各国で、いろいろなお墓を見てきました
(島村英紀が撮った世界の墓)

ドストエフスキーの墓(サンクトペテルブルグ、ロシア。1974年撮影

トルストイと並び、19世紀後半のロシア文学を代表する文豪、ドストエフスキーの立派な墓。正装した胸像が立っている。この墓は、レニングラードのアレクサンドル・ネフスキー大修道院のチフヴィン墓地にある。

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー(1821年11月11日〔ユリウス暦10月30日〕 - 1881年2月9日〔ユリウス暦1月28日〕)。なお、ユリウス暦でも記しているのは、暦の切り替えが行われたのはキリスト教圏でも国によってちがい、ロシアは共産主義革命まではユリウス暦が採用されていたからだ。

(1974年3月、レニングラード(現サンクトペテルブルグ)にて。撮影機材は Olympus OM1、レンズは Zuiko 100mm F2.8、フィルムはコダクロームKR64)


チャイコフスキーの墓(サンクトペテルブルグ、ロシア

作曲家・チャイコフスキーの墓は、アレクサンドル・ネフスキー大修道院のチフヴィン墓地の中でも、大きくて目立つものだった。

中央がチャイコフスキー像。後ろに十字架を抱えた天使の像がある。この墓碑は、1897年彫刻家カメンスキーによって作られた。

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは1840年5月7日(ユリウス暦では4月25日) - 1893年11月6日(ユリウス暦10月25日)、死因には諸説がある)。

(1974年3月、レニングラード(現サンクトペテルブルグ)にて。撮影機材は Olympus OM1、レンズは Zuiko 100mm F2.8、フィルムはコダクロームKR64)


ボロディン(左)とムソルグスキー(右)の墓(サンクトペテルブルグ、ロシア

ロシアの作曲家ボロディンは化学者と医師でもあった。ドイツのハイデルベルク大学(化学)に入学し、卒業後はペテルブルグの医学大学の助教授、教授と進み、生涯有機化学の研究家として多くの業績を残した。

じつは作曲は1863年にミリイ・バラキレフと出会うまで正式に学んだことがなかったという。

アレクサンドル・ポルフィーリエヴィチ・ボロディン(1833年10月31日(ユリウス暦)/11月12日(グレゴリオ暦) に生まれ、1887年2月15日/2月27日に動脈瘤の破裂で急死した。

同じロシアの作曲家、ムソルグスキーの墓は、すぐ隣に並んでいる。

モデスト・ペトローヴィチ・ムソルグスキーは1839年3月21日に生まれ、後年、アルコール依存症の泥沼に苦しんだあと、1881年初頭に4度の心臓発作に見舞われ、1881年3月28日に死去した。

二つの墓とも、立派な胸像を囲んで、まるで仏像のような光背風の飾りがある。

(1974年3月、レニングラード(現サンクトペテルブルグ)にて。撮影機材は Olympus OM1、レンズは Zuiko 100mm F2.8、フィルムはコダクロームKR64)


ストラビンスキーの墓(サンクトペテルブルグ、ロシア

ロシアの作曲家ストラビンスキー(ストラヴィンスキー)も、このレニングラード(サンクトペテルブルク)の墓地に墓がある。

イーゴリ・フョードロヴィチ・ストラヴィンスキー(1882年6月17日にサンクトペテルブルク近郊のオラニエンバウム(現・ロモノソフ)で生まれ、1971年4月6日にニューヨークで没した。

ストラビンスキーの胸像よりは、ニンフの像のほうがはるかに大きい。美女とともに天国に眠っているのであろう。

なお、ストラビンスキーの墓は、ディアギレフも眠っているヴェネツィアのサン・ミケーレ島にもある。ストラビンスキーは、1914年に祖国を離れて以来、80歳の1962年に、ソ連に最初にして最後の帰郷をしただけで、故郷とは疎遠な後半生を送った。

(1974年3月、レニングラード(現サンクトペテルブルグ)にて。撮影機材は Olympus OM1、レンズは Zuiko 100mm F2.8、フィルムはコダクロームKR64)


第二次大戦でレニングラードで死んだおびただしい人々の墓(サンクトペテルブルグ、ロシア。1974年撮影)

第二次世界大戦では、全世界で5500万人もの人の命が奪われた。そのうちソ連は2500万人にものぼる。

なかでも、ドイツ軍に長期間包囲され、攻撃を受け続けたレニングラードの戦禍はすさまじかった。

レニングラード攻防戦は、1941年9月から、当時、320万人の人口があったレニングラードを1944年1月まで約900日間もドイツ軍が包囲した。その間の攻撃や食料不足による餓死で67万人もの市民の命が失われたといわれている。

なお、同じ第二次世界大戦中、ドイツに殺されたユダヤ人は700万人だっが、他方ドイツは600万人の軍人と300万人の市民を失った。

一方、日本でも12万人の日本の軍人軍属、1945年.3月9日の東京大空襲だけで9万人、原爆(広島と長崎)で14万人(と多数の後遺症)の犠牲者が出た。

また、沖縄で18万人の日本の民間人(これは人口の1/3にもなる)が犠牲になったほか、沖縄で米国の軍人12500人も命を落とした。ちなみに第一次大戦では900万人死亡、2000万人負傷といわれている。戦争とは、なんと愚かで哀しいものなのであろう。しかし、日本人をはじめ、人類は戦争から学ぶことがあまりに少ないのではないだろうか。

(1974年3月、レニングラード(現サンクトペテルブルグ)にて。撮影機材は Olympus OM1、レンズは Zuiko 100mm F2.8、フィルムはコダクロームKR64)


第二次大戦で殺された多数の子供たちの墓(サンクトペテルブルグ、ロシア。1974年撮影)

このレニングラードの戦没者墓地には子供たちだけの墓地もある。

土葬の国だから、墓石の背後に広がる広大な盛り土の下には、おびただしい子供たちが埋められている。

じつは私も第二次世界大戦で妹の一人を失った。まだ1歳だった。私と妹と、その下の妹の3人きょうだいが疎開先で食べ物がなくて弱り、いちばん弱い妹の命が失われたものだ。その妹は、いま東京の小平霊園に眠っている。

