている。日本のように、ローカル線から幹線に乗り換えなくては都会に行けないという不便さがないのが利点である。

このディーゼル機関車は、ドイツ国鉄の屋台骨を支えてきた(218型)機関車だ。近代的なディーゼル電気機関車(ディーゼルエンジンで発電機を回す)ではなく、ディーゼルエンジンで直接、駆動する旧世代の機関車だ。数十年使われてきて、いまでは引退が進んできている。

後に牽引している客車と、いかにもドイツらしい几帳面さで、外寸をぴったり揃えている。このため、機関車の上部がずいぶん絞り込まれた形になっている。

几帳面さといえば、DBの機関車には、厳密な一連番号が振ってある。左の機関車の場合は「218 486-9」とあるが、これは「218型」のディーゼル機関車の、製造番号が486番目ということだ。最後の「9」はcheck digitで、まるでコンピューターでのデータやりとりの仕組みそのままである。

右下の写真にあるように、 空気抵抗を減らすためだろう、斜めや横から見ると、機関車の前後も上部がかなり絞り込まれている。なお、この機関車はDB(ドイツ鉄道)とは書いていないで、EVBとある。ハンブルグ〜ブレーマーハーフェン近郊を走っているDBの傘下の会社だ。一連番号もDBとはちがう。

この上すぼまりに絞り込まれた形のため、いかにも赤いイモムシに見えてしまう。しかも、DBの機関車には。ディーゼルエンジンからの太い2本の排気管が、まるでアゲハチョウの幼虫(イモムシ)の角(つの)のように生えているのもご愛敬だ。

この排気管の突出ぶりからすると、機関車や客車の外寸は、(電化されていない)トンネルの大きさの制約、というものではないらしい。それとも、トンネルを通る路線には、別の機関車を使うのだろうか。

ハンブルグ中央駅は全体が巨大なガラスの屋根で覆われていて、写真上部に見られるように、駅を横断している2本の橋の上には、花屋やパン屋、衣料品など、賑やかな商店街がある。

パリのオルセー美術館が昔の駅舎そのままを使っているように、ヨーロッパの駅舎は、町中にあって、とても立派で映えた建築物になっている。近年の日本のように、特徴のない駅ビルに化けてしまった駅は、何の風情もない。

駅の出口には、よく、町音楽師が立っていて、結構なテクニックで演奏をしている。これも文化であろう。ときには手回しオルゴールが町を和ませる。

(左は2004年10月、ドイツ・ハンブルグ中央駅で。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。レンズは200mm相当、F2.8、1/80s。右は2004年10月、ドイツ・ハンブルグ、ブレーメンの中間の田舎で。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。レンズは400mm相当、F2.8、1/125s)

5-2:かつてドイツ国鉄の主力電気機関車だった「110型」。やはり丸っこい芋虫型です(1975年、スイスのフォルツハイム駅で)

この「110形」の電気機関車は、ドイツ国鉄でもっとも使われた旅客用電気機関車である。古く1950年代から作られたもので、全部で379台も製造された”ベストセラー”だ。

当初は急行列車の牽引用として作られたが、その後、103型や120型といった後継の急行用の電気機関車が登場してきて、2009年現在では、おもに近郊列車に使われていた。

出力は 3,700kW、最高速度は 140km を出した、当時としては高速車である。

これも、上のドイツのディーゼル機関車や、いちばん上のドイツの新幹線と同じく、芋虫風に見える。下のフランスの機関車とは、大分ちがうのが興味深い。

(1975年8月、スイスのフォルツハイム駅で。撮影機材はOlympus OM1。レンズは Zuiko 50mm F1.8。フィルムはコダクロームKR64)


5-3:フランスはドイツのすぐ隣の隣国なのに、なぜ、このようにちがうのでしょう(フランス国鉄の主力機関車)

フランスでは、ドイツの鉄道のように大都会にもディーゼル機関車やディーゼル列車が乗り入れることは少ない。電化されている区間が長いせいだろう。

これは、フランス南部の港町、ツーロンを走る、客車を牽引している幹線用の電気機関車。いわば、上の写真の「218型」のディーゼル機関車にあたる、フランス国鉄( SNCF )で標準型の機関車だ。

それにしても、ドイツと接する隣の国だというのに、汽車のデザインは、まったくちがうのは面白い。これは汽車に限らず、自動車、カメラ、いろいろなものに共通している。あえて似ないようにデザインしたとしか思えないような、いろいろなもののデザインがある。

この列車は上の「218型」とはちがって、力感に溢れる形をしている。空気抵抗などものともせず、100キロを優に超える速度で空気を蹴散らしていく形だ。四角張って、いかにもごつい。そのうえ、赤いサイドラインが、逆傾斜になっているフロントウィンドウを、さらに強調している。

車体にB22とあるのは形式名で、1970年代から製造された幹線用の電気機関車で、角張った車体に、引っ込んだ前面窓という、それまでのフランスの機関車の形とはちがった独特のデザインで"Nez casses"(鼻ぺちゃ)とのニックネームをつけられた。

(1984年7月、フランス南部・ツーロン駅で。撮影機材は Olympus OM-2。レンズは Tamron 35-80mm zoom。フィルムはコダクロームKR)


5-4:フランスは機関車にごつさと力強さを求めているのかもしれません(新旧のフランス国鉄の主力機関車)

上の5−3の中距離型電気機関車のほかに、大都市近郊の電気機関車でも、新型(左側)は、前窓にあえて流線型を採用せず、空気を押し分けていくようなまっ平らの平面を採用している。

左右二枚に分かれているガラスなのに、あくまで平面に並べる、というデザインに、その意志の強さが読みとれる。

一方、奥の電気機関車は、古き良き時代、おそらく戦前、あるいはもっと前のアール・デコの時代さえ彷彿とさせるような優雅なデザインだ。フランスの車にも、この種のデザインがある。

ヘッドライトの意味ありげな飾りや、中央の誇らしげなヘッドマークや、平面ガラスながら、組み合わせることで一見、曲面の流線型に見える前窓のデザインは、明らかに当時としては最高の品の良さを狙っていたデザインである。

(なお、機関車の屋根の上に見える丸い玉は、駅舎の天井灯である。これも優雅なものだ。)

(1990年3月、フランス・パリ北駅。撮影機材は Olympus OM-4Ti。レンズは Tamron 35-80mm zoom。フィルムはコダクロームKR)


5-5:トルコの電気機関車は地味な色ですが、あまり洗ってもらえないからでしょうか

トルコ国鉄(TCDD)の、やや古めの主力電気機関車。プレートには4003とある。パンタグラフがふたつ載っている。ここはかつてオリエント急行の終着駅だったイスタンブール駅だ。

