静岡新聞に連載『大地の不思議』、2001年2月5日〜2001年9月2日の31回。一回約900字

その1:日本列島に最後に衝突した島

● 『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年2月5日(No.1)

 新幹線や東海道線と違って、静岡から東京へ向かう東名高速道路は、まっすぐ東京へは向かっていない。沼津から左へ大きく迂回して、御殿場経由で大井松田へ抜けている。

 東名高速道路が開通して32年になった。静岡県の人にとっては、すでに、あまりにおなじみの道になっているのに違いない。

 しかし、私たち地球科学者は、いつも、ここを通るたびに、特別な感情に浸る。それは、この道が、日本列島の歴史上、最後に日本列島に衝突した島の海岸線をなぞっているからなのである。

 その事件は約50万年前に起きた。私たち人類の時間のスケールから見ると、途方もない昔のように見える。しかし46億年の地球の歴史を一日にたとえれば、この島の衝突は、今から、たった9秒前のことなのである。

 その島は、いま伊豆半島と呼ばれている。この島が南の方からプレートに載って運ばれてきて、本州に衝突し、勢い余って、本州にかなり深くまでめり込んだ。このプレートは、繰り返し東海地震を起こしているプレートだ。

 このため、押された本州側に皺がよった。ハイカーや登山者が楽しんでいる丹沢山塊は、押されて出来た、地球の皺なのである。

 今でも、昔の海岸線が残っている。そこだけは周りよりも平らで標高も低いから、よく目立つ。

 平らで標高も低いことは、鉄道や道を通すために大事な条件だった。こうして、今は国道246号線になっている道も、丹那トンネルが開通するまで唯一の東海道線だったJRの御殿場線も、東名高速道路も、この昔の海岸線に作られることになったのである。

 じつは、御殿場線はもちろん、東名高速道路が作られたときにさえ、ここが大昔の海岸線だったことは知られていなかった。

 いや、私はここに道路や鉄道を造ったことを非難しようとしているのではない。私たち人類は、地球の営みの上に暮らしていることを忘れてはいけない、というのが私の言いたいことなのである。

 地球はその創世以来、二度と同じ姿に戻らないまま、つねに、その姿を変え続けてきているのだ。


その2:「魔の丹那」の地球科学的な理由

● 『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年2月12日(No.2)

 新丹那トンネルは長さ7959メートル。新幹線だと約2分で通り抜けてしまう。外が見えないから、居眠りをしていたり、読書をしている人が多い。

 しかし私たち地球科学者は、それほど心中穏やかではない。このトンネルは列車が時速300キロもの速さで活断層を突っ切って走っているという、世界でもまれな場所だからである。

 このトンネルの前に掘られた丹那トンネルの工事は、吉村昭の小説『闇を裂く道』にあるように、想像を絶する難工事だった。何度もの落盤事故で67名もが犠牲になった。もともと7年の予定だった工事は、足かけ16年もかかってようやく終わった。

 夥しい出水は、芦ノ湖の水量の3倍にも達したばかりではなくて、トンネルから160メートルも上にある盆地に渇水と不作の被害までもたらした。ワサビ農民の一揆も起きた。

 さらに大地震まで起きた。工事中の1930年に起きた北伊豆地震は、阪神淡路大震災を起こした地震よりも大きな内陸地震で、掘削中のトンネルが3メートル近くも左右に食い違ってしまった。

 トンネルを掘っているときにはもちろん知られていなかったが、この丹那断層はA級の活断層である。過去に数百回の地震を起こしながら、食い違いを蓄積してきている。だから、この辺の山も谷も、すでに1キロも南北に食い違っている。北伊豆地震はその数百回のうちの1回だったのだ。この活断層の原動力も、東海地震を起こすプレートの動きである。

  この地震は地上にも食い違いを残した。いまは天然記念物になって看板を立てて保存されている。丹那断層である。

 つまり、掘ったときはまだ知られていなかったが、丹那トンネルも新丹那トンネルも、図らずも活断層を掘り抜く工事だったのである。活断層ゆえに、破砕帯も多く、岩は崩れやすく、地下水もそこに集中していて当然だったのだ。しかもその活断層が起こす地震も、工事中に起きてしまったのである。

 この活断層の調査は1980年代に行われ、活断層が地震を起こす周期が700年から1000年だと分かった。次の大地震がいつ起きるか、まったく分からない場所が多い日本では、これらのトンネルは、それでも相対的には安全なところなのだ。

 活断層は、また必ず活動して次の地震を起こすだろう。そのときに丹那トンネルも、新丹那トンネルも、2、3メートル食い違うに違いない。

 逆に言えば、伊豆に限らず、日本列島全体は、それほど不安定なところにあると言うべきなのである。


その3:清水港がロシアの港になっていたら・・・

●『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年2月19日(No.3)

 清水港や田子の浦港がいまロシアの港でなかったのには、地球科学的な理由がある。

 日本は四つの大きな島から出来ている。しかし、はじめから四つの島があったわけではない。じつは、日本列島は、いまロシアや中国が載っている大陸の東の端を占めていた。つまり島ではなくて大陸の一部だったのである。

 地球の歴史を1日にたとえたときに、いまから6分前に大陸の東の端にひび割れが走り、日本列島が大陸から分かれた。日本列島の誕生である。

 その後、割れ目はどんどん大きくなっていった。割れ目、つまり日本海が次第に大きくなったものだから、日本列島は東へ東へと押しやられ続けた。

 しかも、中央部だけが異様に大きくなったものだから、はじめまっすぐに近かった日本列島は、しだいに「く」の字の形に曲がっていった。能登半島から関東にかけてが、いちばんたくさん押し広げられたことになる。

 しかし、それまでだった。日本海は、突然、その動きを止めてしまったのである。つまり地球の歴史を1日にたとえたときに、日本海はわずか1分半だけ活動した短命の海なのだ。

 もし日本海が生まれていなければ、いまの日本列島はなかった。そして、間違いなく、いまの静岡県は大陸の東の海岸線にあったはずである。

 つまり清水港や田子の浦港は、大陸に住む人たちが太平洋に出るための重要な港になっていたかも知れないし、焼津港や沼津港は彼らが魚を捕りに行く重要な港になっていたかも知れないのだ。

 残念ながら、現在の地球科学は、なぜ日本海が開き始めたのか、そして、ごく短い間に、なぜ開き終わってしまったのかのナゾは解けていない。分かっているのは、開いたという事実と、いつ開いたかという時期だけなのである。

 しかし、地球には、ちょうど、いま開きかけている海もある。私たちが今度の冬に行って研究をすることを計画している南極海には、日本海の赤ちゃんだと私たちが思っている、まだ小さな海がある。ここを研究すれば、日本海のナゾが解けるかも知れないのである。


その4:「インドで起きた」北伊豆地震

● 『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年2月26日(No.4)

 北海道大学で修士論文の発表があった。そのひとつが、スリランカで取ってきた岩の分析だった。南極の地質の研究のためだ。

 え、南極、と驚くかもしれない。スリランカもインドも、昔は南極と地続きだったのである。氷に覆われているだけではなく、行くだけでも大変な南極だが、暖かい国で研究することも出来るのだ。