(1974年3月、レニングラード(現サンクトペテルブルグ)にて。撮影機材は Olympus OM1、レンズは Zuiko 100mm F2.8、フィルムはコダクロームKR64)


第二次大戦で死んだノルウェーの寒村の人たちの慰霊碑(ノルウェー西部・ベルゲン郊外のフィヨルドの海岸で。1989年撮影)

第二次大戦で甚大な戦禍をこうむったのは、レニングラードだけではない。零細な漁業を営んでいるノルウェーの寒村でも、ここに名前が刻まれた人たちを失った。

31人の生年と没年が、名前とともに刻まれている。

第二次大戦中、ノルウェーはドイツ軍に踏み込まれて、不本意ながらドイツ陣営に入っていた。しかし、ここテラヴォーグという大西洋に面した漁村でレジスタンス活動(ドイツに抵抗する人たちの地下活動。欧州各地にあった)があり、近くのシェットランド諸島からイギリスへ逃亡するノルウェーの要人を乗せて密かに船を出していた。

ところが、これがドイツ軍の知るところとなり、1942年4月、ドイツのスパイがこの村のレジスタンス活動家を襲い、銃撃戦で双方に死者を出す事件になった。

その後ドイツ軍は村を捜索し、武器や、持つことを禁止されていたラジオ、そしてイギリスからの食料などを発見した。レジスタンス活動への見せしめのため、村の全家屋と漁船をすべて爆破して全焼させた。それだけではない、村の16歳から60歳までの男72人の全員を捕らえて、ドイツのザクセンハウゼン(Sachsenhausen)強制収容所に送ったのだ。

そして、その強制収容所で31人がなくなった。この石碑に刻まれている名前がその31人である。


石碑に刻まれている文章は、

「テラヴォーグの人民は自由の戦い 1940−1945に斃れた仲間を記念してこの石碑を建立する.

祖国を愛した勇者の思い出に栄光あれ

ドイツの収容所にて
(以下2段に名前と生年と没年)」

この村でドイツ軍が行ったことは、ドイツ軍に限らない。戦時中の日本軍は、各地で同じようなことをしてきたし、第二次大戦後も、ベトナムやイラクやアフガニスタンで、米軍が同じようなことを続けている。人類はなかなか過去の愚かなことに学ぶことがないのである。

石碑の手前に置いてあるのは、もちろん日本流の線香立てではなく、この両脇の鉢には根の付いた草花を植えるものだ。枯れると管理係の人が片付けてくれる。

この村には「北海レジスタンス航路」という現代的な建物の博物館がある。

註:この石碑の文章の翻訳や説明は、ノルウェー・ベルゲン在住のマップ・イラストレーター、安達正興さんにお教えいただきました。

(1989年8月、ノルウェー・ベルゲン郊外のフィヨルド沿いで。撮影機材は Olympus OM4Ti、レンズは Tamron Zoom 28-80mm、フィルムはコダクロームKR64)


伊藤整の墓(東京都小平霊園。2009年

、上にあるロシアの胸像付きの立派な墓に比べると、狭い国土の土地事情のゆえか、日本の有名人の墓は、政治家や財界人を除いては、ずっと質素で小さいものが多い。

これは作家・伊藤 整(1905年1月16日生まれ。1969年11月15日、胃癌のため死去)の墓。小平霊園でも、土地が足りなくなって、後から開発された芝生墓地の一角にある。なお1998年には、さらに土地が足りなくなったか、合葬式墓地も開設したほどだ。

小平霊園は東京の西郊、小平市にあって面積は65万平米あり、戦後すぐの1948年に都立8霊園の7番目として開園した。1945年の米軍による東京大空襲でたいへんな死者を生んだこともあり、戦後、新しい墓地の開発は急務であった。

開園して半世紀経ったので、木も育って、四季の景色を楽しめるところになっている。

芝生墓地には、それまでの墓とちがって、”敷地”の境がない。また、自前で植木を植えることも、墓石以外のものを置くことも許されていない。

(2009年1月、東京都小平霊園。撮影機材は Panasonic DMC-FZ20)


過密な墓は日本には限りませんでした(フランス、パリ。モンマルトルの墓地。1989年

じつは、墓地が足りなくなるのは日本には限らないようだ。都会の住宅事情が過密なパリ市内にある大きな墓地のひとつ、モンマルトルでも、墓は過密に詰め込まれてしまっている。

住宅とちがって世代交代があるわけではないし、一般的には増える一方なのが墓というものだろうから、大都会では、過密になるのはやむをえないのかもしれない。

ここも、後ろは壁、狭い坂道の通路のわきに、びっしりと墓が並べられている。

”墓参り”というものが西欧ではどんなものなのか、見たことはないが、「線香をあげて静かに故人に思いをめぐらせる」とか「坊さんにお経を上げてもらう」とかするためには、この狭い坂道の道端にある墓では、なかなか気分が出ないのではなかろうか。

なお、この墓地にはエドガー・ドガやモーリス・ユトリロなどの画家、ジャック・オッフェンバックやエクトル・ベルリオーズやレオ・ドリーブなどの作曲家、スタンダールやアレクサンドル・デュマ・フィスのような作家のほか詩人ハインリッヒ・ハイネも眠っている。また画家モディリアーニが自殺した場所でもある。

また、パリ市内のもうひとつの有名な墓地、モンパルナス墓地には、ギ・ド・モーパッサン、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、シャルル・ボードレール、サミュエル・ベケットなどが眠っている。

(1989年8月、パリ市内モンマルトルの墓地で。撮影機材はOlympus OM4Ti、レンズは Tamron Zoom 28-70mm F3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR。ISO (ASA) 64)


太宰治の墓(東京都三鷹市の膳林痔。2010年

太宰 治(だざい おさむ、1909年6月19日 - 1948年6月13日。本名:津島修治(つしましゅうじ))の墓も、大きくはない。

太宰は、この寺の北方1キロメートルあまりのところを流れる玉川上水(当時・東京都北多摩郡三鷹町)で、愛人・山崎富栄と一緒に入水自殺した。二人の遺体が発見されたのは、6日後の、ちょうど太宰の誕生日の6月19日だった。