下のルーマニアの機関車と同じく、じつに地味な色をしている。あまり洗ってももらえず、煤煙や塵埃の多いトルコ各地を走り回っても、汚れが目立たない色なのであろう。

以前、東京都でいちばん水を使うのは品川の国鉄車庫、二番目が東京大学だと聞いたことがある。日本は電車や汽車は、よく洗ってもらえる国なのである。

トルコの鉄道の電化は25 kV、50 Hzの交流電化である。日本では新幹線以外は交流電化はごく限られているが、交流電化の方が効率がいい。

この機関車のあと、トルコ国鉄はE43000形電気機関車を導入し、主力の電気機関車にした。これはじつは東芝製で、トルコ国内の工場でもライセンス生産されていた。貨物用のものは最高速度90km/h、旅客列車用は、歯車比を変更して最高速度を120km/hになっている。

また、さらにその後、この写真の色ではあまりに見栄えがよくないと思ったらしく、近年では、白ボディーに赤と青の横線が入った新しい配色のものも増えている。

また、E52500形といわれる電気機関車をボスニア・ヘルツェゴビナ国鉄(ZBH)から譲ってもらって多数が使われている。鉄道車両のお古をほかの国に譲るのは珍しいことではなく、たとえばアルゼンチン・ブエノスアイレスの地下鉄は、東京の丸の内線の地下鉄の赤い初代車両がそのまま走っている。丸の内線は私が中学に入ったときに開通した電車で、そのおかげで私は家から中学に通うことができたから、懐かしい電車である。

(1989年8月、トルコ・イスタンブール駅で。撮影機材は Olympus OM-4Ti。レンズは Tamron 35-80mm zoom。フィルムはコダクロームKR64)


5-6:ルーマニアのディーゼル機関車は地味な色ですが、不思議なスリットがあります

チャウシェスク時代のルーマニアの田舎を、客車を牽引して走るディーゼル機関車。上のドイツの芋虫のような形ではないし、フランスの筋骨隆々という形でもない、ごくおとなしい地味なデザインだ。前から見たら、機関車には見えず、普通の気動車のように見える。

ちょっと変わっているのは、運転席の窓の間と、下にある、3つのスリットだ。これは、ドイツのにも、フランスのにもない。このため、車体を前から見ると、眉間にしわを寄せ、眼の下がたるんだ鉄仮面に見える。

機関車を止めて運転手に聞いたわけではないが、南欧に近い大陸国であるルーマニアでは、冬が寒い割には、夏が暑い。このため、このスリットは、運転席を冷やすための外気取り入れ口なのではないだろうか。ラリー用の自動車の外気取り入れ口のようなものだ。


その下にある、小さなラジエター風のものは、なんだか分からない。機関車の体積の多くを占める巨大なディーゼルエンジンを冷却するためには、あきらかに容量不足である。 これも、運転席への空気取り入れ口だろうか。

線路は単線である。よほどの幹線でない限りは、貧しい国では単線が普通なのである。

右の写真は、別の場所で。二階建ての客車を牽引しているところだ。電信柱は、コンクリート製だが、日本にはない形である。

(1985年10月、ルーマニア中部、フォクシャーニ近くで。撮影機材は Olympus OM-4Ti。レンズは Tamron 35-80mm zoom。フィルムはコダクロームKR64)


5-7:そして、四半世紀後、ルーマニアのディーゼル機関車と電気機関車は、新旧混交になっていました

チャウシェスク時代が1989年に終わって、その後EUに加盟したルーマニアだが、その後も、経済的には大変な時代が続いている。

たとえば、2011年からは、公務員の給料が一律25%もの削減になった。また国立研究所では、なにかのプロジェクトをとらない限り、フィールド調査をする金も、外国の学会に行く費用も出ない。

医療はいまだに無料だが、多くの医者が給料が3倍以上になるイタリアに逃げ出してしまっているために、医療レベルは下がる一方だ。また医療は無料だといっても、薬は有料で、高い。

しかし、さすがに、私が再びルーマニアを訪問した四半世紀後の2012年には、ある程度の列車は更新されていた。しかし、四半世紀前の古いものも、いまだに、多く使われている。

チャウシェスク後の経済の停滞から、ルーマニアの鉄道も、苦難の時代を迎えた。地方の路線の廃止や縮小が相次ぎ、かつては、欧州でも鉄道が発達していたルーマニアも、その栄光からほど遠いものになった。

しかし、21世紀に入ってからは、幹線を中心に新型車両の導入など、ようやく、鉄道は上向きつつある。

ルーマニアの汽車(機関車)は、ドイツと同じく、前面に数字の列があり、最初のハイフンまでの数字が、形式を表している。ちなみに、上の写真の左側(下の6-2)の流線型の新型車「デジロ」は「96型」と称されている。

上の写真で、左側はドイツから輸入した近距離ディーゼル、デジロだが、右側は新型の「91型」電気機関車だ。前面にも側面にも、青色で、まるで中国の水墨画のような塗装がなされている。

右上写真も同じく「91型」だが、塗装が違い、ヘッドライトの形や排障器の形も違う。 こちらのほうは、伝統的な鉄道の塗装である。

これらは国境を越えて走るIC特急や国内の長距離列車などに使われる高速電気機関車である。

なお、ルーマニアの鉄道距離は約2万キロ、電化率は約4割どだ。幹線だけが電化されているといえる。

なお、ルーマニアでは電力は石油や石炭による火力発電が大きく、このほか、わずかな水力発電と、カナダの技術を導入した黒海沿岸にある一ヶ所の原子力発電所の発電でまかなっている。フクシマ以後、原発の増設に議論が高まっている。

風力発電の風車も黒海沿岸に並んでいるが、まだその割合はわずかなものだ。太陽光発電は、まだ、ほとんどない。

右の写真は、右は古い「40型」の電気機関車、左は新型の「65型」のディーゼル機関車だ。

「40型」は1965年から1991年まで作られていた。当時としては高速機関車で、この、空気抵抗が大きそうな形でも、列車を牽引して 120km/h、機関車によっては160km/hまで出すことができた。

モーターの出力は5100 kW、または 6600 kW と大きい。このため、客車を牽引して高速が出せるのである。

一方、「65型」は2004年から作られている新型のディーゼル機関車で、最高速度は100km/h、つまり、ローカル線用の列車を牽引するものだ。

この「65型」は1959〜1981年に作られていた「60型」の改良版で、エンジンはターボディーゼル。その出力は 1582 kWである。

ところで、この「65型」は、右の、古い40型に比べて、なんだかとぼけて緊張感のない顔つきをしている。ほんの少し、空気抵抗が少ないことが取り柄なのだろうか。

左上の写真は、その、まだ現役で使われている「40型」だ。前面窓の間と下に、不思議な枠がある。これは、これに掴まって窓を拭いたりするためのものだろうか。

さすがに、この「40型」が古くなったのか、2006年から、「47型」という更新型が作られている。これは、6600 kWという出力で、40型と同じく、思い客車を牽引して120km/h 〜 160km/hで走る。しかし、この新型は、まだ、わずかしかない。