 かつて、インド大陸も南極大陸もゴンドワナ古大陸という大きな大陸の一部だった。約一億年前、この大陸は分裂し、インドとスリランカは南極を離れて、ひたすら北上を続けることになった。

 やがてインドはユーラシア大陸に衝突した。4000万年前、地球の歴史を1日にたとえたときに、今から12分前のことだ。日本列島が出来た倍ほど昔である。

 その後も、インドを載せたプレートは動き続けている。つまり、インドはユーラシアと押し合いを続けていることになる。世界の屋根、ヒマラヤは、こうした押し合いの結果、プレートがまくれあがって出来たものなのだ。だからヒマラヤは、いまだに、ゆっくりながら高さが高くなっていっている。

 ヒマラヤの山頂で貝の化石が見つかることがある。いま七、八千メートルもある土地も、インドがぶつかってくる前は、海の底だったのだ。

 山が出来るだけではない。押し合っていて地下に歪み(ひずみ)がたまれば、たびたび地震が起きる。たびたび、といっても地球の時間スケールの話だ。

 こうして起きた地震の一つが1月25日にインド西部を襲ったインド大地震(マグニチュード 7.9)だった。35000人、あるいはもっと多くの犠牲者が出たと報じられている。ご冥福を祈る。

 この連載をお読みの方は憶えているかもしれない。インドが北上して陸地にぶつかったのは、地球の歴史では、伊豆半島が日本列島に衝突したことと、じつはそっくりの事件なのだ。

 つまり、フィリピン海プレートの動きが直接、間接に起こす一連の地震、たとえば北伊豆地震(1930年、マグニチュード7.3)や、起きるかもしれない東海地震と、このインド大地震は、親戚筋の地震だったのである。


その5:揺らぐ?日本最古の石の歴史

● 『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年3月5日(No.5)

 前回はインド大陸が南極大陸と袂(たもと)を分かって北上した話をした。地球の歴史を1日にたとえたときに、分かれたのは今から30分前、今のインドの位置にたどり着いてから衝突によってヒマラヤ山脈を押し上げはじめたのが12分前のことだ。日本列島が大陸から分かれて生まれたのが6分前だから、インドと南極が一体だったのは、だいぶ前のことになる。

 しかし、日本に関係のない、遠い話だとは思わないでほしい。たとえば浜名湖から佐久間ダムや赤石山脈を通って八ヶ岳に至る幅20キロほどの帯状の地層の上に住む静岡県人や長野県人は、インドが南極と分かれたより2倍も古い、約2億年前の岩の上に、いまでも住んでいるからである。

 日本列島が誕生したより10倍も前の時代の岩が県内にある、というのは不思議に聞こえるかもしれない。

 つまり、この辺の岩は、日本列島がまだ大陸の一部だったときに造られて、はるばる、ここまで旅をしてきたものなのだ。日本列島は、造物主がごったな寄せ集めとして造ったものだ。その材料は、元になった大陸がそもそも造られたときに出来た岩や、大陸になってから造られた岩や、また大陸から分かれて日本列島になってからくっついてきた火山島や海底火山や、そのはるか後に噴火して出来た富士山のような火山などである。

 ところで、日本最古の石は岐阜県七宗町で発見された。約20億年前、さっきの時間だと、ほとんど半日も前に生まれた岩だ。名古屋から高山へ行く途中で、ここには「日本最古の石博物館」が作られて町おこしに役立っている。発見されたのは石ころのような小さな岩だった。

 静岡県境からわずか70キロメートルしか離れていないところだ。現在の地球科学は、なぜこの岩が今の岐阜県にあって、なぜ今の静岡県になかったかを説明することは出来ない。

 しかし、最近の研究では、もしかしたら、日本列島のほかの場所ですでに発見されているジルコンという岩のいくつかは、30億年前に出来たものではないかという説が出てきている。

 世界最古の石であるオーストラリア西部で発見されたジルコンの43億年にはかなわない。だが、岐阜の首位は揺らぐかもしれないのである。


その6:富士山は丁寧に作ってきたはずが?

● 『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年3月12日(No.6)

 造物主は日本列島をごった煮として作った。その後も、じつにまめに、いろいろ作ってくれている。一番熱心に作ってくれているのは火山だろう。

 伊豆半島が日本列島に最後にくっついたのは、地球の歴史を1日にたとえれば、わずか9秒前だという話をした。その後、矢継ぎ早に、箱根を、そして富士山を何もないところから作り上げてくれた。いま活発な活動をしている日本の火山のすべては、地球の歴史では、ごく新しいものばかりなのである。

 伊東市の近くにある大室山(標高580メートル)は、まるで昔の菓子「甘食」のような形をしている。これは、造物主がたった1回だけ噴火させて作った瞬間芸のような火山だ。じつは、この近くの伊豆半島には、このような1回きりの噴火で終わってしまった火山が多い。たぶん、これら火山を作った造物主は、飽きやすい質(たち)なのであろう。

 これらに比べて、富士山はずっと丹精込めて作られている。

 最初に着手して噴火を起こしたのは伊豆半島がくっついてからほどない頃だった。しかしその後、大変な回数の噴火を繰り返しながら、溶岩と火山灰からなる岩を、かわりばんこに、それぞれ一枚ずつ、山頂から麓まで、かぶせていった。まるで菓子のバウムクーヘンのような、丁寧な作りになっているのである。その結果として、広重や北斎が描く美しい形が出来てきたのである。

 しかし、一番最近の宝永の噴火(1707年)だけは不思議だった。この噴火は山頂ではなくて山腹から噴火したからだ。また、今までにない大規模な噴火でもあった。この噴火のせいで、富士山の形が醜くなってしまったことは誰でも認めるだろう。

 私たち地球科学者は、造物主の真意を測りかねているところがある。

 造物主の手が滑ったというべきなのだろうか。

 地球は生まれてから二度と同じ姿にはならずに姿を変えてきた。同じことが無限に繰り返されることはない。いつかは変わることなのである。

 もしかしたら、宝永噴火を境に、別の造物主にバトンタッチしたのかもしれない、と私は思っている。


その7:待っていた地震が消えた?

● 『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年3月19日(No.7)

 世界の地震学者が、ここならば地震予知は簡単だろうと考えていた場所がある。

 そこでは、すでに6回の地震が、20から25年ごとに起きてきて、まもなく、最後の地震から25年がたとうとしていた。

 いままでに起きた地震は、マグニチュード6ほど。地震はどれも瓜二つで、たとえば9000キロメートル離れたオランダの地震観測所で記録された地震記録は、見分けがつかないくらいよく似ていた。

 昔のことは分かっていなかったが、最近の2回では、本震の17分前にマグニチュード五くらいの前震があることまでそっくりだった。

 このため、この地域のまわりには網の目のように観測点が敷かれ、次の地震を待つ準備は万端であった。

 そして、ある日、マグニチュード 4,7の地震が起きた。誰の眼にも、これは来るべき地震の前震だと映った。

 そのうえ、地殻変動や井戸の水位にも変化が現れた。

 そして、息を殺して待つこと数時間、1日。数日。しかし何も起きなかった。

 数週間。やがて数ヶ月。

 結局、地震は起きなかったのだ。もしかしたら3年や5年なら遅れるかもしれないと思った学者もいた。しかし、今日現在、「前震」が起きてから8年半もたってしまったのである。