6月19日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった作家、今官一により桜桃忌(おうとうき)と名付けられた。この日には、例年、多くのファンが訪れる。

しかし、墓が狭いだけではなく、手前の通路も狭い。このため、客は通路に溢れるだけではなくて、すぐ斜め前にあって、この墓の4倍もある森鴎外の大きな墓の中まで入り込むほどだ。

太宰の墓には、ファンが捧げた花が絶えることはない。私が行ったときも、森鴎外の墓にはなんの花もなかったが、いつものように太宰の墓は写真のような花やススキが挿されていた。

なお、太宰の「太」の字に取りついるのは蝉だ。2010年の夏は猛暑で、写真を撮った9月中旬にも、さかんに蝉が鳴いていた。

森鴎外を尊敬していた太宰治は、この禅林寺にある鴎外の墓のことを「花吹雪」(昭和19年発表)に「ここの墓所は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小奇麗な墓所の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかもしれない」と書き残した。

その意を汲んで、「正妻」美知子夫人(石原美知子。1912年1月31日 - 1997年2月1日)が太宰をこの寺の鴎外の墓の側に葬った。太宰の墓石の後ろ側には「津島美知子建」とあり、一周忌のときに建てられたことが分かる。美知子夫人の心はいかばかりのものだったろう。

もちろん、山崎富栄の遺骨はこの墓には入っていない。

太宰の墓の左側にあるのは美知子夫人が葬られた津島家の墓だ。1998年に建てられた。

なお、太宰は1939年9月1日にそれまで美知子夫人と新婚生活を送っていた甲府からこの近く(当時は東京府北多摩郡三鷹村下連雀)に転居してきていた。六畳、四畳半、三畳の三部屋に、玄関、縁側、風呂場がついた十二坪半ほどの小さな借家だった。しかし新築で、日当たりはよかった。

(2010年9月、東京都三鷹市の禅林寺。撮影機材は Panasonic DMC-G1)


永井荷風の墓(東京都雑司ヶ谷霊園。2013年)

小説家永井荷風(ながい かふう。1879年12月3日 - 1959年4月30日。本名は永井壮吉)の墓は雑司ヶ谷墓地にある。中央にある黒っぽい墓が荷風の墓で「永井荷風墓」とある。

右手にあるのは永井家の墓で、父永井久一郎などが入っている。父久一郎はエリート官僚で、文部省、内務省衛生局、帝国大学などに勤め、のち日本郵船に天下った。漢詩人でもあり、プリンストン大学やボストン大学にも留学したことがある。

このエリートの父の影響で、荷風は東京女子師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)、東京府尋常師範学校附属小学校高等科(現・東京学芸大学附属竹早小学校)と進み、高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校、2年に編入学)と当時としてのおぼっちゃまエリートコースを進んだ。また母親の影響で、歌舞伎や邦楽に親しみ、漢学者岩渓裳川から漢学を、画家岡不崩からは日本画を、内閣書記官の岡三橋からは書をそれぞれ学んだ。

このエリートとしての素地を持ちながら、中学時代の長期療養、一高入試の失敗など屈折した人生を送っているあいだに文学に目覚め、その後も米国やパリに実業を目指して外遊したものの、結局は退廃的な雰囲気を漂わせる文学と芸術に生きることになった。

雑司ヶ谷墓地は全体としてはかなり荒れている墓で、墓の間の小径も雑草だらけで、墓も傷んでいたり、無愛想なものが多い。そのなかで荷風の墓はまわりの墓にはない生け垣に囲まれ、大きな木も生えている。

墓にはときどき墓参者が訪れるのだろう。ファンからだろうか、コップ酒と数本の煙草が供えられていた。

(2013年6月、東京都豊島区の雑司が谷霊園。撮影機材は Panasonic DMC-G2)


夏目漱石の墓(東京都雑司ヶ谷霊園。2013年)

小説家夏目漱石(1867年2月9日 - 1916年12月9日。本名は金之助)の墓も、同じ雑司ヶ谷墓地にある。

上の永井荷風の墓とちがって、こちらは雑司ヶ谷墓地の中でも一、二を争うくらいの広さと大きな墓石を建てた、なんともご大層な墓だ。写真左端に写っているのは門柱の一部、手前の大理石は墓全体を取り囲む柵の一部である。

しかも大きな墓石の上部には菊の紋章までついている。文豪として死んだ漱石の権威を象徴するような墓である。

なおこの雑司ヶ谷墓地の面積は約12万平方メートルもあり、都心部の墓地としては港区にある青山墓地の26万平方メートルに次いで大きい。ちなみに台東区にある谷中霊園は約10万平方メートルの面積を持つ。

またここ雑司ヶ谷墓地には、ほかにもジョン万次郎、小泉八雲、夏目漱石、島村抱月、竹久夢二、泉鏡花、東條英機、サトウハチロー、池田菊苗、羽仁五郎、羽仁もと子、東郷青児など著名人の墓が多くあり、夏目漱石の小説『こゝろ』の舞台にもなっている。

(2013年6月、東京都豊島区の雑司が谷霊園。撮影機材は Panasonic DMC-G2)


佐野学の墓(東京都小平霊園。2009年

佐野 学(さの まなぶ。1892年2月22日 - 1953年3月9日)の墓も、大きくはない。木もわずかなもので、寂しい墓である。

前の秋に、近くにあるケヤキ並木から落ちた葉がいっぱいに積もっている。

佐野学は昭和初期の日本共産党委員長だった。1929年に中国で検挙され、治安維持法違反で無期懲役の判決を受けていたが、1933年、獄中から転向声明を発表した。

また 佐野学は、「メキシコ演劇の父」と称され、数奇な人生を送った演出家であり社会主義運動家の佐野碩の叔父である。

(2009年1月、東京都小平霊園。撮影機材は Panasonic DMC-FZ20))


大山郁夫の墓(東京都小平霊園。2009年

一方日本でも胸像がついていたり、レリーフを彫り込んだ墓もないわけではない。ほとんどは政治家や財界人のものだ。

これは大山郁夫の墓。まわりの墓よりも群を抜いて大きい。

大山郁夫(1880年9月20日 -1955年11月30日)は労働農民党の委員長だった。

(2009年1月、東京都小平霊園。撮影機材は Panasonic DMC-FZ20))