ところで、右の写真のように、ルーマニアには二階建ての客車が多い。ローカル線の短い編成のものも、二階建てが多い。たくさん人を詰め込むためには、二階建てのほうがいいのだろう。

日本では考えられないくらい異様に背が高いが、これがトンネルの規格いっぱいなのであろう。

(2012年11月、ルーマニア、ブカレスト北駅で)


5-8:台湾のディーゼル機関車は過密な国らしく、目立つ工夫をしています(1971年、台湾・高雄市で)

これは1971年当時、台湾で使われていたディーゼル機関車S400。地味な青色に、ちょっとおしゃれな白線が入っている。低速車ゆえ、前面は、空気抵抗のことをまったく考えていない運転席だ。

この機関車は操車場や駅の構内で客車や貨車の入れ替えに使われるためのもので、米国製。1970年から導入されたから、当時は最新鋭だったことになる。

後年、台湾の機関車はすべてオレンジ色に塗られ、この機関車も例外ではなかった。1997年に引退したと言われている。

電気式ディーゼル機関車で、1100馬力、自重は54トン。最高速度は75km/h。入れ替えようだから、力持ちだが、速くはない。台湾鉄路管理局が5台持っていた。

しかし、いちばん目立つのは、人の背ほどある巨大な黄色と黒の縞模様だ。ほかの国の汽車は、まず、このような派手な衣装は身にまとってはいない。じつは、この入れ替え用だけではなく、台湾のどの汽車も、このようなど派手な縞模様がついている。

これは、たぶん間違いなく、狭い国土に過密な暮らしをしている人々の住宅ぎりぎりのところを走っている汽車が、目立つ工夫を精一杯している姿なのであろう。(下に載せている札幌市電の除雪車も、同じだ。)後年、車体の青い部分をオレンジ色に塗りかえられたのも、その一環であろう。

台湾に限らず、フィリピンやインドネシアでも、汽車の窓から手を出せば触れるくらいのところに住宅密集地があり、人々は汽車が来ないときは、レールの上を平気で歩き、汽車が通らないときには、線路さえも生活空間にしてしまっている。

このため、目立つ、ということは、鉄道会社にとって一番大事なことなのである

一方、踏切には、「急いで渡るな、死ぬぞ」という警告文もある。人口あたり汽車に轢かれる人数が、とりわけ多い国なのにちがいない。

踏切を渡っているのは日産ブルーバード510型のように見える。しかし、これは台湾でライセンス生産されているもので、悪路ばかりを走ってもあごを出さないよう、後輪の独立懸架のサスペンションをリジッドアクスルの板バネに”退化”させたものである。

(1971年3月。台湾・高雄市で。
撮影機材はOlympusPen-FVレンズは.Zuiko 25mm f4。フィルムはサクラクローム。ハーフサイズ。褪色していたのを補正した


6-1:最新型の「目がない」イモムシ(ドイツの最新型ローカル線のディーゼル列車)

これは、最新型のドイツのローカル線用のディーゼル列車。2両の固定連結車だ。なお、この写真の駅には架線があるが、ドイツ全土の鉄道の電化率は約50%である。

北ドイツのブレーマーハーフェン市から、さらに北へ、北海岸の町までを往復したり、ハンブルグ郊外の地下鉄の終点まで往復するなど、ブレーマーハーフェンを中心にした、電化されていないローカル線Nordseebahn(「北海」線)に使われている。これもEVBだ。

EVBは19の駅とそれをつなぐ路線しか持っていない小さな会社だ。そのEVBが2003年の12月に新たに投入した最新型の列車が、この「Coradia LINT 41」である。

最高時速120km/hだが、哀しいことに、EVB自前の線路は貧弱なので80km/hしか出せない。他線に乗り入れたときだけ、この時速が出せる。

しかし、内部の椅子の配置は、とても洒落ている。日本の鉄道のように、同じ形の椅子が無味乾燥に並んでいるのではなく、形も配置も、そして椅子の高ささえもバラエティを持たせた造りである。

椅子は二両合計で129席。低床式の車体だし、身障者用のスロープや、とても広いトイレも装備しているのが自慢だ。

ドアは2両編成全体に片側2つしかない。日本のような通勤ラッシュとは無縁の土地柄なのである。

しかし、この最新型も、やはりイモムシに見える。形のほか、色のデザインのせいもあるだろう。

ヘッドライトがきわだって小さいのが特徴だ。近頃の車と同じく、プロジェクターランプなのであろうが、このため、よけいイモムシめいて見えるのであろう。4つに見えるが、下二つは、赤灯で、列車後部に点灯させるものだ。

また、写真ではちょっと見えにくいが、ワイパーの軸の上に見える丸いものも、じつはヘッドライトである。ドイツの鉄道は、律儀に、前には3つの前照灯、と決めているのであろう。

(2004年10月、北ドイツ・ブレーマーハーフェン駅で。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ10。レンズは90mm相当、F2.8、1/500s)


6-2:2012年、ルーマニアの汽車も新しくなっていました。でも、この落書きは・・・。

四半世紀ぶりにルーマニアを訪問したら、さすがに、一部の汽車は新しくなっていた。いかにも空気抵抗が小さそうな形だ。

これは、上の6-1の最新型のドイツのローカル線用のディーゼル列車と似た形の、2両の固定連結車だ。C.F.R.(ルーマニア旅客鉄道)のものだ。必要に応じて二つを連結して4両編成にすることもある。

じつは似ているのは当たり前、これはドイツのシーメンスのモジュラー型の電車や気動車「デジロ(Desiro)」を輸入したものだ。

このデジロは軽量で、しかも製造も運行も安価なので、欧州各国で利用が増えている。ルーマニアはその中でも大口のユーザーである。2003年から導入した。

これは首都ブカレスト中央駅(北駅)から、約1時間かかって、15kmほど北の郊外にあるオトペニ空港まで行く列車だ。ほぼ毎時、出ている。じつは、このエンジンの出力は550 kWあって、120km/h が出せるのだが、首都郊外のローカル線を兼ねているので、駅の数が多いのであろう。

内部は列車の前後にある低床式の椅子と、連結部付近の高床式の椅子が配置されている。日本の鉄道のように、同じ形の椅子が無味乾燥に並んでいるのではなく、形も配置も、そして椅子の高ささえもバラエティを持たせているのはドイツの列車と同じだ。

じつは、本来のデジロは、近距離に特化した列車で、椅子の座り心地も、それほどいいわけではない。ルーマニアはこのデジロをさらに連結して、中長距離路線にも使っているので、後年、椅子やその配列を中長距離用に改良したものも使っている。