 ここは米国カリフォルニア州のパークフィールドというところだ。ロサンゼルスとサンフランシスコのほぼ中間にある。地震の規模はもっと小さいが、じつは日本でも宮城県で同じような例があった。

 大地震が繰り返すメカニズムは、日本庭園にある添水(そうず)のようなものだと信じられている。つまり、地震を起こすエネルギーが一定の早さで溜まっていって、やがて限度を超えると、地震が起きる。神奈川県西部地震も東海地震も、このメカニズムが繰り返すという想定のもとに、起きるかもしれないと警告されているのである。

 もし、地震も造物主が起こすのだとしたら、造物主にも、気まぐれや選手交代があるのかもしれない。残念ながら現代の科学は、まだそれを読めるわけではないのである。


その8:あれだけの「前兆」があったのに

●『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年3月26日(No.8)

 地元の人たちは、喉(のど)から心臓が飛び出すような思いをしていたに違いない。

 その火山では、突然、火山性地震が増えはじめ、3ヶ月後には、日に400回という回数になっていた。40年前、ここに地震計が置かれて以来、最も多い地震だった。

 しかも震源は山頂直下だった。噴火の前には、はじめ震源は深く、しだいに浅くなって山頂の直下に至ることが多い。マグマが上がってくるとともに、火山性地震も上がってくるからである。

 話に聞いていた悪夢が、皆の頭をよぎった。この火山はかつてすさまじい噴火をして、山の上半分を吹き飛ばして山の形を激変させてしまったことがある。百年ほど前、富士山の宝永噴火よりもずっと後のことだ。水蒸気爆発と泥流でいくつもの村や山林や耕地が埋まったほか、約500人もの死者が出た。

 やがて、山頂直下で起きる低周波地震や火山性微動もときどき観測されるようになった。これも40年来初めてだった。1989年に伊東市沖の海底で手石海丘が噴火したときも、群発地震から始まり、火山性微動が出て、間もなく噴火した。

 まだ山頂から蒸気は出ていないようだった。しかし地殻変動や地磁気のデータにもわずかながら変化が出始めていた。

 いつ噴火しても不思議ではなかった。他の火山では、この程度の「前兆」で噴火した例はいくらでもあった。

 しかし、結局、噴火はしなかった。

 火山性地震は次第に減りはじめ、観光で生きる地元は、気象庁や噴火予知連絡会が渋い顔をしているのを尻目に、独自の判断で入山規制を解除した。結果的には、気象庁の判断よりは正しかった。昨年夏、福島県の磐梯山での出来事である。

 いや、私は前回の地震の例や今回の火山の例で「前兆」が出ても無視していいと言っているのではない。もっと少ない前兆で地震や噴火が起きたことも多い。もちろん、何が起きてもいいだけの備えをしておくのが望ましい。

 残念なことながら、現代の地球科学は、地下で何が起きようとしているのか、正確に知る能力を、まだ持ち合わせてはいない。

 「引き続き注意が必要です」といった紋切り型の発表にしびれを切らした地元の独走は痛いほど分かる。しかし、実際に何が分かっていて、何がまだ分かっていないのかを正確に理解してもらうことは、実に難しいことなのである。


その9:津波警報はオオカミ少年?

●『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年4月2日(No.9)

 3年前のことだ。1998年5月4日、気象庁が津波警報を発令した。沖縄、九州、四国、そして本州の南岸に最大2から3メートルの津波が来襲する恐れがある、という警報だった。

 港に繋いでいる船や港の関係者、沿岸の人々などに緊張が走った。ちょうどゴールデンウィークの最中だった。行楽を打ち切って港や家に駆け戻った人も多かったに違いない。

 しかし拍子抜けだった。実際に来た津波は、わずか数センチメートルのものだったからだ。

 地震予知、なかでも直前予知は難しい。では、せめて津波予報をと思うのは人の常だろう。地震が起きてからなら、震源の場所も地震の大きさも分かっているはずだからだ。

 しかし、ここに気象庁の泣き所がある。

 津波とは、地震で海底に凸凹が生じることで生まれる。震源断層といわれる海底の岩の食い違いが地震を起こす。しかし、食い違いかたは、じつは一種類ではないのだ。

 もし、縦ずれを起こして海底の岩が上下方向に食い違えば大津波になる。しかし、横ずれが起きて水平方向に食い違えば津波は生まれない。地震は縦ずれと横ずれが複雑にくみ合わさったものが普通だから、同じ大きさの地震が同じ場所で起きても、津波の大きさは何倍、いや何百倍もちがってしまうのだ。

 一方、津波警報は、出すのに時間がかかったら間に合わない。北海道南西沖地震(1993年)では津波警報が間に合わなかったこともあり、大被害を生んだ。海の深さによるが、津波は、速ければ飛行機なみの速さで伝わってくる。

 それゆえ、地震の震源と規模だけが分かった段階で、考えられる最大の津波を想定して警報を出すことになっているのだ。もっと進んだ仕組みを研究している科学者もいるが、気象庁のやり方では、震源で地震断層がどう走ったか、を見極めないで警報を出しているのである。

 5月4日の地震は、沖縄の石垣島南方沖で起き、マグニチュード7.7だった。大津波で100人以上がなくなった日本海中部地震(1983年)と同じ規模である。気象庁は「警報を出したことは間違いではない」と胸を張ったが、じつは津波警報は、オオカミ少年になる素質を本質的に持っているものなのである。


その10:東海地震研究のカギを握る岩

●『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年4月10日(No.10)

 知っている人は多くないだろう。御前崎の南東百キロメートル沖に、銭洲(ぜにす)という岩礁がある。波に洗われる岩がわずかに海面上に出ているところで、もちろん家もなく、人も住んでいない。

 この岩は、東海地震研究の鍵を握っている。この岩が、どの方向にどの速度で動くかが注目を集めているのである。

 東海地震の元凶であるフィリピン海プレートは、毎年4センチメートルほどの速さで、北西に向かって進んでいると言われている。
 しかし、本当にこの速さで、この方向に進んでいるのかは百パーセント確かではない。4センチとは今まで200万年間の平均値である。しかし現在は違っているのではないかという学説があるのだ。

 この説では、このプレートは実は一枚岩ではなく、本州に近い部分、つまり静岡県の地下に沈み込んでいる部分は、もっと遅くて、もっと西向きだとされる。

 それならば動きを測ってみればいい、と思うだろう。しかし、あいにくこの部分のフィリピン海プレートは海底と本州の地下深くにしかない。動きを測るために機械を置く場所がないのだ。

 いや、たった一つだけある。それが海底から生えている岩、銭洲(ぜにす)なのである。

 このため高知大や東海大の科学者が年に一度ずつ、測定を続けてきた。銭洲に上陸して、銭洲の絶対的な位置が分かる測量機器を臨時に岩に据え付けている。

 現地に行くのはなかなか大変だ。不思議なことだが静岡県の船で銭洲に行ってはいけないらしく、わざわざ神津島まで行って、そこで釣り船をチャーターして、銭洲に向かう。濡れた岩場は海苔が生えているせいで、とても滑る。ある先生は滑って、したたか腹を打った。打ち所が悪ければ、大事になるところだった