十返肇の墓(東京都小平霊園。2009年

これも、日本としては大きな墓だ。上の大山郁夫の墓と同じく、鉄平石を敷いた広い台座が広がっている。

十返 肇(とがえり はじめ)は文芸評論家。1914年3月25日生まれ、 1963年8月28日、舌癌で死去。

(2009年1月、東京都小平霊園。撮影機材は Panasonic DMC-FZ20)


有吉佐和子の墓(東京都小平霊園。2009年

ベストセラーになった『恍惚の人』や『複合汚染』など多くの作品を残し、生前の知己も多かった有吉佐和子の墓も、伊藤整ほどではないが、大きくはない。

また、墓石もごく標準的なもので、「有吉家之墓」と刻まれている。

有吉佐和子は1931年1月20日に生まれ、小学校時代を旧オランダ領東インドのバタヴィア及びスラバヤで過ごした。1984年8月30日、急性心不全で死去。

(2009年1月、東京都小平霊園。撮影機材は Panasonic DMC-FZ20))


久保栄の墓(東京都小平霊園。2009年

劇団民藝の中心的存在として活躍し、『火山灰地』などの作品を残した劇作家・ 久保 栄(1900年12月28日に生まれ、 1958年3月15日、うつ病が悪化し、入院中に縊死)の墓。

上の有吉
佐和子の、なんの変哲もない墓石に比べると、色も形も特色がある。また、墓地も、木を植えずに、石を配しているのも、ほかとはちがった墓を作りたかった意思の表れであろう。

ただし、普通はある境界の「境」はない。境に見えるのは隣の墓地の”塀”である。

右の写真は北海道文学館(札幌市中島公園)にある『火山灰地』の原稿。これをみると、右上がりの達筆の「久保栄」の自筆の書名が、そのまま墓石に刻まれているのが分かる。

札幌市の南部の豊平区平岸(ひらぎし)にある天神山には、久保栄の「林檎園日記」の肉筆原稿を刻んだ石碑がある(下の写真)。白樺に囲まれた、いかにも北国の風情である。

平岸は日本のリンゴ栽培の発祥地のひとつで、一時は日本のリンゴ栽培を支えていた。最盛期は280町歩(町歩は約9917平米)もの栽培面積が拡がり、国内のほか旧ソ連のウラジオストック、上海、シンガポールにまでリンゴを売っていた。この付近はかつて一面のリンゴ園だったが、いまはリンゴの木は切り払われ、マンションが建ち並ぶ住宅地になってしまった(写真)。

(墓の写真は2009年1月、東京都小平霊園。撮影機材は Panasonic DMC-FZ20。原稿用紙の写真は2014年5月、札幌市で。撮影機材は Panasonic DMC-G2。下の3枚は2015年9月に撮影。
撮影機材は Olympus OM-D E-M5)

ちなみに、太宰治の肉筆原稿はこちらへ

 


山本七平の墓(東京都小平霊園。2009年

山本七平(やまもと しちへい、1921年12月18日に生まれ、1991年12月10日膵臓癌で死去。遺骨の一部はイスラエルで散骨された)は、山本書店店主。評論家。

1970年、神戸生まれのユダヤ人と称するイザヤ・ベンダサン著『日本人とユダヤ人』を山本書店から発売して、話題をさらった。最後まで自分を著者とは言わなかったが、山本の死後10年以上経過してからは、ベンダサン名の著作は、山本のものとして扱われることが多い。

墓は、木も植えていない、石だけの小さいものだ。

(2009年1月、東京都小平霊園。撮影機材は Panasonic DMC-FZ20))


小川未明の墓(東京都小平霊園。2009年

小説家・児童文学作家の小川未明 (1882年4月7日に新潟県高田(現上越市)で生まれ、1961年5月11日に脳出血で死去)は、1926年、東京日日新聞に「今後を童話作家に」と題する所感を発表し童話専従を宣言した。

昭和21年(1946年)に創立された日本児童文学者協会の初代会長を務めた。

しかし童話専従を宣言したのは、師匠である坪内逍遥から小説家としての限界を指摘されたからという説もある。

小平霊園の中では、大きな墓である。墓石には小川家とある。墓石の左手にある自然石の碑には「許筆百篇/憂国情/未明」の小川の自署が彫られている。

なお、故郷の新潟県上越市に小川未明文学館がある。

(2009年1月、東京都小平霊園。撮影機材は Panasonic DMC-FZ20)


徳田秋声の墓(東京都小平霊園。2009年

小説家・徳田秋声(徳田秋聲とくだ しゅうせい)は1871年12月23日に現在の金沢市横山町で生まれ、 1943年11月18日に死去した。

島崎藤村や正宗白鳥らと日本ペンクラブの設立にも参加した。

戦時中の1941年に、『縮図』を新聞に連載したが、戦争に行く描写や、芸者の世界を描いたことで、当局から干渉されて、作品を中断した。しかし、戦争が終わる前に、続きを書くこともなく、死去した。

上の有吉佐和子の墓と同じく、なんの変哲もない墓石だ。墓石には徳田家とある。

石川県金沢市には徳田秋声記念館がある。

(2009年1月、東京都小平霊園。撮影機材は Panasonic DMC-FZ20)


荒正人の墓(東京都小平霊園。2009年

文芸評論家・荒 正人(あら まさひと)は1913年1月1日福島県の太平洋岸にある相馬郡鹿島町に生まれ、1979年6月9日早朝、脳血栓のため急逝した。

荒は戦後、埴谷雄高、平野謙、佐々木基一、本多秋五らと『近代文学』を創刊した。この『近代文学』は、明治期の「文学界」、大正期の「白樺」に匹敵するほどの、文学的影響を与えたといわれている。

また、東京新聞の文芸評論委員として、文芸時評等を執筆していた。また江戸川乱歩賞の選考委員を務め、西村京太郎などの新人作家を発掘した。

北欧文学にも造詣が深く、山室静とともにアイスランドを訪問し、ノーベル賞作家のハルドル・ラクスネスと会ったこともある。

墓には灯籠があり、墓石の形に特徴があるものの、標準的な日本の墓だ。墓石には荒家墓とある。

(2009年1月、東京都小平霊園。撮影機材は Panasonic DMC-FZ20)