ドアはやはり、2両編成全体に片側2つしかない。あわただしく乗り降りする日本の4ドアとは大違いの土地柄なのである。

しかし、この最新型も、やはりイモムシに見える。欧州中を、こうしてイモムシが走り回る時代になった。

上のドイツの列車と同じく、ヘッドライトがきわだって小さいのが特徴だ。近頃の車と同じく、プロジェクターランプなのであろうが、このため、よけいイモムシめいて見える。

なお、ブカレストにはパリなどとは違って、大きな駅がひとつしかない。他の国へ行くIC特急もここから出発する。ただし、たとえばウィーンに行くのには、隣国ハンガリーのブダペストで乗り換えることが多い。

よく遅れるのも、この国の汽車の通例である。あるルーマニア人の科学者が日本滞在中、冬の北海道の小樽駅で、発車時刻の10分前にプラットフォームに出ていたら、誰もいない。いぶかっていたら、1分前に、乗客がぞろぞろ出てきて、汽車も間違いなく定刻に入ってきて、大いに感銘を受けたという。

それにしても、フランスや英国と同じように、鉄道施設や町の落書きは、チャウシェスク後のルーマニアにも蔓延していた。本来の塗装と区別がつきにくいほど、芸術的ではあるが・・。

(2012年11月、ルーマニア・ブカレスト北駅で)


6-3:プラットホームが不要なオーストリアの山岳ローカル線(狭軌のディーゼル列車)

これは、1986年から使われている、オーストリア国鉄のローカル線専用のディーゼル客車だ。上の最新型のドイツのローカル線用のディーゼル列車とくらべ、親しみやすくて、まっとうで穏やかな顔つきをしている。近年の車のデザインもそうだが、気味の悪い動物や深海魚や昆虫を連想させるものが多いのは私には苦手だ。

ドイツとオーストリアの鉄道は、よく似ている。上の5-1のドイツのディーゼル機関車と同じように、オーストリアでも、車体前部に、形式名と、車体製造時の通し番号と、チェックディジットが書かれている。ここには5090 001-8 とある。

つまりこれはオーストリア国鉄(OBB)の5090型のディーゼルカー(客車)の1号車である。5090型は、ナローゲージ(日本では標準だが、線路間の幅が小さいので欧州ではローカル線だけに使われている線路)用の車両で、1986年から作られていたものだ。この5090は、なかでも線路の幅が狭く、76cmしかない。トロッコなみの狭さである。

車両の両側に運転席があり、一両だけで、どちら向きにも走れるようなローカル線仕様になっている。このため、見られるように、前方に走るための3つの前照灯と、後部になったときのために4つの赤い尾灯がついている。

車両の製作所はKnotz、定格出力は 235KWH、引っ張り力は 82KN、線路幅が狭いために最高速度は 70Km/h しか出ない。それも、直線部分でないと危険だろう。つまり山間地のローカル線専用車だ。

プラットホームもない平地から乗り降りできるよう、ステップがついている。いわば、バスのように、どこでも停まって、客の乗り降りができるのである。そもそも、欧州のプラットホームは、上の写真いくつかに見られるように、日本のそれよりもずっと低い。日本のプラットホームの高さはどこに学んだものか、無駄に高いのではないだろうか。

スイスと同じように、山岳路線が多いオーストリアだが、ばかにしてはいけない。OBBは、200km/hに対応する高速の電気機関車も所有している。これは国境を越えて走るIC特急用である。


この汽車は、背景にあるような美しい景色を縫って走る。観光客には「美しい」景色ではあるが、斜面の中腹や上に住む人にとっては、駅から家までの坂の上り下りは容易ではなかろう。何世紀にもわたる生活で、慣れてしまった人たちが住んでいるにちがいないとはいえ、年をとったり、病気になったら、どうするのだろう。

(1991年8月、スイス国境に近いオーストリアの山中で。撮影機材はOlympus OM-4Ti。レンズはCosina AF Zoom 28-70mm。フィルムはコダクロームKR)


7-1:北緯79度、世界最北の地にあったSL。

これは、まちがいなく、世界最北の地のSLだ。アラスカの北端よりもずっと北の地、スピッツベルゲン、そのなかでも北のほうにあるニーオルソンで石炭搬出のために使われていた蒸気機関車(SL)である。

ニーオルソンは北緯79度、北極海にある。いまは科学者だけの町になっているが、かつては炭坑があり、この軽便鉄道も走っていた。動輪が1つだけの、可愛らしいSLである。

いまは炭車を連結したまま、屋外に保存されている。


このSLは、窓も、前部の排障器も、そしてもちろんタンクも、すべてが丸のモチーフでできている。他方、煙突は、のっぺらぼうではなく、上に向かって太くなっている。赤と黒の配色もいい。それなりに、遊び心のあるデザインである。

真夏に撮った写真だが、後ろに見えるのは厚い氷河。ときに、雪が舞う。さすがに極北の地だ。しかし、このSLの運転席は、扉も窓もない。窓のように見えるものは、丸い穴があいているだけだ。ボイラーの熱のために不要だったのだろうか。

この機関車にはヘッドライトがない。夏は白夜で日が沈まないからいいとして、冬は一日中暗い極夜のスピッツベルゲンだ。暗いときは働かなかったのだろうか。

この炭坑は大規模な事故が起きて閉鎖され、その後、ここは科学者だけが住んでいる町になっている。

(1998年8月、北極海・スピッツベルゲン島のニーオルソンで。撮影機材はOlympus OM4Ti。レンズは Tamron 28-70mm zoom F3.5-4.5。フィルムはコダクロームKL)

7-2:1973年7月・北海道・釧路にいた蒸気機関車C111。

いまでこそSLブームとやらで蒸気機関車がもてはやされているが、実際に日本各地を走っていたころは、鼻つまみものだった。乗客の衣類や線路際の家や洗濯物には真っ黒なススが着くし、機関士が上り坂のトンネルで窒息死したことさえある。

音や姿はまあまあなのだが、あの黒煙だけは、その時代に苦労した者としては懐かしく思い出せるものではない。

このC11型蒸気機関車は1932年(昭和7年)に製造が始められ、戦後の1947年まで作られた。国鉄向けだけで381両、その他に民間にも少数が売られた。

このC11のうちでも最初の番号の着いたC111は1973年に釧路港近くの釧路開発埠頭という引き込み線にいた。

もともとは滋賀県の江若鉄道で『ひえい』という愛称がつけられていたが、その後、北海道の雄別鉄道に譲られて石炭の運搬貨車の牽引に使われ、最後に釧路へと移ったものだ。

のちに作られたいわゆる戦時型が蒸気溜めや砂箱を角形にするなど、あちこちを簡素化したのとちがって、手間をかけて作られているのが特徴だ。

(1973年7月。釧路港で。撮影機材はPentax SP。レンズはAsahi-Takumar 35mm f3.5。フィルムはフジ・ネオパンSS)