 この種の観測には時間がかかる。正確な結果を出すためには、少なくとも5年以上は繰り返しが必要である。

 最初の3年の間は、新しい学説を支持ずるような結果が出始めていた。

 しかし昨年は、データがまったく飛んでいた。これは三宅島のマグマ騒ぎに続いて起きた新島・神津島沖の群発地震に揺すられて、付近の地殻がずれてしまったためだ。あの群発地震は、かつて日本で起きた最大規模の群発地震だった。

 学説の決着を付けるのが数年遅れたことになる。地球を相手にする地球科学では、一つ一つの学説を検証するにも、このような手間がかかるのである。


その11:駿河湾海底にあるナゾの泉

●『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年4月16日(No.11)

 もともとは偶然の発見だった。1986年に駿河湾の1000メートル以上の深海で不思議な水が採集された。その水には異常に多くのマンガンが含まれていたのである。

 この観測はあちこちで行われる通常のもので、地球科学者たちが、深海の水の動きや成り立ちを研究するために海水を採って化学成分を測るものであった。

 じつは、科学者たちは前に記録した不思議なデータを思い出していた。

 1994年があと3日で終わろうとしたとき、三陸はるか沖地震(マグニチュード7.5)が起きた。3人がなくなった大地震だ。この地震の数日前、震源の近くの深海で、別の観測船が、やはり通常の観測で採った海水に、マンガンの成分がやはり異常に多かったのである。

 駿河湾のマンガンも来たるべき東海地震がらみなのかどうか、科学者の頭を心配がよぎった。幸い、それは地震の直前の予兆ではなかった。

 10年たった1996年、この駿河湾の謎を解くために、徹底した調査が行なわれた。駿河湾の一番深いところを南北に深層水を採集して見たのである。

 異常な水はとれた。しかしナゾはむしろ深まった。とれたのは駿河湾の底を走る駿河トラフの底の一地点だけだったのだ。陸で一番近い地点は榛原町か松崎町。水深約2100メートルの深海だ。それ以外のところでは異常な水は取れなかった。

 また、深さ1000メートルほどの海中に、雲のようにたなびいている異常な水もあった。しかし、これは水の成分に含まれているメタンガスの分析から、この深さにもともとあったとは考えられないもので、たまたま海底が強く揺すぶられて、地下深くにあった水が飛び出してきたものに違いない、とされた。

 じつは水を取った2日前には、焼津の近く、深さ30キロのところで、マグニチュード4.7、川根町で震度4の地震が起きたばかりだった。つまり、静岡で震度5強を記録した4月3日の地震と兄弟分の地震だ。静岡の地下へ潜っているフィリピン海プレート内部でこの地震が起きたときに、地下から水が飛び出して、それが駿河湾を漂っていたに違いない。

 北海道大学のT先生は、5月に深海潜水艇でこの場所に潜ってみる。駿河湾に異常な水を噴き出しているナゾの泉がみつかるかどうか、それは地震とどんな関連があるのか、地球科学の関心が集まっている。

地球科学者の敵はタケノコ 『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年4月23日(No.12)

地球科学者のもうひとつの敵 『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年4月30日(No.13)


その14:なぜ上げ潮のとき地震が多い?

●『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年5月8日(No.14)

 地球科学者が首をひねっているナゾがある。静岡県の地下で起きている地震の回数が、満潮時にも干潮時にも少なく、その途中に多いことが、最近、発見されたからだ。

 全部の地震ではない。駿河湾の底から静岡県の地下に滑り台のように潜り込んでいっているフィリピン海プレートの内部に起きた地震だけを選んで、数え直したときに発見されたものだ。

 最近14年間に起きた地震は約1100回あった。地元の人がこれだけの数の地震を感じたわけではない。ごく小さな、身体に感じないような地震がほとんどだ。

 すると、満潮時と、干潮時には、それぞれ地震の16パーセントずつしか起きていないのに、上げ潮時には34パーセント、下げ潮時には33パーセントもあった。つまり、上げ潮時と下げ潮時に起きた地震のほうが、満潮時や干潮時よりも、ずっと多かったのだ。

 はて、なぜだろう。磯に住む魚介類ではあるまいし、地下で起きる地震がなぜ潮の干満に関係するのか、残念ながら、現代の科学はこの答えを持っていない。

 しかし、地震が今にも起きそうになっているときには、ごく小さい力でも、地震の引き金を引くかもしれない、と考えている学者もいる。その学者は、カムチャッカでは気圧の変化で地震の数が増減したと言っている。

 潮汐に伴って厚さ100キロほどあるフィリピン海プレートに乗っている海水が数十センチほど増えたり減ったりする。もし気圧が影響するくらいならば、この程度の変化でも影響するだろう。しかしこの説には、確証も、あるいは明確な反証も得られていない。

 もっと不思議なことがあった。一昨年の秋から昨年の3月までの半年間だけは、上げ潮時の地震だけが極端に増え、下げ潮時の地震が減った。その差は十倍にも達したのである。

 その後、この一時的な「異常」は、特別な地球科学的な事件をなにひとつ起こさないまま、元に戻った。それから一年以上たつが、その後はその「異常」の前と同じ傾向が続いている。

 この期間だけ、地下でなにが起きたのだろう。また起きるのだろうか。私たち地球科学者を悩ませるナゾがひとつ増えてしまったのである。


その15:地震が起きると魚が捕れる?

●『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年5月15日(No.15)

 漁獲量と地震の関係を調べて最初に論文を書いたのは寺田寅彦だ。1932年のことである。

 寺田は伊豆半島の伊東沖に起きた群発地震の日別の回数のグラフと、アジやメジ(マグロの仲間)の漁獲量のグラフが、実によく似ていることを示した。

 ひとつ不思議なことがある。漁獲量は、アワシマとシゲデラでのデータ、とある。英語の論文だから漢字は書いていない。しかしこれらは伊豆半島の西海岸の地名だ。東海岸のデータがなかったのか、あっても地震との関連が見えなかったのか、今となっては調べようがない。

 その後、寺田の追試をした科学者がいる。相模湾から伊豆半島東岸にかけての定置網27ヶ所の漁獲量を、最近の約20年間について調べた。

 定置網でよく捕れる魚は、このあたりではアジとサバとイワシだ。群をなして浅いところを回遊する、いわゆる浮き魚である。静岡県と神奈川県の水産試験所が魚種ごとにデータをとっている。

 この20年には、伊豆大島で全島民が島外に避難した1986年末の噴火があった。また1989年5月に始まった群発地震が拡大して7月に海底噴火があり、手石海丘を作った。このところ静かだが、寺田が調べたような伊東沖の群発地震も十回以上あった。

 寺田が示したような例もあった。

 たとえば、真鶴のすぐ北にある小田原市米神の定置網では、伊東沖の群発地震とアジの漁獲量は実によく似ている。また、熱海市多賀の定置網でのアジの漁獲量は、1986年の伊豆大島の噴火の前後に起きた地震の数と瓜二つだ。これらのグラフだけを見せられれば、誰でも地震と漁獲量の関係を信じるだろう。

 なぜなのだろう。魚たちは地震が怖くて、地震から逃げようとして網にかかってしまうのだろうか。それとも、好奇心にあふれていて、地震に寄って来たときに網にかかってしまうのだろうか。