青野季吉の墓(東京都小平霊園。2009年

文芸評論家・青野季吉(あおの すえきち、1890年2月24日 - 1961年6月23日)は新潟県佐渡島出身。

「しらべた芸術」「目的意識論」などで、プロレタリア文学評論家として活躍し、1920年代前半のプロレタリア文学運動の指導的な立場に立っていた。

墓は、墓石といい、「塀や門柱」がないことといい、なかなか前衛的な墓だ。

(2009年1月、東京都小平霊園。撮影機材は Panasonic DMC-FZ20)

 


壺井栄・繁治の墓(東京都小平霊園。2009年

この墓はちょっと変わっていて、敷地のうち、手前の道路に面したところが「塀」の外になって、そこには植物の植え込みがある。つまり、石で囲われた墓自体が狭くなっているのである。

このため、墓に出入りするのはこの写真のように、墓の左端から石段を登って入る。植え込みの外の道路からは、直接、墓石が見えないようになっている。墓石には壺井家とある。

小説家・壺井 栄は香川県小豆郡坂手村(現在の小豆島町)で1899年8月5日に生まれ、1967年6月23日に死去した。

1952年に発表した『二十四の瞳』は1954年に木下惠介監督・高峰秀子主演で映画化され、小豆島の名を全国で名にした名作だ。

プロレタリア文学の詩の分野で活躍した夫の壺井繁治(つぼい しげじ)は1897年10月18日に香川県小豆郡苗羽村(現在の小豆島町)で生まれ、 1975年9月4日に死去した。

(2009年1月、東京都小平霊園。撮影機材は Panasonic DMC-FZ20)

 


宮本顕治の墓(東京都小平霊園。2009年

宮本顕治は安保闘争の時代に学生だった私たちには、”乗り越えられた前衛”、共産党の親玉としての象徴的な存在だった。

宮本顕治は1958年8月、第7回大会1中総で、書記長に選出された。1970年7月、第11回大会1中総で中央委員会幹部会委員長に選出された。

その後、1982年7月-8月、第16回大会1中総で中央委員会議長に選出され、1997年9月、第21回大会で「名誉議長」に退くまで、委員長、議長、書記長といろいろ名前が変わったが、日本共産党の代表を務めた。

宮本顕治は1908年10月17日に山口県に生まれ、2007年7月18日、98歳で老衰のため死去した。

小平霊園のなかでは、広い墓だが、なんとも殺風景で、墓石がぽつんとある以外は、がらんとしてなにもないのは、かなり奇異な印象を与えている。

しかも、墓石には「宮本」の二字以外、表にも裏にも、なにも書かれていないのも異様だ。

1951年1月21日、前妻百合子が51歳で死去したが、その墓は、同じ小平霊園ながら、かなり離れたところにある(下の写真)。

(2009年1月、東京都小平霊園。撮影機材は Panasonic DMC-FZ20)


宮本百合子の墓(東京都小平霊園。2009年

宮本百合子は17歳の時に『貧しき人々の群』で文壇に彗星のように登場し、天才少女として注目を集めた。また、その後もプロレタリア作家、民主主義文学のリーダーとして活躍した。

宮本百合子は1899年2月13日に東京市小石川区(現・文京区)で生まれ、1951年1月21日に51歳で電撃性髄膜炎菌敗血症で急逝した。

墓は、上の宮本顕治と同じようにドウダンツツジの生け垣にかこまれている。墓の面積はこちらのほうが狭く、形が似ている墓石も、こちらのほうが小さい。

しかし、こちらには梅などの木が植わっていて、顕治の墓ほど殺風景ではない。また、墓石には宮本百合子と彫り込んである。

(2009年1月、東京都小平霊園。撮影機材は Panasonic DMC-FZ20)


柳宗悦の墓(東京都小平霊園。2009年

民芸運動を起こした美術評論家・柳 宗悦(やなぎ むねよし)は1889年3月21日に東京府(現:東京都)に生まれ、1961年5月3日に脳卒中で死去した。

いまはごく一般的な言葉になった「民芸品」という言葉は柳の造語である。

学生時代から同人雑誌グループ白樺派に参加し、生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱えて、民芸運動を起こした。1936年に東京府東京市目黒区駒場(現:東京都目黒区)に日本民芸館を設立した。

三・一独立運動(1919年3月1日に朝鮮半島で起きた)に対して日本政府が弾圧して多くの死者を出したのに反対し、「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判した。

また朝鮮美術(とくに陶磁器など)に注目し、当時はほとんど省みられることのなかった朝鮮の陶磁器や古美術を蒐集した。

そのほか。1924年、京城(現:ソウル)に朝鮮民族美術館を設立するなど、朝鮮半島の文化に深い理解があり、行動も起こした。柳は文化の多様性を重んじ、日本政府がアジアを同化させようとした動きに抵抗し、沖縄や朝鮮の独自の文化、生活様式を尊重せよと、生涯に渡って運動した。

両側を深い生け垣に囲まれた、趣がある、面白い形の墓だ。

(2009年1月、東京都小平霊園。撮影機材は Panasonic DMC-FZ20)


児島善三郎の墓(東京都小平霊園。2009年

洋画家・児島善三郎は“日本的洋画”を提唱した。これはフランス・フォーヴィスムの影響を受けて、色彩豊かに、時にデフォルメし、時に日本画のように描くもので、「日本的な風土に則した日本人の油絵」として、好感を持って受け入れられた。

児島善三郎は1893年2月13日に福岡市中島(現・博多区中洲中島町)で生まれ、 1962年3月22日に死去した。

手前にある四角い石の板には、児島のスケッチが彫られている。墓石には児島家の墓とある。

(2009年1月、東京都小平霊園。撮影機材は Panasonic DMC-FZ20)


エヴァ・ペロンの墓(ブエノスアイレス、アルゼンチン)

国がちがえば、墓もちがう。

アルゼンチンで、いまだに庶民には偶像的な人気を博している一方、とくに知識層では批判も根強いエヴァ・ペロン(親しみを込めてエビータ (Evita)と呼ばれる )の墓は、まるで四角い大理石の「箱」だ。