この他のこの時代の歴史写真はこちらへ


7-3:2014年3月・静岡県熱海駅前の蒸気機関車。

観光地・熱海の駅前には、昔、熱海・小田原(神奈川県)間の25kmを走っていた蒸気機関車が飾られている。「熱海軽便鉄道7」という機関車だ。写真のような、間延びした滑稽な顔をしている。

当時は東海道線がいまの御殿場線を走っており、丹那トンネルはまだ、掘られていなかった

この汽車が客車を牽引して走っていたのは1907(明治40年)-1923年(大正12年)と短かった。
たった25kmだが、この汽車は時速10kmも出ないので、当時は2時間40分もかかった。牽引した客車は1-2両、乗客数はせいぜい40-50人だった。

なお、1923年は関東大地震の年であり、この付近でも鉄道や集落は大被害を受け、この軽便鉄道もそ
のあおりを受けて廃止になった。

その後、この機関車は客車の牽引ではなくて日本各地の鉄道建設現場で資材運搬や、作業員の輸送に使われた。丹那トンネルの掘削現場でも使われた。

この機関車の全長は3.4m、高さは2.1m、幅は1.4mしかない。いまの軽自動車よりも狭い幅だ。重さは3.6tあった。動輪は写真で見られるように二つだ。軽便鉄道なので、線路の幅は狭く、762mmだった。

この機関車にはヘッドライトがない。 上のスピッツベルゲンの機関車と同じように、夜は働かなかったのだろう。

(2014年3月。熱海駅前で)


x7-4:1975年・あまりにも有名なスイスの登山SL

世界でももっとも有名で、もっとも距離あたりの単価が高いSLは、このスイス中部ベルン州のブリエンツ湖畔の町、ブリエンツからロートホルン(Rothorn)へ登っている登山鉄道だろう。

このSLは19世紀末に製造されたものだが、いまだに使われている。実際、1953年から1990年まではスイスで唯一のSL鉄道だった。

この写真を撮ったのは1975年だが、いまも多くの観光客を世界から集めている鉄道である。

路線延長は7.5kmしかない。最大傾斜は250‰という、普通の鉄道の10倍という、ほかにはありえない急勾配を登るために、SLは、写真に見られるように、はじめから傾けられている。ボイラーを水平に保つためである。

ロートホルンは標高2298メートル。山頂直下の駅まで、このアプト式登山鉄道(レールの中間に歯がある3番目のレールが敷かれていて、汽車側では、この歯に歯車をかみ合わせて登る仕組み。日本でも、昔は群馬県横川から長野県軽井沢間の電気機関車に使われていた)が登っている。軌道幅は80センチである。

また、観光客に排煙を浴びせないために、 いかにも観光然とした赤い客車を、緑色のSLが後ろから押して山を登っていく。

帰りは、この写真の手前に後進で走る。このため、SLの後部にヘッドライトがついている。

しかし、実用性がこれっぽちもない、あまりに観光客に媚びたというべき鉄道である。その意味では遊園地の子供の乗り物と紙一重のものだ。

いままでに、一体どれだけの観光客が、シャッターを押しただろう。よせばいいのに、1990年からは、観光客集めに効果的、というのでスイスの別の路線にもSLが走っている。

なお、近年は、ディーゼル機関車も使われている。

(1975年8月、スイスのフォルツハイム駅で。撮影機材はOlympus OM1。レンズは Zuiko 50mm F1.8。フィルムはコダクロームKR64
)


8-1:1927年に作られ、「丸窓」電車として日本で最後まで残った上田丸子電鉄の750Volt電車(長野県上田市)。

かつて上田丸子電鉄という電車の会社があった。長野県の上田の周辺でいくつかの、つながっていない路線を持つローカル私鉄で、地元の足として重宝されていた。

しかし日本の多くのローカル線と同じく、過疎と自家用車の普及から多くの路線が廃止され、いまは(事業を引き継いだ)上田電鉄が運行する上田から別所温泉までの別所線だけが残っている。別所線の全長は12km、その間に15駅がある。

写真の電車はモハ5250型。1927年に作られ、1928年から1986年まで同社の別所線で使われたもの。現在は上田市御獄堂の長野計器の工場の前に飾られている。

写真に見られるように、乗降扉の脇の戸袋の窓が楕円形になっているので、「丸窓電車」の愛称で親しまれていた。

丸窓は当時の流行、アール・デコの影響か、大正時代の木造電車には多かったが、この電車のように生きながらえたのは珍しく、ほかの丸窓の電車は第二次世界大戦後、早々と引退したり、普通の角窓に改造されてしまっていた。1980年代まで残っていたのは、これ以外は岐阜付近を走っていた美濃電気軌道(のちに名鉄に合併された)の路面電車であった「モ510」形電車(1926年製)ぐらいのものだ。

電車は前後両側に運転席があり、長さは14,719mm、全高3,785mm、全幅2,591mm。自重は 32,7t。定員は100名(うち座席40名)である。

なお、屋根についている集電装置は、製造当初は上の2-2のリスボンの市街電車のようなトロリーポールだった。しかし、1945年にパンタグラフに変えられた。

この電車の引退は1986年10月。別所線の電源が直流1500Vに昇圧されたが、この電車は直流750Vのものだったために、その前日に引退したものだ。

(2008年10月。長野県上田市郊外で。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ20。ISO (ASA) 80。レンズは45mm相当、F4.0、1/640s


9-1:さて、この奇妙な乗り物はなんでしょう?これは後部?いやいや、長大な乗り物の反対側にも、おなじ”顔”がついているのです。

ゴムタイヤを履いた、長大な乗り物。しかも、タイヤは前部に横向きにも着いている。

これが、どんな乗り物なのか、分かる人は少なかろう。

ワイパーがついた四角い窓は運転席である。ヘッドライトもある。赤い尾灯もある。運転席だけにしてはあまりに大きなオレンジ色の箱には、じつは駆動用のディーゼルエンジンが入っている。

そして、これと同じ箱は、はるか40m近くも遠い、反対側にも着いているのである。

そう、これは、札幌市が日本で初めてのタイヤで走る地下鉄を走らせる前に、いろいろなテストを地上で行った試験車なのだ。

レールの上を走る地下鉄は、日本でもすでにいくらでもあった。しかし、タイヤで走る地下鉄は、フランス・パリにこそあったが、”本邦初演”であった。なお、パリの地下鉄では1号線、4号線、6号線、11号線、14号線に使われ、このフランスの技術はメキシコにも輸出されて、メキシコシティの地下鉄にもゴムタイヤが使われている。