 しかし、全体としては寺田寅彦が示した例のように見事なものばかりではなかった。近くの定置網では関係らしきものが全く見えないことも多かった。しかもその中には、地震の震源にもっと近い定置網もかなりあった。

 つまり、私たちは、まだ魚に聞いてみなければわからないことが多いのだ。

 残念ながら、現代の科学は、まだ寺田の科学を超えられないのである。


その16:地震予知の「看板」のなぞ

● 『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年5月21日(No.16)

 1970年代の終わりに東海地震が問題になったとき以来、地震予知の看板として掲げられているグラフがある。それは掛川と御前崎の間の地面の上がり下がりだ。

 このデータは、国土地理院が測り続けているものだ。地理院が地震予知連絡会に発表する資料の最初の頁にいつも掲げられている。

 フィリピン海プレートが年々潜り込み、それにつれて静岡県が載っているユーラシアプレートが引きずり込まれていく。そのときに、内陸の掛川よりは沿岸の御前崎のほうがたくさん沈んでいく。

 やがて、もし東海地震が起きるとすると、そのすぐ前には、フィリピン海プレートとユーラシアプレートが地下で接している部分が耐えきれなくなって、静岡県が載っているプレートがこれ以上沈み込めなくなる。つまり、御前崎の沈下が止まる。やがて大地震が起きて、ユーラシアプレートが跳ね上がる、というのが想定されたシナリオだった。

 このため、このデータのちょっとした上がり下がりが注目を浴びてきた。今のところ、年に5〜6ミリずつ御前崎が沈んでいっている。

 不思議なことがあった。毎年1センチを超える変化があることだ。前の年のことを知らなければ、御前崎の沈下が止まって上昇に転じたか、と思うくらいの大きな変化が毎年繰り返されてきている。

 この年周変化がなにかはわかっていない。測量の誤差だろうか。しかし、世界に誇る測量技術を自認する国土地理院は測定に自信を持っている。

 では地下水が変動しているのだろうか。それとも潮汐による海水の重さの影響だろうか。いろいろな説が出されたが、決着はしていなかった。

 ところが、別の測定方法だと、これほどの年周変化がないことが、最近わかった。いままでは地面の上を人が歩いて測量する水準測量という手法だった。しかし、人工衛星からの電波を使った測地測量だと、年の変化がたった数ミリになってしまったのである。

 さて、いままで見てきた年変化はなんだったのだろう。新しい測定方法でも少しは見えている年変化は、そもそも地球のシグナルなのだろうか、解くべきなぞは、まだ多いのである。


その17:曲がるプレート 曲がらぬプレート

● 『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年5月28日(No.17)

 前回は掛川と御前崎の間の地面の上がり下がりの話をした。これが静岡県の載っているプレートが沈んでいくバロメーターだと考えられてきたからだ。

 しかし、御前崎と掛川はたった20キロメートルしか離れていない。

 フィリピン海プレートが潜り込むのにともなって、静岡県だけではなくて愛知県や山梨県の一部までの広い範囲が沈んでいっている。つまり食パンの一切れを曲げているときに、一円玉ほどの大きさの端っこだけを見て、全体がどのくらい曲がっているかを推測しているようなものなのである。現に、最近の研究では、御前崎からすぐ近くの浜岡と掛川の間の地面の上がり下がりは、御前崎・掛川間とはかなり違うことが分かった。

 では、全体を見る方法はないのだろうか。これがなかなか難しい。

 名古屋大学のグループは、この20年ほどのあいだの、食パン一切れ全体の曲がり方を研究している。

 データは十分ではない。静岡県でも愛知県でも、それほど多くのデータが20年にわたって継続的にあるわけではない。名古屋大学がときどき測っていた光波測距儀(前に新妻先生のとき=連載第12回=に紹介した道具)や、国土地理院の定期的な水準測量、それに愛知県が地下水の汲み上げによる地盤沈下を監視するために観測していたデータなどだ。

 おぼろげながら見えてきたのは不思議な現象だった。4、5年ごとに、曲がり方も曲がる量も違っていることだ。たとえば1995年までの5年間と、1987年までの5年間は曲がりが大きく、それ以外の期間は曲がりがほとんど進行していない。

 いままでは、この食パンは一定の速さで曲がっていっているものだ、だからもし大地震が起きるとしたら、その前には速さが変わるはずだ、と考えられてきた。

 しかし、この研究によれば、年によってはほとんど曲がらなかったり、年によっては倍の速さで曲がったりするのをこの20年間繰り返してきたらしい。

 一方、この4、5年ごとの変動は、毎日のように起きているごく小さな地震の活動と関係があるようには見えない。たくさん曲がったらたくさん地震が起きそうなものなのに、と私たち地球科学者は理解を超える現象に困惑しているのである。


その18:寒冷前線が通れば地面が膨らむ?

●『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年6月4日(No.18)

 これは近未来の想像上の風景だ。現実のことだと思って慌てないでほしい。

 何年かぶりに伊東沖に群発地震が起きて、地元の人々は不安な日々を送っていた。東京・大手町にある気象庁では、いくつもの表示装置が、地震や地殻変動など時々刻々の状態を監視していた。

 人々の間に緊張が走った。見る見るうちに地殻変動のデータが異常を示し、伊東市や熱海市網代の周辺で10センチの隆起を示したからだ。

 これは東海地方には約10キロごと、静岡県内に50地点以上も設置してあるGPS観測装置からのデータで、地殻変動の新しい観測手法としてもっとも期待されているものだった。ふだんはミリ単位の変動を測っているから、10センチとは、なんとも異様なデータだ。

 数時間のうちに、これほど地面が盛り上がるのはただごとではない。マグマが上昇してきたのだろうか。陸上で噴火が始まるのだろうか。

 しかしこの異常なデータは、ちょうど上空を通過していた寒冷前線のせいだった。本当の地殻変動ではなかったのだ。

 GPSというのは、米国の軍事衛星からの電波を受信して、観測装置が置いてあるところの緯度、経度、それに標高が分かる仕組みだ。カーナビにも利用されているが、ずっと精度のいいものが観測用に使われている。電波だがら、空気中の水蒸気の濃い薄いのムラの影響を受ける。寒冷前線など気象条件によって、ニセの地殻変動信号を作ってしまうのだ。

 国土地理院は、日米の貿易摩擦の解消という国策のもとに、米国製のGPS観測装置を千台買って、90年代半ばまでに全国に配備した。

 いままでは地上を人が歩きながら測量していた。だから注目されている掛川・御前崎間の測量も年に4回しか出来なかった。それに比べてGPSは精度は同じくらいで、圧倒的に能率がいい。このため、データを時々刻々得られるように、いま改造が進められている。

 しかし、じつは気象という邪魔者が潜んでいたのだ。もともとは砂漠や北極など地図のないところで戦うために開発された軍事技術だ。

 まさか、ミリ単位の地殻変動に日本人がピリピリすることまでは考えに入れていなかったに違いない。


その19:心理学者がたしなめた「前兆」

●『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年6月12日(No.19)