この「箱」はパンテオン(霊廟)といわれる。上流階級の墓だ。扉の両側にはエビータを讃える金属製のプレートがいくつも飾られている。

ブエノスアイレスには二つの大規模な墓地があり、そのひとつが、このレコレータ墓地だ。ここには歴代大統領や将軍、著名人など上流社会の人々の墓が並んでいる。墓の近くには国立美術館、国立大学、各国の大使館、テレビ局などがある文化的な地域だ。

ちなみに、もうひとつの大規模な墓地はチャカリータ墓地で、こちらには有名なタンゴの巨匠の多くが眠っている。レコレータ墓地よりは庶民的な墓地だ。

この「箱」には頑丈な扉がついていて、誰も入れない。供物の花は、写真のように、扉に差すか、扉の前の道に置くしかないのである。

エビータ、本名マリア・エバ・ドゥアルテ・デ・ペロン(Maria Eva Duarte de Peron, 別名、Maria Eva Ibarguren)は1919年5月7日に生まれ、1952年7月26日に33歳で、若くして子宮癌で死去した。

貧しい生い立ちだったが、 美貌を武器に声優や映画女優として出世し、フアン・ペロン大統領と結婚し、ファーストレディとなったあと、政治にも手腕を発揮した。

(2002年12月、アルゼンチン・ブエノスアイレスで。撮影機材は Kyocera T-zoom。フィルムはフジカラーネガS400)


あまりにも寂しい、ナホトカ(ソ連)の日本人墓地(1970年)

1970年の秋、極東(沿海州)のナホトカ市で、当時のソ連(現ロシア)と日本と共同で地球物理学の国際シンポジウムがあった 。

当時はウラジオストーク(ウラジオストク)は厳戒態勢の軍港で、ソ連人でさえ、許可がないと入れない都市だった。このためシンポジウムは、横浜から「ナホトカ号」というソ連の客船が定期的に運航していた、近くのナホトカで開かれたものだ。

そのころは、日本からモスクワやヨーロッパに行くのにいちばん安いルートは、こうしてナホトカに行き、汽車でハバロフスクを経由してシベリア鉄道でモスクワに向かうものだった。 このため、多くの日本人が、横浜から船に乗ってソ連や欧州に向かったのであった。

そのシンポジウムの合間に、ナホトカ郊外の日本人墓地を訪れた。第二次大戦の末期と終戦後の混乱や強制労働で、多くの日本人がソ連各地で死んだが、ここナホトカでも、その人たちが眠る日本人墓地があった。

墓標もない。いかにも土葬、という棺桶型で白く塗られているコンクリートの枠のなかに、土だけが盛られている、あまりにも寂しい墓地だった。上のレニングラードの墓地と同じく、戦争のむごさや愚かさを感じさせている。

(1970年10月、ソ連(現ロシア)極東のナホトカ市郊外で。撮影機材はOlympus Pen FV ハーフサイズ、レンズは Zuiko 25mm F4.0、フィルムはフジクローム100。褪色していたのを補正した)


海外の日本兵士の墓は、どこも寂しいものでした。グアム島(米国領)の日本人墓地(1973年)

これは、私の仕事である海底地震観測の途中に寄ったグアム島にあった日本人兵士の墓。

コンクリートブロックの味気ない塀の前に広がる草地にある粗末な墓地は戦争のむなしさを表している。

撮影したときには終戦から四半世紀が経っていたが、墓は、まだ粗末なものであった。木製の卒塔婆や墓標は、撮影時からそれほど前ではなく立てられたもののようだが、それは一方、それ以前は、もっと貧弱なものであったことも意味している。

じつは、グアム島の残置兵だった横井庄一さんら、グアムに残っていた兵士たちは日本が敗戦を迎え、日本軍の無条件降伏が発令されたことを知らなかった。横井さんたちはジャングルや自ら作った地下壕などで生活し、人に見つからぬよう、川でエビを採って食いつなぐなどしていたのである。

グアム島に派兵されてから約28年後、終戦後27年も経とうとしていた1972年1月に、54歳になっていた横井さんは現地の猟師に発見され、翌月、日本に帰ってきたばかりだったのだ。

(1973年7月、グアム島(米国領)で。撮影機材はOlympus OM1、レンズは Zuiko 28mm f3.5。フィルムはコダクロームKR)


海を隔てて麗峰を望む教会の墓。大西洋の絶海の孤島、アゾレス諸島で(1992年)

大西洋のほぼ真ん中に、アゾレス諸島がある。ここはポルトガル領だが、ポルトガルからは、はるかに離れている風光明媚な温帯の島だ。

ポルトガルの最高峰は本土にはなく、この写真に見えるピコ山だ。富士山に似た、長く裾の尾を引いた美しい火山である。標高は約2300mである。

ちなみに、ポルトガル本土の最高峰は1994mである。この山の頂上には鉄塔が建っていて、その鉄塔にのぼれば、人々は2000mに達することができるようになっている。

このアゾレス諸島はいくつかの島からなるが、ピコ山があるのはピコ島、この写真を撮ったのは、隣のファイアル島である。これらの島々は地球物理学からいえば、大西洋中央海嶺がたまたま海上に顔を出した島なのである。

ファイアル島にはアゾレス諸島でいちばん大きな町、ポンタデルガタがある。海に向かう斜面に張り付いている町である。

この町の教会に、写真のような墓地がある。 世界でもっとも美しい場所にある墓地かもしれない。海と山を存分に眺めながら眠ることができる。

(1992年7月、ポルトガル領アゾレス諸島・ポンタデルガタで。撮影機材は Olympus OM4Ti、レンズは Tamron Zoom 28-80mm、フィルムはコダクロームKR64)


一方、こちらは世界でもっとも寂しいところにある墓。スピッツベルゲンにて(1998年)