札幌市の 地下鉄は1971年末に 12km の区間(南北線の一部。北24条〜真駒内)で開通したのだが、その前、1967年に作られた「第4次試験車」がこの奇妙な乗り物であった。この第4次試験車は「すずかけ」と名付けられていた。第3次までの試験車の実績を踏まえての、2両連結の実車に近い大きさの最終試験車であった。

札苗試験場という、札幌駅の東にある試験場で約 900m の試験線路(と言ってもコンクリートの床)が作られて、そこで走らせて各種の試験をしたものだ。試験場は地下ではなく、地上に作られていた。それゆえ、地下では排気ガスを出すので使えないディーゼルエンジンが備えられていたのである。

バスやトラックよりはるかに重い鉄道車両をゴムタイヤで支える問題点や、パンクの対策など、試験することはいろいろあったにちがいない。 走行距離は6000kmに及んだ、と記録にある。タイヤは、自動車用のラジアルタイヤでは当時は先端的な技術を持っていたフランス・ミシュラン社製のものだった。

まるで無蓋貨車のような”荷台”は、乗客の重さに相当する錘など、いろいろな荷重を載せるための台でもあったろう。

なお、写真手前に横向きにつけられているタイヤは、走行するコンクリートの床の中央に「案内軌条」があり、それをこのタイヤではさんで走行するためのものだ。「中央案内軌条式鉄道」と言われる

それにしても、あまりに無骨で殺風景な乗り物ではなかろうか。札幌市にとって、そして、東京以北でも初めてだった地下鉄をこれから通そうというときに、このような不器量な一つ目小僧ではなく、もう少し未来への意欲を感じさせるデザインがあってしかるべきではなかったか。

なお、この札幌の地下鉄は車体の幅が約3.1mもあってJRの車両に比べて大きく、それゆえトンネルの断面積も大きい。このため建設費用が割高になった。これが累積赤字のひとつの原因にもなっている。

ところで、札幌の地下鉄工事は、体育会の北大生にとっては、いいアルバイトになった。大学当局からは、公式には肉体労働は禁止されていたが、ボート部など、有り余る体力があって貧乏な学生は、深夜の工事に、よく参加していた。

(2014年7月、札幌市交通資料館で。撮影機材は Panasonic G2。レンズは40mm相当。なお、同資料館は5〜9月の土日の昼間、それも10時〜16時という”お役人の片手間”時間しか開館していない)


9-2:電車を連結するときには、どれだけの数の電線やホースをつながなければならないのでしょう。

この、前照灯も方向指示板もないのっぺらぼうの路面電車は、札幌市電で一時、使われていた親子電車の片割れTC-1である。こちら側は、はめ殺しの窓しかないが、この写真の反対側には運転席や方向表示板がある。

昼間は「親」のM101だけで運転し、朝夕の混雑時だけ、この「子」のTC1がつながれて2両連結になる。このため、この「子」には、パンタグラフはないが、運転席と53馬力の駆動モーターがついている。「子」だけでは走れない。

この「親」と「子」の間には、下に見える連結器のほか、さまざまな電線や圧搾空気のホースをつながなければならない。

写真には少なくとも10個のコネクターが写っている。パンタグラフからの電源のほか、運転席からの制御信号や、室内照明や、車掌との連絡用の各種ケーブル、そしてブレーキ用の圧搾空気のタンクや、ブレーキ制御用のホースであろう。 電車一台を二つにちょんぎってしまうと、結構な数の接続が必要になるものなのである。

この親子電車は1961年に作られ、日本で最初の連結電車という記録が残っている。札幌で地下鉄が開通する2年前の1970年まで使われた。その後、「親」はワンマンカーに改造されて、しばらく使われていた。

この「子」の長さは12メートル、これに100人の定員を詰め込んだ。車両の重さは11トンであった。

よくある永久連結ならば、これらの「贓物」はふだんは見えないところに隠されている。しかし、毎日朝夕、付けたり外したりしたこの親子電車では、このように、すべてが滑稽にさらけ出されている。

なお、右側の角にあるのは、屋根に上がるための足場だ。パンタグラフはなく、頻繁に登る必要があるとも思えないが、電車の屋根というものは、いつでも登ることができるはずのもの、という固定観念が電車事業者にはあるのに違いない。

(2010年5月、札幌市交通資料館で。撮影機材はPanasonic Digital DMC-G1。レンズは28mm相当、F5.0、1/200s、ISO (ASA) 100)


9-3:北海道でしか通用しない路面電車用の「除雪」車

新潟をはじめ、本州の日本海岸の人々にとっては、雪は湿って重いもの、そして、水をかければ溶けるもの、なのである。たとえば上越新幹線は、地下水を汲み上げて、レールの両側から吹き付けることによって雪を溶かし、「除雪」が出来てしまう。

しかし、北海道では違う。雪は、乾いて軽いもの、吹けば飛ぶもの、なのである。水をかけるなどは、もってのほか、かけた水は、たちまち凍り付いて、除雪どころか、始末の悪い氷の道を造るだけのことだ。

このため、北海道人の発想は、除雪にはラッセル車のようなプラウを使うのではなく、「箒」を使おうというものなのである。この路面電車用の専用除雪車は、見られるように、瓶や試験管を洗うブラシのようになった竹製の箒を回転させて、雪を掃こう、という仕掛けなのである。

この、まるで阪神タイガーズのトレードマークのような除雪車は、1961年に3台作られて活躍したものだ。当時、札幌市営の路面電車はまだ拡張期で、電化はしていなくてディーゼルエンジンの「路面電車」の路線があった。このため、この除雪車は、電化をしていないところでも走れるよう、ディーゼルエンジンによる駆動をしている。つまり、パンタグラフのある路面「電車」ではない。

肝心のブラシ部分は前後にひとつずつあり、直径60センチ、幅3メートルのもので、毎分、350回転する。この駆動に43馬力を使う。気動車自身は115馬力のディーゼルエンジンを持ち、車体の長さは7.5メートル、高さ3.5メートル、重さ11トンのものだった。

札幌市電は1967年にすべて電化された。そして、地下鉄の工事が始まっていた1971年に、このディーゼル除雪車は引退した。

なお、後ろに写っている除雪車は、さらに古いものだ。1951年に作られ、やはり1971年まで使われた。こちらは黄と黒の縞模様ではない。じつはこちらはディーゼルエンジンではなく、電車だ。これは、札幌市電が、開業当初の電車から、電化していない区間を、のちに延ばしたという経緯のせいである。つまり、あとから延ばした区間は、ディーゼル”市電”と、ディーゼル除雪車が必要だったというわけなのである。

いまでは、この写真のものを新型にして、もちろんパンタグラフをつけて「電車」にした「ささら電車」という除雪車が札幌市電のレールの除雪をしている。雪が降りしきる夜は、電車が止まった深夜にも、この除雪車だけが線路を往復して除雪を繰り返している。