 「昨夜、夜中に3回も目がさめた」「近所のカエルが異常なほどうるさかった」「夜中に飼犬が鳴き出して泣きやまなかった」「1週間前、朝焼けの中に見たことのない変わった形の雲を見た」「ラジオの受信状態が悪い」「テレビのリモコンが急に利かなくなった」「時計が狂った」。

 これらはなんだろう。大地震の前兆だという読者が多いに違いない。しかし、これらはみな、ニセの前兆だったのだ。

 大地震が起きたときに、そう言えば、と思い出す現象がいろいろある。阪神大震災後に、この「前兆」を集めた地球科学者が書いた本が3冊も出た。週刊誌やテレビに出る前兆も数知れない。人々の脳裏に刻み込まれた記憶は、何年たっても鮮明に思い出すことが出来るものだ。

 この種の「前兆」が、心理学者に厳しくたしなめられたことがある。要するに科学的ではない、というのだ。ちょうど一年前、東京で開かれた地球科学の学会の席上でのことである。

 この心理学者は信州大学の先生だ。「今日,長野で大地震が起きたと仮定する。前兆現象として思い当たることはなかったか」と学生に問い、書かせたものをまとめた。もちろん、実際には地震がなかった日のことだ。

 64パーセントもの学生が「前兆」を報告した。阪神大震災のときに報告されたのと同じ「前兆」も多かった。それが最初に並べた回答だったのである。

 心理学者は、現象について先入観や期待を持っている被験者では、いつでも起き得るような出来事のなかに、意味のある現象を見出してしまう、と言う。記憶の中にある曖昧な出来事から「前兆」を作り上げてしまうのだ。ふだん何気なく見ていることでも、大地震がなければ忘れてしまう。地震があったから、そう言えば、ということになるというのだ。

 最近の心理学はさらに不思議なことを発見した。大地震のような大事件が後から起きると、「実際にはなかった観察」の記憶さえ、鮮明に再生されることがあるのだという。

 はて、最新の心理学の前では、大地震の後に、あんな前兆もあったと今まで言われたことがすべて怪しくなってくる。

 大地震の前にあると言われる「宏観現象」を証明するためには、犬が何度鳴いたのか、カエルが何時間鳴いたのか、毎日、克明に、日記に付けておかないと信用されなくなる時代になりそうである。

看板から「地震予知」が消えた 『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」4頁の1面連載)、2001年6月18日(No.20)


その21:前兆だとは分からなかった不幸

● 『大地の不思議』(静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」2頁の1面連載)、2001年6月25日(No.21)

 6月30日は私たち地球科学者にとっては、苦い思い出の日だ。

 1989年のこの日に始まった伊東沖の群発地震は、はじめは、それまでよくあった群発地震と同じに見えた。伊豆半島の東の沖では、それまでの10年間に20回も群発地震が起きていて、つい前年も夏に1カ月間、もっと南東の沖を震源とする群発地震が起きたばかりだったからだ。

 7月9日にはマグニチュード5.5の地震が2回起きた。伊東での震度は5を越えた。

 しかし、この地震を境に、群発地震活動は急速に衰えていった。7月11日には、気象庁は、地震が終結する可能性が強いと発表した。

 その後、誰も予期しなかった展開になった。その日の夜だった。微動という、地面が連続的に搖れ続ける振動が記録されたのだ。微動は火山噴火につきものの振動で、普通の地震活動では出ない。

 そして、微動が出て2日後の7月13日夕方に、伊東沖4キロの水面で、突然、海底火山の噴火が起きた。この噴火を最初に捉えたのは観測器械ではなく、民放のテレビカメラだった。気象庁をはじめ科学者は、テレビの画面を見て現状を追認することになった。

 あとから見れば、群発地震に始まって、大きめの地震が起き、やがて微動が発生したという一連の動きは噴火の前兆だった。つまり前兆はすべて捉えられていたのだが、それを噴火の前兆としては認識できなかった。苦い思い出なのである。

 苦い思い出はもう一つある。観測と研究の体制の問題だ。それまでは、国の計画である噴火予知計画と地震予知計画とは別々に動いてきた。それぞれの予知連絡会の事務局は別の官庁にある。

 それぞれには縄張りがあり、地震は「地震」の、そして噴火は「火山」の担当に分かれている。このときは、火山性微動が出たときに「地震」側では虚を突かれ、他方、噴火までの2日間では「火山」の体制は間に合わなかった。国民に恥をさらしたのである。

 さて、それから12年。何が変わったのだろう。

 じつは、何も変わっていないのだ。それどころか「火山の本部」は相変わらずのうえ「地震の本部」は2つから3つに増えた。そのどれもが、今回の省庁再編でもそのまま生き延びている。

 はて、人間というのは経験から学べる動物だったのではないだろうか。

四つある委員会は何が違う?『大地の不思議』 (静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」2頁の1面連載)、2001年7月2日(No.22)


その23:解けなかった駿河湾底の泉のナゾ

● 『大地の不思議』 (静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」2頁の1面連載)、2001年7月10日(No.23)

 15年目のナゾは、今回も解けなかった。海の女神は科学者の目にさらされるのを好まなかったに違いない。

 連載11回(4月16日)に書いたように、1986年に駿河湾の深所で異常に多くのマンガンが含まれている不思議な海水が採れた。しかも地震で増える。

 1996年には駿河湾の一番深いところを南北に深層水を採集した。しかし、ナゾはむしろ深まった。不思議な海水が採れたのは駿河湾の底を走る駿河トラフのうち、たった一地点だったのだ。

 そのナゾの場所に深海潜水艇が挑んだ。榛原沖の水深2200メートル。この6月のことだ。乗ったのは北海道大学理学研究科の角皆潤(つのがいうるむ)先生。地球科学者だが、専攻しているのは地球化学という学問分野で、地球から湧いてくる、地震や火山に関係する水やガスの専門家だ。不思議な水を噴き出している海底の泉が見つかるのではないか、それが静岡の地下で起きる地震とどんな関係があるのか、と私たち地球科学者の注目を集めていた潜水であった。

 残念な結果になった。駿河湾の海底はひどく濁っていた。深海潜水艇にとっては視界がすべてだ。泉を発見して精査するどころか、海底がどこにあるかさえも分からないほど視界が悪かった。操縦したパイロットも経験したことがないほどだった。先生は別の日に再度挑戦した。しかし、同じだった。

 季節が悪かったのか、前に降った雨の影響で陸の土砂が駿河湾に流れ込んでいたのだろうか。いずれにせよ、またとない機会を先生は失ってしまった。

 見えないまま、緯度経度だけを頼りに海底の泥を採ってきた。だが、ちょうど泉のところで採れた可能性は低い。

 先生の悔しがるまいことか。

 けれども、科学の最前線とは、このようなものなのだ。長年準備したあげくに、異国など、遠い現場に行って砂を噛まされた経験は、私たちフィールドの科学者の多くが持っている。

 しかし先生には前例がある。阪神大震災前の地下水の変化を調べようとして、あるミネラルウォーターの製造会社が持っていた製造月日別の製品を調べようとしたが、提供を断られた。それでは、と全国の商店にあった、その会社のミネラルウォーターを買い集めて分析し、世界的な論文を作った。

 剛腕の先生のことだ。次の一手を画策しているに違いない。


その24:地震の当たり年、被害の当たり年

● 『大地の不思議』 (静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」2頁の1面連載)、2001年7月16日(No.24)