上のアゾレス諸島とは対極にあるのが、この北極海に浮かぶ島、スピッツベルゲン(スバルバード諸島)の墓だ。

木製の質素な十字架だけが並ぶ。 まわりは一本の木も生えていない、荒涼とした岩山。

じつは、ここは永久凍土なので、墓を掘るのは大変な労働だったに違いない。また、墓そのものも、とても浅いに違いない。

これほど墓が質素なのには理由がある。スペイン風邪による大量の死者を埋めた墓だからである。

スペイン風邪は、1918年にスペインから始まり、世界各国に蔓延して猛威をふるったインフルエンザである。伝染力が強く、6億人に感染した。

死亡率も高く、世界各地で4000万人以上(6000万人という説もある)、日本でも感染者は当時の日本の人口の4割にも達し、50万人という途方もない数の死者を生んだ。

なお、後方の山腹にあるのは、炭坑の坑口だ。スピッツベルゲンは炭坑から始まったが、いまは炭坑はわずかに残っているが、産業としてはごく下火になっている。

(1998年8月、北極海のスピッツベルゲンで。撮影機材は Olympus OM4Ti、レンズは Tamron Zoom 28-80mm、フィルムはコダクロームKR64)


ノルウェー、フィヨルドの奥の木造教会の墓(1987年)

ノルウェーはど、国の東の地形と西の地形がちがう国はない。西側は険しい山地に多くのフィヨルドが切り込んでいて、長いフィヨルドは、長さが220kmもある。つまり、日本の本州の幅くらいも、フィヨルドづたいに船で内陸まで行けてしまうのである。

ここは、その最長のフィヨルド、ソグネフィヨルドの奥まったところ、カウパンガーにある木造の教会だ。写真左手下に見えるのがソグネフィヨルドである。

西洋の教会は石を積んで造られるのが普通だが、貧しくて、しかもまわりに森があるところでは、このような木造の教会が造られていた時代があった。たとえば、ノルウェーやルーマニアである。

ノルウェーの木造の教会は、この写真のように、黒くてあまりに地味なものが多い。防腐や防虫のために、タール系の塗料を塗るためである。他方、ルーマニアの教会は黒くはなく、外側に絵を描いているのが特徴だ。内z側ではなく、教会の外側に絵があるのは珍しい。

しかし、木造の教会は年月に耐えないし、また、火災の危険も多い。げんに、ノルウェーの木造教会は、燃えて失われてしまったものが多い。ノルウェー第二の都会であるベルゲン郊外にあって、観光資源でもあった木造の教会は、近年、燃えてしまった。

教会は墓地でもある。教会の内部には聖職者の墓が、そして外にはこのように、”檀家”の一般の人々の墓があるのが普通だ。

それにしても、墓石の形も配置も、なんとばらばらなのであろう。

もちろん、それぞれの家族が工夫を凝らして、故人の生年や没年、それに業績や、ときには絵を彫り込んであるものだが、ひとつとして同じものはない。上の有吉佐和子と徳田秋声の墓石が同じ形をしているのとは大違いである。

それに、並び方もまちまちだ。ここには、東京都霊園公社のように、厳密な区画地図や負担金区分はないのにちがいない。

(1987年11月、ノルウェー西部、ソグネフィヨルドで。撮影機材は Olympus OM4Ti、レンズは Tamron Zoom 28-80mm、フィルムはコダクロームKR64)


これも寂しい、ルーマニアの教会の墓(1985年)

ルーマニアは、とても貧しい国だ。チャウシェスクの時代にも貧しかったし、「その後」も多くの人々の期待を裏切って、貧しいまま、EUのお荷物になろうとしている。

この写真はチャウシェスクの時代に撮った。しかし、いまも、変わるまい。石造りの立派な十字架が買えなかったのであろう、多くは鉄製の貧相な十字架で、それぞれが土葬した四角い墓の後ろに立っている。

(1985年10月、ルーマニア中部フォクシャーニ近くで。撮影機材は Olympus OM4Ti、レンズは Tamron Zoom 28-80mm、フィルムはコダクロームKR64)


「足を向けて寝られない」という言い方はフランスにはないようです。フランス大西洋岸の古都の墓

上の、フランス・パリのモンマルトルの墓とちがって、フランスの大西洋岸にあるコンカルノーの墓地は、町の大きさの割には、広い場所がとられている。このため、墓と墓の間の通路も、モンマルトルより、はるかに広い。

それぞれの墓も大きくて、立派な大理石の墓石が並んでいる。それぞれの墓についている十字架の立派さは、上のルーマニアの比ではない。

しかし、私にとって不思議なのは、火葬しないで棺ごと埋められているわけだから、それぞれの頭が、次の人の足に向いて並べられていることだ。

フランスには「足を向けて寝られない」という言い方はないのだろうか。

(1994年8月、フランス西岸、コンカルノーの港で。撮影機材はOlympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-80 mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロームPKL。ISO (ASA) 200)


こちらは熱帯・タイの墓。形が寺を模していて、”塗り絵のように”お仕着せの墓に好みの色を塗っているのでしょうか

タイ南部にあるプーケット島は、世界的な観光地でもある。アンダマン海に浮かぶタイで最大の島で面積は約540平方キロある。定住人口は20数万だが、観光産業に従事する人や観光客を入れると、その3倍にもなるという。

そのプーケット島には29の寺があるというが、その中でも最大のものが、島の南部にあるワット・チャロン(チャロン寺)である。

この寺には世界各国からの観光客がひきもきらないし、寺が定期的に鳴らす爆竹のすさまじい音が耳を聾するばかりだが、寺の裏側には、墓地が並んでいて、こちらは、さすがに静かである。

左の墓と右の墓をよく見てもらえば分かるのだが、墓の形そのものは瓜二つだ。

違うのは色と頂部に巻いたリボンだけなのである。

つまり、ここでは、日本の墓と違って、いわば”お仕着せ”の墓に、まるで”塗り絵”のように、好みの色を塗ることだけが許されているらしい。金色は日本人の感覚だと「ど派手」に見えるが、タイの寺院の色であり、墓にもよく使われるのであろう。

他方、左の鮮やかなピンク色も、まず日本の墓には考えられない色だ。

墓の中央部分は、右のように、写真と墓名碑が(多くはプラスチックで作られて)はめ込まれている。左の墓では、うら若い命が最近失われたのだろうか、写真が飾られているだけで、まだ中央部分の工作が終わっていない。