古き良き時代には、飲み過ぎて電車が終わってしまった北大生が、この除雪車に乗せてもらったことがある、という伝説がある。まだ北海道大学と北大生が北海道の人たちから尊敬されていたころのことである。

(右上は2014年7月、札幌市交通資料館で。撮影機材はPanasonic DMC-G2。レンズは32mm相当、左下は2013年秋。DMC-G2、レンズは46mm相当、F4.7、1/60s、ISO125。RAWデータで撮影して、コントラストやトーンカーブをいじって、日陰の部分を見やすくしている)

9-4:どう見ても市電にしか見えませんが、お役人用語では「内燃動車」というものが、これなのです

形からいえば、路面電車にちがいない。しかし、これは路面電車ではないのだ。

札幌市交通局が1958年に使いはじめた、ディーゼルエンジンで駆動する路面電車なのである。当時まだ貧しかった札幌市電は、一部の路線が電化されておらず、レールだけが敷かれていた。後発市街地だった、この市内の北部を走るための、「路面電車風」の車両なのである。

たしかに、天井にはパンタグラフ はない。しかし、乗り込んでみると、内部はまごうかたなき路面電車だ。当時としては最新式の低床式のデザインだった。

この「路面電車」のことを、交通局では「内燃動車」と称した、典型的なお役人用語である。しかし、同じ線路で架線のあるところを、この「内燃動車」と混じって走っていたのは「電車」だったから、庶民は「内燃動車」とは、決して呼んではいなかった。

この「電車」は1964年までに16両が作られた。しかしその後、1967年に、この路線に麻生布変電所が完成してからは出番がなくなった。このため、順次、エンジンを電気モーターに換装する改造が行われて、「路面電車」になっていった。最終的には4両だけは改造されずに廃車され、その一台がこの写真のものだ。

車両の長さは13.1メートル、重さは13.5トン。130馬力のディーゼルエンジン1基を積み、定員は90名である。なお、「低床式内燃動車」は、日本で唯一のものだそうである。それだけ、札幌が貧しかったということであろう。

(2014年7月、札幌市交通資料館で。撮影機材はPanasonic Digital DMC-G2。レンズはLumix vario zoom、28mm相当)


10-1:線路は平行でまっすぐなもの、と思っていませんか。

線路の幅は、もちろん、厳密に決まっている。

しかし、その線路のレールは、まっすぐなものだと思い込んでいないだろうか。

当然のことながら、高速で走る新幹線などは、厳密にまっすぐになっているはずだ。しかし、写真のようなローカル線では、見られるとおり、まっすぐではないこともあるのだ。しかし、脱線しては困るから、それなりに、線路の幅はきちんとしているはずだ。それゆえ、両側の線路は、同時に右へ行ったり左へ行ったり、「平行」しているのである。

写真は群馬県の高崎・下仁田間を走る上信(じょうしん)電鉄の下仁田(しもにた)駅で撮った。

上信電鉄株式会社は、鉄道のほか、路線バスも運行している地方の交通機関だ。だが、上州(群馬)と信濃(長野)を結ぶ「上信」と名が付いているのには悲しい理由がある。

上信電鉄は1895年に「上野鉄道」として設立され、1897年に高崎・下仁田間を開通させた。距離は34キロメートル、駅は20ある。

そして、もともとの計画では、下仁田から余地峠を越えて佐久鉄道(現:小海線)の羽黒下駅まで延ばすことになっていた。そのため社名を「上信電気鉄道」に改称したのだった。

しかし鉄道の延長は実現しなかった。そのかわり、一時は長野県佐久市・中込方面へのバス路線を開設したが、これも廃止になってしまった。つまり名ばかりの「上信」なのである。

だが、この計画そのものは、私には無謀だったと思える。途中には右の写真の内山峠のような険しい地形がある。スイスの山岳鉄道ではあるまいに、ここに鉄道を通そうというのは、当時の技術としては到底、無理なことだったのではないだろうか。

写真は内山峠から見た荒船山。軍艦のような形をしたの艫岩(ともいわ)がそびえている。

地方の私鉄としては普通だが、現在、ここも経営は苦しい。このため車両も、首都圏の私鉄のお古を使っている。

多いのは西武所沢工場製の西武鉄道の200形電車だが、その他、西武鉄道のお古が多い。

そのかわり、だろうか、前後左右に派手な
広告をまとった車両が多く、写真でも、みな、色がちがう。2008年からは、写真中央に見える松本零士原作『銀河鉄道999』のキャラクター「メーテル」・「鉄郎」をあしらったラッピング電車「銀河鉄道999号」の一般運行も始まった。沿線ののどかな景色には、ふさわしくないコマーシャリズムである。

(上の写真は 2010年2月、群馬県の高崎・下仁田間を走る上信電鉄の下仁田駅で。撮影機材はPanasonic Digital DMC-FZ20。レンズは432mm相当、F4.0、1/160s、ISO (ASA) 80。下の内山峠の写真は同じく2010年2月、撮影機材はRicoh Caplio R1。レンズは28mm相当、F3.3、1/143s、ISO (ASA) 100。)


11-1:かつて日本各地で走っていた森林鉄道。その人員運搬用の簡素な乗り物。

森林が日本の大事な産業であったとき、深い山から木を切り出すための森林鉄道は各地で作られた。森林鉄道は伐採した木だけではなく、資材も人員も運ばなければならない。当時は林道がいまのようには作られておらず、森林鉄道が森から外へ出る唯一の手段だった。

これは北海道中央部の大夕張営林署で使われていた、人員運搬用の乗り物。

なんとも簡素な乗り物だ。座席も雨や雪を防ぐものはなくて風雨に吹きさらしだ。椅子も、質素な固い木製のベンチである。乗っている人を暖める暖房はない。

いまはハダカになっているが、前方の窓ガラスは、たぶん、当時はついていたのだろうし、天井部分は幌をかぶっていたのかもしれない。しかし、横は開いていたにちがいない。

しかし、車軸と車体の間には、一応、緩衝装置としてのバネがある。線路の継ぎ目を超えるときの衝撃は、これで少しは緩められたろう。

北海道の森林開発は道庁が1919(大正8)年に開始したもので、森林鉄道がいちばん盛んだったのは1930年代になってからだった。しかし、1960年の後半には、森林産業の衰退や、林道を通るトラックの普及で、森林鉄道は廃止になってしまった。

(2015年10月、北海道・札幌市の「北海道開拓の村」で撮影)


11-2:かつての森林鉄道を個人で持っている人がいました。

私の大学の学科の先輩にFさんがいる。根っからの鉄道マニアで、米国に留学したときも、窓からサンタフェ鉄道が見える下宿を八方手を尽くして探して、ついに窓のすぐ下を大陸横断鉄道が日夜走る部屋を入手した経歴を持つ。