 暑い夏だから、怪談をひとつ。

 大きな地震はめったに起きないが、この頁に毎週出ているように、小さな地震は毎日起きている。では世界中に起きている地震を全部数えてみたら、毎年、同じように起きているのだろうか。それとも、地震の当たり年のようなものがあるのだろうか。

 米国の地球科学者が、20世紀の始めから、それぞれの年に起きた地震で放出されたエネルギーを足し算してみた。

 驚くべきことが分かった。年によって、地震のエネルギーは百倍も違っていたのだ。エネルギーがいちばん高かったのは1960年。この年を中心に、50年代の始めから60年代の後半までが20世紀中で最大のピークだった。

 それに比べ、40年代や70年代以降は、地震のエネルギーはずっと低かった。つまり、地震には当たり年があったのだ。

 なぜ当たり年があるのかはナゾだ。プレートの動きが大規模に変動するのか、地球の自転がわずかながら変わるのか、といった学説はある。しかし、どれもまだ、確かめられてはいない。

 ところが、この科学者は、もっと不思議なことも見出していた。地震による死者を同じように年別に集計してみたのだ。

 多い年は60万人もの方が亡くなり、10万人を超えた年も多い。世紀最多は中国で唐山地震があった1975年、10万人を超えたのは日本の関東大地震(1923年)をはじめ、ペルー、グアテマラ、トルコ、パキスタン、イタリアなどでそれぞれの大地震があった年である。

 ところが、年別に数えてみると、地震のエネルギーが一番多かった50年代から60年代までは、死者の数は20世紀でも群を抜いて少なかったのだ。なかでもエネルギーがピークを迎えていた50年代の始めには死者は年間百人台で、これは世紀中で最も少ない。

 さて、なぜだろう。地震のエネルギーが少ないのに死者が多い。これは怪談だ。

 いろいろな原因があろう。たとえば、地震が襲う場所の運不運はある。また、世界の人口が増えていって社会が高度化すれば、同じ大きさの地震に襲われても、被害が大きくなるだろう。

 1970年代以降の犠牲者の数のグラフを見ると、「低迷」している地震のエネルギーのグラフをよそに、不気味に鎌首をもたげているように見える。私たちは文明の便利さと引き替えに、災害への弱さを負わされてしまっていなければいいのだが。

科学者の「五年」、行政の「一年」 『大地の不思議』 (静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」2頁の1面連載)、2001年7月24日(No.25)


その26:トルコ大地震を起こした断層の行方

● 『大地の不思議』 (静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」2頁の1面連載)、2001年7月29日(No.26)

 いま、北海道大学の助手や大学院生と一緒に炎熱のトルコで暮らしている。

 北アナトリア断層という長さ千キロもある大断層がトルコを東西に横断して走っている。次々に大地震を起こした断層だ。震源は60年かかって東から西へ移動し、1999年8月のトルコ大地震で西端に達した。この地震は公式発表で一万五千人もの犠牲者が出たから、憶えている人も多かろう。実際には倍以上の犠牲者だと、こちらの人は信じている。

 この断層の先には、マルマラ海という細長い海がある。海底に続いているに違いない大断層の行方とありさまを調べるのが、私たちの研究なのである。

 実験は、私たちが日本から運んだ海底地震計約40台をマルマラ海の海底に置き、一方パリ大学が持ってきた約50台の陸上地震計をマルマラ海を取り囲んでいる陸地に置いて行われる。地元のトルコの大学も全面的に協力してくれるから、三国共同の大実験ということになる。

 実験は8月早々に始まる。いま、日本から運んできた海底地震計を組み立てるのに、トルコやフランスの研究者や大学院生に手伝ってもらって大わらわだ。

 私たちが滞在しているのはトルコ第一の都会イスタンブールから東へ60キロほど行ったマルマラ海沿いの町だ。宿舎には研究所の職員住宅を一軒借りて、私たちのほか、トルコ人とフランス人、男女合計で8人が暮らしている。敷地内を大きな亀がのんびり歩いている。

 先週は当地でも異例の暑さだった。40年ぶりに40℃を超えたという。

 しかし、冷房というものはない。家も仕事場も暑いが、海際のせいで、朝夕だけはほんの少しだけは涼しい。

 外国でのフィールドワークでは、文化や習慣の違いに驚くことが多い。今回はお金の数字に目をまわしている。ガソリン1リットルが178万、食事の1皿が250万トルコリラといった数字なのだ。すぐに電卓では計算できない桁数になってしまう。

 じつはここ数年トルコは大変な不況とインフレにあえいでいて、それに大地震が追い打ちをかけた。科学研究費はほとんどない。自国だけで地震研究をするのはとうてい不可能なのです、とこちらの地球科学者は嘆いている。

 日本を別にすれば、大地震は豊かでない国を襲うことが多いのである。


その27:地震予知競争の「勝者」と敗者

● 『大地の不思議』 (静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」2頁の1面連載)、2001年8月6日(No.27){900字}

 先週号で書いたように、1999年8月にトルコの西部を大地震が襲い、公式発表で15000人、地元の学者によれば4万人を超える大変な犠牲者を生んだ。

 じつは、この地震の震源では英国、ドイツ、日本がそれぞれトルコと協力して、地震予知のための観測を展開して地震を待っていた。北アナトリア断層に沿って次々に大地震が起きていたから、次はここに違いないと予想されていたのだ。

 英国やドイツでは自国には大地震は起きない。このためトルコを地震予知研究のフィールドにしていた。この大地震のすぐ東隣では1967年、その東隣ではその10年前、さらに東隣ではその13年前にそれぞれ大地震が起きていたから、多くの地球科学者は次の地震を70年代か、遅くとも80年代に予想していた。

 しかし、最後の大地震から32年間もなにも起きなかった。このため英国は数年前に研究費が尽きた。観測から撤退してしまったのだ。

 ここでは断層は南北に枝分かれしている。どちらに地震が起きるかは予想できなかった。ドイツは断層の北の枝に、かなり遅れて日本は南の枝に、それぞれ観測網を敷いた。

 そして、地震が起きた。ドイツの観測網のすぐ近くだった。地震の直後に欧州での学会で私に会ったドイツの観測の責任者Z先生は「勝った。これで16年も待った甲斐があった」と言った。一般の人には不謹慎に聞こえるに違いない。結果を予測して現象が起きるのを待っていた科学者としての率直な感慨なのだろう。

 しかしその後、事態は一挙に暗転した。地震、地殻変動、地球電磁気、地球水の化学成分など、考えられるあらゆる観測をドイツ流の完璧さで展開していたのに、どれにも前兆は記録されていなかったのだ。日本の観測網も同じだった。

 以後、ドイツのZ先生と日本の観測の責任者であるH先生のトルコでの評判は地に墜ちた。救世主かと見えたのに、なんの警告も出してくれず、午前3時という人々が寝静まっていた最悪の時刻に、大地震が人々を襲ったからであった。

 Z先生はドイツでも針の筵(むしろ)に座っている。研究費は打ち切られ、科学者としての将来も疑われるという。

 数学者や天文学者だったら、こんなことにはなるまい。地球科学者ゆえの悲劇というべきであろう。

(トルコ・イスタンブール郊外にて)