ここプーケット島は2004年12月26日のスマトラ沖地震で津波の大被害を受けた。タイ全土で6000人近い死者のうち、かなりは、タイ南部にあって海岸沿いにリゾート地が広がっているこの島で犠牲になった人たちであった。

多くの、外国から来た観光客も犠牲になった。スマトラ沖地震では、遠くアフリカ沿岸まで津波の被害が及び、インド洋沿岸の各国で22万人以上が犠牲になった。

当時は、津波が来ることを警報する仕組みもなく、また、地震が起きない欧州各国から来た観光客にとっても、津波は、不意打ちであった。太陽に飢えている北ヨーロッパの人たちにとってみれば、ここは南海の楽園そのものだった。

たとえば北欧の航空会社はタイへの無着陸の直行便を飛ばしていて、その機内では、期待に胸膨らませた北欧人たちが、機内の酒に酔ってだらしなくなる姿が普通に見られていた。なお、これは日本便の座席が取れずに、やむをえずバンコックまわりで私の大学に来たノルウェーの大学教授の目撃談である。

中国やビルマの国境を除いては内陸では被害を出すような地震が起きないタイでは、このスマトラ沖地震の前には、日本の1.3倍もある国土全体で14カ所の地震観測所しかなかった。しかも、旧式のアナログ式の機械で、震源の計算は手計算であった。これでは、津波に間に合うはずもない。

地震後、各国の援助もあって、いまでは全土に40カ所のディジタル地震観測所が展開され、観測されたデータは、衛星回線で、瞬時にバンコックに集まるようになった。また2006-2007年にアンダマン海の西のインド洋沖合に津波観測用の固定ブイ2個が設置され、今後さらにこれらより東のタイに近いアンダマン海の沖合に3個設置される予定である(2009年5月現在)。

また、タイ全土の海岸に、サイレンやスピーカーで津波を知らせる警告塔が増やされていっている。最終的には300基ほどになる予定である。

しかし、これらのシステムも、次にもし大津波が襲ってくるとしたら、まだ、万全のものではない。もっとも、日本の津波警報システムも、まだ大きな問題を抱えていることも確かだ。

一方、タイにとって大きな収入源であるプーケットの観光を立て直すために、国として最大限、最優先の配慮が払われた。

プーケットにあった痛ましい津波の痕跡はすべて消し去られた。そのかわり、海岸には写真のような真新しい津波避難路の標識が、いくつも立てられている。

【追記】 2011年3月の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)のあと、日本でも道路脇に津波表示板が、新たに建てられた。

これらチャロン寺の墓に葬られている人たちが、スマトラ沖地震の犠牲者であるかどうか、タイ語が読めない私にはわからない。しかし、地震の犠牲者たちも、このように葬られていることは確かであろう。

なお、このチャロン寺は、高台にあるので、津波の被害は受けなかった。

ともに、2009年5月、タイ・プーケット島で


あっという間に草が生い茂る熱帯の墓。「草の栄養は?」。パプアニューギニア・ラバウルの墓

パプアニューギニアも土葬である。墓石の前には、上のサハリンやフランスと同じように、棺の大きさ、あるいは人間の大きさの土盛りがある。

しかし、ここは熱帯。毎日スコールが来て、植物はあっという間に生い茂る。人が通ることが少なく、手入れをちょっとでも怠った道は、すぐにジャングルの中に消えてしまう気候なのである。

さて、この土盛りに生えた植物は、なにを栄養にして育ったのだろう。日本も昔は土葬で、雨が降ると、夜、骨から分離した燐が光ることがあった。怪談に出てくる火の玉である。ここも、そうにちがいない。

(1997年12月、パプアニューギニア、ラバウルで。撮影機材はOlympus OM4、レンズは Tamron Zoom 28-80 mm f3.5-4.5。フィルムはコダクロームKR。ISO (ASA) 64)


これも熱帯のグアム島の墓。とても混沌としているように見えます

米国領のグアム島の墓は、とても乱雑に見える。これは上の、グアム島の日本人墓地ではなく、現地の人のための墓地だ。

乱雑に見える理由のひとつは、墓石があえて傾けてあったり、直立していたりするものが混在していることだ。また、上のパプアニューギニアの墓と同じく、熱帯であるために、すぐに草ぼうぼうになってしまうことも理由のひとつだろう。

なかには十字架もある。しかしいずれにせよ、大小まちまちの墓石と、列に並んでいるようにはとうてい見えない墓の並び方が、乱雑な印象を与えているのだろう。

あえて、秩序を探せば、墓石は白っぽい色、あまり巨大なものは立てない、墓の向きは写真左手が”頭”のものが多い、といったところだろうか。

なお、近年、日本のホテル資本が、地元チャモロ族の墓地を買い取って敷地にした。資本家にとっては、先住民の墓地も、ビジネスを拡げるチャンスにしか見えないのであろう。

(1971年2月、グアム島アガニア市の郊外で。
撮影機材はOlympusPen-FV。レンズは.Zuiko 25mm f4。フィルムはサクラクローム。ハーフサイズ。褪色していたのを補正した)


番外編:中国系新聞には、よく出ている死亡広告。これは日本のものとは大いに違います。

どの国の新聞にも、死亡広告は出る。日本の場合には、記事面の下の端に、太い黒枠で死亡広告を出すことになっていて、写真は出さない。

しかし、この中国系の新聞の死亡広告は、なんという”派手さ”なのであろう。

上と下の端に「泣」と大書してあり、嘆き悲しむ家族の名前と関係が列挙してある。悲しみをむき出しには表さず無理に抑えて、広告の読者の生前の厚誼に感謝する日本の死亡広告とはなんとも対照的である。

これが国民性というものであろう。

日本の死亡広告は新聞社の重要な収入源になっているのだが、販売部数減や広告収入の減少に喘いでいる日本の新聞社にしてみれば、日本人も、この中国風の巨大な広告の習慣をぜひ、取り入れてほしいと思うのにちがいない。

(2009年5月、マレーシア・クアラルンプールで入手した中国系新聞『南洋商報』から


このほか、スピッツベルゲンの墓地の写真はこちらに。
このほか、南極大陸にある墓標の写真はこちらに。
このほか、アルゼンチン・ブエノスアイレスにある「国家の犠牲になった犬死の碑」の写真はこちらに。

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