その後、東大の教官になって定年までつとめたが、その間のボーナスのすべてと給料のうちの多くを、模型ではなく、なんと本物の鉄道車両の収集に費やした。Fさんとしては、古い車両が鉄くずになって消えていくのに耐えられなかったのである。

右の写真は、かつて木曽森林鉄道で、木材運搬車や林業労働者の輸送車、そして住民のための客車を牽引していた、ディーゼル機関車だ。

前から見るとまともな顔をしているが、横から見ると、まるで軽トラックを大きくしたような頭でっかちの滑稽な形で、軽トラックの後ろの低くなった荷台部分にあたるところに、ディーゼルエンジンが入っている。右の写真ではわかりにくいが、運転席が前後にはごく「薄い」のが分かるだろうか。

ディーゼルエンジンはトルコン(トルクコンバーター)を介して車輪を駆動する。エンジンはかかって自走できるのだが、トルコンからの油洩れが激しいという。

Fさんは、このほか、この森林鉄道の運材車(木材を積むための台車)、作業員の輸送車、車掌車(ブレーキを操作するために「ブレーキ車」と言われた)、有蓋貨車など、木曽森林鉄道で使われていた実際の車両を持っている。

いずれも廃車になったものを買い取ってきたものだから、状態は、写真のように、よくはない。たとえば、この機関車は上部の左右にヘッドライトが着いていたが、いまは脱落している。

Fさんは、定年後にこれらの廃車をレストア(修復)するつもりだった。サビを落としたり、ペンキを塗って再生させるのがFさんの夢で、そのために、補修用に使えそうな部品も大量に入手している。

しかし、定年後すでに15年が経ってしまった。凝り性のFさんは、頼まれた私立大学の非常勤講師の講義とその準備を丁寧にやっているあいだは、レストアには手が回らなかったのだ。

そして、ようやく今年(2012年)、ようやく75歳のFさんは非常勤講師も第二の定年でやめて、レストアに取りかかろうとしている。

じつは、Fさんが持っている鉄道車両はこれだけではない。このほか、岡山県で使われていたローカル列車や、いまはなくなってしまった昔の有名車両メーカー、雨宮の客車、小型電気機関車なども持っている。

いずれも実物だから、たいへんな場所を食う。いまFさんは、長野県蓼科(たてしな)にある質素な別荘の庭いっぱいに、これらの車両を置いている。大きな車庫もあるが、はみ出した車両はブルーシートでカバーされている。

【2014年に追記】右の写真は、その木曽森林鉄道のディーゼル機関車のエンジン。まるで船のエンジンのように大きなディーゼルエンジンだ。写真左側が車両の後部で、ラジエターの前で回るファンが見える。

写真右手にあるのが燃料噴射ポンプで、見られるように6気筒それぞれに行くパイプが出ている。さらに手前の白いものは、始動用のバッテリーである。

木曽森林鉄道は、日本で最後まで残っていた森林鉄道だった。もともとは「帝室」木曽森林鉄道だったから、たいへん気位が高い企業だった。また、森林の作業者など、森林の奥にある集落の(労働者ではない)人々を運ぶための手段としても使われた鉄道だった。

当時は、自動車のための道を山奥まで作るよりも、森林鉄道の路線を一本だけ作るのが普通で、それのほうが安価だった。また、自動車も普及していなかった。それゆえ、道がない、鉄道だけが輸送手段だった山奥の集落が、日本各地にあったのである。

林野庁の長野営林局管内の木曽谷(長野県)の国有林から切り出した木材の運搬のために1916年から展開した森林鉄道で、一時は路線の総延長は400kmにも達していた。しかし、1976年を最後に、すべてが廃線になった。

最盛期には木曽谷だけで、10もの営林署があって、それぞれが1〜2の森林鉄道を運行していた。

もともと木曽谷の森は、関ヶ原の合戦以降、尾張藩が独占的に管理していたもので、秋田杉と同様、すぐれた木材の産地として有名だった。明治時代以降は、広大な木曽谷は国有林として管理されていたので、その木材を切り出すための森林鉄道も、大規模なものになったものだ。

木曽森林鉄道は、レールの幅が762mmと、日本の鉄道の多くが採用している1067mmよりもずっと狭い。しかし、このディーゼル汽車は、15トンもある。1956年に福島県の協三工業で製造されたものだ。

連結器は、右の写真のように、簡単なものだ。写真に見える鉄のリングを、上から落としこむピンで留める方式で、朝顔型連結器といわれる、簡易鉄道やトロッコに用いられているものだ。強度は高くはないが、この種の簡易鉄道には十分だったのであろう。

このディーゼル機関車の運転席も、やはり錆びて、程度が悪い。左端は速度計で時速45キロまで刻まれている。その隣はブレーキに使う圧搾空気の圧力計だ。その他、多くのメーターが並んでいる。

【番外編:「鉄道・路面電車」ではありませんが、動ける場所が決まっている、という意味では親戚筋の不器量な乗り物たち】

9-1:高所恐怖症の人は絶対に乗れない「地元の人にとってはかけがえのない足」。オーストリアの深い谷を渡る人力ケーブルカー。

インスブルックの西、スイスとの国境に近いところにある「私設の」ケーブルカー。

はるか先方に白っぽく見える、斜面の上にある家に行くための、かけがえのない交通手段だ。もし、このケーブルカーがなければ、文字通りの千尋の谷を下って、また登らなければならない。

それにしても、高所恐怖症の人は絶対に乗ることができないだろうし、人力で駆動するために、これだけの距離を移動するには、かなりの体力も必要だ。もちろん、時間もかかる。

遊園地の乗り物は別にして、乗り物とは、便利さと引き替えに大なり小なり命を託すものなのだが、それにしても、この乗り物ほど、命を託していることが実感できる乗り物も少ないだろう。

あいにくと所有者も利用者も近くにいなかったので聞くことはできなかったのが残念だが、そもそも、対岸の山の上に住んでいた人が、後年、不便に耐えかねてこのケーブルカーを作ったのだろうか。それとも、ケーブルカーを作ることを前提にして、対岸に住むことにしたのだろうか。

いずれにせよ、気安く「下界に」下りてくるわけにはいくまい。仙人のような生活にちがいない。

「私用」にしては、やや大きめの「車体」だが、これは、もしかしたら自給自足のために必要な乳牛を運ぶための大きさかもしれない。対岸の家のまわりには牧草地が広がっている。

(1991年8月、スイス国境に近いオーストリアの山中で。撮影機材はOlympus OM-4Ti。レンズはCosina AF Zoom 28-70mm。フィルムはコダクロームKR)


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島村英紀が撮った海底地震計の現場
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