地震予知の公開バトルロイヤル 『大地の不思議』 (静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」2頁の1面連載)、2001年8月14日(No.28){900字}


その29:日本の火山学、フランスの火山学

●『大地の不思議』 (静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」2頁の1面連載)、2001年8月20日(No.29){900字}

 いまパリ大学地球物理学研究所にいる。ノートルダム寺院のすぐ近くのセーヌ川のほとりの一等地にあり、隣には広大な植物園と自然史博物館がある。

 パリ大学は、1階は円くて太い柱だけが林立していて2階以上がビルになっている不思議な建物だ。それぞれの柱にはエレベーターが入っている。

 ここの廊下は壮観だ。科学者が撮った火山の噴火の大きな写真や、噴火のときに噴き出した火山弾や噴石のコレクションが廊下一面に誇らかに飾ってある。

日本では地震や火山は「悪玉」だ。それゆえ、私たち地球科学者の仕事は医者に似ているというべきだろう。地球の内部を調べて、「病気」である地震や噴火のナゾを解き明かす。予知や予防について研究するのが主な仕事だと一般には思われている。地球科学者は、いつテレビの前に引っ張り出されて医者としての責任を問われるかわからない。

 一方、フランス本土には火山はなく、地震も起きない。つまりフランス人にとっての地震や火山とは、同胞を痛めつける悪玉や病気というよりは、人力の及ばない自然の驚異なのだ。それゆえ地球科学者は、探検家や自然探求者と同じように、世間の尊敬を集めることができる。

 火山を研究する手法そのものは日本とそれほど違うわけではない。しかし、そもそもの研究の動機が違うから、それが研究の違いになっている。明日の噴火を予知することや、明日の災害を防ぐことに最重点が置かれている日本の研究と、地球の息吹を探る自然科学としての噴火の研究の違いである。

 フランス人たちが火山を研究する動機は不遜に見えるだろうか。これが雪の結晶の研究ならば、美しいから研究するといって天下に恥じることはない。それが災害を起こす火山ゆえに、日本では、同じように美しいとは言いにくいのである。

 じつは、火山そのものは災害ではない。そこに人が住むから災害になる。噴火も地震も地球の歴史とともに繰り返してきたものだ。日本列島もそういった地球の息吹を繰り返しながら作られてきたものなのですよ、とテレビに引っ張り出されることを恐れながら日本の地球科学者はつぶやいてみるのである。

(フランス・パリにて)


その30:私が地下水温を測り続ける理由

● 『大地の不思議』 (静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」2頁の1面連載)、2001年8月27日(No.30){900字}

 1979年のことだ。焼津市小浜の温泉旅館が廃業した。ミカン畑の山を背負った海岸の旅館だった。484メートルの深さから温泉を汲み上げていたのだが、ご主人の仁藤潤太郎さんがお年だということで、やめる決心をされたのである。

 長年使ってきた温泉井戸だけに仁藤さんには愛着があった。なにか使い道がないだろうか、できれば科学のために使ってほしいと思われた。

 静岡県庁の地震対策課を通じて私のところに話が伝えられた。私は当時、精密地下水温計というものを作り始めていて、水晶を使った感度が良いセンサーをなるべく深い井戸に入れて観測を続ける機会を探していた。こんな深い井戸を新たに掘るとすると大変な費用がかかる。それを無償で提供してくださるというのは願ってもない話だった。

 その温泉を掘った函南町のボーリング会社の中村龍雄さんが温泉の井戸に入れてあったエア・リフト管を抜き取ってくださった。管が入ったままだとセンサーを井戸の底に入れられない。なかなかの工事だったが、中村さんもお金を受け取ってくださらなかった。

 こうして私の研究である精密地下水温観測は22年目に入っている。観測の機会を与えてくださっただけではなくて、その後も観測を温かく見守ってくださった仁藤さんも中村さんも故人になった。今でも潤太郎さんの夫人とよさんと子息である欽五さんが毎月、観測機械の記録紙を取り替え続けてくださっている。

 私が作った機械は地下水の温度を1000分の1℃の高い精度で測り続ける。北海道をはじめ、アイスランドや中国など外国にも置いてある。北海道の有珠火山では噴火に関連する1000分の5℃の水温の変化をとらえたし、北海道東部やルーマニアでは、地震に関係する変化を記録した。

  一方、静岡の井戸では、今までのところは、地震と関連する変化はとらえられていない。しかし、わずかだが変動している普段のデータを蓄積することが、将来の変化をとらえるために必要なのだ。

 同じ観測機械は他にも置いてある。新居町が持つ井戸、御前崎や網代の測候所の構内にある井戸などだ。地元や気象庁の方々のおかげで観測が続いている。

 一人で研究ができる数学や物理学とは違って、いろいろな方々の好意や協力があってはじめて研究が進められるのが地球科学というものなのである。


その31:地震は人を殺さない?

●『大地の不思議』 (静岡新聞の特集頁「週刊地震新聞」2頁の1面連載、最終回)、2001年9月2日(No.31){900字}

 24万人、一説には70万人もの犠牲者を生んだ中国の唐山地震(1975年)と阪神大震災の両方を地震直後に訪れた地球科学者がいる。

 といっても、唐山地震ではあまりの被害の大きさに当局が外国人の立ち入りを10年間も禁止したから、その科学者は日本人ではない。中国国家地震局のT先生である。私の研究所に客員教授として滞在していたことがある。

 T先生が阪神大震災を見た印象は、瓦礫の山になってしまった家はあるが、ちゃんと残っている家も意外にたくさんある、というものだった。唐山地震では、まるで爆撃に遭ったように、すべての家がなぎ倒されたから、その違いが目だったのだろう。

 神戸大学には、犠牲になった同大学の学生の慰霊碑が建っていて、39名の名前が刻まれていて、なかには外国人留学生の名前もある。

 このうち37名は、下宿がつぶれて死んだ。自宅から通っていた学生にくらべて、下宿生のほうがはるかに犠牲者が多かった。気の毒なことに、この下宿生たちは自宅生たちよりも弱い建物に暮らしていたのである。

 日本の家は、昔よりもずっと地震に強くなってきている。しかし古い家も多い。阪神大震災では、これらの地震に弱い家が倒れて亡くなった人が圧倒的に多かった。統計によれば死者の8割以上が老朽木造家屋の下敷きになったものだ。学生下宿には限らない。

 つまり、大地震は、弱い家に住み続けなければならない人々を選択的に襲うものなのである。

 もし、学生の安下宿のような老朽木造家屋が新しい家に建て替えられていたり、せめて耐震の補強がされていたら、阪神大震災の犠牲者は5分の1以下に抑えられた可能性があった。

 唐山の家屋は木造ではなかった。しかし煉瓦や石を積んで作った中国の一般住宅や商店は地震にはきわめて弱い。これらの家がもし日本の近頃の家のような強さを持っていたら、唐山地震の犠牲者は、ずっと少なくてすんだに違いない。

 私は地球科学者だが、地震の「弁護」をするわけではない。しかし、地震そのものはめったに人を殺さない。人間が作った構造物が人を殺すことのほうが、はるかに多いのである。


(紙面に載せたときに長すぎて削除した部分を復活してあります)


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